講義メモ(20040405):第1回講義(20040413配布メモ2

 更新4/7/2004

 

学問・科学の研究はいかにあるべきか[1]

まさにこれに関する論争が、わが国の学界でマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫など、何種類かの翻訳あり)を巡って起きている。現代日本の学問状況の一端を示すものとして、興味深い。

わたしの研究室日誌[2]でも、「教養とは何か」、「学問分野の専門性とは何か」に関して、すなわち本学の改革のあり方(新学部、その構成、コース設定や大学院のあり方)とも関連するものとして、この論争に触れ、折原浩著『ウェーバー学のすすめ』に言及した。

折原氏自認の「訓古学」(折原氏の場合は、マックス・ウェーバーの難解膨大な原稿とその刊行されたものとの関係、本人の意図と死後に編集された著作との編別構成の違いなどを検討、それが外国の専門雑誌に掲載されている)も、いわゆる「プラクティカル」なものではないかもしれないが、世界の学問の分業関係(協力関係=世界的効用関係=世界市場関係)のなかでは、独自の貴重な意味・価値をもつと評価した。この「羽入―折原論争」に関して、ウェーバー研究者を中心にその後の議論が、北海道大学の橋本努氏のHPのなかで展開されていることを、大学院生からの情報で知った。「学問とは何か」を考える一つの刺激的論争となっている。この論争そのものに関心を持つ諸君は、インターネットの上記ページで見てください。なかなか面白いです。 

以下では、経済史講義に関わる部分で若干コメントを書いておきたい。

 

冒頭の折原氏の文章「学者の品位と責任―「歴史における個人の役割」再考」(雑誌『未来』20041月号1-7頁所収)中では、よくいわれるマルクスやその学説(折原氏が取り上げているのはプレハーノフ)の受容者の見地に対する折原氏批判的コメントの一節、すなわち、「社会的生産力の不可逆的増大にともなう社会的諸関係の段階的継起を「合法則的」と決め込み・・・」と言う箇所に目が止まった。だが、この「決め込み」は、科学的知見にてらして、どう評価すべきか?

 

人類史の20万年、その前段の猿(類人猿→猿人)の何百万年の発達史、その前の生物・生命史といった長期的生物的地球的観点からみると、この地球史(45億年とも46億年とも)には太陽系の生成発展(消滅)[3]に対応しつつ、ある種の必然的発展方向が見て取れるように思われる。

 

人類史も、初期の狩猟・採取段階から遊牧・農耕段階への大局的移行、農耕文明から工業文明への大局的移行、そうした流れを貫く人類の生産力の発達・知的能力の発達・精神諸能力の発達は、まさに「生産諸力の不可逆的増大」という必然的方向性を示してはいないだろうか? そして、その人間の労働・生産力の発達は、人間相互の関係、社会関係の変化と発展をもたらしてはいないだろうか? それとも2000年前の人間とその社会、一万年前の人間とその社会が、今日と同じだというのだろうか?

 

早い話が、12時間足らずでドイツに直行できるようになったのもそう古い話ではない。ソ連上空を横切ることができるのはソ連崩壊、冷戦体制崩壊後のことである。また値段もかつてに比べて驚くほど安くなった。先ごろ、12月に科研費出張でドイツに出かけたときは税込み空港使用料込みでたしか84000円ほどだった(エコノミークラス、冬場、いちばん安い時期、しかもインターネットでルフトハンザに直接2ヶ月近く前に申し込んだため)。国内旅行より安いという感じすらある。世界は狭くなった。わたしの世界との社会関係は、こうした現代の交通・生産諸力がない時代には考えられない広まり(深まり?)となっている。朝、横浜の家をでて、時差(8時間)もあるが、現地時間の夕方5時すぎにはミュンヘンについて、ドイツの食事をする、というのはものすごい生産諸力(科学技術・人間の精神的能力)の発達(人類の成し遂げたもの)のおかげではないか。

 

インターネットでドイツなど欧米の文書館や研究所の情報を手に入れるのは簡単となり、文書館や図書館との連絡はE-mailで即座にできる。これも三〇年ほど前の大学院時代には考えらもしないことだった。IT革命は人々の情報獲得能力を飛躍的に高め、情報発信能力も格段に向上させた。人々が世界(の人々)との一体感を感じる度合い、濃密さは、一昔前とは比較にならないものであろう。こうした高度なIT製品を生産する能力をはじめとする科学技術の発達は、不可逆的な生産諸力の拡大に他ならないのではないか? そして、わたしたち一人一人の世界の人々との関係、社会関係を飛躍的に拡大・深化しているのではないか?

その生産諸力・科学技術の発達は、まさに日夜全世界で進展していることではないか? それは私的民間企業間の世界的な競争に駆り立てられ、競争に勝つべく、激烈に進行していることではないのか?そこには、鉄の必然性が働いているのではないか?

 

最新の経済のグローバル化は、人間・労働の生産諸力の驚異的(同時に脅威的)発達を意味していないか?今や世界のビッグビジネス(世界的な巨大企業)は世界中に生産拠点を持ち、世界中で何十万人もの労働者を雇用して活動している。

(国連の世界投資報告WORLD INVESTMENT REPORT 2003参照[4]

 

問題なのは、そうした人類の労働の生産諸力が人類と地球を破壊しかねないものだということ、したがってそうした生産諸力を統御する力も人類が身に着けなければならないが、はたしてそうなっているか、ということではないか? 

 

「資本主義的生産の自然法則[5]」、「資本主義的競争の法則」、その盲目的鉄の必然性を、人類はどこまで制御できているか? 資本主義を制御する「人本主義」は、世界経済でどこまで力を持っているか?

 

問題は、そのような高度の発展が、世界的に見て格差をはらみつつ(格差を拡大しつつ)進展しているということではないか? いわゆる先進国・ビッグビジネスの資本所有の飛躍的増加、これに対する開発途上国の貧困との間の格差の増大として。(「開発途上国の周縁化の進展[6]・・・「自分たちに資本の蓄積がないためもっとも緊急焦眉に外部からの直接投資を必要としているアフリカは、世界人口の13%、面積で22%を占めるにもかかわらず、世界の直接投資のわずか1%しか、流れ込んでいない。」・・巨大な直接投資は先進国・先進地域相互間→グローバル化の現実=地域限定・・・開発途上国へ資本を投入する世界銀行の役割・意義の重要性)

 

国連やOECDなど、国際協力の世界的な機関は、まさにそうした世界的地球的規模での深刻な問題を解決するために、努力している[7]。それらの機関(たとえば国連[8]OECD世界銀行IMFなど)そのものが、世界的な平和や世界的な協力のための組織として誕生し、成長してきた。これまた人類史上、最近のことであり、20世紀の二度の世界大戦(人類にとってこれほどの悲劇、深刻な経験はないのではないか)を経験してのこと、世界の経済の平和的発展のためである。世界の共同的関係は、さまざまの逆流現象を乗り越えつつ、次第に、大局的には徐々に発展し深化してきている、といえるのではないか? すなわち、人間・人類の生産諸力・科学技術の能力の発達にともない、世界諸社会の相互関係も変化発展し、共同化を進めてきているといえないか? 大局を見たうえで、逆流現象や到達点の水準の低さ[9](今後の課題の大きさ)を見る必要があるのではないか?

 

人類社会における商品の生成(原初的・古代的な共同体と共同体の間に発生する偶然的・個別的な物々交換、その恒常化→共同体内部におけるその生産物の交換化など→生産物の商品としての生産→商品生産の浸透拡大)、それに必然的に伴う貨幣の発達、すなわち商品=貨幣関係の発達史、その全面化(現在ますますグローバル化=地球化=地球各地の直接的結びつき)は、人類の労働能力・生産諸力・精神的諸能力の発達・増大の原因であり、また帰結ではなかろうか? そうした人類の発達史(社会的諸関係・精神的諸能力の段階的発達・展開)の見方はたんに「決めこみ」なのだろうか?

 

先の論考における折原氏の叙述には、こうした疑問を感じる。この大局的な人類史把握の点でのマルクスの洞察のどこが間違っているのだろうか、と。社会が進歩するものであること、その大局的見地は、国際連合憲章が表明し、世界の200カ国近くが加盟(厳密には現在191カ国)して、その憲章の基本的正しさを確認しているのではないか?[10]

社会進歩とは何か? その社会進歩の基礎にあることは何か?

 

たしかに、社会的生産諸力の発達が、「核の冬」による地球の破壊、あるいは二酸化炭素排出量の増大による地球温暖化や地球破壊の危機をもたらしていること、これは厳然たる事実であろう。したがって、人間の社会的生産力の発達が、人類の存在基盤(地球そのものと地球環境)自体をも破壊するという段階にたちいたっていること、こうした地球的課題には、大気の流れ、海流の流れ、最近のSARS騒動や鳥インフルエンザなど一つを考えてみても、人類共同で立ち向かわなければならないこと(京都会議など世界的な会議、世界的機関で)が現在では認識されつつある、世界的共同が可能なところでは行動に移されている、というところであろう。

 

しかし、その地球破壊の現状と将来の可能性の科学的認識も、まさに人類の知的能力、生産諸力、科学技術の発達によって可能になったことである。人類による歴史的な問題・課題の創出と、人類による歴史的な問題の発見・問題の定式化、さらにその解決の仕方(模索)とが、まさに地球的規模・人類的規模でなされている。これは地球史・人類史始まっていらいの最新の状況・最新の到達点ではなかろうか? 各個人・各地域社会・各国の諸問題はそれぞれの固有の問題領域を持つと同時に世界的地球的規模の問題と連関している。

 

地球と人類を人類自らの手で破滅に至らしめないためには、まさに人類が地球的規模で共同・協力しなければならないこと、人類の地球的共同関係(社会関係の最高度の広がりと深まり)を、人類の生産諸力・科学技術の能力が必然化してはいないだろうか? テロなどよりももっと深刻な危機(核戦争を引き起こしかねない危機)が、地球温暖化の結果としてそう遠くない未来にある、地球温暖化対策といったことにこそアメリカの力を注ぐべきだ、というのはアメリカの政府関係の最近の研究成果(報告書)ではないか?

 

人類の社会関係は、封建社会(分散割拠的封建的諸国家・封建的諸侯の政治システム)から資本主義社会(国民国家・民族国家の政治システム)へ、資本主義社会から地球的共同社会(国際連盟から国際連合へといった地球的規模の政治システム)へ、人類の生産諸力の発達にしたがって大局的に変化してきているのではないか? 

地球的共同社会が実現出きるか、それとも、人類が自ら生み出した生産諸力で地球環境の破壊を押しすすめ、地球破壊の責任をナショナリズムや偏狭な地域主義で他地域他民族になすりつけ、人類相互の(諸民族・諸地域の)絶滅戦争を惹起して、人類と地球の滅亡の道を歩むことになるのか、これはたしかに分からない。

 

個人的には、人類の生存の道・豊かな人間的発達に貢献したいと「考える」が、山之内氏が言うように、はたして個人の行動としては客観的に何をしていることになるのか?個々人の日常の活動のあり方のレベルから問題となると言う山之内氏の指摘は、噛みしめなおす必要があると感じる。

 

折原氏は、「歴史における個人の役割」(プレハーノフ、岩波文庫訳あり)をたたき台にしつつ、歴史的「必然」と個人の責任のとりかた・個人の行動のあり方(自由)を問題として、結論的にはウェーバーの立場・態度、すなわち、羽入の誤った主張を長年の研究蓄積に基づき批判するみずからの行為を、責任倫理に基づくものと主張する。

これに対して、『マックス・ウェーバー入門』(岩波新書)などで著名な山之内氏は、「羽入―折原論争」などは現代世界の問題からすれば学者の世界の小さな問題であり、自分にはそれに関わる時間などない、と。だが、もちろん、山之内氏も橋本氏の問題提起に答え、羽入=折原氏の論争に目を通し、コメントを書くだけの時間はあった。

それらのいずれもが、自らの行動の自主的自発的正当化である。

どの主張が多くの人をとらえ、社会的にどれほどの影響力を持つか、これはまさに神のみぞ知る、というところだろう。こうした人智をもってしては知り得ない、確認し得ない無数の影響の相互作用を経ながら、人類史は展開してきた。しかもその論争的対立的展開(世界戦争をも含む武力形態も含めて)は、大局的に見れば、人類の能力(知的能力、精神的能力、生産諸力)を発達・膨張させ、今日のグローバル化した世界を作り出してきた。

それ(諸能力)は諸刃の刃であり、人類を生存させるか破滅させるかは、まさに人類の能力(その知的精神的発達)にかかっている。それも歴然としてきた。

人類が直面している問題を定式化するやり方、問題提起のあり方、それは人々によって違っている。論争に参加する人々の問題認識も多様であり、次元も違っている。

さて、そのなかから、そのそとで、人類はどのような道を歩むか? 我々一人一人は、どのような主体的責任を自覚するか?



[1] ルターのドイツ語訳聖書について、ウェーバーがその原典に当たって引用しているか、あるいはそうでないか、そうでない場合、ウェーバーの主張は成り立ちうるかどうか、といった問題。

 他人の言説を利用する場合、どこからその文言をとってきたかは、きわめて重要。

 諸君が、今後、レポートや論文(卒論)を書く場合、どうしてもたくさんの先人の研究や調査を利用し、引用する必要がある。過去の人びとの労苦、研究成果を土台にして、自分の新しい見地を気付いていく必要があるからである。

 その場合、他人、先人に頼っている部分、他人や先人から借りている部分は、そのことがはっきりわかるように明示しておかなければならない。自分の文書(レポート、論文、著書など)の中で、他人からの借り物であることがはっきりして、初めて、自分の固有の貢献部分も明確になる。自分の固有の貢献部分は、われわれの場合、先人の研究蓄積があればあるほど、ごくごくわずかでしかあり得ない。

 しかし、正直で謙虚な天才の場合は、はっきりと、自分の貢献部分を限定していっている。

 

[2] http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/Nisshi.htm

橋本努http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Home%20Index.htm

論争ページhttp://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm

 

[3] 地球上の個々人の生命も、環境(地球)も、生物・動物も、すべて太陽系地球史のなかで生成・発展・進化(消滅)を遂げて今日にいたったということ、そして太陽系自体が、太陽の燃料の枯渇とともに(あと45億年ほどで枯渇とか)、消滅・死滅すること、これは科学的知識として、人類が見出したことである。

 現代宇宙論では、この宇宙自体が、150億年ほどの時間と150億光年の広がりとを持つものであり、膨張を続けているという。現代科学は、我々の宇宙自身の生成・膨張(成長・変化・進化)・消滅までを射程に入れて、研究を続けている。

 

[4] 国連による1995年の世界直接投資統計のトップ100社一覧等は、篠原三郎・中村共一編著『市場社会の未来―可能性としての「経営学」―』ミネルヴァ書房、1999年、1819ページ(資料配布予定)、参照。 

 

[5] 『資本論』第1巻、第1版序文、「資本主義的生産の自然法則・・・この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し自分を貫く傾向」(大月版、p.9)の解明が、『資本論』の目指すところ。

 「近代社会の経済的運動法則を明らかにすること」が『資本論』の「最終目的」(同、p.10

 「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える」のが、マルクスの立場。mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt,[Marx: Das Kapital, S. 9. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3323 (vgl. MEW Bd. 23, S. 16)]

 

[6] 『経済と社会(Wirtschaft und Gesellschaft, No.1, 2002)C.Bellak,書評。

[7] 有斐閣・経済辞典・第4版から、引用しておこう。

OECD

Organization for Economic Cooperation and Development

経済協力開発機構。19601月の大西洋経済会議の議決に基づき,619OEECを改組,発足したもの。社会主義圏におけるCOMECONの強化や途上国の開発問題など,世界経済環境の変化に対応するためにつくられた。加盟国はOEEC加盟の18カ国にアメリカ,カナダ,日本,フィンランド,オーストラリア,ニュージーランド,メキシコ,チェコ,ポーランド,ハンガリー,韓国,スロバキアを加えた30カ国2001年末現在)。日本は644月に正式加盟。本部はパリ。最近は,科学技術政策や環境政策を重視する傾向が見られる。

 

OEEC

Organization for European Economic Cooperation

ヨーロッパ経済協力機構。アメリカのヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)のヨーロッパ側の受入れ・調整機構。1948年イギリス,フランスなど西欧被援助国16カ国によって結成。のち西ドイツとスペインが加盟。ヨーロッパ復興計画終了(52年)後は,これら諸国の経済協力機関として通貨の交換性回復や貿易の自由化などに努力した。61年に改組されOECDとなる。

 

[8] 国際連合憲章;前文

 われら連合国の人民は、
 われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、
 基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、
 正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、
 一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること
 並びに、このために、
 寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、
 国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、
 共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、
 すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、
 これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
 よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

[9] 逆流現象は、世界各地におけるナショナリズムの過激化、グローバル化に反対する各種の宗教的原理主義、宗教の衣をまとった民族主義・部族主義などとして、世界的事件を引き起こしている。

 この関連で、チョムスキーの議論(東京新聞(4/07)より部分引用・・・「全国国公私立大学の事件情報」より孫引き)は傾聴に値する。アメリカ合衆国自体の中に、ブッシュ政権とそれに追随的な「帝国主義」勢力があり、他方にチョムスキーのような人々がいる。米国も日本のそうした対立的潮流のぶつかり合い(ただし、米国内、日本国内ではさしあたりぶつかり合いは、幸いにも、平和的な形態にとどまっている)の渦中にある。

 21世紀のグローバル化のなかでは、ナショナリズムはリージョナリズムや世界的共同の追求とバランスをとらなければならない。ナショナリズム強化の教育基本法「改正」の方向性は、日本とアジア、世界に軋轢と悲劇をもたらす。Cf.碓井敏正『教育基本法「改正」批判』文理閣、2003年。二つの世界大戦の悲劇から学んだヨーロッパのナショナリズムとリージョナリズムの両立の50年に及ぶ努力から、学ぶ必要がある。Cf.『ヨーロッパ統合の社会史』永岑・廣田編、日本経済評論社、2004年。

 

[10] 国連憲章まえがき・・国連は「すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するため」の国際機関

国連憲章第55条「経済的及び社会的の進歩及び発展」を促進