200010月 

17回 よこはま21世紀フォーラムヨーロッパ統合と日本 記録








21フォーラム・第17回大会報告集
(『横浜市立大学論叢』社会科学系列・第52巻・第2号)






  編集を終えて 矢吹晋









---------会場の雰囲気など----------



第四・総括セッション
矢吹晋(名誉)教授、阿部謹也・共立大学学長前一橋大学学長
西島益幸教授、
小生、新原道信・現中央大教授






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歴史セッション

 

  準備のためのベルギー・フランス調査・ヨーロッパ共同体歴史家会議・総括大会に参加。


  (この歴史セッションを中間報告と位置づけて科研費・国際学術調査「ヨーロッパ統合の社会史の比較研究」を取得。その成果報告書として、2003年度の科研費出版助成を得て、廣田功氏と共編でヨーロッパ統合の社会史−背景・論理・展望−』日本経済評論社、2004年2月を刊行。)


言語文化セッション








(21フォーラム終了後、深澤教授の企画で、立命館大学でシンポジウム
(廣田・小島氏とともに)




アルベルト・メルレル教授は、イタリア・サルディーニャ(日本の四国ほどの島・イタリアの足のひざ辺りの島)のサッサリ大学教授


2000年12月クリスマス:サッサリ(サルディーニャ)に新原氏(現在・中央大学教授)・小野塚氏(現在、東京大学教授)と出かける。




小さな島の小さな町の役場に掲げられた「町の旗」・「イタリアの旗」・「EUの旗」にアイデンティティと歴史の多重構造を見て、感銘深かった。



中でも歴史を感じさせたのは、「クワトロ・モーリの旗」(サルデーニャ州の旗)

目隠しをした4人の囚人を赤い十字架が閉じ込めている、とみえる。

その意味は?
 新原氏の解説によれば、つぎのようである。

    「サルデーニャ州の旗(四人のアフリカ・イスラム系の囚人が描かれているもの)の件ですが、これもサルデーニャ先住民が誰かと同じくいまだ定説はありません。しかし、今のところ、およそ以下のような歴史的経緯で、サルデーニャ人のアイデンティティとなったと考えられています。
 
    もともとは、11世紀頃のイベリア半島でのレコンキスタの中で、1096年のAlcorazの戦いの勝利の後に、アラブの王の四つの首が残されたという話に端を発しているようです。
    このイベリアの話が、ほぼ同時期に、
サラセン人による度重なる襲撃を受けていたサルデーニャに引き継がれました。そして、13世紀末にアラゴン王国の紋章や印章として、さらにサルデーニャの紋章となったのは14世紀末のことでした。

    (8〜11世紀のGiudicati=独立国時代、ピサ、ジェノヴァの支配を経て、アラゴンがアフリカ沿岸攻略の拠点としてサルデーニャに侵入し、1392年に王女エレオノーラがサルデーニャ語の法典を制定した独立国アルボレア(中世の四つの独立国の一つ)を打ち破り、1469年にはカスティリアとの統一によりスペイン支配へと代わります)。

    そして16世紀における
オスマン帝国との戦いの中でカール5世によって設立されたサルデーニャ方面特別部隊のシンボルとなりました。
    さらには18世紀に入ってからは、ピエモンテのサルデーニャ島民への偏狭な支配に対する揶揄の意味などもこめられました。
    余談ですが現在イラクに派遣されているサッサリ旅団の紋章もまたここから来ています。
    1952年にこの旗は、サルデーニャ自治州の旗として正式に認められました。
    そして、現在の旗は、かつてのピエモンテの支配に対する抵抗の記憶であり、もう二度と眼や耳や頭をふさがれないことへの意思表明でもありま   す。
     Cfr. B. Fois, "Lo stemma dei quattro mori, breve storia dell'emblema dei Sardi",Carlo Delfino editore, Sassari, 1990




     (カステルサルド)