(ドイツ連邦文書館構内)

                           
                                 ドイツ連邦文書館 ベルリン・早朝の図書館

更新日:2005-01-29

20041215日―25日ベルリン出張の記録(デジカメ記録写真・2005-1-28更新)
  日本学術振興会・科研費基盤研究(c)(2002-2004年度)「ホロコーストの論理-総力戦敗退過程の政治と経済-」による調査の一環。

目的:論文「総力戦とプロテクトラートのユダヤ人問題−1941年秋から1942年春のハイドリヒの思想と行動―」(仮題)のための調査と草稿執筆
   
(帰国後、草稿を仕上げて、2005年1月、『市大論叢』内藤教授退官記念号に投稿)

 

 

15日(水)朝出発、ルフトハンザで1040分成田発→フランクフルト経由→ベルリン(詳しくは次のドキュメントの後半の日程表部分を参照)

      15日はルフトハンザ(ANAの共同運航便)は込んでいたようで、結局、予約していたエコノミークラスはオーバーブッキングだった。空港カウンターでチェックインしようとすると、通常ではなくすでにべつに航空券が準備してあった。FTL(頻繁利用の旅行者)の私は、ビジネスクラスに座席が確保されることになったのである。これまでも、こうしたオーバーブッキングによる「好運」(航空会社もエコノミーの乗客があふれるほど一杯でもうかっているわけだが)に恵まれたことが何回かある。なんと言ってもビジネスクラスは座席がゆったりしていて、くつろげる。
 今年出張した科研費などの場合、エコノミークラスをとることが決められており、我々研究者の調査のための旅行は「ビジネス」とは認められていないのか、あるいは「ビジネス」とは営利会社用のビジネスのみを意味するのか
[1]、いずれにしろ科研費出張はエコノミー利用を求められる。若い時ならいいが、最近はかなりしんどい。特に短期の場合、機内時間だけで12時間+1時間、時差8時間の旅であり、時差ぼけ解消・疲労回復には。

 

       5時半過ぎ、予定通りベルリン着。冬で外は真っ暗であり、タクシーでホテルへ。連邦文書館調査の際に何時も利用しているHotel MulinoHMulino@aol.com)へ。このホテルはベルリン自由大学の最寄り駅でもある「リヒターフェルデ・ヴェストLichterfelde-West駅のそば(西側出口で徒歩80mほど)の場所。本学の総合理学研究科の教授の方も11月だったかに利用されたようである[2]

 

       タクシー代は、20.7ユーロ(現在は円がまた安くなり、1ユーロ=138円とか139円、だいたい140円と計算)。夜ではあり、どんな道を通るのか、不安であったが、運転手は老年の熟達した感じの人だった。後日、帰路のときホテルに呼んでもらったタクシーで空港までいくと、なんと、ほぼきっちり同じの20.4ユーロ。ドイツ(ベルリン)のタクシーの誠実さに驚嘆。

 

1216() 連邦文書館へ(月曜日から木曜日までの平日は8時か19時まで利用可能、金曜日は16時まで)。

      短期の出張なので前もって細かな調査内容を知らせたこともあり、そのことを確認する書類をもらっていただけに、手続は順調。しかも、関係ドキュメントを前もって調査してくれていて(ハイドリヒ個人文書ファイルなど)、借り出し手続きだけして、直ちに利用できるようになっていた。ここでも改めて感激。
 作業開始。検索書等を見ながら独自のドキュメント発注と史料閲覧、読解、メモ、原稿加筆など。

        
                 (まだ薄暗い早朝、8時過ぎの連邦文書館構内)


1217() 調査継続、論文下書き執筆。

 

1218() 市内をあちこちいくためには一日券(Tageskarte)購入(バス、Sバーンの電車、路面電車、地下鉄など共通で、5.6ユーロ=780円、乗り放題なので安い感じ、「一日3回乗ればすでにお得」とは宣伝文句)
 新しいベルリン・
ユダヤ博物館http://www.jmberlin.de/5ユーロの入場料[3])を訪問。関連する史跡など調査。


ヨーロッパユダヤ人絶滅記念石柱群(ベルリン・ブランデンブルク門近く)

夕方市内中心部へ(クーアフュルステンダム、ポツダマー・プラッツなど)(夜、ベルリン・フィル[4]、第50回フルトヴェングラー追悼記念演奏会、ダニエル・バレンボイム指揮・演奏、Aブロック第8列の真ん中あたりで61ユーロ=約8500)

 

1219() ドイツ抵抗記念館(英文) Gedenkstätte Deutscher Widerstand(無料)

      (記念館内庭、左手花輪・7月20事件連座の将軍・将校の射殺場所)

       (元、陸軍最高司令部Oberkommando des Heeresの建物・敷地)



それに、
プレッツェンゼー記念館
(
英文)Gedenkstätte Plötzensee(無料)

さらに、
東西ベルリン間検問所チェックポイント・チャーリーなど冷戦記念関連施設・史跡などを訪問。


 (東西ベルリン間検問所・チェックポイント・チャーリーの現在)

 

1220()23日 連邦文書館で朝8時過ぎから夕方18時前後まで作業。(23日夜、ベートーベンの唯一のオペラ「フィデリオ」をウンター・デン・リンデン通りからすこし入ったところにある、フンボルト大学(ベルリン大学)近くのKomischer Operaで鑑賞。最前列の中央部の席で61ユーロ、この劇場は外観は立派だが内部は小さめでしかも少し古い感じ、旧東ベルリン時代の遅れを象徴しているか?・・・ミュンヘンのNational Theaterなどと比べてだが)

 

1224日朝、ホテル・ムリノからタクシーで15分ほど(だったと記憶、あまりにも早いので驚いた)でBerlin-Tegel空港へ。先にチェックインをすませ、ちょっと空港売店で買い物。 

       出発予定は1110分なので時間的には余裕。しかし、ミュンヘンからの便で到着する乗務員がフランクフルトに行く我々の便の乗務員となる予定だったが、それが遅れたということで乗務員の調整に手間取り、ベルリンを飛び立ったのは、遅れて11時半くらい。フランクフルトでの乗り継ぎ時間は、予定通りなら1時間30分はあったが、1時間ほどに減ったわけで気ぜわしい感じ。機内では、ところどころに空席が見えるほどだった。したがって、残念ながら(当然ながら)、予約どおりのエコノミークラスの座席へ。やはり窮屈。

 

       隣の席には青年。彼は私より体が大きく、窮屈そう。彼から話しかけてきて少し会話。ルクセンブルクでパイプオルガン製造工房で見習いをしているという。見習3年間の計画で1年半ぶりの帰国だと。町田市に住むお父さんもパイプオルガン製作にたずさわっているという。
 お父さんが修行中のとき、小さいころ
3年間キールで生活したことがあるという。キールには9月に行ってきたばかりであり、また1212日にはミナトミライのホールでパイプオルガンのコンサートを聴いたばかりで、いくつかの偶然の重なりに驚く。
 彼の工房は昨年などは一年間にパイプオルガン
3台をつくったという。といっても、パイプオルガンも大小さまざまの規模があるので、台数はあまり意味がないとも。
 パイプオルガンは教会の雰囲気の中で耳にすると感動的だが、普通のコンサートホールで聞くと音が分散してしまう感じであまり感動的ではなかったというと、たしかにそうだ、といっていた。

 彼は話しているうちに私が大学の教員だということがわかったようで、大学の講義の話になった。
 「教養の科目が多すぎませんか」と彼は言っていた。
12年に教養科目が多く、もっと専門をたくさんやりたかった、と。
 どんな講義がいい講義として記憶に残っていますか、とたずねた。彼によれば、そのひとつに
4年生だったかで受講した英文学・英語学の先生の専門講義があった。作者の説明を行った後、関連するビデオなどを見せて、いろいろ議論したようである。
 何が印象に残り、教養となり、その後の社会生活・職業生活の糧となったか、卒業後のこうした何年もあとの効果を、教員評価、授業評価はどのようにみるのであろうか?
 浅薄な短期的な目先の評価だけがまかり通るようなことがあると、大学はだめになるだろう。

 

1225日朝、成田着。昼ころ自宅へ。その後、時差ぼけを押して、10日間のメール等の整理のため研究室に。

     

1227日夕方、別の科研費共同研究の合宿を終えて、学部・科研費担当事務局に出張報告書類(復命書、パスポートコピー等)を提出。

 





[1] 実際には「ビジネス」といってもある程度以上の管理職ないしそれ扱いの場合ということで(企業・官庁等によって違うのだろう)、教授であっても、「唯野」教授の場合、研究調査出張では「ビジネス」は認められない、ということだろう。それによって研究調査が非効率でもそれは考慮しない、と。研究調査は肉体的に元気なものがやるものである、と。

 そのうち、「教員評価」では肉体的強健さの度合いが項目に入るかもしれないということか?

[2] リヒターフェルデ・ヴェスト駅エスバーン(S1線)にあり、ベルリン郊外ヴァンゼーやポツダム(終点)行きの線でもある。
   S Bahn Lichterfelde-West



 逆に市中心に向かっては、ポツダム広場駅やウンター・デン・リンデン駅
(ブランデンブルク門や国会議事堂(ライヒスターク)の最寄駅)などベルリン(東西分割時代のベルリンでは東ベルリンに位置するが)の最も重要な中心部に駅がある。


 ベルリン・フィルはポツダム広場(
Potsdamer Platz)駅から歩いて5分ほど。

[3] 現在のイスラエル・パレスチナ問題、中東問題を反映して、厳重な身体チェック。空港と同じようなチェック。携帯用バッグも「おおきすぎる」と手荷物預かり場所に預けさせられた。

 ベルリンのシナゴーグも、警察の軽装甲車で警備されている。

[4] 日本人が第一バイオリン、第二バイオリンなどでちらほら。第一バイオリンのコンサートマスターの一人は日本人。