イタリア・サルデーニャ島   サッサリ大学・メルレル教授

                                                                        作成:2005年1月27日

更新:2006年2月23日

                   

 200012月、国際学術調査「ヨーロッパ統合の社会史の比較研究」で、イタリアに出かけた。
 科研費・19992001年によるヨーロッパ各地の調査の一環である。
 そのときのデジカメ写真を小野塚教授からいただいので、私の写真(日付が入っているもの)とあわせて、以下で紹介しておこう。

 この科研費調査(国際調査)の成果は、永岑・廣田編『ヨーロッパ統合の社会史−背景・論理・展望−』日本経済評論社、2004において公開した。
 小野塚教授は、「6章 ナショナル・アイデンティティという奇跡−二つの歌に注目して−」、
 メルレル教授は、「7章 “マイノリティ”のヨーロッパ−“社会文化的な島々は、“混交、混成、重合”する」、
 新原教授は、「8章 深層のヨーロッパ・願望のヨーロッパ−差異と混沌を生命とする対位法の“智”」を執筆[1]

 なお、上記共著の副題「背景・論理・展望」は、英文タイトルを検討する中で小野塚教授が提案された副題(Background, Logic and Vision)を日本語に訳したもの(当初は日本語副題は考えていなかった)で、本書の内容・メッセージの諸特徴(多元的史的立体構造のダイナミズム、その方法的問題提起)を簡潔に現わすキーワードだとみんな共感して、決まったもので ある。

             
                        (ヌラーゲ)  


  ローマから飛行機でサルデーニャへ

     
   (ローマ・ダヴィンチ空港からサルデーニャ・アルゲーロ空港までは飛行機で一時間ほど)

 旅行は、地中海の島がヨーロッパ統合とどのような関係にあるのか、その現状と現場をしらべて見ようということが目的だった。ドイツやフランスといったヨーロッパ統合の中心地ではなく、周辺地域ではEUをどう見ているのか、どうかかわっているのか。





             

      


       
                  (サッサリ大学本部)
 

     
    (サッサリ大学本部校舎中庭・小野塚氏=右と)
    

 この島の北部にあるサッサリ大学のメルレル教授と20年近い親交を新原氏が結んでいる。
 メルレル教授は、第17回よこはま21世紀フォーラムにも報告者として参加していただいた。そこで、小野塚教授といっしょに、島と大学を訪問したのである。

(余談になるが鮮明な記憶があるので一言すれば、新原氏の予定が厳しく2日早く帰国したため、クリスマスの日には小野塚教授と私だけがサッサリの町に残ることになった。クリスマスのこととて、飲食店は全部閉まっていて、いけどもいけども見つからなかった。
 最後に、中華料理店がひっそりと開店しているのを見つけ、「助かった」とそこに入った。かなりの客がいた。クリスマスの全店休業で困っている人はけっこういるということだろう。)



港町アルゲーロには、遠くカタロニア地方から移り住んだ人々の住む地区がある。
そこでは、イタリア語とカタロニア語がとおりの名前などに併記されている。


             





ある小さな町(テンピオTempio)の役場に掲げられた
三種類の旗

 
 (EUの旗、イタリアの旗、町の旗・・・3層のアイデンティティ)


 メルレル教授のサッサリ卒業生がこの町役場に勤めているということで、ちょうど開催されていた議会の見学もできた。議員のある女性は、日本のような高度な工業国の人がこの小さな町の議会を見ることにどのような意味があるのでしょう、といった意味のことを話したのが印象的だった。






       


サッサリ大学のゼミ風景
 

 サッサリ大学では学部で講義を大学院でセミナーを持った。
 また島のあちこちを見学した。まさに、各地を「見て、学んだ」。

  
   (メルレル教授のゼミで、新原、小野塚両氏と)



 学部学生の元気な顔やはつらつとした質問など、懐かしい。

 大学院ゼミでは、私の説明の不十分さもあって、日本人がなぜドイツのホロコーストのことなどを研究するのか、が問題となった。
 日本の首相の靖国参拝問題、南京大虐殺否定問題などはイタリアでも報じられている。無反省の日本人という見方が広くニュースとなっている。そうした日本人・日本国の過去の反省の不十分さが、私の説明のしかたの中に感じ取られたようで、鋭く指摘されたのである。
 ヨーロッパのことなどより、自分の国の問題こそ真正面から批判的に研究すべきではないかなどと、論争になった。
 
 日本人が外国研究する意味が改めて問い直された貴重な経験だった。


 


サルデーニャ州の旗:
クワトロ・モーリの旗

 私が驚嘆し、強烈な印象を刻み付けられたのは(今でも研究室の扉に張っている・・・写真参照)、なんといっても、サルデーニャ州の旗「クワトロ・モーリ」(4人のモーロ人)。

 「目隠しをされた4人の囚人の図柄が、州の旗だなんて!」と。

    

  新原氏による「クワトロ・モーリ」の旗の解説(2004年1月執筆):

 サルデーニャ州の旗(四人のアフリカ・イスラム系の囚人が描かれているもの)の件ですが、これもサルデーニャ先住民が誰かと同じくいまだ定説はありません

 しかし今のところ、およそ以下のような歴史的経緯で、サルデーニャ人のアイデンティティとなったと考えられています。

 

 もともとは、11世紀頃のイベリア半島でのレコンキスタの中で、1096年のAlcorazの戦いの勝利の後に、アラブの王の四つの首が残されたという話に端を発しているようです。
 このイベリアの話が、ほぼ同時期に、サラセン人による度重なる襲撃を受けていたサルデーニャに引き継がれました。
 そして、13世紀末にアラゴン王国の紋章や印章として、さらにサルデーニャの紋章となったのは14世紀末のことでした。

 (8〜11世紀のGiudicati=独立国時代、ピサ、ジェノヴァの支配を経て、アラゴンがアフリカ沿岸攻略の拠点としてサルデーニャに侵入し、1392年に王女エレオノーラがサルデーニャ語の法典を制定した独立国アルボレア(中世の四つの独立国の一つ)を打ち破り、1469年にはカスティリアとの統一によりスペイン支配へと代わります)。

 そして16世紀におけるオスマン帝国との戦いの中でカール5世によって設立されたサルデーニャ方面特別部隊のシンボルとなりました。


 さらには18世紀に入ってからは、ピエモンテのサルデーニャ島民への偏狭な支配に対する揶揄の意味などもこめられました。

 余談ですが現在イラクに派遣されているサッサリ旅団の紋章もまたここから来ています。

 1952年にこの旗は、サルデーニャ自治州の旗として正式に認められました。

 そして現在の旗は、かつてのピエモンテの支配に対する抵抗の記憶であり、もう二度と眼や耳や頭をふさがれないことへの意思表明でもあります。

     Cfr. B. Fois, "Lo stemma dei quattro mori, breve storia dell'emblema dei Sardi",Carlo Delfino editore, Sassari, 1990




 メルレル教授の博士課程院生の車で、重要な場所を尋ねる。


カステルサルド
 
                (カステルサルド)

       

       
      (カステルサルド・城の屋上)




  
 (紺碧の地中海とあかい屋根!)

               

   





      
 (ローマ時代以来開発が進み、穀物栽培など盛んだった地域の教会)







       ヌラーゲ

ヌラーゲとは?[2]
      
     (古代遺跡ヌラーゲ、メルレル教授の車による案内で)

               (ヌラーゲ群)


      


      (テンピオ近くにあるヌラーゲ:全体像)
     
(小野塚氏の大きさと入口の比較で、ヌラーゲの大きさが推測できよう)





   


    
(サッサリ市内中心部・クリスマスの照明の下で新原氏と)


   
 (アルゲーロAlghero, La Riviera del Corallo)

  
    
 (ムッソリーニ時代に創建された新しい町)

    



クリスマス・パーティに招待される

  
(メルレル教授の助手ココさん宅でのクリスマス・パーティ)
ココさん(2列目中央)は、アフリカ(確かセネガル)地域の研究者


  
(左から2番目のマリア・ルチア・ビガさんのお母さんのおうちで)
 (ルチアさんは、サッサリ大学、メルレル教授の所で助教授)
 

  

  


  

サルデーニャ王国について:
サルデーニャ王国 サルデーニャおうこく Regno di Sardegna 1720〜1861 サボイア家が支配した、サボア、ニース、バッレダオスタ、ピエモンテおよびサルデーニャ島などからなる王国。首都はトリノ

サボイア家は、現在フランス領となっているサボア、ニース、および現在イタリア領にふくまれるピエモンテなどからなる、サボイア公国の支配者だったが、スペイン継承戦争でフランスに対抗する連合にくわわり、1713年のユトレヒト条約でスペインが支配していたシチリア島を獲得して、サボイア王を名のるようになった。
20年、サボイア家はシチリアをオーストリアにゆずり、かわりにサルデーニャ島をえた。この結果、サボイア王国はサルデーニャ王国とよばれるようになった。

サルデーニャ王国は1848年の革命に際して憲法を発布し、また49年に即位した
ビットリオ・エマヌエレ2世は、カブールを宰相に任命し、イタリア半島内の諸国にさきがけて中央集権的な近代国家の建設をおこなった。

 サルデーニャ王国は、19世紀前半からのイタリア統一運動の中で中心的な役割をはたすようになり、58年以降、北イタリア各地と教皇領の大部分を併合して、
61年にイタリア王国をたてた。ここにサルデーニャ王家はイタリア王家となった。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.




 



[1] 念のため、『ヨーロッパ統合の社会史−背景・論理・展望−』(日本経済評論社、20042月)の他の諸章のタイトルを書いておこう。

 

 はじめに

第1章       ヨーロッパ社会史の研究史と統合の社会史・・・ハルトムート・ケルブレ(ベルリン・フンボルト大学)

第2章       統合の前提−世界大戦・総力戦と地域的水平的統合の社会史的必然性−・・・永岑

第3章       フランスから見た仏独和解の歴史と論理−国家と社会の相互作用−・・・廣田功(東京大学)

第4章       《社会的ヨーロッパ》−基盤、賭け、展望・・・・バンジャマン・コリア(パリ第13大学)

第5章       グローバリゼーション、欧州統合とコーポラティズム−ドイツにおける「労働の同盟」・・・雨宮昭彦(千葉大学)


[2] 陣内秀信・柳瀬有志著『地中海の聖なる島サルデーニャ』山川出版社、2,004年によれば、

サルデーニャ島には、「古代からの記憶が受け継がれた場所が数多い。それも都市文明をもたらしたフェニキアやローマの時代以前に(さかのぼ)る古い要素がである。平野にも、丘陵の(いただき)にも、古代の巨石文化を物語る『ヌラーゲ』という構造物が次々に登場する。

 紀元前1500年ころからローマ人に征服される紀元前3世紀ころまでにつくられた無数に存在するヌラーゲは、その役割や機能もまだ完全には解明されておらず、神秘に包まれた姿を見せている。・・・

 これらの古代の要素は、もともと高台の風光明媚(めいび)な所や泉の近くなど、優れた立地条件を選んでいることが多く、ヌラーゲ時代の建物や空間がしばしば、フェニキア人やローマ人によって、あるいはその後の中世の人々によって、聖なる場所として意味づけられ、(あが)められてきたという歴史がある。イタリアの中でも特にこの島は、近代文明に侵されない場所の力が感じられるのだ。ちょうど日本の土地に精霊が宿るごとく、サルデーニャでも場所に聖なる意味が込められていることが多い。キリスト教の普及やルネサンス以後の合理主義の展開で、すっかり影を潜めてしまったかに見える地中海世界、そしてヨーロッパ世界の深層がここに見出せる、といっても過言ではない。」(はじめに、p.3-4