反帝国主義・反植民地主義の多様な運動(民主主義・自由主義・社会主義・共産主義)・・・たとえば、石橋湛山、アンドリュー・カーネギーなど。
世界各国における社会主義者・共産主義者や抑圧された民族・民衆の独立運動家など
そのひとつ・・・日本でも幸徳秋水など。
筋金入りの自由主義者・石橋湛山の「小日本主義」・・・第二次大戦の敗戦という結果、それまでの石橋湛山の主張の多くの正しさが立証された。戦後、60年安保直前、首相になった。高齢で、病に倒れ、ごく短期間で辞職。
その後の首相(岸信介)の下で、日米安保条約改定(日米軍事同盟)
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I | プロローグ |
石橋湛山 いしばしたんざん 1884〜1973 大正・昭和期の経済評論家・政治家。日蓮宗僧侶のちの身延山久遠寺法主(くおんじほっす)の長男として東京に生まれた。
早稲田大学卒業後、東京毎日新聞社をへて、1911年(明治44)急進的自由主義の論調で知られた東洋経済新報社に入社。同社主幹・専務をへて、41年(昭和16)社長。政治・外交関係の論説を執筆、植民地放棄、軍備全廃、二十一カ条要求反対などをうったえ大正デモクラシーの思想的指導者となった。
またケインズ理論(→ ケインズ)を独学して多数の経済評論を発表。1930年には浜口雄幸内閣の金輸出解禁策に反対して円切り下げを主張し、はげしく論争した。その後の昭和恐慌で石橋の見識の高さがみとめられ、経済界から高く評価された。
II | 戦後の活躍 |
太平洋戦争の敗北をはやくから予想して戦後経済復興の研究をすすめ、終戦後の1945年、その実現をめざして日本自由党に入党し、翌年には山川均らの民主人民連盟にも参加して保守・革新の枠組みをこえた政治活動を展開した。同年吉田茂内閣の蔵相となったが、占領軍(=アメリカ)駐留費の削減を主張して衆議院議員当選直後に公職追放された。
追放解除後の1952年に再選され、第1次、第2次、第3次の鳩山一郎内閣で通産相をつとめた。この間自由党をはなれて鳩山の日本民主党結成にくわわり、保守合同後の56年に自由民主党第2代総裁となって首相に就任した。
石橋内閣は、内政面では国会運営の正常化、政官界の綱紀粛正、雇用拡大、福祉国家建設を、外交面ではアメリカ一辺倒の政策を否定して冷戦体制からの脱却をめざしたが、病気のためわずか2カ月で総辞職した。政治の一線をしりぞいてからは日ソ協会会長などをつとめて共産国との友好関係促進につくした。
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岸信介 きしのぶすけ 1896〜1987 昭和期の政治家。山口県に生まれ、父方の実家をついで岸姓となる。佐藤栄作は実弟。東京帝国大学を卒業して農商務省(のち農林省と商工省に分離)にはいり、商工省工務局長をつとめる。1936年(昭和11)満州国実業部次長に就任、東条英機、松岡洋右(ようすけ)らとともに満州国産業開発五カ年計画を推進した。帰国後は東条内閣の商工相をつとめた。
第2次世界大戦後はA級戦犯容疑で逮捕されたが、不起訴となって釈放され、1953年自由党から衆議院議員に当選して政界復帰した。54年11月鳩山一郎らと日本民主党を結成して幹事長となり、翌年保守合同を推進して結成された自由民主党幹事長となった。病気のため辞任した石橋湛山内閣のあとをうけて首相となり、1〜2次(1957年2月〜60年7月)にわたって政権を担当。60年には反対派が国会を包囲する中、日米安保条約改定を強行して総辞職した。その後も6回連続当選し、タカ派の長老として影響力をたもちつづけた。
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アメリカの経済人アンドリュー・カーネギー・・・独立革命当時のフランクリンの系統に属するすぐれたアメリカ人、大鉄鋼業者・進化論者、進歩主義者、共和主義者。
カーネギーも折に触れ、フランクリンを尊敬していることを表明。
カーネギーの進化論・進化主義
カーネギーの民主主義と共和主義の立場・・・イギリスの倍の人口を持つアメリカは共和主義の国。
「英語を話す人口の大多数は現在共和制の支持者」。
そのアメリカは、すでに1880年において、イギリスよりも工業生産が多い。
そして、カーネギーの反帝国主義・反植民地主義の立場(ウィルソンの14か条につながる発想。ただ、カーネギーが日々の政治的行動でそれをどこまで貫いたか、彼のような立場がアメリカでどのような力を発揮したかは、別)
パナマ運河建設と独占的使用権の獲得・・・イギリスとの関係
1898年の米西戦争は、「国民が感情の波に足をすくわれた結果・・・・」
キューバ問題・・・・「スペイン政府はキューバの自治権を保証」・・・・しかし、反スペインの熱情は抑止できず・・・スペインに対する宣戦布告を採決
アメリカ政府は「この戦争は領土的侵略の意図はまったくないことを声明し、キューバの独立を約束した」と。カーネギーは、「この独立の約束は忠実に守られた」という。しかし、実際は?
カーネギーの立場:
「フィリピン群島の占領は汚点・・・」
------------エンカルタ百科事典の記述を参考までに引用しておこう---------
I | プロローグ |
アメリカ・スペイン戦争 アメリカスペインせんそう Spanish-American War 1898年、アメリカがスペインの植民地であるキューバとフィリピンの独立革命に介入してスペインをやぶり、植民地をうばった戦争。米西戦争ともいう。
1868年キューバ人は独立のために立ち上がったが、結局勝利できず、78年に終結、スペインはキューバの改革を約束した。しかし、約束がまもられなかったため、95年にふたたび独立運動がはじまった。フィリピンでも96年カティプーナンによる独立革命がはじまった。
II | アメリカによる干渉の背景 |
アメリカでは、人道的・経済的観点から、キューバの独立革命への干渉論が高まっていた。ピュリッツァーやハーストらがスペイン軍のキューバ人虐待を報道。革命による経済的権益の大きな被害も懸念され、実際、貿易の全面的な停止に直面した。
こうした情勢下、キューバ独立革命の支援をのぞむ国民の声は、連邦議会で支持される。クリーブランド大統領は干渉に反対し、後任のマッキンリー大統領も就任当初は反対の立場をとる。
1897年、スペイン首相サガスタは内乱解決の提案をおこなった。それは、キューバ人に部分的な自治権をみとめるとともに、残虐な監獄制度を廃止するというものだった。しかし革命勢力は、完全な独立を要求して活動を継続した。
革命がつづくなか、アメリカの干渉をまねく事件が発生した。1898年2月15日アメリカ人の生命保護を目的にハバナ港へきていた戦艦メーン号が爆破、260名が死亡したのである。干渉論が高まるなか、マッキンリー大統領が4月20日、スペインのキューバからの即時撤退をもとめる連邦議会の決議を承認すると、これに対してスペインは24日、アメリカに宣戦を布告する。翌25日、アメリカ連邦議会も宣戦布告し、アメリカの行動は植民地獲得のためではないことを決議した。
III | 戦争の展開とその結果 |
1898年5月1日、フィリピンのマニラ湾に停泊していたスペイン艦隊は、アメリカのアジア艦隊の攻撃をうけ、壊滅した。他方、キューバでは7月1日に陸上部隊がキューバ革命軍の支援をうけてサンティアゴデクーバを包囲。7月3日にはサンティアゴデクーバへのアメリカ軍による海上封鎖を突破しようとしたスペイン艦隊を撃破し、サンティアゴデクーバは陥落した。アメリカ軍はさらに攻勢をかけ、プエルトリコを占領し、スペイン政府は7月18日、休戦を要請した。
1898年12月10日にパリで調印された講和条約によって、スペインはキューバの領有権を放棄し、フィリピン、プエルトリコ、マリアナ諸島のグアム島をアメリカに割譲することになった。この戦争の結果、アメリカは列強入りをはたした。
アメリカは独立革命への支援を大義名分に介入したが、パリ講和会議にフィリピンとキューバ代表はまねかれず、戦後にキューバはアメリカ占領軍の管理下におかれ、1902年に独立をはたすものの、実質的にはアメリカの保護国となった。フィリピンは1898年に独立、99年に共和国となるが、フィリピン・アメリカ戦争によって結局アメリカの植民地となった。
また長い間、不明とされてきたメーン号爆破事件の原因については、1969年、アメリカ海軍当局がエンジン部分の故障による爆発だったとの調査結果を公表している。
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