2004年11月30講義メモ
「非ナチ化」とは何か?
−この角度からヒトラー・ナチスとは何であったか、を問い直すこと−
1.「シュナイダーからシュヴェーアテへ」Bernd-A. Rusinek, Von Schneider
zu Schwerte. Anatgomie einer Wandlung, in: Ibid., S.143-179.
上司、ハインツ・オットー・ブルガーはダンツィヒ出身。1944年7月7日エアランゲンに。
2.ヘルガ・シュナイダー『黙って行かせて』の場合・・・親衛隊員の母の罪の深さに押しつぶされる思い・・・しかし、母親の心理を徹底的に追及(恐るべき徹底さ)
母親は、ナチ親衛隊員としての徹底性・頑固さ・・・これに対して、娘のヘルガは、戦後民主主義の徹底的な担い手[4]・・・母と娘は、その思想の徹底性という点で、共通する。
1971年、戦後初めて再会。
1998年に二度目の再会。
71年の母親・・・アウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスや「その妻、5人の子供たちと親しく暮らしていたことをすごく自慢し、ヘスはアウシュヴィッツで最高の司令官だったとも言っていた。彼が他の勤務地に移ることになったとき、あなたは惜しんだ。だってもう、電流の通る囲いの外にあったナチス親衛隊居住区のきれいな家にヘス夫人を訪ねることができなくなるから。」
母は、「ナチス親衛隊の隊員として、帝国総統に呼ばれたらいつでも出動しなければならない・・・」という態度
「党に対する義務・・・約束をしたからにはもう後に退けなかった」「ナチス親衛隊の隊員として、死ぬまでの絶対的な服従と忠誠を誓ったのよ」
「どうしても親衛隊に入りたかったの。何があってもね」
「家族よりもそっちの方が大事だったの?」
「そりゃそうよ。あんたには分からないだろうけどね。今となっては、だれも理解できないでしょうけど・・・」
母・・・ラーヴェンスブリュック女子収容所で、「医者の助手」、「囚人たちを手術台に括りつけた」・・・人体実験[5]
当時の医者への信頼・・・「うちの先生たちは飛び抜けて優秀な医師たちだった。あたしたちの実験の結果は一番権威のある医学の専門誌に掲載されたのよ。ドイツだけでなく、外国でもね!」
「うちの学者先生たちはね、世界中の医学会議に招待されたんだよ!」
「あたしには同情する権利なんてなかったんだからね。ただ命令に従っていただけなんだから。忠誠と服従、ただそれだけよ! 忠誠って言うものはね、一番高尚なもののひとつなのよ。覚えておきなさい!」
「あたしは、“厳しい訓練”を受けたんだからね」
「一度だけちょっと気の毒だと思ったことがある・・・」・・・元同僚、抵抗運動に転進した女、「あいつったら、あたしを見るなり、顔につばを吐いたんだよ」
「あたしはその女を売春宿に割り当ててやったんだ」
1943年、おもな収容所の売春宿を設置しろという命令・・・女看守に命令が下されて、「うちのブロックから一番適した女たちを選び出せって言うからさ、あたしはその女を選んだんだよ」
「その後すぐに、彼女が重い性病に罹って死んだって聞いたんだけどね」
「最初のうちはね・・本当に気の毒だと思ったんだよ」
「でもあたしはまたすぐにそれを乗り越えた。自分の管轄の囚人たちに対して同情や憐れみを持つことは、あたしのやってはいけないことだったんだから・・・・。だってあの人たちが収容所にいるのはそれだけの理由があったのさ。だからもうそんな感情がおこることは二度となかった。あたしだって、だてに親衛隊に配属されたわけじゃないからね。普通の市民が持つ感傷なんて、関わりのないものだった。あたしたちには許されないものだったんだよ」
母が収容所の模範的な看守の役を颯爽とこなしていたころ、弟と私はひどくひもじい思いをしていた。1944年から[6]定期的な食糧配給は事実上途絶えてしまっていた。皆、菜種パンやひどい味のするイラクサスープを食べていた。パン粉は樹皮とどんぐりを挽いたもので代用していたから、すさまじい腹痛に襲われることもあった。
(アウシュヴィッツ)ビルケナウで何千の死体が毎日焼かれることに関して
「焼却されたのは、ただの役立たずだけさ」、「ドイツをあのつまらぬ人種どもからとことん解放してやらなければね」
納得していたのか?
「何に? 絶滅のこと? あたしが何のためにアウシュヴィッツにいたと思うの?ヴァカンスでも楽しむため?」
母は声を立てて笑った。けれど、顎の震えはまだ止まらない。
子供を哀れだとは思わなかったのか?
「まさか。ユダヤ人の子供はユダヤ人の大人になるのよ。ドイツはこのろくでもない民族から解放されなければいけないんだよ。何回言えばわかるの?」
「あたしには何の罪もないわよ。誰にもあたしを非難することなんかできやしないわ。ただいうことを聞いて、命令を実行しただけなんだから。あたしたちはみんな従順だっただけなのよ。あたしの同僚たちもみんな。大体、ドイツ人全員がそうだったわ。なぜそれを否定しなけりゃいけないの? 子供たちだって先生に素直に従ってた。上からの指図をしっかり守ったんだ」、
「今じゃ、みんながドイツを見下しているけど・・・どうしてだかわかる? 戦争に負けたからだよ。勝っていたら、世界中が総統の足にキスしただろうね。足ばかりじゃないよ」
戦後のベルリンでこういったせりふを、また似たりよったりの言い回しをさんざん聞いたものだ。1945年の降伏後、世界中から憎しみや侮蔑がドイツ人に向かって吹き付けていたころ、こんな言い方が、わずかながらに残っていた誇りを救えると思った人は少なくなかったのだ。
母親における個人的確信としての「ユダヤ人は劣等民族」
「あんたは真実が知りたいのね?いいわ。あたしはユダヤ人の女たちを憎んだの。ほとんど生理的な嫌悪感を彼女らに対して抱いたのよ。あの堕落した顔を見るだけで、胃がキリキリしたわ。あのいやな人種・・・それに、連中の団結の強さといったら!・・・あたしはやつらを心底憎んだのさ。あのユダヤ人ら、いまわしい連中をね。そうなのさ、ふん!」、「あたし正直だっただけよ」と彼女は言った。「あたしのことを悪く考えちゃだめ。ナチス親衛隊員にとってユダヤ人を憎むことが至上の義務だったの。わかった!」。
「動機に確信」があったので、ユダヤ人を憎めた、と母は言う。「どんな動機?」「ユダヤ民族は撲滅されなければならないの、小ねずみさん、それが動機よ」。
知り合いのユダヤ人がビルケナウに連行され、子供が到着と同時に「防空壕行き」(ガス室に送られたこと)、一晩中3人の子供のことで泣き喚いてばかりのそのユダヤ人の母。その記憶を語る著者の母親の平然たる態度・・・「あたしが“厳しい訓練”に応募したとき、自分が何をしているのかよくわかっていたわ。・・・」「ガスは3分から15分後に効果が出てくるわ」・・事務的な、感情のない口のきき方
「日に1万2千個も処理しなければならないの。割り当て数が引き上げられたから・・・」
「ガス室の扉を開けると、一人や二人はまだ生きてるってことも?[7]」
「そうよ、そういうことも起こるわよ」と母親は不承不承答えた。
「まだ生き残っていた人もいたということ?」
「そりゃ、もちろんさ!」
母やもどかしそうに、いらついている。
「何よりも、子供たち。あのチビどもは『ねこいらず』に対して大人よりもずっと長くもちこたえていたからね」
母は皮肉っぽい笑いを浮かべた。その嘲笑でゆがんだ顔・・・
「それからみんな焼却場に運ばれるのね? 死体も生きている者も子供も、みんな一緒?」「そうよ、そういうこともあったわ」
「みんながみんなさっさと死んだわけじゃなかったよ。ガスに長く抵抗する者もいた。それに年齢も関係してくるしね。新生児は数分で終わり。あたしたちは真っ青になった身体を引っ張り出した・・・」 彼女は話を中断した。また顎が震えはじめたのだ。目つきが陰気になる。顔をあちこち触る。そして気味悪くガチガチと鳴る歯の音を押さえ込もうと、震える顎をしっかりつかんだ。それは見るも哀れな光景だった。
母親は戦後になってもあくまでもヒトラー崇拝者[8]。
軍需大臣「シュペーア・・・・、あの裏切り者め。禁固刑で済むなんて、なんと恥さらしな。縛り首にしてやればよかったのに! あのごろつきは本気で総統を窒息させようとしたんだ。防空壕の他の住人たちもろともに」
「あなたがたは、なぜみんなそんなにユダヤ人嫌いなの?」「あなた、ヒトラー、ヒムラー、体制、親衛隊・・・ほかでもない、あなたがたよ」
「ユダヤ人にすべて責任があるのさ」
彼女は非常にはっきりと言いきった。
「たとえばどんなことで?」
「たとえば、ドイツが第一次世界大戦で負けたこともだよ。彼らは絶えずゴタゴタとドイツの邪魔をしたんだ。その上、新しい紛争を招こうと国際的陰謀をたくらんでた」
母の言葉は百パーセントの確信に満ちている。でも丸暗記した教科書を暗唱しているみたいだ。同じ曲を繰り返してばかりいる手回し風琴だ。
[1] ちょうど、ヴェルナー・コンツェと同じ。
[3] キールの南方。バルト海の著名な港湾都市。古くハンザ同盟の主要都市のひとつ。
キールの場所とリューベックの場所などは、20040928国際会議の報告(第45回ドイツ歴史家大会・キール)を参照のこと。
[4] ヘルガは、精神的には、父方の祖父や母方の祖父母の系譜・・すなわち反ナチ・非ナチ
ヘルガの祖父(父方)・・・ポーランド人はナチスにとっては『聖なるドイツ領』に埋葬されることさえ許されない劣等人種だった。それでもヒトラーとその仲間たちは、この国のインテリたちを脅威に感じて、手っ取り早く撲滅しようと決めた。祖父とよい友達だった急進派の政治家もナチの卑劣な行為の犠牲になった。彼はブロツワフ市役所の前で殺されたのだった。
ヘルガの母の両親・・・「あの人たちはあたしに反対したの。国民投票の時だって、あたしにひと泡吹かせるために反対にまわったのよ」
オーストリア併合の時・・・「うちの両親は反対だった。あの人たちは国民社会主義にも、総統にも反対だった。もちろんあたしが党に加入することにも大反対。両親にとってあたしは変わり種の狂信者だったわけよ。だから国民投票の時に反対票を入れたの。そうしたら党があたしを追い出すとでも思ったんだろうね。でもおあいにくさま、そんなことにはならなかったんだ。後でラーヴェンスブリュックのことを知ったとき、あの日とたちったら本気であたしを勘当したのよ。普通考えられないことだよね、じつの娘を勘当するなんて!」
[5] 親衛隊によるほぼすべての人体実験に関わった帝国医グラヴィッツ博士は、1942年、ラーヴェンスブリュック強制収容所の女性収容者たちを、ぶどう状球菌,ガス壊疽菌、破傷風菌と混合培養された病原体に感染させることを指示し、それによってスルホンアミドの治癒力を立証しようとした。・・・医薬・新薬実験・・・現在の世界でもある!!
これを実行したのは、ベルリン大学整形外科の正教授でホーエンルヒェン療養所の主任医師をしていたカール・ゲプハルト教授だった。彼はヒムラーの友人かつ主治医でもあった。
手術の大部分は、ポーランド人女性に対して行われた。ゲプハルト教授は執刀をナチス親衛隊医師隊員のシードラウスキー博士、ローゼンタール博士、エルンスト・フィッシャー博士、ヘルタ・オーバーホイザー博士に任せた。手術を責任を持って監督する者はいなかった。
女性たちはこの手術の意図は知らされず、彼女らは皆下腿部から感染させられた。切開部分が骨まで達していたことが、後に、わずかに生き延びた人たちの瘢痕から判明し、証人たちによって確認された。
被験者たちは数回にわたってバクテリアを接種されたのみならず、木片や木屑、ガラスの派遣などを傷口に埋め込まれた。患者たちの足はみるみる化膿した。病気の進行を観察するために、何の治療も施されなかった犠牲者たちは、凄まじい痛みに苦しみながら死んでいった。残りの人たちの中でも、生き残れたのはごくわずかである。この一連の実験は一度に六人から十人の若い女性を必要とした。彼女らは決まって、営内病棟に呼ばれた多数の候補のうちから選ばれた一番美しい女性たちだった! 実験は少なくとも6回繰り返された。
ゲプハルト教授は実験結果報告を提出され、患者たちの傷を見るためだけに、ときどきラーヴェンスブリュックにやって来た。その度に女性たちは一列に並んで手術台に縛りつけられ、教授先生が来るまで何時間も待たされた。この人はベルリン軍医アカデミー顧問専門医による第三回東支部作業研究会(1943年5月24日―26日)の場で、この研究の成果を『スルホンアミドの効力についての特殊実験』というタイトルで発表した。この会議に出席した人々の中には、国防軍衛生局長、空軍衛生局長、帝国厚生省長官、ベルリン大学外科病院院長、そしてヒトラーの主治医だったカール・ブラントもいた。その他にも非常に高名で尊敬されていた教授陣の名が並ぶ。
ゲプハルトはこの実験に強制収容所の収容者たちを使ったことを隠し立てしなかった。それどころか、それについての責任を全面的に負うことを強調した。そして、参加者は誰一人として、それに異論を挟まなかった。(オイゲン・コーゴン『SS国家 ドイツ強制収容所のシステム』1974年、ギンドラー社、ミュンヘン)
[6] 最終年度になってから、ということ。
それまでは、占領地から食糧などを調達し、ドイツ人の食糧不足などを極力回避。
(第一次世界大戦のときは、食糧不足などから労働者の戦争反対の声が高まり、ついには11月革命勃発・・・この教訓を踏まえて、ドイツ民族主義の見地で、ドイツ人の食糧は極力確保。その分、占領地からの略奪が激しくなる。)
[7] 新潟の災害で母親姉が死んだのにかろうじて生き残った小さな男の子。小さな空間!
[8] 対極に、ヒトラーに反対し、ヒトラーを呪詛する女性たち、強烈な生命力・・・
「一方、幼いヘルガは燃え上がるベルリンで、どんなに多くの女性たちが総統のことを罵るのを聞いたことだろう。」
「町に死体の臭いが充満するなか、彼女たちは防空地下壕や地下鉄駅の屋根の下で死の闇を見つめる子供たちを救うために、ひなに餌をあげるために、死にものぐるいで戦わねばならなかった。女性たちは、国防軍とヒトラーの一味の御用達としてまだ営業していた数少ない食糧庫の見張り番を、力ずくで殴り倒すことだってやってのけた。・・・
ベルリンでの市街戦の間、まだ総統を愛しているベルリン女性がどれだけいたのか、私は知らない・・・。
あの頃、私たちは想像を絶する混沌のなかに生きていた。・・・空腹が全ての規則や原則を押しのけた。食べ物を得るために、必要なら盗みだってやってのけた。皆がそうした。私たち子供も、年取った人たちでさえも。