ヒトラー『わが闘争』、第一巻 民族主義的世界観、
第十二章 民族と人種
ヒトラーは、人種的に「より高等なもの」が、「より劣等なもの」に「徹底的に勝利」するのが「自然の摂理」だとする。
「より強いものは支配すべきであり、より弱いものと結合して、そのために自分のすぐれた点を犠牲にしてはならない」と。
北アメリカ大陸と中南米を比較し、アメリカを「人種的に純粋で、混血されることなくすんだ」ゲルマンが支配するとみる。
「自然の摂理」、「自然の法則」にかなった秩序の創出・・・しかし、ドイツ民族主義の世界観における「自然の摂理」、「自然の法則」とは?
「人間と観念」との相互関係に関する唯物論的把握(その部分においては科学的に正しい認識)。
しかし、感情の世界と人間との相互関係を媒介にして、民族主義的世界観の枠内で。
したがって、「最高の人間」としてのドイツ人とドイツの世界征服を正当化するものとしての「自然の摂理」「自然の法則」の解釈(世界観)。
ヒトラーによれば、平和主義は、「自然と理性に反したナンセンス」
文化は誰が創造したのか・・・・ここでもヒトラーは人種主義の見地で物事を見る。
・・・・「少数の民族」「おそらく元来は唯一の人種の独創力の産物」と。
しかし、どの民族、どの人種が歴史上創造的な仕事をしたかになると、歴史研究が必要であり、論争となる。ゲルマン人が、ローマ時代、「野蛮」とされ、偏狭の地にいたことを否定することは、小学生でもできない。
そこで、そのような都合の悪いことには立ち入らないようにする。
アーリア人種が、文化創造人種だと、断定する
「今日、人類文化について、つまり芸術、科学および技術の成果について目の前に見出すものは、ほとんど、もっぱらアーリア人種の創造的所産である」と。
日本は、「文化支持者」に位置づけられる。
このヒトラーの見下した日本文化評価を読んで、日本人はどのように感じるだろうか?
アーリア人種賛美のこうしたヒトラー流民族主義が、ヨーロッパ諸国の諸民族を見下し、従って反発を受けることは必然だろう。だから、武力で押さえつけようとする。それが「自然の摂理だ」と。これは、戦争の論理、民族帝国主義の論理である。
いうまでもないことだが、そもそも、現代人類がアフリカを出て、地球上に分散し、その移動と定着の過程で、自然を我が物とし、文化を創造してきた。1万数千年ほどまえには、地球上のどこにも高度な文明などなかった。
現代人類の高度に見える文化も、この1万数千年ほどの人類の進化の結果にしか過ぎない。
時代が現代に近づけば近づくほど、地球上の諸民族の交流は緊密になり、相互に影響しあう。日本人が中国をはじめとする大陸文化を受容し、日本において独自に発展させ、さらに幕末明治維新以降は欧米文化を受容し、日本的に発展させてきた。そのなかで、日本の生産物と文化が世界に受け入れられるようになってきた。
文化の相互的発展、文化の相互刺激の総体を見る必要がある。
ヒトラーの天才論(その水準を計る上で、ヘーゲルの天才論、参照)
「人類の文化発展のにない手だったし、今でもそうである唯一の人種−アーリア人種」との断定と、そのアーリア人種の使命を担う者としての天才との位置づけ。
「アーリア人種による劣った民族の征服」を歴史的事実とし、それを人類の進歩だとする。
ヒトラーが定義するアーリア人種の優越さ
「共同体への奉仕」
共同体への奉仕は、しかし、色んな民族の古今東西にみられたひとつの現象である。
資本主義の社会・市場社会の前の幾世代は、共同体の社会であり、私的諸個人の社会ではなかった。商品交換・市場関係が古い共同体を破壊した。
人種主義的な意味での「全体社会に対する犠牲能力」は、自分が属する人種への奉仕に限定される。
人種エゴイズムとしてのヒトラーの思想。
アーリア人種の対極にあるものとしてユダヤ人を位置づける(すなわち、人種論的反ユダヤ主義)
ユダヤ人をエゴイズムの塊とみなす。
ま他、ユダヤ人は寄生虫だ、とみなす。
ユダヤ人「うその大名人」とも。
ヒトラー思想へのショーペンハウアーの影響
ショーペンハウアーへのニーチェへやワーグナーへの影響
ニーチェ思想・ワーグナーのヒトラーへの影響
ヒトラーのワーグナー崇拝
------ショーペンハウアー----
ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer 1788〜1860
ペシミズムの哲学で有名なドイツの哲学者。
ダンチヒ(現ポーランド領グダニスク)に生まれ、ゲッティンゲン、ベルリン、イエナの各大学にまなぶ。
ゲッティンゲン時代には、カントとプラトンの研究に没頭し、1813年には「根拠律の四根について」を書いた。
イエナ大学で学位取得。イエナ時代に、ゲーテの色彩論に刺激されて「視覚と色彩について」を書いた。またこのころ、東洋学者マイヤーとの交友をとおして、インドの仏教哲学やウパニシャッド哲学を知り、エックハルトやベーメといったドイツ神秘主義者の思想をも研究した。
こうした研究をふまえて、主著「意志と表象としての世界」(1819)が書かれた。
この著書において、彼の無神論的なペシミズムの哲学にもとづく倫理学と形而上学が展開されている。1831年以後はフランクフルトアムマインにうつり、終生独身のまま隠者のような生活をおくった。
意志と表象としての世界
ショーペンハウアーは、精神こそが全実在の本質だとするヘーゲルの観念論的哲学に強く反対する。彼はカント哲学を擁護し、世界は自己の表象にすぎないと主張する。しかし、「物自体」(究極の実在)は経験のかなたにあって知ることができないというカントの想定には同意しない。
ショーペンハウアーによれば、物自体とは実は意志であり、表象としての世界の根底には、意志としての世界が横たわっている。ここでいう意志は、ある展望をもった自発的行為だけをいうのではない。人間のあらゆる精神的活動も、無意識の生理的機能もその本質は意志であり、それどころか意志は、非有機的な自然をうごかしている内的な力でさえある。ひとつの普遍的な意志が宇宙の究極的な実在なのである。
ショーペンハウアーによれば、生の悲劇は意志の本質に由来する。意志は、個人をその目標の実現にむけてかりたてるが、そのどれひとつとして、盲目的な生命衝動である意志の無限な活動を永続的に満足させることはできない。こうして、人生は苦悩の世界とならざるをえない。この苦悩の世界を脱却するただひとつの道は意志の否定であり、一種の諦観の態度である。この態度に達するには、芸術によって生命衝動を鎮静するようなある種の認識をえるか、仏教がおしえるように倫理的・宗教的に利己的な自己を脱するしかない。
女ぎらいと女性蔑視(べっし)で有名なショーペンハウアーは、当然、意志についての洞察を人間の性行動を支配する原理にも適応し、男女をたがいにかりたてるものは愛の感情ではなく、意志の非合理的な衝動なのだと主張している。
出版当時、「意志と表象としての世界」はほとんど反響をよばなかった。ヘーゲルの人気に対抗しようとしたショーペンハウアーだが、結果的にはヘーゲルの名声の陰にかくれる形になってしまった。しかし、19世紀の後半になると、ショーペンハウアーの哲学は少しずつ影響力をもつようになる。とくに、ドイツの哲学者ニーチェの初期の作品やドイツの音楽家ワーグナーの楽劇は、彼の思想から多大な影響をうけている。
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ユダヤ人の戦術。
ヒトラーによれば、ユダヤ人は、「ブルジョア階級に対して労働者を利用する」、
そして、「マルクス主義理論を創始する」と。
ヒトラーは、マルクス主義の理論をさまざまに罵倒する。
「真に悪魔的な意図・・・」
「狂気だけは実現・・・・」
「犯罪者的頭脳・・・」
「全人類的文化の根本的な基礎を破壊する」
「外見は労働者の地位を向上させることを目指しているが、実はあらゆる非ユダヤ民族の奴隷化と、したがって絶滅をもくろむkものである」など。
マルクス主義は、ユダヤ人の武器であり、民族破壊のための武器だ、とヒトラーはいう。
労働運動(マルクス主義・ユダヤ人に指導されたものとする)
ユダヤ人は、「世界の政治的な隷属化をも要求する彼らの闘争の究極目標に対応して」マルクス主義世界論を利用する、と。
「ユダヤ人は国民にとて神の恵みのありうるはずの労働組合を通じて、国家経済の基礎を破壊する」と。
「ユダヤ人のうそつきやキャンペイン・・・」
「ユダヤ人のマルクス主義的武器・・・」
ソ連におけるプロレタリア独裁を通じて、「ユダヤ人文士と金融ギャングの一隊に大民族の支配権を渡してやる・・・・」
「ドイツの瓦解のあらゆる原因を自分の目で検討するならば、その場合最後のそして決定的な原因として、人種問題、特にユダヤ人の危険を認識しなかった事が残るだろう」