(キール大学本部・本館)

2004928日講義メモ

 

 914日―17日に、ドイツ歴史家大会第45回大会が開催された。この大会に日本学術会議の国際会議代表派遣で経済史研究連絡委員会から選ばれて参加した。今回の講義では、その経験を紹介し、てがかりにしながら、ドイツの経済発展、ヨーロッパ諸地域の経済発展、資本主義化・工業化、それらと政治的変動との関連、ナショナリズムと国民国家の建設といった問題を考えて見たい。

 ナショナリズムと軍国主義(ミリタリズム)の結合が、資本主義の発達とともに帝国主義に転化し、世界戦争に突入していく流れをきちんと把握しておいて欲しい。

 そうしたナショナリズムの克服の道が、経済的平和的統一・統合の模索の道であり、その潮流が、二つの世界大戦の悲劇を経て、戦後半世紀にわたって積み重ね(幾多の後退現象やマイナス現象を乗り越えて)た努力の結果が、今日のEUにあることを見て欲しい。

そして今日のEUがその内部にたくさんの反EU的勢力・民族主義的勢力を抱えつつ、それらが大きな政治勢力になるのを何とか平和的理性的に抑止しつつ、統合を推し進めていることをきちんと見て欲しい。

 歴史研究の意味もそこにある[1]

  ナショナリズムは、いわゆる「愛国心」の問題でもある。まさに現在、日本ではこの愛国心を教育基本法「改正」で法律化して、国民意識を小さな子どものうちから植え付けようとしてはいないか?「国家」が植えつけようとする「愛国心」とはなにか?ジャーナリズムがいっしょになって統計操作までして進めようとする教育基本法改正に危険を感じないでいいのか?[2]

 20世紀後半から21世紀の現代ヨーロッパで進んでいることは、けっしてナショナリズム・愛国心の強化ではない。むしろ、偏狭な愛国心をどのようにして乗り越えるかに多大の力が注がれている。諸国家のナショナリズムを高度な広域的リージョナリズムに有機的に統合しようとしている。「ヨーロッパ人」、「ヨーロッパ市民」といった連帯意識・共同意識の形成が進められている。それは二つの世界大戦の反省に基づき、社会発展(交流の緊密化、人間の行動範囲の飛躍的拡大による空間の圧縮化)の洞察にもとづくものである。まさにこうした世界最先端の試みからこそ、きちんと学ばなければならないのではないか。その前提として、ヨーロッパ統合の内実を広く深く研究する必要があるのではないか[3]

 

(会場:大講堂)

45回ドイツ歴史家大会

 

開催地・開催大学:キール大学(正式名Christian-Albrechts-Universität1665年創立)

(歴史家大会の会場大講義棟Audimax[4]その内部)(学生食堂入口)(大学付属世界経済研究所世界経済図書館・文献センター)

参加国:確認できただけでヨーロッパを中心に16カ国

参加人数:3000名(800人が大学関係者、2200人がギムナジウムなどの歴史教育者) 

 

 

会議の学術的内容

(1)   日程と主な議題

 

2004914~17日:共通の大会テーマ「コミュニケーションと空間

14日 開会式・主催者(ドイツ歴史家団体、ドイツ歴史教育者団体)の挨拶、開催大学(キール大学)の学長挨拶、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州首相挨拶、ドイツ連邦議会副議長・記念講演など)

15日から17日  60のセッションに分かれて、古代から現代までの歴史問題を取り上げる。

 

印刷されたプログラム以降の追加企画には、「限界なきテロルか」というシンポジウムが設定された。その緊急設定意図は、現代の問題に対して冷徹にテロリズムの比較史的検討を行おうとするものであり、「南東ヨーロッパのテロリズム」、「20世紀イタリアにおける政治暴力」、「イスラエル占領へのアラブ人の抵抗」、「国際的なイスラムのテロリズム」などからあきからであろう。

 

セッション数があまりに多いので、主として参加したセッションをみると、15日では、「戦後補償の境界と余地−東西ヨーロッパにおけるナチス被害者の補償問題―」、「ドイツの歴史科学・文化科学における『空間』と『人口』―1918年から1960年―」、16日では、「20世紀における科学と技術の結合場所[5]」、「国境と空間、経験と構築(17世紀から20世紀)」、17日では、「もはやかつてとは違うか? 歴史的パースペクティヴからみた9111989年の転換」、「科学、政治と戦争:193345年のカイザー・ヴィルヘルム協会[6]

 最終日、171815分以降には、歴史家団体会長(ゲッティンゲン大学教授マンフレート・ヒルデマイヤー)の最終講演「東ヨーロッパはどこにあるか?」・・・かつて壁があったときはある意味で自明だった「東ヨーロッパ」について、垣根がなくなって見ると、今一度地域概念としても文化概念としても、その他の視角からも問い直されるということである。

 「コミュニケーションと空間」を共通テーマとする多くのセッションで問題となったのは、まさに国民国家の境界やソ連東欧といった境界が人工的歴史的構築物であり、その境界領域にたくさんの相互浸透・移行領域(住民・人種・言語・宗教その他文化諸領域)があり、境界Grenzeがそうした生きた多様性・相互浸透を人工的に切断したものであることであった。

 

(2)   学術的内容

 

ドイツ歴史家大会ではあるが、これまでも国際的な活発な論争の舞台となった歴史科学の学術大会であり、今回、参加して見てその国際的意義を改めて確認できた。共通テーマは、「コミュニケーションと空間」ということで、古代から現代まで、その時代その時代の社会の発達度合いとコミュニケーションの展開の度合い、コミュニケーションが行われる空間の意味合いが検討された。

 今回の歴史家大会では、ポーランド、バルト三国が特別のパートナー国として選ばれたということで、EUの東方拡大に照応し、あるいは呼応する形で、歴史科学の研究と討論においても、国際化がいっそう進化し進展していることがわかった。

 20世紀の歴史はまさにヨーロッパにおいては、他の地域以上に密接な相互関係と敵対関係の交錯する歴史であった。

21世紀の現在の到達点であるヨーロッパ統合は、過去の敵対関係の冷静な検討を可能にしているようであり、第一次大戦、第二次大戦に関する多くのセッションでは、かつての敵対諸国の研究者が非常に自由に意見交換をしていた。過去の敵対関係を克服した水準こそが、そこには示されていると感じられた。

 まさに、今後、EUの東方拡大とともに、さらなる過去の克服、過去の敵対関係の冷徹な分析・解明が進展することになるであろうし、まさそのことが統合の社会的根底から強靭なものにしていくであろう。

 

(3)   その他の特記事項

 

日本の歴史関係の学会では想像もできないことだが、45回の歴史を持つドイツ歴史家大会は、開会の儀式で、主催地の州首相が挨拶を行い、出席者をレセプションに招待し(学生食堂メンザでワイン、ビール、シャンペン、ハム・ソーセージ・チーズ等食べ物)、国会の副議長が長い記念講演をし、さらにまたキール市長も市長舎でレセプションを行うなど、非常に重要な会議として認知され、高く評価されていることが分かった。

 たまたま、戦後世界の安全保障体制を議論する大会場では、一参加者としてキール元市長(SPD)が隣に座っていてちょっと言葉を交わした。学会が国際的であると同時に、行政にかかわるもの・かかわったものが学会に参加するというドイツの知的状況は、熟慮するに値すると感じられた。

 

「科学、政治と戦争:193345年のカイザー・ヴィルヘルム協会」では、ドイツの経験を国際比較するプロジェクトが中心になって会議を設定した。そこでは、第一次大戦と第二次大戦における日本のあり方にもしばしば言及されたが、会場からの発言では、この国際比較が不十分だ、ほとんどないに等しいという厳しい意見も開陳された。たしかに日本からの報告はなく、またベトナム戦争やアフガニスタン戦争、現在のイラク戦争などにおける科学・政治・戦争の相互関係も、批判的な歴史的検証の対象とすべきだという会場発言は、重い意味を持ったと考えられる。

 

会議全般に関する感想:

日本の歴史関係学会・研究会でも、かなり国際化が進んではいるが、今日の世界とアジアの問題を冷静に科学的に見ていくためには、多くの分野で、国際会議がますます活発に開催される必要があろう。

  偏狭なナショナリズムは、悲劇の元。境界設定・分断・壁の偏狭性。

  排外的ナショナリズムの発生源を直視し、理解し、克服することが求められる。

  偏狭なナショナリズムの問題は、けっして過去のことではない[7]

21世紀の現代、世界各地で経済的危機と関連しつつナショナリズムが時に過激化し、テロリズムが頻発している。このことからも、現代地球人の克服すべき課題でもある。

最近のドイツでもまた特に旧東ドイツ地域で極右勢力の台頭が顕著である。EU東方拡大で恩恵を得るどころか、むしろ東欧諸国との競争の激化で不利になる人々の中に、対外的防壁を求める気分、排外的気分をかきたててさえいるようである。(919日、ザクセンとブランデンブルクの二州における選挙結果)

 

 

---------統合が進んでいるヨーロッパの過去は? ナショナリズムの悲劇は過去のことか?----------- 

 

キールKielとは?[8]

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の州都(首都)

その中央駅(Hauptbahnhof正面・北口デジカメ写真:

同じく、14-18日に宿泊した中央駅西口150mHotel Berliner Hof[9](デジカメ写真は駅からホテルをみたところ)

 キールは、バルト海の主要港(中央駅近くの船着場) 

 

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州は?

ドイツで最も北の州、デンマークと国境を接する。

今回、滞在中は気温20度を越える日がなかった(1518度、最低気温は7度くらい[10])

  バルト海(ドイツではOstsee東の海という名前)と北海(ドイツではNordsee北の海)に挟まれたユトランド半島南部。下記のマイクロソフトのエンカルタ掲載の地図を引用するので、参照。

 

 

 

 

シュレスヴィヒ・ホルシュタインは、日本ではホルシュタイン種の乳牛の由来で有名。

今回、ハンブルクからキールまではエアポートバスKieliusに乗ってアウトバーンを通っていった。その道路両側は、平坦な牧草地・放牧地が広がっていた。ホルシュタイン種の乳牛、馬などが草を食んでいた。

途中には、最近増えてきた電力用風車が回っていた。

 

 

シュレスヴィヒ・ホルシュタインに関する歴史的背景の説明:

     かつて、19世紀60年代にはデンマークと国境紛争

 

 19世紀ヨーロッパは封建制度を廃棄して、近代資本主義の制度を導入し打ち立てていく。その過程で、国民国家形成。

 

 すなわち、19世紀のヨーロッパは、ドイツやイタリアなどにおいて王侯貴族・封建的諸侯による分散割拠体制を克服して、国民的な統一を達成することが課題となった。その国民国家にどの地域・どの諸侯を加えるか、その統一のあり方と領土をめぐって、紛争・戦争。

 

工業先進国イギリスの圧力・・・・手工業的生産様式は、押しつぶされる。防壁の必要性。内部に近代的工業を育成する必要性。

 近代資本主義の生産様式を導入するためには、封建的土地所有に固執する古い勢力を駆逐していく必要。

 

封建体制を打破した革命フランスとその後のナポレオンの登場、ナポレオン戦争→敗北→屈辱→ナポレオン駆逐→ウィーン体制

 

 

 ドイツ統一への道・・・他方でいたるところで国境問題・国境紛争を抱える。(キールの歴史家大会で国境問題が激化してくる過程を振り返った報告

   ウィーン体制で勝利者の側に立ったプロイセンがライン下流の工業地域を手に入れる・・・関税同盟(1834)

   南西ドイツや北西ドイツも関税同盟

      フリードリヒ・リストの主張(『経済学の国民的体系』)に見られるドイツ産業資本の要求と論理

        →政治的分裂を克服していく道として、まずは経済的統一を推進・・・関税同盟を推進して経済的統一を推進。

      (第二次世界大戦後のヨーロッパ統合も、まずは石炭鉄鋼共同体→経済共同体など、経済的統一からすこしずつすすめていった。)

    また、時代の最先端を行く鉄道を建設し、急速に経済的統一を強化していくことも求められ、推進された。

 

       株式会社、株式銀行、銀行(金融資本)と産業資本との密接な関係・・・特殊銀行型(商業銀行業務と投資銀行業務の結合など)

  

   18483月革命・・・フランクフルト国民議会・・・ドイツ統一をめぐる対立(大ドイツ主義[11]か小ドイツ主義[12]か、民主主義勢力の主導によるか王侯貴族の主導によるか?)

     小ドイツ派は、プロイセン王をドイツ皇帝にしようとした[13]。・・・プロイセン王は、革命派からの帝冠は受けられないと拒否。

     

革命派(「下からの革命」)、自由と統一を要求。

     反革命・王制派による革命の鎮圧

 

「上からの革命」Revolution von oben・・・反革命勢力が、革命の課題を遂行する事態。

 

1861年         プロイセン、ウィルヘルム1世がプロイセン王となる。首相にユンカー出身のビスマルクを任命。

「鉄血宰相」・・・ドイツの武力統一を推進・・・議会の反対を押し切って軍備拡張

   1864年 プロイセンは、オーストリアとむすんでデンマークと戦争。シュレスヴィヒ・ホルシュタインを「奪った」[14]

 

1866年         この二つの州の処分をめぐって、オーストリア[15]とプロイセンが戦争(普墺戦争)[16]615日、ケーニヒグレーツでオーストリア軍大敗。823日プラハ条約。→ ウィーン体制で成立したドイツ連邦[17]を解体。

1867年         プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦、結成。

南ドイツ諸邦も、プロイセンと同盟・・・プロイセン主導によるドイツ統一が一歩前進。

一方、ドイツから除外されたオーストリアは、1867年、マジャール人のハンガリーに自治権を与え、オーストリア=ハンガリー帝国を創設。

1870年            フランスのナポレオン3世は、プロイセンの強大化を恐れ、スペイン王位継承問題をきっかけに、18707月プロイセンに宣戦(普仏戦争、独仏戦争)→プロイセンを中心とするドイツ連邦の連合軍はフランスに侵入。

18709月 ナポレオン3世、セダン(スダン)で降伏。

      パリで暴動発生・・・帝政廃止

      ドイツ軍によるパリ包囲

18711月なかば、ウィルヘルム1世(17971888)はヴェルサイユでドイツ皇帝の位につき、ドイツ帝国[18]成立。

     パリ開城後、共和派のティエールを首班とする臨時政府がヴェルサイユで成立。

18711月末 フランス降伏。アルザス・ロレーヌの二つの州をドイツに割譲。50億フランの賠償金支払い。

     パリでは、社会主義者がパリ市民を指導して、ティエールの臨時政府に反抗。自治政府樹立=パリ・コミューン

        ドイツ軍の支援を受けた政府軍が、パリ・コミューンを鎮圧。

         その後、王党派と共和派の対立→共和派の勢力拡大→1875年共和国憲法(第三共和制)

 

    プロイセン・ドイツ帝国、戦勝、巨額の賠償金獲得 → 株式会社設立熱狂時代→急激な資本の蓄積と集中[19]

                              新興産業(電機、化学)世界最先端へ。

 

   188795に、北海・バルト海運河[20]Nordsee-Ostsee Kanal直訳すれば北海-東海[21]運河[22])建設。

   1888年 ウィルヘルム二世が皇帝に[23]

 

   19148月 第一次世界大戦勃発→世界史上最初の総力戦

   191710月 ロシアで社会主義革命→ドイツとの間にブレスト・リトフスク講和、平和・無賠償・無併合などの提唱

   191811月 キールで水兵が出撃拒否・・・水兵評議会、労働者評議会などが一挙に全国に広がる。

11月革命 →ワイマール体制(当時の世界で最も民主主義的といわれた憲法体制)

          しかし、国際的にはヴェルサイユ条約・ヴェルサイユ体制の圧力下。

 

 

   1928年選挙 ナチスが、他の諸州よりも早く、シュレスヴィヒ・ホルシュタインで躍進。

酪農業の不振・経済危機・租税取立てのための乳牛の競売。

怒る農村民をナチスが掌握していく。

 

   1945年―46年 ナチス第三帝国の敗退過程と崩壊の後に、東方のドイツ人が逃げ出し、追放され、難民化。

           シュレスヴィヒ・ホルシュタインはルール工業地帯などと並んでイギリス軍占領下。

            全体としてドイツの領土縮小、1千数百万人の東方ドイツ人の被追放者・難民。

             4カ国占領体制

    1949年 東西二つのドイツの成立

 

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[1] 学生諸君、きみたちに第二次世界大戦に関する戦争責任はない。

しかし、時は流れている。今目の前にあるのはイラク戦争であり、その後の占領である。これに主権者の一人としての学生諸君はどう対処するか?

イラク戦争への賛同と協力には現代の主権者国民に責任が問われる。

さらにまたナショナリズム・愛国心の刺激と先鋭化の結果として今後起きるかもしれない戦争に関しては、君たち若者の主権者にも戦争責任があることになる。

その意味で、「戦前責任」という概念を使って、広く若者に問題提起がなされている。高橋眞司「戦前責任」

[2] 豊島耕一「926日教育基本法世論調査への疑問(928日)」:「全国国公私立大学の事件情報」(929)

 

[3] 「第17回よこはま21世紀フォーラム:ヨーロッパ統合と日本」と科研費助成金・国際学術調査「ヨーロッパ統合の社会史」(19992001年・研究代表者・永岑)の成果を2003年度の科研費出版助成を得てまとめた永岑・廣田編『ヨーロッパ統合の社会史―背景・論理・展望―』(日本経済評論社、20042月刊)は、その問題提起の一つである。

 

[4] 欧米を中心に世界に広がるテロリズムの影響は、歴史家大会の会場でもみられた。メインの会場建物Audimax(この大きな建物の中にAからKの大小いくつものホールがあった)の出入りには、受付で初日に参加費(ドイツ歴史家団体の会員ではないわれわれは60ユーロだった。1ユーロ136円−137円として約8000円というところか)と交換に受け取った名札を警備員に見せる必要があった。

 フランクフルト空港の警備も厳重で、ポケットの小さなコインさえ探知機が検出し、ベルトさえはずさなければならなかった。

 

[5] ドイツにおける「シリコンバレー」、ミュンヘン郊外の研究所集合地域の史的分析が興味深かった。

 

[6] 戦後、マックス・プランク研究所と改名。幾多のノーベル賞研究者を輩出した研究所で、巨大な組織に発展している。

 そのナチス時代、あるいは二つの世界大戦期の行動が問い直される。

 過去の研究者の行動を問うこと、それは必然的に、現代、われわれが現実の問題(大学改革もその一つであるが)にどのように対処しているのかがいずれ歴史的にも問い直されることがある、ということでもある。

「あの時あなたはどうしていたのか」と。

従って、現在の行動を考える指針としても過去が問い直される。

 

[7] ドイツにおいても、919日のザクセン、ブランデンブルク2州の州議会選挙で、外国人排斥を掲げる極右政党が躍進し、議席を獲得したことなどからも、けっして過去の物語ではない。

 その背景には、大量失業(14%以上)、年金制度改革、などがある。

 ブランデンブルクにおけるPDS(旧東ドイツの政権党の流れ)の躍進にも見られるように、経済不況や福祉国家政策の後退によって脅かされる人々が増えて背景があるだろう。

 EU統合はばら色ばかりではない。

 Euro ist teuro! ユーロは物価高だ、というのは極右選挙宣伝の文句である。

 ナチスもまた世界大恐慌で第一党に躍り出た。

 

 ドイツ滞在中は選挙戦最終盤で、極右政党の活動に対して憲法裁判所が違憲判決をくださないのは問題だ、と政府(SPD政権)内相が発言していたが、その極右が今度の選挙で大きく票を伸ばしたのである。

 

[8] マイクロソフト・エンカルタの紹介では、

「キール Kiel ドイツ北西部、バルト海のキール湾に面した港湾都市。シュレスビヒホルシュタイン州に属す。・・・潮の干満のないフィヨルドが格好の港を形成しているため、10世紀以降、重要な港町だった。漁業・造船・船舶の修理のほかに、石鹸・食品加工・機械・羊毛製品の生産が主要な産業である。人口は238800(1998年推計)。キールはレジャー・ボートでも人気がある。

 

1284年にハンザ同盟にくわわった。1773年からデンマークに支配される。しかし1866年には、シュレスビヒホルシュタインの一部としてプロイセンの支配のもとにはいった。第1次世界大戦(191418)では、ドイツ艦隊司令部がおかれた。2次世界大戦(193945)では、ドイツ海軍の重要な基地となったため、連合軍によってはげしく爆撃された。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 

  そのためであると思われるが、キール大学の建物は概して、新しい物が多いように感じられた。

 

[9]  値段はシングル1泊シャワートイレ付の部屋で75ユーロ

現在、1ユーロが135円ほど。したがって約1万円ということになる。少し高い感じ。

 

 2001年のユーロ移行時は、1ユーロが100円を切るくらいだった。その当時のレートなら7500円程度、ということになる。ドイツの物価水準から感じる実感としては、この7500円くらいのほうが本当だろうという感じ。日常生活の諸物価の体系と国際商品・貿易商品の値段とのギャップ。

 

大会参加者には81日までに申し込んでおけばこのホテルBerliner Hofの場合、60ユーロだったはず。しかし、すでに6月段階で全日程一まとめでは取れなくなっており、申し込まなかった。

しかし、最初の一日だけはホテルが決まっていないと不安であった。夕方(現地時間19時頃)、疲れて(成田まで2時間少し、成田からフランクフルト経由ハンブルク空港まで14時間、そこからバスKielius1時間半キールかかる)到着予定なので、また観光案内所も閉まっている可能性があり(事実、後で確認したら閉まっていた)、出発直前、インターネットで910日、キール観光案内所に1泊だけInterCityHotel(駅構内直近)に仲介を申し込んだら、とれた。シングル・シャワートイレ付・朝食つきで91ユーロだった(大会本部経由で早々に申し込んだ人は、このホテルの場合、75ユーロだった。

 二日目以降、InterCityHotelは満杯(ausgebucht)ということで、14日朝9時、駅から200mほどの観光案内所に出向いた。141泊だけをHotel Berliner Hofで何とか確保。3日目以降については同ホテルで15日朝交渉。結局、空きが出て、最後までこのホテルに4泊することになった。といっても、最初の3泊はツインの部屋の一人で利用し、4泊目はシングルの部屋に移った。このシングルの部屋からは、中央(西側正面)と駅前広場が見えた。

 

 18日朝720分発、エアポートバスKielius(中央駅そばから発着)でハンブルク空港に、

余裕を持って到着。

 ところが、これまでで始めての経験だが、飛行機が出発のため動き始めて少しして、機長が「第二エンジンのスターターが作動しない」と機内放送し、急遽、停止。点検、部品交換、修理。結局、ハンブルク空港を飛び立ったのは予定より2時間ほど遅れた1時近くになって。

 フランクフルトについて、搭乗口A63まで駆けつけて見ると、乗り継ぐ予定のLH710便はすでに飛び去った後。(時刻表どおりなら、フランクフルト着1210分で、LH710が飛び立つまで1時間半の乗り換え時間があったはずなのである)

 結局、スターアライアンスのルフトハンザとの共同運航便しか乗り換え可能性はないということで、ANA210便に乗り換える。当初予定(13時45分発)から7時間遅れの20時45分発。

 乗り換え手続きのためいったんパスポート検査などを受けて、外にでる。ところが、ANAカウンターは出発4時間前からしか開かない、ということで文庫本を読みながら待機。その意味では、ひどい目にあった。

 帰路は10時間半ほどで、19日14時半には成田着。

 

[10]念のため持参したハーフコートを着用、タートルネックのシャツ着用。

[11] オーストリアを含むもの

[12] プロイセンが中心。オーストリアを排除。

 

[13] 歴史研究も無色透明で行われるのではない。最近の日本歴史に関する問題(たとえば首相による靖国参拝問題)は、歴史叙述や歴史研究とも深くかかわる。

 ドイツにおける小ドイツ主義も、それを支援する歴史学の一派を持った。

 例えば、ドロイゼン・・・このドロイゼンがシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題、キール大学にも関係。

 「ドロイゼン Johan Gustav Droysen 180884 ドイツの歴史家、政治家。プロイセン王国ポンメルン地方の小都市トレプトー(現在はポーランド領)に生まれ、ベルリン大学でまなぶ。1833年、「アレクサンドロス大王の歴史」によって古典文献学の教授資格をえた。35年からベルリン大学の古代史および古典文献学員外教授。当初は、古代ギリシャ史家として活躍し、「ヘレニズムの歴史」全3(183643)では、ヘレニズムという時代概念を提唱したことで名高い。

1840年、当時、シュレスビヒホルシュタイン問題の中心地にあったキール大学歴史学教授へ転ずるとともに、ドイツ統一をめぐる政治問題を歴史的に考察することに関心をうつしていった51年にイエナ大学へ、59年にベルリン大学へうつってもそれはかわらず、学生や市民への講義や「プロイセン政治史」全14(185586)などの著作を通じて、プロイセン王国のホーエンツォルレン家を中心とするドイツ統一の歴史的正統性を主張した。

 

このようなオーストリアを排除する小ドイツ主義的立場にたった歴史家のグループは、プロイセン学派とよばれ、ドロイゼンのほか、ジーベルとトライチュケが代表的人物である。ドロイゼンは、1848年にはホルシュタイン選出のフランクフルト国民議会議員として、ドイツ憲法問題にも関与したが、50年以後は政治活動に参加することはなかった。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 

[14] 今回、キール到着の翌朝午前中、午後からの会議受付の前に、シュロスガルテン(Schloßgarten王宮の庭)を通ったら、騎馬像が見えたので近寄って見た。

 それは、ウィルヘルム一世が騎馬にまたがった銅像であった。

 その台座には、「シュレスヴィッヒ・ホルシュタインを解放した」王として、賛辞が書き込まれていた。デンマークの抑圧から、ドイツ人を解放した、という賛美である。ナショナリズムは、このようにして国民意識を刺激し、盛り上げ、「国民」(ネーション)内部での共通意識・連帯意識・同胞意識などを形成すると同時に、対外的な壁をつくりあげて行く。

 同じ公園の片隅には、エルザス・ロートリンゲンも解放した、として普仏戦争が賛美されるモニュメントがあった。フランスの圧制に対し、ドイツ系の住民を解放した、ドイツ系住民をドイツに統一した、というわけである。

 こうして、ドイツは北において、東において(ポーランドやロシア)、南東において(オーストリア)、国境紛争・国境対立を激化させていく。

 反対にフランスやイタリアも国民国家の領土の線引きをめぐって、反ドイツや反オーストリアなどの形で国民意識・ナショナリズムを刺激し、国民国家をつくりあげて行く。

 そうしたことの総合的な結果が、第一次世界大戦ということになる。

 その第一次大戦が、無賠償・無併合という原則ではなく、敗者に責任と膨大な賠償金を貸すものだった。敗戦国における復讐心。その先頭にナチス。

 

  ナチスの時代には、ノルトマルク(デンマーク)、オストマルク(オーストリア)、ウェストマルク(アルザス・ロートリンゲン)などを「取り返し」、一大ドイツ帝国に統一した。

 ヒトラー・ナチス体制により、その一大ドイツ帝国が、ヨーロッパを支配する、という構図。

 

[15] プロイセンの権力拡張をのぞまないハノーファーやバイエルン、ザクセン、ヘッセン・カッセルなどはオーストリア側についた。ドイツ内部のたくさんの連邦構成国間で、利害対立。

 

[16] 戦争指揮を執ったのがモルトケを中心とする参謀本部。

[17] それまで、35の領邦と4自由市があった。

[18] 連邦制国家。プロイセン王がドイツ皇帝をかねる。

 

バイエルン王の屈辱・・・過去の栄光に沈潜、白鳥城ノイシュヴァンシュタインSchloß Neuschwannsteinの建設・・・最後には自殺=森鴎外のドイツ滞在中のこと。

南ドイツ・・・カトリック地域・・新教国プロイセンへの反感・・反プロイセン意識(中央党)

ビスマルクによる抑圧(文化闘争)

 

他方、工業化の進展とともに社会主義勢力の台頭・・・ビスマルクはカトリック勢力と妥協、皇帝狙撃事件をきっかけに社会主義者鎮圧法(1878)を制定。

単に抑圧するだけではなく飴の政策も・・・・社会政策としての災害保険、疾病保険、養老保険などの社会保険。

 

 ドイツ帝国の立法府は、連邦参議院と帝国議会。

 帝国議会は普通選挙。しかし、議会は政府に対して無力。帝国の官職の多くはプロイセン貴族(ユンカー)

 

[19] 大野英二『ドイツ金融資本の成立』有斐閣

 

[20] 16日午後3時からは、会員総会なのでセッションがなく、ホテル宿泊者は宿泊カード提示で市内区域を自由に無料でバスを利用できるため、路線バス11番の終点(運河、渡し場)まで行って、渡し場および観光ポイントAussichtspunktで運河や航行する船、そして水門を見た。

 ちょうど大きな客船(?大きなフェリー)が渡し場の前を通り過ぎ、水門Schleuseにはいるところで、すぐあとに貨物船がやってきた。貨物船が通り過ぎた後、小さな渡し舟Fähre(フェリー)が向こう岸に向かった。

 大きな貨物船が水門内に入り、水門閉じられ始めた水門完全に閉じた

あまり時間がないので、再び水門が開くまで待たないで市内中心部に戻った。

 

[21] まったくくの余談になるが、バスでホテルから大学に行く途中に見かけた中華料理店の漢字名は「東海市場」となっていた。

 

[22] 「北海バルト海運河Nord-Ostsee Kanal ドイツ北部の人工水路。

キール運河ともよばれ、北海とバルト海をむすぶ。

シュレスビヒ・ホルシュタイン州を横切って、エルベ川河口近くから北東方向に、バルト海に面したキールまでのびている。きわめて高度差が少ないため、水門は北海とバルト海にでる端の部分にあるだけで、これは潮の満ち干に対応するためのものである188795年に建設され、その後拡張された。全長は約97km、幅102m、水深11mである。・・・

この運河によって、北海とバルト海の間の航行距離が約322km短縮され、また、ユトランド半島沖の航行困難な水域をとおらずに航海できるようになった。1919年にベルサイユ条約によって国際水路となっている。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 

[23] 「ウィルヘルム2世 Wilhelm II 18591941 ドイツ帝国皇帝・プロイセン国王。在位18881918年。カイザー・ウィルヘルムとよばれた。父は在位99日で死亡した皇帝フリードリヒ3世、母はイギリスの女王ビクトリアの長女

ベルリンに生まれ、ボン大学でまなぶ。軍隊勤務ののち、1881年にシュレスビヒホルシュタイン公女のアウグスタ・ウィクトリアと結婚。88年、99日間という短期間の治世におわった父王をついでドイツ皇帝となった。

即位後、政策をめぐって対立した宰相ビスマルクを解任。以後は、国内外の政策決定に自身深くかかわり、ドイツを農業国から工業大国に急速に発展させたが、それにともなって、資本・労働間にさまざまな問題が生じた。勢力を拡大してきた社会民主党の発展を力でおさえようとしたが部分的にしか成功せず、社会民主党は帝国最大の政治グループとなっていった。

積極的な海外進出をはかったが、その政策は矛盾にみちていた。イギリスへの親近感をあらわしながら、一方で植民地の拡大や海軍の拡張をはかり、結局はイギリスをフランス、ロシアとの同盟においやることになった。親ロシア政策はオーストリア・ハンガリー二重帝国のバルカン進出を後押しすることと矛盾した。オーストリア・ハンガリー二重帝国、イタリアとむすんだ三国同盟が戦争を抑止する効果をもつと信じた。各国間のあつれきは強まり、開戦気運が高まった。

1次世界大戦がはじまると、ウィルヘルムの地位はしだいに名目的なものとなり、軍の指導はヒンデンブルク元帥とルーデンドルフ将軍にゆだねられた。1917年に帝国議会の講和決議を否認して戦争継続をきめたが、18年のドイツ軍の総攻撃は失敗におわった。

軍と国民の間に不穏な動きがひろまり、119日に退位しオランダに亡命した。

ベルサイユ講和会議で戦勝国側は、ウィルヘルムを戦争犯罪人として裁くべきだと主張したが、オランダ政府は引き渡しを拒否した。余生をオランダのドールン城ですごし、21年に王妃が死ぬと、シェーナイヒ・カロラート公女のヘルミーネと結婚した。晩年には、復活したドイツ軍がオランダに侵入するのを目撃することになった。死後、ヒトラーによる軍隊葬をうけた。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.