『歴史のための闘い』(叢書名:平凡社ライブラリ-)リュシアン・フェ-ヴル(長谷川輝夫訳):平凡社1995.06
客観的な事実としての、存在としての歴史
それに対して、そこから抽象された歴史、書かれた歴史、描かれた歴史、人間の認識にもたらされた歴史
R.フェーブルは、M.ブロックとともに、文書記録中心の伝統的な実証主義の歴史(歴史像・歴史家)を批判
p.212 本書解説―現代歴史学生誕のドラマ・・・・・二宮宏之
p.213f 「フェーブルは19世紀以来の実証主義の歴史観を批判し。歴史の革新のために全力を投入した。・・・フェーブルは、実証主義の歴史家が個々の事実の確定に気をとられ、歴史の主人公が生きたまるごとの人間たちであることを忘れていると繰り返し批判・・・次のような比喩を持ち出す。
人間を捉えるにあたり、便宜上、身体のある部分、たとえば頭より手とか足で摑むこともできるでしょう。でも、その部分を引き寄せるや否や身体全体がついてきます。この人間をバラバラに切断することはできない。そんなことをすれば死んでしまいます。ところで、歴史家には死骸の断片などまったく用がないのです。(42ページ)
このいかにもフェーブルらしい論法によって、かれは、政治史・経済史・思想史といった具合に歴史をバラバラにする[1]ことをもって、学問の進歩と取り違えてきた近代の歴史学の発想を見事に逆転させているのだ。さらに、こんな風にも言っている。
p.214
ミシュレは、人間のさまざまな活動に位階性とか階層的分類を設けたりしませんでした。第一層、第二層、第三層あるいは第一段、第二段、第三段といった石工の単純極まりない形而上学を抱いていません。これはそれから生まれ、これはそれを生むといった系譜学を打ちたてず、むしろ精妙にして賢明な「共通の雰囲気」という概念を持っていました。余談ながら、電気の充満する世界で、我々の精神的要求に適合した多くの隠喩を電気が提供してくれると思われるのに、我々は相変わらず遠い昔から受け継がれてきた重々しい不適切な隠喩をしかつめらしく論じ続けています。通電とか電流の干渉、ショートが、我々にすんなり理解できるたくさんのイメージを与えてくれるのに、相変わらず歴史のことがらを層、段、切石あるいは土台と上部構造によって考察し続けている、これは実に奇妙ではありませんか。(52ページ)[2]
p.214f.
フェーブルによる伝統的歴史学批判のもう一つの重要なポイントは、歴史における事実とは何かという問題である。フェーブルは次ぎのように言う。
これらの書物や入門書は、はじめから終わりまで事実について語り、事実を確定するとか事実を組み合わすとかいっている。だが、いったい、事実をどんな意味に解しているのだろうか。歴史事実にたいしてどのような概念を抱いているのだろうか。ほとんどの著者にとってはそれが相変わらず与えられたもの、つまり生のものであることはただちに分かる。彼らは、実際は自分が無意識のうちに構築したものであることを絶対にみとめようとせず・・・・事実にたいして一種の迷信的な敬意、いわば物神崇拝を抱いているのである。(185ページ)
p.216f.
フェーブルは、歴史的事実を捉えるためには、歴史家は問題を提起し、仮説をたてなくてはならず、そうすることによって初めて史実なるものは歴史家の前に姿を現わすのだと言う。それゆえ、歴史的事実は主観と客観の中間に存するというべきであり、史実の確定は単なる「観察」の結果ではなく、そこにはすでにして「解釈」がかかわっているのだ、と。歴史家はまず史実を確定し、次いでそれらを解釈するのだという、しばしば見られる2段階論法も、こうして否定されることになる。解釈学的展開を経て、あらためて歴史認識の根拠が問い直されている現在、フェーブルの以上のような主張はまさに問題のポイントを鋭く突いていたと言うべきであろう。」