聴講者の感想(受領順)

 

1.    Y.T. 

小野塚先生が「本当は俳優や女優の話をしたほうが面白いんだけど・・・。」と言いながら、映画の説明を楽しそうにされているのが印象的でした。

 実際"casablanca(カサブランカ)""la grande illusion(大いなる幻影)"を見て、歴史的な背景の中で作られた国歌がフランス、ドイツの両国の国民にとって国家形成の象徴であり、自分たちがフランス人である、ドイツ人であるという強いアイデンティティとなっていることを感じました。

 また、ヨーロッパ統合が行き詰まりを見せていることにヨーロッパ諸国の国民が持つナショナリズムが影響しており、このような状況でヨーロッパの社会統合を進めていくことによって、ヨーロッパの将来には3つの可能性(緩いヨーロッパ、強固なヨーロッパ、第3の道)がある、というお話をしていただきました。前回のケルブレ先生の特別講義でヨーロッパにおける家族の多様化の話や、現在フランスで問題になっている移民の2世、3世の若者による社会への不満が爆発した形で起こった暴動のことなどもあわせて考えると、ヨーロッパ統合というのは、隣国の似たもの同士だから簡単に出来るといったものではなく、それぞれの国でナショナリズムを持っている人、そうでない人、持っているが周りにそれを認めてもらえない人が存在し、隣同士の国だからといって性格は異なるという、そんな複雑な事情の中で難しいことをしようとしているのだなあとあらためて思いました。

興味深いお話を聞くことができて、とても良かったです。 

 

2.    K.Y.

今回の講義では、まず福祉国家としての現代の国民意識や愛国心などの話から始まり、ヨーロッパの統合の話などに進み、それを国歌につなげて考えるという内容で、改めて国歌の意味を考えさせられる内容でした。普段あまり気にしてない日本の国歌である「君が代」ですが、天皇陛下が統治するこの国[1]がいつまでも栄えますようにと、皇室のありがたみを感じさせられる歌なんだと改めて考えさせられました。

歌こそ情緒、感性、身体感覚のレベルで最も人々に訴えかけることができるものであり、国民の意識にも深く関わっているんだな感じました。フランスの後の国歌となった「ラ・マルセイエーズ」は、歌詞を見てもわかるように、「君が代」とは違って、とても戦争の色の強い革命的な内容で、長い期間民族運動、社会主義運動などにも使われたそうです。このような革命運動で使われてきたということは、いかに歌というものが大衆の感情を動かせることができるかをあらわしていると思うし、国民意識と深く関わってきたんだなということを感じました。

このように国歌というものが、国民意識と深く関わってきてきたことを考えると、今こそ国歌というものを見直す必要があるのではないでしょうか。民主主義という世の中で、天皇中心のこの国歌は時代に合っているのか、世界から見た日本の国歌はどういうものなのかということをもう一度考えてみる必要があると思います。

 

3.    K.T

小野塚教授の話を聞いた感想は将来の自分を決めるには自分で判断し行動するように心がけるということをおしゃっていました。確かに今の学生は周りの学生に流されている人が多く、自分で考えて行動する人は少ないと思います。だから普段の生活の中で自分の考えというものをもつようにしていこうと思いました。

また、講義の内容についてふれると、戦争を背景に発展してきた国家の背景には福祉国家がありそれを支えているのは国民意識、愛国心、忠誠心などにより支持されています。福祉国家について学べたと思います。

2つの歌にはそれぞれ独自の特徴を持っていて当時の時代背景を反映していて大変勉強になりました。

また、機会があればぜひ講義をお聞きしたいです。

 

4.    I.D 

  ヨーロッパ人が、愛国心はあってもヨーロッパ意識が弱い理由は、このセミナーを受けるまで考えたことはなかった。その理由のひとつとして紹介されたのが「国歌」であった。国歌は国民の情緒・感性・身体感覚のレベルでもっとも強く訴えかけ、最も強力に人々を動員してきた装置であるという。
 同じような効果を持つものとして「軍歌」を挙げていた。確かに、当時の軍歌の役割を考えてみると、国民の意識を戦争に持っていくものであったといえるであろう。
 ただ、今回取り上げていた「ラ・マルセイエーズ」と「ラインの護り」の歌詞を読んでみると、やや軍歌風の印象を受けた。特に、「ラ・マルセイエーズ」についてはその特徴が顕著であり、この歌詞をあの旋律で歌うと、「愛国心」が育つのも無理からないと思う。

 私が注目したいのは、セミナー内で鑑賞した映画『カサブランカ』の一部である。
これはアメリカの国策映画ということで、「ラ・マルセイエーズ」を素晴らしい歌、「ラインの護り」を悪い歌としていた。全員が「ラ・マルセイエーズ」を歌っていたシーンは非常に印象的であった。

 私も音楽が好きなので、大変楽しく聴講できました。ただ、「国歌」が意外に歴史が浅いものであることが紹介され、不勉強であったと思いました。

 

5.    H.S. 

 国歌という観点から、ナショナル・アイデンティティの形成を説明できるという点がとても興味深いと感じた。先生も講義の中で言われていたが、国歌の他にも他の要因はあったことであろう。それでも、「同じ歌を歌う人たちが、同じ国の人」という感情の高まりによって国が形成されていったという説明は、確かにそのとおりかもしれないと感じた。


 フランスの領土に住む、ドイツ語を話す人がラ・マルセイエーズを歌って、自分がフランスの人の仲間であることをアピールしたり、その逆もあったということだが、話す言葉以上に歌が、人々を結び合わせたというのも興味深い。ナショナルアイデンティティは、人の気持ちの部分に関わる問題だから、気持ちを高揚させる歌が、言語以上に効果的だったのかもしれない。

 フランスやドイツは、ライン川を挟んだ大陸の中の話なので、講義で聞いた国歌によるアイデンティティの形成は納得できたのだが、イギリスや日本といった島国の場合はどうなってしまうのだろうと思う。特にイギリスは、ブリテン島の中でもいくつかの小さな地域に分かれてるので、一つの国歌でナショナルアイデンティティが形成されたと言えるのだろうか。その点を疑問に感じた。

 

6.    W.J. 

現代のヨーロッパが連合体として設立しようとしているEUについて過去におけるヨーロッパの中心国のひとつであるフランスとドイツの国歌を題材に考察するという内容であった。

 

小野塚知二教授が問題としていたのはあくまで現代ヨーロッパであり、ヨーロッパにEU憲法に批准しEUとしての福祉国家が誕生しうるのか、EUに対する意識・愛国心の弱さはどこからくるのかというものである。しかし、この問題へのアプローチの仕方が二つの国歌から考察するというのが非常に斬新であった。むしろ、音楽の観点から歴史を見る音楽社会史という分野が存在することさえ知らなかった。

 

 フランスの国歌であるラ・マルセイエーズやドイツの国歌であるラインの護りいずれも戦中に出来た歌である。

映画カサブランカの中でドイツの将校たちがラインの護り歌っていたところにフランス人たちがラ・マルセイエーズを歌ってラインの護りの歌をかき消す部分を見たが通してなくあそこだけ見ればラ・マルセイエーズの数による圧倒に見えた。しかも資料の対訳を見る限り、ラインの護りが非常に抽象的、崇高的な歌詞なのに対してラ・マルセイエーズの方はとてもリアリスティックな内容で生々しいものである。

 

しかし、ラ・マルセイエーズが自由や開放の象徴の歌に聞こえラインの護りが侵略の歌に聞こえるというのはラインの護りは軍人が歌いラ・マルセイエーズは普通の市民が歌っていたからだと思う。アメリカの若者を戦争に行くように仕向ける意図もあったようであるから過剰なりともそう思わせる演出をしていたのだと思う。

 

実際に戦中に歌い部隊を鼓舞していただけでなく映画の中でも若者を戦争に行かせようとするだけの力があるのだからこの二つの歌は情緒的にかなりの影響力があったといえる。現代ヨーロッパそして労働運動や社会主義運動で歌が流行らなかったが一方でスポーツ観戦などの場でいまだに歌われているのはやはり情緒的な部分に影響していると思う。そして、世界大戦時のヨーロッパで戦の渦中の人たちを情緒的に突き動かすものがあったということである。

 

当然ながら私は戦争は体験したことはないが特に兵士として最前衛で戦闘にあたる人たちは理性などではとうてい割り切れないものがあるだろうし、そういう状況下で戦闘に挑むには歌のような情緒的なもっと感性の部分に働きかけるものが必要だったのだと思う。19世紀において愛国心を煽った原因の一つに良くも悪くも戦争というものがあるのだと思う。

 

 日本でも戦前戦中の日本人は忠誠心が強いと思っていたし、逆に現代の日本人は国に対する忠誠心はほとんど無いと思っていた。しかし、どちらかと言えば現代人の忠誠心の無さばかりが強調されていたと思う。しかし、別の見方として19世紀の列強主義体制下での忠誠心が逆に盲目的で狂信的なほど強烈なものであったという見方があることに気づきました。

 

前回のケルブレ教授のときはドイツ人講師ということで非常に新鮮でしたが、今回は音楽を題材としていて内容的に新鮮さを感じました。この二回の外の方を招いて行われた講義は私にとって非常に刺激的なものとなりました。

 

7.     S.C.

小野塚氏の講義は、歴史を歌という音楽に関係させて論じているという点でとても興味深かったです。

ラ・マルセイエーズの歌詞を見て、こんなものが国歌だったら私はとてもその国には住みたくないと思いました。確かに軍人の士気を高めるにはいいものかもしれませんが、軍歌ではなく国歌という位置づけに抵抗を覚えました。

小野塚氏もおっしゃっていたと思いますが、歌というものは集団を統制するのに適していると思います。音楽は国境を越えるので、歌詞の意味もわからぬまま口ずさむのは恐ろしいことだと思います。

 

先週後半に教材として放映されたドイツのヒトラーのアウシュビッツ強制収容所でのユダヤ人大量虐殺はなかったということを主張するVTRについては、国民というものはいつまでも過去の過ちに囚われて生きてしまうのだということ、過去の罪を弁解するためにあそこ
まで様々な検証をすることに驚きました。大量虐殺否定派の意見はかなり偏っていて、「虐殺していない」ということを前提に都合のよいように証言や事実を解釈しているように思えました。アンネの日記も偽物だとか、実際に収容所で肉親を失った人々の話を嘘だとか、専ら自らを正しいと思っている人々は、他の違う意見を持つ人の話に耳を傾けないほど頑なになってしまっているようです。真実を見極めるために、実地調査・検証などをお互いの監視下で協力して行ってみたらどうかとも思いました。

人々にはそれぞれの信念があり、その国家次第で様々な特色があり、国民性も違うことがわかりました。また、ヨーロッパの人々は自らの国に誇りを持ち、その国の国民だという意識を持っていることもわかりました。時代背景が違い、生活環境も考え方も違う人々が国境を越えてわかりあうのは大変難しいことだと思いました。

 

8.      I.K.

今回の講義では、「国家」と言う、われわれの生活・文化の根本にはあるものの、普段あまり感じる事のないものについて考えさせられた。特に印象に残ったのは、国家と言う概念が誕生したのは主に18〜19世紀であり、それほど古くはないと言う事である。厳密に言えば、それ以前にも現在ある国家より小さい規模で集合体が存在したかもしれない。だが映画の中に出てきたように、言語や歌を用いて、意識的に1つになろうとか、アイデンティティを確立させようと言った動きが出たのは、近代であったのだろう。国家という大変扱いが難しい言葉の定義を的確に教えていただき、大変ためになった。

 

この手の分野を深めていくと、必ず愛国心とか国家意識といった思想に直面する。そして誤った解釈の下に、同一の国家に所属しない者への排除だとか、国家間の侵略・戦争に発展する恐れがある。おそらく、今後世界各国で、似たような風潮が広まることであろう。ドイツでの「ネオナチ」と呼ばれる思想の台頭や、日本での現在多くの場で考えられている憲法改正はまさしくその代表例と言っていいと思う。このような動きは果たして真のナショナル・アイデンティティと言えるのであろうか。

 

21世紀はグローバル化が急速に進み、今以上に外国の人々との関わり合いが密になる時代といっていいと思う。その中で自国以外の国家についての理解や協調は絶対不可欠なものとなるであろう。私が思うに、ナショナル・アイデンティティとは、自国に対して誇りを持ち国家の一員であると意識するとともに、他国の事情に関しても理解し調和を図ることだと思う。迂闊に愛国心や国家を理解することは、20世紀に世界が体験した以上の大戦争への一歩になってしまうのではと危惧する。今後、より一層の議論を深める必要があるのではないか。

 

今回小野塚先生の講義を受けれたことは、大変光栄な事であり、普段の生活の中で見失いがちなものを改めて気づかされるものだった。90分という時間の制限があったことで多少の物足りなさは感じたものの、非常に貴重な体験になったと感じる。

 

9.     U.T. 

まず冒頭で、保険論、EUの保障面、といった部分の話に強く引き付けられた。「なるほど」と思わせるに十分であった。

自分がこれまで考えてきたEUの見方とはまた違った切り口で紹介されていて、驚かされる部分が多くあった。

EUにおいて、経済のみにとらわれない、政治、社会保障といった部分の統合について考え、アジアについても同様に考えたとき、日本はいずれ、アジア統合体の中の一国になるのか、という点においては、自分はまだ想像できなかった。それだけまだ、アジアの国々と理解を同じくするだけの土台が出来ていないように思っているからかもしれない。

 

「ラ・マルセイエーズ」と「ラインの護り」の歌自体は知っていたが、こんなにも強く、愛国主義の裏表、聴く者と聴かされる者に分かれて深い意味を持つ歌である、という事に驚いた。

また2つの歌について、各々の愛国主義まではなんとなく分かるが、今の自分の目線では、ラ・マルセイエーズの歌詞は少々過激かな、と思った。これは現在日本で愛国主義が薄れてきているということでもあるのかな、と思った。

これが仮に日本の愛国主義を掲げる歌であったとしても、自分はそこまでのめりこめない気がした。

しかし、どちらにせよ、現在なお息づく、2つの歌の根強さにはただただ驚くばかりだった。

 

とても楽しい授業でした。機会があればまた聴いてみたいと思いました。

 

10.   A.K.  

最近日本やアジア各国でもよく言われているナショナリズムに関連する話が中心で、なおかつ映画の話も出てきたので興味深く聞くことができました。

 

講演の中で出てきた「ラ・マルセイエーズ」や「ラインの護り」などの国歌が出てきましたが、はっきり言ってフランスやドイツの国歌の事など今まで知らなかったのでまずは驚きました。

まず「ラ・マルセイエーズ」の方では「立ち上がれ!」など民衆に決起を呼びかけるような内容になっているし、「ラインの護り」の方は「ライン川から中へ敵を入れるな!」など防衛を呼びかける内容になっています。まさにどちらもナショナリズムの塊みたいな歌です。

 

しかも「カサブランカ」という映画で「ラインの護り」を印象悪く演奏し、「ラ・マルセイエーズ」の方を素晴らしい曲として演奏するなどして、アメリカの若者を戦争へかり出させるよう仕向けるなど、政治的意図に利用する事ができるなど国歌の影響力の強さにも驚きました。

 

ケルブレ先生同様、小野塚先生にもわざわざ横浜市立大学まで出向いてもらえて、このような興味深い話を披露していただいて本当に感謝しています。また外部からの先生の講演を聞いてみたいと思いました。

 

11.              O.S.

回の小野塚知二先生の講義は大変興味惹かれるものであった。ナショナル・アイデンティティを二つの歌から切り開いていくという発想に、自分では考え付かない発想であると感心するばかりである。

 

ヨーロッパの諸国において歌というものの役目は、人々の情緒や感性を示す代表的なものであった。今回の大きな鍵は、ヨーロッパがどこまで社会統合できるかである。具体的にはヨーロッパの愛国心=福祉国家になるのかである。それを歌の面から分析していく講義であった。

 

 まずラ・マルセイエーズであるが、フランスでマルセイユ義兵により普及し、ラインの護りはドイツ全域で広がっていった。その後両方の歌は国外へと広まり、労働運動歌・社会主義運動歌に歌われることとなった。運動の方向が違っていても詩を変えることで広がっていったことに、中身は違えど志は同一であったことに、情緒的にも感性的にもこの歌が強い影響力を持っていたことが理解できる。

 

「カサブランカ」を見せていただいての感想は、ラインの護りが侵略しようとしている場面であり、それをラ・マルセイエーズが対抗しているシーンが大変印象に残りました。歌い終わった人々が喜びあっているシーンでは、人々が歌も通じて一体となり、侵略をさせないぞという覚悟のようなものが見えたように感じました。

 

 講義を聴いてラインの護りが同志社大学で今でも残っていることには大変驚きました。また、今では両方の曲が一時的を除いて歌われず、フランス政府は呼びかけるが、強制の力までは持たないことにも驚きました。

 

今回の講義は、新しい切り口からさまざまな回答を導いていくということを学び、今後のわれわれ自身の考え方に対する発想の転換のような幅広い視野を身につけるためのよい機会となり、大変印象深いものであったといえます。

   

12.              T,K. 

今回の講義では二つの歌に注目して、ナショナル・アイデンティティを考えるというものだったので、講義の中で一番印象に残ったのは二つの歌が出てくる映画のシーンです。
 ドイツの『ラインの護り』とフランスの『ラ・マルセイエーズ』が比較されるシーンで、ラインの護りは、ラ・マルセイエーズよりいやらしく、マイナスの価値をせおった歌に聞こえ、ラ・マルセイエーズが自由、民主主義、希望を象徴する歌に聞こえるというものでした。これは、大戦後[2]アメリカが作った国作映画であり、この歌を見る人に印象づけることで、若者に自由のために戦おうと自発的に戦争に向かわせようとしむけるものだったと聞き、驚きました。
 映画を見て、感動したり、影響を受けることはありますが、戦争に行こうと思うかというと思わないと思います。その当時の若者は映画の中の二つの歌を聞いて、特にラ・マルセイエーズを聞いて、感動し、自由のために戦おうと思ったというのは、歌が人々に情緒・感性・身体感覚のレベルで強く訴えかけたんだと思いました。
とても面白かったです。
 

 

13.              T.M.  

今回の特別講義では「歌」に焦点を当ててナショナル・アイデンティティを説明していただいた。合唱やみんなで楽器を演奏する際に同じ空気を共有できるように、歌は人々を結ぶ上でとても重要な要素となると思う。一つの歌をみんなで歌うことによって人は一つになれるのだと思う。

 

近代に入ってから戦争などで社会は不安定になっていった。そこには介入・干渉・統制・誘導があり、また、弱く劣ったという人間観の修正があった。そういう環境だからこそ人は自分の弱さを紛らわすために歌を歌ったのだと思う。歌を歌うことによりみんなが同胞だという意識を芽生えさせ、また社会的異端の排除をして、自分はこの国の国民だという自覚を持つことができるようになったのだと思う。そして国民たちに愛国心をつけることができるようになったのだと思う。例えばナポレオンの中東欧侵略である。歌を歌うことによって言葉の違う人達が一つになって侵略を可能にしたのである。

 

現代はグローバル化が進んでいる。人々は各国の情報をすぐに入手できて外国にもすぐに行ける。こういった技術の進歩の中では愛国心とかナショナル・アイデンティティとかを持ちにくいと思う。たとえ国籍が変わらなくても自分の住みたい国にいけて満足のいく生活ができるからである。

 

しかし、オリンピックやサッカーのワールドカップで分かるようにスポーツの祭典では人は国民代表に熱烈な応援をささげる。昔ほど国家というものが重要視されなくなってきてはいると思うがスポーツというのは歌の代わりになるものであると思う。本来、人間は一人では生きられないものであり、何かしらの接点を回りの人間と持ちたいとするものである。それが歌であろうがスポーツ観戦であろうが関係ないように思える。一つになれるということはとても気持ちいいものである。自分と違うものを排除するとかそういったマイナスの要因が働くものではない。

 

今回の特別講義で人間の原点となるものを感じることができた。昔の合唱大会などを思い出してみると確かに歌っているときはクラスが一つになれたという思いと言い表しようのない達成感に包まれたものである。たくさんのことを考えるきっかけになることができたと思う。

 

小野塚先生ありがとうございました。

 

14.              T.A.  

どの時代でも、音楽は人に影響を与えるものだと感じました。

国歌は、人をつなぎ、アイデンティティを高め、愛国心を養う大きな役目があったことに驚きました。日本では、国歌を卒業式に歌うことについて、ニュースで騒がれていた記憶があります。私は、日本の国歌は、重々しい感じがするので、音楽の時間に習いましたが、あまり好きではありませんでした。

 

現代の福祉国家の裏面としての生、性、身体の規格化、社会的異端の排除、外国人差別を無くしていかないと本当の福祉国家にならないことにも気づかされました。

本当に人が幸せになれる福祉国家は、排他的ではいけないし、外側に敵をつくり、内側に裏切り者を作ってまとまったものではないと思います。

 「ラインの護り」も「ラ・マルセイエーズ」も全く知らなかった歌ですが、日本でも同志社大学のカレッジソングとして「ラインの護り」が使われていることをはじめてしりました。

 労働運動・社会主義運動も、ヨーロッパも広範な人々のloyaltyやpatriotismを調達し続けることに成功しなかったのに、なぜ19世紀のナショナリズムにはそれができたのか?というレジュメの問いに私も同じ疑問を感じました。

 今回の講義は、国歌や国民意識について考えさせられるものでした。

 

15.              N.T.  

ラ・マルセイエーズもラインの護りも、戦争に関する歌詞だったので驚きました。特にラ・マルセイエーズは残酷だと思います。国歌ならもっと国民が誇りを持てるような歌詞のほうが良い。歌詞はともかく、歌の力はすごいと思いました。歌は人から人へ、町から町へ伝染するかのように広がり、国民を戦争に駆り立てる。この歌の力を利用した軍はなかなか賢いと思います。


 日本の国歌について少し考えさせられました。『君が代』...歌詞が難しいのでよく分かりませんが、戦争志向の歌ではないと思います。そして『君が代』が国歌であるという認識はあります。この認識だけで十分にナショナル・アイデンティティと言えるのかも知れません。

 

16.               S.A.

個人的に「ラ・マルセイエーズ」は馴染みのある国歌なので、とても興味深く講義を聴くことが出来た。フランス内でもその過激な歌詞から、好き嫌いが激しい「ラ・マルセイエーズ」だが、その生まれから、国民意識形成の手段としての過程をこの講義で聴き、嫌われる理由にとても納得した。


 講義の中で特に興味を引いたのは、その発生地と「ラインの護り」との関係だ。「ラインの護り」というドイツでかつて国歌として歌われた曲の存在は知らなかったが、双方ともその役割はとても酷似しているのが面白いと思う。つまり、アルザス・ロレーヌやライン川といった、仏独の攻防の要所となった場所で一方は生まれ、もう一方は舞台となっているというのが、必要とされた時は違うが何か因縁めいており、同時に二回の大戦において仏独が戦った際に盛んに利用された所以なのではないかと思えるのである。
 

「ラ・マルセイエーズ」に関しては、ストラスブールというフランスであったりなかったり、たえず仏独の国境線争いの中の真ん中にある街が生まれというのには驚いた。また革命の最中にいたパリ市民は、異邦人である人が作り、異邦人であるマルセイユ義勇兵の歌として普及したものを一体どのように感じたのだろうか。人々の意気を高揚させ、1つにする「歌」の力は、革命を成功させた一端となったが、その後行く度歌うのを禁止されたり、また踏み絵のような役割をしていたことを考えると、歌詞の内容はともかく、寂しい歌だと感じた。特に『カサブランカ』の歌われ方をみて、歌の力もすごいと感じたが、このような存在の仕方は歌う身としては好まないし、国民どうしの対抗意識や愛国心といったものに怖さを感じる。


 「ラインの護り」に関しては、「ラ・マルセイエーズ」と違い他国でも民族運動や、社会主義運動など様々な場面で歌詞を変えられ歌われてきたというのに興味を持った。


 現在、日本では『国民』という意識や愛国心というものを表に出したりすることがあまりないと思う。何かそれを表に出すことにたいして躊躇があり、同時に愛国心を叫び他国と争うことが必要ではないからだと思う

しかし、今でもサッカーなど、スポーツの舞台では国歌は興奮や闘争心を上げる要素であり、人々に「自分は○○人だ」という感覚をはっきりと意識させられる重要な要素だ。その歌の「人々を情緒・感性の面で動因する」機能は本当に凄まじいと思う。


 また「弱く劣った人間観」や国民意識の形成が福祉国家の基盤となっているというのは、とても強烈な話だった。社会のあり方によって、必要にされていくものは変わっていくが、これから先国民国家というのがどのようなものを必要とし、どのような道を歩んでいくのだろうか、そんなことを考えてしまった。

 
 

17.              I.T. 

前回の特別セミナーにおいてのケルブレ教授の「家族」という観点からの考察も面白かったが、今回の「歌」という観点から現代ヨーロッパを考察するのが新鮮で非常に面白かった。

 

特に、地続きのヨーロッパに比べて、日本は島国で、且つ隣国とも距離があり、鎖国を行い外国との付き合いが少なかったという地理的・歴史的事実からか、「国家」という概念に関心が薄いように思うし、宗教的・文化的・経済的にも独自の発展を遂げてきた。そういった国に生まれ育った自分においても、そして宗教的、地理的等あらゆる点において実現がヨーロッパ以上に困難であろうと思われる「アジア統合」を考える点においても、今回の僅か90分のセミナーから、新たな視野を多く得ることが出来たことは、本当に有意義であった。

 

しかし、講義を聴くほど分らないことも出てきた。

例えば、国歌が民族運動や労働運動等において、情緒的・感性的に人々を扇動する力を持っていたのに、何故今ではオリンピックのような、国際的なスポーツの試合のような場合にしか残っていないのか不思議であるし、そもそも「福祉国家」とは、「ナショナリズム」とは何なのかという日頃疑問に思っていた問題が、ますます分らなくなった気がする。

 

ただ、『現代に生きる私たちは、生まれたときから「国家」という概念を当然に存在するものとして扱い、それに寄り添って生きているが、その概念は実はつい最近発生した概念であり、昔から存在するものではない』ことは、頭では理解していたつもりであったけれども、今回のセミナーにより、そのことを「国歌」の変遷を通して、具体的に且つ痛切に感じた。

 

また、講義内容にも多くの驚きや発見があったが、国歌や映画といった様々な観点から研究を行っている小野塚先生の学問に対する姿勢にも感銘を受けた。普段勉強をする際は、ついつい学問的にも思想的にも偏ってしまいがちになるが、1つの学問を深めるにも、多くの観点や側面から問題を捉えることが重要なのだと、小野塚先生から感じることが出来た。それにより、自分は多くのことを知らないし、もっともっと色々なことを勉強しなければならないとひしひしと感じた。

 

今回の特別セミナーは時間が少なかったので、映画の解説や先生の意見が聴き足りなかったので、機会があればもう1度講義を聴きたい。

 

18.              T.S. 

私はセミナーの案内にテーマとして書かれていた「奇跡」という言葉について、小野塚先生はなぜこんな言葉を選んだのかと、とても不思議に思っていた。話を聞いていく中で、国歌や国旗、ナショナルカラーなどが、Nationという人々の感性・情緒・身体感覚をひきつけるものとして存在し、人々を強く結び付けているということが分かり、面白いと思った。

 

Nationとしては人々が共通した意識を持って団結しているのに対して、例えばEUとして、ヨーロッパとしてはそのような団結は「ない」とは言わないが、弱いものであると言えるだろう。EUとしては社会的統合を果たして一つの福祉国家になろうとしているが、その一方で、EUは福祉を切り捨てて人々を更なる競争に突き落とすのではないかという不安感を持つ人がいること、またそういった不安を取り除くことができていないという現実があり、実際に国民投票によってEU憲法の批准に反対をした国もある。

 

人々のナショナリズムや国民意識が、強く、より確かなものになってきたからこそ、それ以上の巨大なまとまりに属することに対して抵抗感を持ってしまうという現象が起きるようになったのではないだろうか。

 

 映画「カサブランカ」の中の歌合戦のシーンもなかなか面白かった。ここではドイツ国家が「暴虐」、フランス国家が「暴虐からの解放」として描かれていて、単にフランスが対抗したのではなく、「我々は自由のために戦うのだ」という気持ちの表れとして国家を歌っているということが分かった。

 

しかしそれと同時に、この場面がなんだか今のアメリカ合衆国と同じなのではないかという感じもした。例えばイラク戦争関連のニュースでよく見た場面に、ブッシュ大統領が「イラクの人々を解放し、民主主義を広げるために」というようなことを述べる場面があったと思う。

 

聴衆はスピーチの要所要所で拍手をするし、いかにアメリカが優れていて強い国なのかということを私たちに見せつけてくる。ナショナリズム、ナショナル・アイデンティティーも行き過ぎると、「自分たちこそが一番だ!」という危険な思想に陥らないとも限らない。

 

自分と自分が属す国家というまとまりを誇りに思うことと、自分たち意外[3]は劣っていると思うことは実は紙一重なのだろう。とても興味深いお話がたくさん聞けて、よい体験になった。

 

19.              S.K.

20.              K.H.  

21.              Y.M. 

今までの授業とは少し違う視点から考えることができ、深くナショナルアイデンティティについて考慮することができました。

特に18C 〜19Cにかけてのネイションという概念が生まれたこと、国民という意識が人々の感情に芽生えはじめたことは、他の国ばかりでなく日本についても取り上げていたので、その原点などとてもわかりやすく興味をもつことができました。

またこの問題は視点を変えることで違った考え方もできるのだな〜と思いとてもおもしろさを感じました。さらに、戦争や国民運動によって生み出された歌の数々の背景をしることができとても貴重な体験をすることができました。

ただ、時間の制限もあり少し最後の締めにもの足りなさを感じたので、このような校外から講師を招き講演会をするときは時間に余裕があるといいと思います[4]

 

 

22.              N.N. 

今回、小野塚氏のセミナーを聴講してみて、歴史の中で歌というものが、あれほどまでに発展することとは思わなかった。自分は、フランスの国歌に関しても知らないで今回の授業をうけることになったが、フランスの国歌の成り立ちや波及の仕方、歴史を動かすほどの力を持っていたことに関しては、衝撃を受け、また興味をそそられた。

 

 歌や映画などは、その国のナショナル・アイデンティティの色が特に濃厚に表れるということが、講義中にわかった。それは、講義中の映画の中のシーンが特に印象的に残るものであった。戦争中に祖国を愛するがために必然的に国歌を歌っているところは、当時では、実際にありえたことなんだろうなと考えさせてくれた。

 

 近代ヨーロッパでアイデンティティということはとても大切なことであると考える。それは、フランス革命以前までは、個々の人権はほぼないものとされてきたから、アイデンティティとか人権という言葉は、当時にしては現代とは比べ物にならないくらい大切な概念であるとわかる。それは、第二次世界大戦が終結するまで、非常に個々の中、または国家の中で大切にされてきたと思う。

 

しかし、第二次世界大戦が終結すると、アイデンティティとか人権はそこまで、一般大衆の中で意識されることが無くなってきているようにも思える。それは、現代では、人権やアイデンティティを持つことが当然のことのようになってきているからであると考えることもできるが、別の理由を考えることができるのではないだろうか。それは、近代に比べてアイデンティティや人権という概念があまり大切ではなくなってきていると考えられる。

 

人間は、都合のいいときだけアイデンティティとか人権という言葉を使う。例えば、サッカーのワールドカップのときなどである。それまで、大衆は自国のことに関しては特に興味を示さない。特に日本の場合はそうであろう。日本人は、自国の文化に関して、本当に理解しているとは思わない。それなのに、戦前の愛国心という考えの残りなのだろうか、日本代表が戦っているときに関しては、国が一つになって代表を応援する。これは、当然ある意味でのアイデンティティである。愛国心=アイデンティティであるとは考えないが、サッカーの場合は、ナショナル・アイデンティティと捉えるのが普通である。

 

 歴史をも動かしてきた、「アイデンティティ」というものは、今後どこに向かって進んでいくのだろうか。近年の若年層は、自国をないがしろにしすぎていると思う。現代の大衆が、安全に生活できるのも、かつての人々が「アイデンティティ」等をしっかり持って、自国をもっとよりよい国にしようとした結晶が現代なのだろう。その気持ちというものを現代の人々は忘れている気がしてならない。

 

自分のことで精一杯なのは、どの時代でも変わらないと思うが、そんな状況の中でもかつての人々は将来のことを考えた行動が取れてきたように感じられる。近代のような人間になれとは思わないが、もっと自国に対しては、感謝の気持ちや今後のことをしっかり考えていくことが、アイデンティティにもつながっていくと思うし、自国の発展や世界の発展に繋がっていくのではないだろうかと考える。

 

23.              S.M. 

24.              I.K.

現在国歌が流行っていないのは愛国心が薄れてしまったからでしょうか。

国歌が出来上がったころのドイツでは、国家という固まりが形成されるよりも前に、歌が誕生した。現在では、国家という固まりよりも、個人を重視する時代であると思う。

このころのドイツで歌が誕生したのは、個人行動よりも団体行動をおもとして、何かに対して団結することが素晴らしいことだったからでしょうか。確かに素晴らしいとは思うが、個を尊重したい気もするし、そこまで、自分は国というものを意識したことはないので、今現在、国歌を歌えと言われたら、なんだか国という固まりの1つになれといわれているようで微妙な気分になってしまう。この傾向はよいものだろうかわからない。

今回このように、外部からの講師を招いての講義は自分にとってとても新鮮だった。そして、改めて国歌というものを考えられてよかった気がする。

  

25.              K.M.  

今回の講義で、国歌の役割とくに戦時中の国歌の存在意義について考えるようになった。

講義の中で映画を三本ぐらい見たが、その中で侵略に成功したドイツ軍が「ライン川の護り」を合唱していたシーンがあった。映画のワンシーンの話なので演出かもしれないが、軍事的にうれしい事があったとき、ドイツ軍の人は「ライン川の護り」をフランスの人は「ラ・マルセイエーズ」を自然に歌うのかと思った。

現在の日本は国家を歌うときは、卒業式ぐらいだ。しかも歌いたくないなら、歌わなくていいと先生から言われている。それを戦いに勝ったとき、士気をあげるとき、何かあると国民全員で歌うというのはかなり団結力が出てくるだろうなと感じた。

全員がひとつのことをやると、団結心も出てくるが悪いことも調子に乗ってやり始めることがある。いじめだったり、集団万引きなんかもその類だと思う。そう考えると国歌というものがなかったなら、戦争なんていうものはなかったもしくは、もうっちょと、平和な戦争になったのではないかと思う。

 

26.              O.A. 

国歌というと国ができてから作られるものだと思っていたが、この講義を聴いて考えが改められた。


 2つの国歌はひとつの国としてまとまる助けとなり、国民のつながりを作った。それらは愛国心に支えられていたようだ。

今日では、人を国民という単位で考えるより個人として考えているように思う。だから、国歌の存在が薄くなり、人々に歌われる機会が少なくなってきたのだろうか。
 国際化が進んでいる現代、国歌はこれからどのような位置づけがされていくのだろうか。また、日本の国歌はどのように成り立ったのか。
 この講義を聴いたおかげで、また新たな視点を持てたと思う。

 

27.               T.N. 

本日の特別セミナーのテーマとなった時代は、世界史の中で私の最も好きな時代の一つであり、また、ビデオも使用したことで、とても興味深く話を聞くことができた。

 

講義の中で最も印象に残ったのは、「ラインの護り」という歌である。ドイツという国が、かつては小さな国家が多数集まってできていた領邦国家であったことは、高校時代世界史で学んで知っていた。しかし、19世紀にドイツ帝国として大きな国家が形成される前に、この歌を歌うことによって国民に「ドイツ国民だ」という意識がめばえていたということは、歌は民族にその国の国民であることを意識させるほどの大きな力を持っているのだということを感じた。

 

それぞれの国にはそれぞれの国歌がある。しかし、なぜ国歌が存在するのかを深く考えたことは今までなかった。本日の講義を聞いて、国歌はとても重要な役割を果たしているのだということを強く感じ、これからもそれぞれの国民に歌われ続けて欲しいと思った。

 

28.              I.Y. 

今回のセミナーは、正直私にとって少し難しい内容であった気がしました。

ナショナル・アイデンティティーに関して国家と国歌を絡めたお話は、普段耳にできないような内容の濃い講義でした。

小野塚先生曰く、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦前と後で国歌に対する人々の意識に変化が見られた。具体的には、戦前・戦争中は労働運動・社会運動として国歌が歌われ、戦後には衰退していった。これは、ヨーロッパだけに見られる傾向ではなく、日本においても同様であるのではないかと思う。国民全体の団結を要する際(例えば、戦争、社会運動、オリンピックなどの国家間のスポーツや競技大会など)国歌は歌われ、流行る。

戦後、スポーツ観戦時にしか国歌が歌われる機会がなくなった。そのため、同時に自らの愛国心を確認する機会も減った。小野塚先生のように、歌に絞り、さらに深くつきつめていく事は珍しい研究であり、とても面白いことであると感じた。

  

29.              K.K.

ナショナル・アイデンティティという言葉は正直あまりなじみがなかった。なにかスポーツのときの団結心といったようなイメージだった。島国に住んでいて1度も海外に出たことがないからか直に民族意識に触れたこともない自分としては興味を持てる話だった。

 

EUの社会統合に3つの可能性をあげられていたが、なるほどと思った。聴いていて、やはり緩い統合に向かうのではないだろうかと思う。競争世界への投入を恐れる気持ちは変わらないのだとも。ネオナチなんていう言葉も初めて解説してもらったように思う。歴史家によってあれはこうではなかった、どうだったなんていうことが根本になることも驚いた。

 

カサブランカは最近他の授業でも観ていて、先生方の捉え方、感想が一緒だったり違ったりが参考になった。あの歌合戦は所属意識もあるが、強者への反抗だともとれた。時代によっては及ぼす効果が逆だったというのも興味深かった。成り立ち・状況を聞けば理解できたが、何故だろうと思った。外国人によくきこえ、国内人に悪く聞こえる、敵味方の同化、面白かった。

 

30.              T.Y.

「ラ・マルセイエーズ」が形成された歴史的背景は、高校の世界史の授業で触れていたこともあり、講義には割りとスムーズについていくことができた。

この曲のイントロ部分がビートルズの曲の一部にも、利用されており、さまざま場面で今のなお、この曲の影響力が及んでいることは知っていた。

しかしながら、この曲が時を変え、場を変えるごとに、その意味や存在意義を微妙に変化させ、現在でも愛国心やナショナル・アイデンティティー(どれほどであるかは、疑問だが)の象徴として歌われている点は、改めて感慨深いものを感じる。

非常に有意義な講義であった。

 

31.              Y.K. 

32.              Y.S.  

33.              M.N.

34.               H.S.

非常に内容の濃い90分であった。

フランスとドイツの国歌はあまり聞いたことなどなかったが、これほどまでに歴史を持っているものだとは思わなかった。時代ごとに歌われ方や意味がさまざまに変化し、世界にまで影響を与える国歌など他に存在しないのではないだろうか。

しかし残念であることは、日本も同様、国歌に「侵略」というキーワードが付随することであるが、現在はそうした見方も徐々に緩和されつつあり(戦争を知らない世代が増えたせいか)、愛国心やナショナル・アイデンティティーの象徴として、歌われていることはなかなか望ましいことであると私は感じる。まさに「奇跡」であると思う。

 

35.              S.D.

36.              K.N.

小野塚さんの講義を聞いてヨーロッパの現代についていろいろ聞くことができた。愛国心という点において、私はヨーロッパ人と日本人についていろいろと比較してみた。その中で考えたことは、日本は島国ということもあり、またアジアとアメリカの中間点ということもあり苦しい立場に立たされてきた。そこで独自の文化を持ち、「島国根性」ではないが日本というまとまりの中で今までやってきたんだと思った。

 

では、ヨーロッパはどうなのだろうか。EUというヨーロッパ共同体が存在するほど、ヨーロッパの国々の人は愛国心というよりもヨーロッパ全体として物事を見ているような気がする。

 

実際にこれは私自身の考えであるが、国の特徴を表すものとして「国歌」があるように思う。この講義の中ではフランスとドイツの国家を取り上げていたが、それについての私の考察を述べていこうと思う。

 

 なんか国歌の歌詞の内容を見てみると、その国における歴史的背景がうかがえる。フランス革命があったフランス、戦争に最終的に負けてしまったドイツ、それぞれの思惑がこの国歌の中に見られる。

 

一方日本の国歌の歌詞は、ぱっと見た感じではあるが内容があまり把握できないように思う。そしてまた、日本人の中でこの「君が代」の歌詞の内容を完全に理解している人は少ないのではないだろうか。

 

ここで私はあることに気がついた。愛国心というものはそのまま国歌に反映されているのだろうか。国歌は愛国心もそうだが、その国の社会を表しているのではないだろうか。今のヨーロッパは様々なことを行っているように感じる。国歌は一般人には根付いていないものの世界規模のスポーツ大会などにおいては国歌というものが象徴として扱われている。

 

ナショナル・アイデンティティの根強さに改めて気がつかされた今回の講義は私自身にとってものすごく大きなものとなった。

 

 最後になったが、今回の小野塚さんの講義内容は普段あまりかかわらないような内容だった。その講義を聴くことができたということが本当に大きなものになった。また機会があればよろしくお願いいたします。本当にありがとうございました。

  

37.              M.H.

EUはその前身の過程からみれば、それなりに歴史があるし、地域/経済統合に関する実験の結果は現在・将来の世界各国社会へ大きな貢献をしていると思う。小野塚氏が講義の終わりで言っていたように、おそらく現在以上の強い結びつきをもった統合の可能性は低く、幾分かは現在以上(あるいはそれ以下もありうると思うが)の程度の“ゆるい”結びつきにとどまるのではないか。

まず、経済のグローバル化について意見したい。経済学とはもともと、資源(原料や食糧)が不足していた時代に発達したものであり、文字通り資源を“経済的に”分配することを目指してきた(と考えられる)。そして先進国の産業発展・技術発展により供給が過多になるとともに、例えばセイの法則を否定するケインズ経済学、一方それを肯定する近代経済学(および新古典派経済学)が発達し、政治経済の理論を確立してきているのである(学説としては、マルクス経済学も同様である)。

しかし、経済学の発展において、「パレート最適」の原理として市場の価格メカニズムがある。価格による需給の一致であるが、どうもこの市場原理を主義とするような考えが日・米に蔓延してきているように感じる。そしてそこから出てくるのが新自由主義や小さな政府、グローバリズムである。

グローバリズムが推進される一つの理由として、競争がある。市場メカニズムは完全競争に近ければ近いほど正常に機能し、また無駄が最小限(資源分配が最適)になるということである。競争が激化すればするほど望ましい、ということである。これにより、いわゆる「小さな政府」論者は様々な規制緩和や統廃合を主張するが、実情の問題からみて、グローバリズムやボーダー・フリーというのは必ずしも望ましいとは考えられない。

EU周辺がこうした世界経済の流れに反発し、フランスやオランダのEU憲法の否決が起きたり、各国の政権担当が中道左派の傾向になってきたりしていることは、(EUという)地域を「同一のリスク集団」とはみなす事ができないということを示しているのではないだろうか。国(nation)は、ナショナリズム、(国民)同胞、愛国心のほか、民族主義、エスニシティ、文化・習慣・信仰などいくつもの小さな対立と大きな対立で成り立っている

そしてこれに伴い、こうした集団の意識を統一というか束ねるものとして、小野塚氏は「国歌」を取り上げていた。話にあったが、情緒・身体感覚・感性を共有する歌および国歌の力というのは、『カサブランカ』の歌合戦をみて“何となく”だけれど“何か”(一つの意識というか…)を感じた。まさに、説明にあった「皮膚感覚」というものがわかった気がした。しかしこれは、歴史や価値観などによるあらゆるもののカオスのようなものであり、100%合致したようなものでもないと思われる。けれども、確かに統一する力がある。こうしたおよそ理論としては成り立たないようなカオスの部分が、グローバル化との対立や各国での左右分裂などに大きく起因していると思う。アメリカのように移民や多文化・他民族で成り立っている国もあるが、EUには風土・地域・信仰による長い歴史があるのだから訳が違う。

歴史は清算できないのだから、およそEUの将来は現状程度と大きな差異はないだろうと考えられる。
 

38.              H.Y.

とても興味深いお話を聞くことができました。

 国歌と呼ばれている歌を歌うことで国民となれる。そして、そのことによって民衆を団結させることができた。また、歌を歌っていない人々は、その国の国民とはみなされず、差別的な目で見られたり、さらには迫害されかねないというような、日本でいう踏み絵のような存在であった。ただの二つの歌だが、それがドイツやフランスを団結させたと言っても過言ではなかった。

 普段、入学式や卒業式などの式典、また国際的なスポーツの大会などで国歌がよく歌われていますが、あまり深く考えたことはありませんでした。今回の講義を聞いて、私は歌というもののすごさを思い知りました。歌によって国民の心が団結し、戦争などの戦いなどの時にも、歌うことによって士気を高め、勝利を得ることができました。この時代には国歌は欠かせないものだったのだなと思いました。

今では、普段の生活の中で歌われることはほとんどありません。しかし、式典やスポーツの大会などにおいては今でもよく歌われています。やはり、国歌を歌うことで、チーム内で国と自分の誇りのために戦おうという士気が高まり、団結するという効果が生まれるのでしょうか。この点においては、今も昔もあまり変わらないなと思いました。

国歌にはいろんなルーツがあることを知ったので、今後、機会があれば日本や他の国の国歌についても調べてみたいと思いました。

  

39.              N.M.

今回の特別講義でもっとも印象に残ったことは、第一に「ドイツ人」はドイツ帝国が建国される以前から、自らがドイツ人であるという意識を持っていたことである。

フランスでもドイツでも、日本であっても、封建社会の下では、国家という大きなものへの帰属意識は育たない。自らの生活と直接的または間接的に強く干渉するのはあくまでも封建領主であり、それ以上の「国家への帰属意識」「民族意識」というものは刺激されることはなかったためである。


しかしフランス革命の折、マルセイユからの義勇軍がもたらした、「ラ・マルセイエーズ」という歌によって、フランス語圏の人々はひとつになる。それと同様にドイツでも、ドイツ語圏の諸国民は「ラインの護り」という歌によってひとつになっていく。これがもっとも印象的であった。

 

40.               K.F.

日本では国歌斉唱に関して教員が拒否したことに対して、処分があったりしたことが一時期ニュースの話題になったが、そう考えるとヨーロッパ諸国で国歌が定着、浸透していないということを知って意外と感じた。

もちろん国の文化や背景によって違いが生まれるのは当然だろうが国家の統一感という意味では「国歌」はひとつの有効な手段ではないかという気もする。

とはいっても日本では憲法で「思想の自由」が保護されているのだから、はたして処分は正しかったのか若干の疑問も残る。行き過ぎた愛国心は暴走につながる危険性を孕んでいるのもまた事実なのだ

個人」と「国家」という双極の存在の兼ね合いというかバランスは難しいものだとこの講義を聴いて思った。

 

41.              K.H. 

42.              S.H.

43.              N.Y、p.1p.2 

44.              N.Y.(女性) 

45.              N.Y.(女性)

46.              N.M..

47.              K.J.

48.              M.A.

映画カサブランカ」の国家の歌い合いのシーンは非常に人々が持つナショナル・アイデンティティをうかがい知れました。

人は所属意識を持っていて自分の所属する集団に愛着を持つもので、それは長い歴史の中で生まれたものであったり努力の結果であったりするが、それが集団外の者から誹謗中傷、侵略されることを非常に不快に思う。それと同時に自分たちの集団が優位になることには逆に快感を感じるものだ。

配布された資料の国家の歌詞でも他国の人々を誹謗中傷し、わが国一番であるという優位さを歌っていることが伺われた。日本でも江戸時代に、エタ、ヒニンという下位身分を設けて、農民たちに精神的優位さを与えて反乱を防いだことがあった。そうやって人というのは自分よりも下のものを見つけて誹謗中傷したりして自分を保って生きているようなことが感じられた。ナショナル・アイデンティティと
いうのは自分を優位に立たせるための一種の道具みたいなものであるとも思えた。


 私も日本という国家集団の中で生きていますが、普段は日本に愛国心とかはあまりないと思っていたのですが、去年のサッカーのアジアカップでの日本国歌斉唱中にアジアのいたるところでブーイングが起こった時には、私も怒りを覚えました。ブーイングをするアジア諸国民の理由もわかりますが、それを考慮しても怒りを覚えました。この講義を聴いてからこのことを反芻してみると、やはり私の中にも情緒、感情、身体感覚によるナショナル・アイデンテぃティがどれほど強いのかわかった。非常に興味深い講義だった。ありがとうございました。

 

49.              T.S.

講義では、フランスの「ラ・マルセイエーズ」と、ドイツの「ラインの護り」という二つの歌を切り口にしてアイデンティティについて語られた。アイデンティティという言葉はよく耳にするが、歌から考えるというのが独創的でとても興味深かった。

 

  フランスの国歌は、そのメロディーの軽快さとは逆に、歌詞の内容が強烈であるというのは知っていた。しかし、それが、アルザスという地域の複雑性(フランス人であるが、ドイツと隣接しているためにドイツ語を話している地域であること)から生まれたものだということは始めて知った。そして、そのような歌詞の歌が、映画『カサブランカ』のなかで人々に誇り高く大合唱される場面には少し違和感があった。

 

  先にも述べたとおり、アイデンティティという言葉はもう何度も耳にしている。しかし未だにそれがどのようなものなのかはよくわからない。それは日本という、隣接する国がない島国に住んでいることも起因しているだろう。ヨーロッパでは、例えば同じフランス国民であってもアルザス地方のようにドイツ語を話す地域もある。したがって講師の方がおっしゃっていたように「一つの歌を歌うことによって、同じフランス人になる」という歌による連帯感の誕生には納得できた。

 

  講義の最後に、ヨーロッパの将来についての話があった。緩いヨーロッパ、強固なヨーロッパ、そして第三の道、という三つの可能性があるという。私は、二番目の、強固なヨーロッパになると思う。EUとして結びつきが強くなる一方で、加盟を拒否するなど、排外主義の影もみうけられるからだ。

 

  アジアはどうなるであろう。EUのように結合していくのであろうか。私はアジアもまた、地域統合の動きを見せていくのだろうと思う。しかし、もう人種はあまり重要なことではないと思う。グローバル化が進み、EUのようにある特定の地域でまとまり、国境がなくなることが、将来的には世界規模で進んでいくように思う。

 

50.              S.M.

映画を使った講義はとてもおもしろかったし興味深かったです。

ナショナルアイデンティティを持つことは大切だと思いました。日本もそぉだけどヨーロッパなど愛国心が昔よりなくなっていってしまうのは悲しいことだと思う。

 

 ――――――――――以上、2005125日、1800:本日仕事時間終了までに受領・処理------------------

51.              M.M. 

私たちは、国旗や国歌をそういうものだと思い、何の疑問もなく掲揚し、斉唱していますが、この特別講義を聴いて、国旗も国歌も国々によって異なっていて、その国の象徴になっているのだということを改めて感じました。言葉と同じように国歌も文化なのだと思います。同じ言葉を話す人々に仲間意識が生じるように、同じ歌を歌っている人々にも何となく仲間意識が生じるでしょう。同じ歌を歌っている人が集まって、大きな集団になる。映画『カサブランカ』の歌合戦のシーンはまさしく、国と国との戦いのように見えました。

 現代の私たちは、国歌というものにあまり馴染みがないように思えますが、サッカーなどスポーツの世界大会となれば、必ず試合前に国歌を斉唱しています。そのときになってやっとこれが国歌なのだという実感が湧きます。君が代を歌っているというだけで、仲間意識が生じる感じがします[5]。それが愛国心かときかれると、少し違うような気がしますが、今回の講義を聴いたことで、国歌というものを再認識させられました。とてもおもしろい講義でした。ただもう少しビデオを見ていたかったです。

 

52.              O.T.  

小野塚氏の講義の中で、国歌という単語が何度も繰り返された。

「国歌」それは短い人生ではあるが私が物心ついたときから、常に節目節目で歌われてきた。しかし、私はすでに大学2年生であり、今後、国歌を歌うことがそんなにあるだろうか。高校までは私が野球をやっていたせいもあり、大きな大会のたびに国歌を歌う機会があった。もちろん私が今もスポーツ選手であれば、なにか大会があるごとに国歌を歌っているだろう。事実、多くのスポーツの国際大会や国内の大会で国歌が歌われている。その光景をテレビを通して見ても私はともに歌いはしない。もしその場にいたとしたらどうだろう。きっと歌わないだろう。おそらくはただ立っているだけだ。それは愛国心が薄いからなのだろうか。少し考えてみたい。

 

国の歴史に比べて国歌の歴史はとても浅い。それはそうかもしれない。世界は、古くは争いの絶えないものだった。占領により強制的に国を吸収し、滅亡からまた新たな国が形成される。その繰り返しだ。しかし、国歌ができたといわれる19Cごろから世界は戦争などによる勝者と敗者の支配・被支配は残る。そのなかで、国民が自分たちこそ国民であるという認識を持たせるための一種の国家による策略だったのだろうか。国のために戦う、それは現在スポーツの国際大会などで国歌が使われ続けるのにも納得がいく。国民を、選手を鼓舞する。「自分たちは国を背負っているのだ。」という再認識。うまい策略だ。戦いに挑むにも気合が入る。

 

ヨーロッパなど海外では、ラ・マルセイエーズのように曲調の激しいものや戦いをイメージさせる歌詞が多く見られる。逆に日本は日本らしいというか、古きを重んじたような曲調であり、天皇制が色濃く感じられる。しかし、国ごとに国歌に込められているものは国の特色をよく表わしている。それは国民に国民である認識を持たせる意図がよく感じられる。

 

しかし、第二次世界大戦や冷戦を経て、ゼロだとはいえないがかつてより戦争は減った。そしてグローバリズムが叫ばれる現代において国歌によって国民が鼓舞される必要はなくなったわけだ。愛国心が薄れたといわれるのもうなずける。人は、戦うことでしか己が国に属しているとは感じられないのではないだろうか。戦争のない現代(繰り返すがゼロではない)において、国家が歌われなくなることは必然である。そして現在ある唯一の国の威信をかけたスポーツの戦い、ここにおいてかろうじて国歌は歌われるのだろう。そして、スポーツがなくなったとき、国歌はなくなってしまうだろう[6]

 

53.              S.N. 

 「現代」と呼ばれる過去100年間の近代の人間の特徴は、

1.国家による勧誘・干渉

2.「誰もが強くて24時間働ける」という人間観から「弱く劣った」人間観への変化

3.国際協調である。

そして1と2による福祉国家の形成と、3による緊張関係の対立が、今後現代以降の次代にいかに新たな人間関係を構築していくのかという事、またそれにおける「ナショナル・アイディンティティー」という側面に着目する、という事が今講義のテーマであったと思う。

 

過去において、ヨーロッパにおける国民の愛国心の高さは、講義で紹介された2つの国歌「ラ・マルセイエーズ」「ラインの護り」の浸透度など、現在と比較し高い水準にあった。では、国歌の浸透によりナショナル・アイデンティティーは高まったのか、ナショナル・アイデンティティーの高まりの結果国歌が誕生したのか?

 

「ラ・マルセイエーズ」はフランス領アルザスで生まれた。当時のアルザスはフランス領内ながらフランス語圏ではなく、フランス革命が活発になってきた社会事情により、阻害を避けるために歌を作成した、という政治的な背景が存在する。また同じようにフランス語圏ではなかったマルセイユの兵隊がパリへ出兵する際に、この歌は「共にフランスを守る」という連帯感を表すため使用されもした。そしてその後この歌はフランス全土に広まりを見せ、革命を反対運動から防衛し、また国外への進行をする際の国民の一体感の演出に効果的に使用された。

 

しかし、この国歌が生まれた時代背景から、これは当初は決して積極的にナショナル・アイデンティティーを高める目的で作られた歌ではないといえる。当時のフランス革命における大多数派からの阻害や攻撃を防ぐために、やむを得ず作ったという特徴を持つため、ナショナル・アイデンティティーの高まりの結果から誕生した歌である、とはいえないのではないか。

 

また、ラ・マルセイエーズの歌詞の内容について触れると、攻撃的で生々しい言葉が使用されている箇所が、国歌にしては非常に多いことが特徴である。個人的には、「ラインの護り」の歌詞のほうが共感できる箇所が多く、なぜラ・マルセイエーズの偏りの見える歌詞が万人に賛同されたのか、疑問を感じた。が講義により、ナポレオンと共に現れた侵略者の歌であることや、フランス国内でも踏み絵的な歌であったことがわかり、賛同せざるを得なかった人々の存在が明らかになり、それにより疑問が解決することとなった。

 

しかしそれでもなお、そのような歌が現在まで一般に歌われていることがあることに、いまだ理解に難しい部分がある。またしかし、現在のように安定した国家のような絶対的なよりどころがない当時の社会においては、そのような歌詞が多くの国民のよりどころや一致団結のために役に立ち、また必要であり、正当な理由であったといえる。

 

現在の社会は、近代国家が成立されたことにより個人という存在が確立され、人間は以前のように「強く逞しく自立する」必要が薄まったのではないか。また交通機関の発達やさまざまなメディアの普及により、世界のさまざまな情報の入手が容易になり、「国家」という枠組みの影響が、個々人の中で弱くなりつつある。それでもなお国家は世界的・宗教上の観点からは重要であることは確かで、戦争が起こっていることはナショナリズム証明でもある。

 

このような世界の中で、国歌というものは当然のごとく衰退してきているが、いまだなおスポーツなどの場では国歌斉唱が根強く残っている。それはどのような要因からか。私が思うに、たとえばサッカーなどの観戦のときに国歌が使用されるのは、その球戯場内において1つのチームを応援するという目的のためであり、たとえばオリンピックの表彰台におけるものは、その選手がどの国の所属であるということを示すためである。それはつまり、国歌は以前のようなナショナリズムの高揚のためではなく、たんなるメディア的・道具的な使われ方をされている、ということである。

 

このように国歌は、その歴史とともに本質的な部分での使用用途が移り変わり、深い意味を持たなくなった単なる象徴的なものへと変化していった。現在のヨーロッパにおける「ヨーロッパ賛歌」が定着しない理由も、こういうところに起因するものは少なからず存在するはずである。個々人という存在が確立された現在、人々はヨーロッパという更なる大きな枠組みを、歌によって一致団結し一つの方向に向かっていくためのものではなく、その中での個々人の自由な行動が促進されるためのものと期待している。そのためには国歌のようなシンボル的なものはそれほど必要としない、と判断しているのではないだろうか。そしてそのようなものが必要とされるのは、現在では機会の多くをスポーツが占め、それを応援するのはヨーロッパという集合体ではなく、いまだ国家という単位なのである。

 

つまり、国歌は現代の個々人が確立された世界において、徐々にその役目を終えてきたということである。国歌というものが統合を目指しているのに対し、個人は更なる自由を求めていること。国歌・ナショナルアイデンティティ衰退の理由はこれに他ならない。

 

54.              M.E. 

 小野塚先生の講義を聴いて、国家というものについて考えてみた。私が改めて考えさせられたのは、国歌は19世紀ぐらいになって各国に広まっていったということである。国歌が自国意識に深く結びついているということを改めて実感した。自国と他国を区別することで、自国を尊重し他国を排除することで、自国でのまとまりを形成していったのだということがよくわかった。ヨーロッパで自国意識が高いのも、他国との距離が近いという大陸国であるということが深く関係しているのだろうと思った。

 

 また、ラ・マルセイエーズの歌詞を初めて見てみて、なんと長い歌詞だろうと思った。そしてその内容は他国と戦う兵隊たちの闘争心を掻き立てるような激しいものであることに日本との大きな違いを感じた。国歌はその国家の特色をよく反映するものだと改めて感じた。スポーツ観戦などでは必ず国歌が使われるが、国歌は現在あまり歌われることはない。国歌は随分廃れたような印象を受けるが、普段国歌ばかり歌われるような状態は、国民の自国意識を高め、他国を排除することにもつながるのではないかと思った。

 国歌が完全になくならないまでも、あまり歌われなくなったのは、国際協調の社会の流れによるものではないかと思った。

 今回の講義は、国家と国民についてよく考えさせられた。

 

55.              H.M. 


私は日本に生まれたということだけで日本人として扱われている。それはもちろん父と母が日本人だ、ということなので一見当たり前なのであるが、そもそも父と母が、祖父と祖母が日本人であるのは…さらに世代をさかのぼると…となれば話は変わってくる。無論日本は島国で他国からの別人種の流入があまりないという地域的特性があるので、日本人である、という事は至極当然に思えるのだが、実際国内には在日と呼ばれる朝鮮人三世や四世の人達、アイヌの血をひく正統たるこの地に生まれた人達、集団移民事業の日系南米人など、あらゆる民族が存在するために、厳密に言えば他民族国家ということができる。
では果たして、日本という国のアイデンティティーとはいったい何なのだろうか。という問いに、よりそのモデルを明快にしたヨーロッパでの事例、小野塚先生の講演を聞くことで少し理解が深まった。
 ヨーロッパ、とりわけフランスとドイツは国境に大きな海峡があるわけでも峰があるわけでもない。ただライン川という穏やかな川が流れているに過ぎない。川を渡ればそこは言葉も違うし、気質も違うし、国家が違う。それはとても不思議な感覚に思える。先生はその二つの国家が分けられた理由として「国歌」を用いて説明したが、これが新しい視点ですごく関心をひかれた。現在のフランス国歌はフランス国内としては排除されうるドイツ系フランス人達が、自分たちのフランス国民としての正当性を主張するために歌い始め、それが広がっていきフランスの団結を急速に促した。愛国という感情が生まれたのも国歌という、理屈では説明できないような感情的な面を高揚させることが出来たからだ、と。

 フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」はその攻撃的な歌詞が印象的であった。
それに対してのドイツの国家「ラインの護り」は非常に堅実的であるといえる。ただ国益を領土を守るために、自分たちの防衛こそが勇敢な証だとして、その証明として歌われるようになったその曲調はフランス国歌と比べて、曲調も歌詞も穏やかなものであったと思える。
 このようにして二国のナショナル・アイデンティティーの創出を説明したが、やがて世界が同質化していくにつれて、国家という枠を包み込むような大枠の考え方が生まれるようになってきたのは産業革命であった。人々は工業の盛んな地域に出稼ぎに出かけ、国家間の移動・移民が積極的に行われ始めた。日本国内にもチャイナタウンやコリアタウンなど、民族が集った地区があるが、イギリスに移民した少数ドイツ人もまた、ドイツ人同士で支えあって生きていた。そこで自分達を繋ぐ「国歌」が英語なまりのドイツ語で歌われ、それが広まり、国の歌、という枠を飛び越えた話はこれもまた興味をそそる話であった。

 その当たりから国歌は国益・領土のためというわけではなく、民族を繋ぐために歌われるようになったと私は考える。それは現在のスポーツ界でもそうであったり、また記念式典などで国歌が歌われるのもそのためであると考えている。

 そしてようようにして国歌は「愛国」という概念を飛び越えて、民族感情に語りかける旋律として歌い継がれてきた―それは国を愛する証、というよりも、人と人を繋ぐ証として。それはとても素晴らしいことであると思う。

 現在日本の国歌は大きな非難を浴びる境地に立たされている。私はそれが残念でならない。日本の国歌はメロディー、歌詞ともにとても静謐で繊細な雰囲気を帯びている。それは日本の民、日本にかかわる民の気質をとても美しく表現していると思うからだ。もはや国歌は国益とは切り離され、「繋」の象徴として扱われるべきであるし、それは国民が自発的に行うものである。

 話が少し反れるが、よく「君が代」の「君」は天皇を象徴していて他国感情を考えると不謹慎だ、として国歌を非難する知識人がいるが、フランス国歌を一度聞いてみるとこの非難は完全な揚げ足取りであることがわかる。フランス国歌の中には、「にっくきドイツをやっつけよう!」に似通ったフレーズが今もなお残されている。がしかしドイツ国民がまったく非難しているようには思えない。国歌はもはや国益から切り離されて考えられるべきで、揚げ足取りのように外交のカードに使われるのは少し間違っているのではないか、と私は考えている。


 さて、話を元に戻すと、国益や愛国から切り離された国歌、多様性が生まれ始めた世界の中でどのように国家をまとめていけばよいのだろうか。私は色々と思考してみたが、それはもはや古い考え方なのではないだろうか、と思い始めた。
 EUの事例を先生があげられていたのを拝聴して思ったのだが、統治者が国家を作って統制するというやり方は国民の反発を否応無しに受けてしまう。EU憲法制定が反発にさらされたのはその顕著な例であろう。上から下、というやり方はもはや古いのである。では何が国家を、共同体を作っていくのか。それはひとえに人間一人一人であるといえる。

 もはや「国民」は先天的に与えられるものではなく、後天的に人民が自覚していくものであるのだろう。有名な在日朝鮮人のプロボクサーが日本国民として生まれ、後に朝鮮人のアイデンティティーを自覚して朝鮮人として戦っていたり、日本にサッカーの魂を植えつけるために日本人になることを選んだラモス選手などはそういった後天的な自覚がそうさせた、といえる。

 最後に前述した私の疑問、日本という国のアイデンティティーとは一体何なのであろうか、という問いに対して私は正確な解答を得ることは出来なかったが、あえて言うことが出来るのならばこういうことであろう。それは自分が日本という国のために生きる、という後天的な自覚。日本という国に生まれ日本の気質に育ち共感を覚え、この気質を守っていきたい、と後天的に自覚し、それがつまり日本国民として生きるということにつながるのだろう。それは日本以外の国でもいうことが出来る。
 現代の若者はその自覚が極度に足りない。歯止めのかからない少子化や急増するNEETやフリーター。福祉国家の負の側面である「社会的な排除」がさらにその加速度を増していく。ここで私は国が国民のために出来ることが沢山あるのではないか、と思い始めた。
 国が国民、または国内に住む人々に出来ること。それは統制ではなくて、国民であるという自覚を引き出すことである。そのために鬱屈している福祉国家の負の側面を改善していく必要があるし、日本という国をより良い国に変えていく必要がある、ということだ。
そして多くの共感者を生み、彼らが協力してくれるのならばそれは強烈なシナジー効果を生み、自覚も国家もより改善の道をたどっていくだろう。その中で「人と人を繋ぐ証」として、日本の気質を表現するものとして[7]、国歌が心から歌えるようになる時代を切に願いたいと思う。(了)

  

56.              M.M. 

近代的国家、近代的国民の形成のプロセスを国歌によって捉えるという、斬新なアプローチにとても興味を持てた。

特に国歌を、国家の下に作られたものと考えるのではなく、まず歌があり、それを中心に後に国民と呼ばれる人々が結束し、国家が形成され、その中心であった歌が国歌として正式に歌われるようになった、という国歌と国家形成のプロセスはとても興味深いものであった。
 またそれとは対称的なものとして「ヨーロッパ賛歌」が紹介されていたことも面白いと思った。

 これらのことは、小野塚先生もおっしゃられていたように、近代国家というものが情緒・感性・身体感覚の共有の下に築き上げられたものである、といことを明確に表していると思う。
 そしてヨーロッパ連合という、情緒・感性・身体的感覚が複数存在する集団においては、決してヨーロッパに対する愛国心や忠誠心などが育たないということを、強烈に主張していると思う。

 その意味では朝鮮半島のほうが、統一実現の可能性が高い、言うことができると思う。社会主義と資本主義、民主主義と独裁主義という、一般的には致命的決定的と思われる違いが存在していようとも、朝鮮半島は情緒・感性・身体感覚の面で多くの共通点を持っており、ヨーロッパと比べて統一への道は拓けていると考えられる。

 

57.              S.S. 

今回の小野塚先生の講義はとても興味深く、お話を聞けてとても光栄でした。

 

今回の講義では二つの歌によるナショナル・アイデンティティということで、最近よく聞く愛国心などの面白い話が聞けました。

アメリカの9・11同時多発テロ以降、より愛国心という言葉を自分もよく聞くようになりました。国に対する思いが消え、自分中心に考えられている今、私は国を愛するということはとても大事だと思います。別に国歌を歌うのを強制して愛国心を掻き立てろとかじゃなく、そういうのは自然と心の中にあるものだと思いました。

講義においても扱われていましたが、サッカー・ワールドカップやオリンピックなどで国歌は歌われています。私は国歌や国旗には国をひとつにまとめられるだけの力があると思います。今回の講義によってまたひとつ国に対する考えを深められたと思いました。

 

58.              M.I. 

とても興味深いお話を伺うことができました。
歌を切り口にナショナル・アイデンティティについて考えたことがなかったのでとても新鮮でした。

私の中での国歌のイメージをここに述べると、「民族意識を高めるものであり、また戦争と強く結びつくもの」です。日本の国歌、君が代は戦争を強くイメージさせ歌うことを拒否する人が大勢います。私は君が代を積極的に歌いたいとは思いませんが、日本の国歌が国民全員に支持されていないという現状に一日本国民として非常に残念に思います。

しかし最近ではオリンピックやサッカーW杯で君が代を大声で歌う若者がいるのも事実です。歌を歌うということで気持ちがひとつになるような気が大いにします。このようにしてたくさんの人が君が代に触れる機会を増やしてそして、君が代の意味や日本人としての国民意識、民族意識を考えたり理解したりするきっかけになればそれはそれで良いことだと考えます。

 

講義の中で特に印象的だったのは、EU憲法の批准がフランスやオランダの国民投票で否決されたことを「ナショナル・アイデンティティ」という見地から解説されたところでした。小野塚先生はその否決された理由を「ヨーロッパが強くなりすぎることへの懸念」や「トルコの参加問題」ではないとおっしゃっていましたが、なるほどと思いました。というのは、私はもちろん否決されたのは通貨[8]の違い、文化の違い、気候の違い、民族の違いという「違い」を強調したい、すなわちナショナル・アイデンティティの見地から否決されたものと思っていました。ですが逆に、そうではない考え方もあるということを勉強不足なので小野塚先生の講義で初めて考えました。

 

普段日本という島国で生きているので、海外にいったときに自分が日本人[9]であり日本という国に強く守られていることを実感します。私は海外に行くことが大好きなので毎回毎回「自分は日本人なんだ」ということをひしひしと感じます。また日本語を話すのは主に日本人だけであり、日本語を話すほかの民族がいないので、そういうほかの民族がいる場合どういうことを感じるのかもいつも不思議に思っています。これからも自分が日本人であるという意識について考えていきたいと思います。

 

59.              S.R.

ヨーロッパの統合について各国の国民の関心の低さはある程度想定内のことであると思う。

ヨーロッパに国家と呼ばれるものが設立されるようになったとき、各国は同一民族[10]のもとで統合し、国を興した。そして、領土を広げようと隣接国に侵略を繰り返した。よって国内には少数の異民族が居住することになり、現在でも隣接地域での国内紛争は絶えない状況にある。ゆえに、ヨーロッパでは民族・宗教上の理由から、ヨーロッパ全体の各国の国民の意識的統合は困難であり、考えられないと思う。

講義でとりあげられたフランスとドイツはとりわけ多くの領土戦争を繰り返してきた。そして、二国の歌はそれぞれ自らを誇るように歌われていて、力強さが感じられた。戦時中はやはりナショナリズムが高まっているのだと思う。今の日本は拉致事件によってその傾向があると思う。バレーボールやサッカーの応援はプチナショナリズムと呼ぶようだ。

 

60.              O.T. 

国歌が国民を作るというフレーズが特に印象的でした。

先日ゼミのディベートで天皇制について議論したのですが、そのときに君が代のことについても触れたので、最近は国歌について考えることが多いです。昔に作られたものであるのだから、現在の思想や主義などに合わないのは仕方がないとも思うのですが、オリンピックやワールドカップなどで選手や観客が胸に手を当てて歌っているのに疑問を感じるのも確かです。

先日の講義でフランス国歌の意味を始めて知り、その疑問はさらに大きいものになりました。選手の攻撃性を煽る意味では有効かもしれませんが、ゾッとしないでもありません。単純に現在の国に合うように変えればいいようにもおもいますが、全ての国民が覚えていなければいけないものなので、時間もかなりかかるかなり難しい問題だな、と思いました。
 

61.              I.H. 

今まで、君が代の歌詞の意味すら私は理解していませんでした。

日本の国歌はいかにも平和的な内容であるが、フランスの戦争色の強い国歌の内容には驚かされました。国民が戦い続けて築き上げた今日までのフランスがひとつの歌に詰まっている、そんな印象を受けました。

ちょっと前に日本では、卒業式に君が代を歌わせるのはどうだろうかなんて問題になりました。デリケートな日本らしい出来事だが、くらべてフランス国民には誇りを感じます。サッカーの国際戦の前に国家を歌うのはその象徴、国を背負って敵地へ向かうことを意味しているんだなあと思いました。こういう考え方はナショナリズムとして避けられがちだけど、日本は平和慣れして日本人であるプライド[11]が希薄になっているのではないでしょうか。歴史に目を向けるべきだと思います[12]

 

62.              M.K. 

はじめ資料を目にしたとき、どんな講義が展開されるか全く検討がつかなかった。しかし、講義が進むにつれ、2つの歌からナショナル・アイデンティティを見いだすとは何かという主題に納得することができるようになった。

 

それから、ナショナル・アイデンティティという、歌に対する新たな発見があったし、歌を違った視点から捉えることにも、とても驚かされた。特に、映画『カサブランカ』で歌われた「ラ・マルセイエーズ」の大迫力は脳裏に焼き付けられたし、「ラ・マルセイエーズ」を歌い終わった後に「フランス万歳!」と女性が涙ながらに叫んだシーンは印象的だった。歌を媒体としてアイデンティティを主張し、ひとつになっているのだなと思うことができた。

 

 それから、「ラ・マルセイエーズ」の由来も印象深かった。この歌をうたうことで、フランスは戦争に強くなっていったし、南のマルセイユと北のパリをつなぐ架け橋になったという点から、歌というのは団結力を増進する役目があるんだなと思った。ただひとつ哀しいと思ったのは、「ラ・マルセイエーズ」も「ラインの護り」も戦争に使われた歌であるし、アイデンティティを最も主張するのは戦争の時であるということ。そう考えると、ナショナル・アイデンティティが強いことはあまり良いことではないのだろうか。

 

 最後に、将来のEU(RO)について3つの視点(@新自由主義的なヨーロッパ、A強固なヨーロッパ、B社会国家的なヨーロッパ)を講義してくださったが、ナショナル・アイデンティティはずっと昔から今日まで続いているということを実感できる契機となった。それからもしEU(RO)において、ナショナル・アイデンティティが国レベルのように強くなったら恐ろしい存在になるということも分かった(小野塚氏は可能性は低いとおっしゃっていたが…)

 

 今回の特別セミナーから、国際問題を考える上で、ナショナル・アイデンティティは欠かすことのできない要素であり、それは歌などの身近なものから理解することができるということを学ぶことができた。とても勉強になる講義だったと思う。

 

63.              K.M.

映画で見た、歌の部分は印象的でした。
「カサブランカ」は、歌の部分だけでなく、最初から最後まで見てみたいと思いました。
歌というものは、その時その時の状況をよく表しているものだと感じました。

現在ヨーロッパでは国家はあまり歌われていないということでしたが、それに比べて日本は歌いすぎなのではないかと感じました。公立の学校で国家斉唱が義務づけられるのはなんだか愛国心みたいなものを押しつけられているようで、私はあまり好きではありません。


 歌というものは、歌わされるのではなく、自分が歌いたいから歌うものだとも感じました。
その時の自分の感情を代弁してくれたりするのが歌なんだと思いました。

講義は少し難しかったですが、映像などを見ることで理解が深まったと思います。
貴重な話が聞けて、良かったと思いました。

 

64.              K.M.

国家や愛国心、ナショナル・アイデンティティという話の中で、アメリカでは第2次世界大戦中、アメリカの若者を自発的に戦争に参加させるためにドイツは悪であることを強調する映画を作製していたとあった。私は、このことについては第2次世界大戦時のみではないと思った。

アメリカを批判するわけではないが、第2次世界大戦後の冷戦やつい最近のイラク戦争も、自分たちが何をするかということよりもまず、自由を勝ち取るとかいった正義に満ちたことを掲げ、戦争をしてきたと思う。結果として、多くの兵力を確保することに成功しており、これもまた1つのナショナル・アイデンティティなのだろうと思った。

国家の中に生きる国民は、各々自覚はないとしても、それなりの考え方や行動の仕方など特徴的な共通した国民性を持っていると思う。戦争への参加の様子もまた国民性が反映されうるとも思うし、このことを踏まえてみると、第2次世界大戦における日本の様子もドイツの様子もアメリカの様子も根本にあるものはナショナル・アイデンティティという同じようなものであると考えられる。

そして、ナショナル・アイデンティティは他国と自国を比較するとき、戦争も含まれるが、そのときに姿を現し、形作られるものであるとも思えた。

最後に、こういう形の講義は新鮮で楽しかったです。
 

65.              N.T.

小野塚先生は、「口べたで、引っ込み思案」と謙遜・自称なされているわりに、いざ講義が始まってみると、次から次にお話が出てきていて、笑い話も交えながらの実に楽しい講義だったように思います。

今回の講義では、ご専門となされている研究のなかでも、音楽社会史≠話していただきました。私は世界史にあまり詳しくなく、ヨーロッパのこともあまりよくわかっていないのですが、ナチス・ドイツ時代のヨーロッパの社会を国歌≠キなわち音楽≠フ視点で掘り下げて見ていくという先生の講義がかなり新鮮に思えてなりませんでした。

歴史を音楽≠ニいう一要素でこんなにも深く、そしてより明確に理解できるのだなと思いました。

「ラインの護り」はドイツ国民を、そして「ラ・マルセイエーズ」はフランス国民をそれぞれ象徴するものでした。

歌≠ニいうものは、人を情緒・感性・身体感覚のレヴェルで奮起させるもので、それは時にドイツならドイツ、フランスならフランスという国家をひとつにさせることができます(同胞という言葉)。

そしてそのナショナルアイデンティティを確立しうる国歌≠ニいう概念は薄れはしたものの、今現在でも残っているそうです。このナチス時代における国民の愛国心がどういったものであったのか理解することができました。

『カサブランカ』という映画は見たことがなかったので、ぜひ初めから通して見てみたいと思いました。あと、前期の授業で永岑先生がお勧めなさった映画『ヒトラー』も同時に見てみたいと思いました。

 

66.              M.S.

まず、今回の講義の核心である「国民意識」と「国歌」についての洞察は、非常に鋭いものであると感じました。

19世紀のドイツとフランスの国歌の成り立ちや、様々な映画の中に現れてくる国歌から、作品背景の時代の国民意識と国歌が密接に関連しあっているということがわかり、きわめて興味深い講義でした。

 

しかし私自身が考察させられたのは、講義の前半の「愛国心」「国民意識」と「福祉国家」とのつながりでした。ので、私なりの考察をもって、感想文にかえさせていただきます。

 

@ 人間観の変化が社会制度に現れている点について。

講義中では、近代の「強くたくましく自立する」人間観から「弱く劣った」人間観への転換を、幸福感が明確から不明確に転じたことに原因があるとし、また、人間観の転換が社会保障・国民皆保険などの福祉制度に現れているとしていました。

しかし、一般的には、社会保障制度は資本主義社会の中で、どうしても生じてしまう貧富の差を解消するためのものと言われています。

人間観の転換が、社会保障・福祉制度に結びついているということが、どうも実感することができません[13]

 

A 福祉国家と国民意識の関係性

福祉国家がうまく機能するためには、強固な国民意識・愛国心が必要であるという論理は、確かにそのとおりであると思います。

と共に、そこにはもう一つ、「政治・行政に対する信頼感」が不可欠ではないでしょうか。

 

「信頼感」なき「愛国心」は妄信であり、国民が一部の人間に先導されてしまう恐れがあります。「愛国心」とは本来、自らが生活する国家に足しての信頼感、誇りなどが土台となって形成されるべきであります。

 

そこで今日の教育を考えてみると、「愛国心」が盛んに強調されすぎているように思われてなりません。先ほども述べたように、愛国心は国家に対する信頼や、自国の文化・社会に対する誇りを土台として形成されるべきものです。教育の中で、愛国心を成績の項目に入れたり、道徳の授業の教科書に、愛国心のことを書いたところで、真に国を愛する心がはぐくまれるとは私には思えません。

 

では、なぜこのような強引なやり方をしてまで、昨今「愛国心」が叫ばれているのでしょうか

現在の福祉制度は、財政赤字の点から、かなり圧迫された状況となっています。

年金制度も高齢化に伴って、賦課方式だけでは一人当たりの負担金額が高くなり、数十年後には立ち行かない状況になりつつあります。

そのような中で、様々な税制改革が行われています。

身近なところでは酒税・タバコ税から、所得税の税率まで、ここ10年間で確実に引き上げられている税制は、財政赤字をつくろうためのものでしょう。

 

そのような改革をしていく中で、一番必要なことは何でしょうか。

それはまさに、講義中でも述べられていた「愛国心」ではないでしょうか。

 

政府・行政に対する信頼感は、様々な党利党略の見えた争い、汚職事件などで、今や地に落ちているといっても過言ではないでしょう(投票率の低さが、無関心・不信を如実に物語っています。)とすれば、現実の財政赤字を乗り切るために国民から金を徴収するのには、先ほど述べた妄信的な(国民が疑いも持たずに信じるところの)愛国心こそが、もっとも必要とされているのではないでしょうか。

講義中では福祉国家にのみ焦点をあてていらっしゃいましたが、福祉に限らず、国民意識、愛国心は様々な場面で利用されているように思われます。

最近の過度な愛国心・国民意識(例えば新しい歴史教科書・都立高校の国歌強要事件・小学校での通信簿の愛国心欄など・・・)は、このような社会背景、経済難が影響しているように思えます。

 

B 共同体では福祉は行いづらいか。

講義内容でもあったとおり、ヨーロッパ共同体のような国家を超えた存在を作るには、まず国民意識を超える必要があります。

福祉国家の基盤が愛国心や国民意識であるならば、それを乗り越えなければ成立し得ない共同体においては、福祉制度が充実しづらいのは当然のことであると思います。

 

「ヨーロッパ賛歌」が歌われていないという実情から、共同体全体での意識はまだ未成熟であるといってよいでしょう

では、共同体の中でも福祉を充実させるためにはどうすればよいのか。それはかつてヨーロッパ共同体の国々が一つにまとまった根本的な要因である「宗教意識」こそが必要なのではないでしょうか。

 

宗教とは本来、国歌や民族を超えた「人間」を幸福にするための教えであり、信仰であるはずです。国家を超えた「宗教意識」こそが、これからの国際関係を語る上では必要不可欠になっていくのではないでしょうか。

                                   (以上)

 

67.              K.M.

現代の特徴として人間が弱く劣っているから保険や年金加入が強制的である、という話が印象的でした。生活の保障のため当たり前だと考えていましたが、近代の人間観は強く逞しく自立するという現代とは違う考え方だったのだなと思いました。

 それから、国歌は国ができてからではなく、その前に生まれたものであることに驚きました。国歌が普及して先にドイツ人ができドイツ帝国が形成されたことは、おもしろいと思います。それだけ、国歌は統一という力を持っていることを知りました。まだまだ、お話を聞きたかったです。

  

68.              S.Y.

提出期限ぎりぎりになってしまってすみません。
特別セミナーの感想を提出します。
よろしくお願いします。

小野塚先生のお話は、アイデンティティという点で地域社会論という授業と重なるところがあり、とても興味深かった。

フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」とドイツ国歌の「ラインの護り」が取り上げられ、19世紀のフランスとドイツの状況を映画で観た。そこでは、ドイツ軍人の歌う「ラインの護り」にフランス人が「ラ・マルセイエーズ」を合唱してぶつけるシーンが出てきた。

自分の国の国歌を声高らかに歌うということは、自分の国を誇る・国民みんなで団結するという意思の表れだと思う。映画の中の人々は、ドイツ人もフランス人も国歌を大声で歌っていた。その姿はとても印象的だったし、現代社会ではあまり見られない光景だと思った。特に日本人は国歌というものに馴染みがないと思う。「君が代」が国歌と決まったときも、歌う・歌わないでずいぶん問題になった。

今の世界では、スポーツなど以外で国民が一体になる機会がないように思える。そんな今こそ、自国を誇るという気持ちで国歌を歌ってみたらどうかと思った。アイデンティティの喪失が叫ばれるこの社会で、アイデンティティを確立する有効な手段になりうると思う[14]

 

 ------------2005126日提出(提出期限後の提出)---------

69.              K.T.

小野塚先生の話を聞いて、自分は日本のことしか考えておらず、諸外国への共存やアイデンティティの確立など全く考えたことなどありませんでした。日本の国歌である君が代の歌の意味を考えたことがないので、調べてみようと思います。 

70.              K.A. 

講師の小野塚先生の講演は「ナショナル・アイデンティティという奇跡」というものでしたが、非常に興味深いものでした。

初めのうちは、福祉国家という単語から連想できるものも少なかったのですが、先生のお話をきくにつれ、ヨーロッパのかつての国民意識・愛国心、現代のヨーロッパの現状など、ヨーロッパの独自性をわずかですが、理解できたように思います。

 また、講義中にみた映画『カサブランカ』の歌合戦のシーンは、ほんとに短いシーンでしたが、考えるところがたくさんありました。「ラインの護り」は、なんというか国民形成のために国家が無理やりつくったというかんじが否めないというような感じがしました。歌詞の和訳を見ましたが、ある嫌悪感を感じてしまいました。

帝国主義につながる、皮肉というか、国家形成・侵略というテーマが、歌詞に見え隠れしているのがよくわかりました。

 19世紀後半〜20世紀前半の国民運動、労働運動・社会主義運動などは、さまざまな歌とともにあったということも私は知りませんでした。しかし、今回の講義を聞いて、情緒的・感性的な進歩を表す歌という文化が、ナショナリズムと深くつながってきたんだなと考えました。ヨーロッパだけでなく、日本の場合はどうなのか知りたくなりました。

 メールでの感想、遅くなってしまいましてすいませんでした。

 

71.              N.E.

小野塚先生の講義を聞いて、講義の中で取り上げられていた「ラ・マルセイエーズ」と「ラインの護り」という2つの歌について、これらの歌が生まれた経緯や国民に普及していく様子、そして国外でも歌われていくようになることなどの話が興味深かった。

 

映画の中では歌合戦をしたりと対照的な歌かもしれないが、どちらの歌にも愛国心やナショナリズムが表現されていると感じたし、国歌を通じて国民を形成しているように国民には国歌は重要なものなのだと思った。私は日本国歌を歌ってもナショナリズムのことなど特に考えないが、もしかしたらこれは日本国歌を歌っている日本国民にも当てはまる部分があるのかなと思った。

 

また、講義の中ではグローバル化やEUなど現代の内容もあって、これからは一国のナショナリズムだけでなくもっと広範囲での国家形成になっていくのかなと考えさせられた。

 

72.              O.K.

今回の講義でまず印象深かったのは、映画『カサブランカ』の歌合戦のシーンです。

あのシーンは本当に心打つものがありました。国歌というもので、あれだけ多くの人々の心を動かせるものかと思いました。

 

日本では国歌というものは非常に存在感が薄いですが、他国を見る限りではそうではありません。

分かりやすい例を挙げるならば、オリンピックなどの国歌代表として戦う試合でしょう。優勝した選手は、自分の国家に誇りを持って歌っています。なぜなら母国の国歌こそが、選手と母国の人々を結び、喜びを分かち合う手段になっているからです。

 

私達は国家と相互依存をしている存在です。私達が税金を納めたり、様々な国民としての義務を負うことで、逆に国民として多くの保障を受けているからです。また同じ国家に存在することで、私達は見知らぬ大勢の人達と同一の集団カテゴリーに組み込まれるのです。

 

故郷も違えば生活環境も違う、そんな国民をまとめ上げるには、分かりやすい手段が必要です。そこで国歌は大きな役割を果たします。

 

国歌の多くは歴史的背景を持った歌詞を持つことが多いです。ラ・マルセイエーズなど、非常に分かりやすい例だと思います。

 

国家の歴史・在り方を実に分かりやすく表現した国歌、これを皆で歌う内に国民の間には同胞意識が生まれるのだと思います。

ナショナル・アイデンティティ、これこそが国民同士を結び、国民と国家を結び付け、その結び付きのためには国歌が必要なのです。

 

 私は、EUは素晴らしい理念だと思います。しかしヨーロッパ諸国は、非常に各国がナショナル・アイデンティティの強い国家であります。EUとして各国がまとまるのは当然素晴らしいことですが、私は各国のナショナル・アイデンティティのなくなるような事態だけは避けてほしいと思っています。私はヨーロッパ諸国の国歌が好きですし、その歌詞を読むと色々と考えさせられるのです。通貨統合のように、国歌統合はやめて頂きたいと思っています[15]

 

 今回の講義は国歌というものが扱われており、非常に興味深かったです。

また機会があれば、このような特別セミナーを行って欲しいです。

 

73.              I.K

先ず、「何故ヨーロッパの愛国心は強いのか」という問いに、丁度今、読んでいる「EU合衆国」との関連で興味をひかれました。
今までそれぞれが本を読んで考え、議論をしてきたものとはまるで違う切り口の講義で、とても面白かったです。

「国歌」を、情緒、感性、身体感覚のレベルで人に訴えかける装置と説明がありましたが、なるほどと納得させられました。旋律があることによって、詩の内容が定着しやすくなるものなのですね。

言われて見れば、中世など聖書を読む人が少なかった時には、賛美歌や絵やステンドグラスでキリストの教えを説いていたと聞いたことがあるように思います。賛美歌などからメロディをとり、ある種の替え歌のように様々な内容を吹き込むということもあったと聞き、面白く思いました。

具体的にいくつかの歌を上げての説明がありましたが、同じヨーロッパでもやはり相当に歌詞の印象が違うことが、一枚岩ではないEUの中の国々を思わせるものでした。


また、結びの部分に書かれてあった、「ヨーロッパ讃歌は全く定着していない」という記述がとても気になりました。日本だけではなくヨーロッパでも国歌が流行らなくなってきたという事実に驚きましたし、ヨーロッパ統合に勢いのついた今でも、EU全体の歌が歌われないということにも驚きました。


「ヨーロッパ合衆国」にも、EU歌はほとんど歌われていないという記述があったように思いますが、少し年月を経た今でもそうなのかと思いました。
今回の講義は新鮮な着眼点のお話で、歌や文化と愛国心というものについて興味を刺激されました。また、色々な切り口で見るEUというものに、色々と勉強になりました。

 

74.              K.Y.

グローバル化を考える上で、とても有意義で、面白いお話でした。

世界はどのような方向へ進むのか、進もうとしているのかは、人々の大きな関心です。nation という国民国家の概念が人々に受け入れられたのが、1789年のフランス革命に端を発する、たかだか200数十年にしかならないというのを考えると、国家に対する国民の認識もそんなに絶対的なものではなくなる可能性があると思われます。

どのように自己のアイデンティティを規定するかは、世界情勢と密接に結びついているようです。国家は歌、色と結びついて国民の団結を深めて行ったということ、「ラ・マルセイエーズ」というフランス国歌は、もともとはアイデンティティがドイツに近い地域で、フランス国家というnationに属することを願った人々によって歌われ始めたというお話は感銘を受けました。

それまで、同じ地域や職業で結びついていた共同体に属していた人々が、地域も違えば、職業やものの考え方が違う人々が集まった一つの集団にまとまることができたということは、人々がnationに帰属意識、アイデンティティを委ね、福祉国家ができて行った。これは、人々が、国家(nation)というものに自己の利益を見出したと考えられる。

そこで、EUでは、ヨーロッパは福祉国家に成り得るかという問題がEU統合の要となる。人々は理性と感情で行動するが、ネーション国家の誕生においては国歌というものが、人々の感情に訴え、団結に大きな役割を果たした。そのようなことがEUに起こり得るか。利害関係だけではなく、感情の面からも結びつかなければ一つの共同体となるのはなかなか難しいと思った。

アジア共同体についても、戦争の加害者である日本がどれだけアジアの周辺国家に受け入れられるかが、要となると考えられます。 

75.              O.T. 

・小野塚知二氏による11月29日の特別セミナーのなかで、これからのヨーロッパはどうなっていくかという問いに対して、3つの分岐の可能性があるという話が出ました。第一に、ヨーロッパのつながりは弱く、ゆるいままであることでした。また第二に、ヨーロッパレベルでナショナリズムが形成されるということでした。そして、第三に、そのどちらでもないということでした。この話を聞いて、私は、ヨーロッパレベルで部分的にナショナリズムを形成していくべきだと思いました。ヨーロッパレベルでナショナリズムを形成すると良い点が考えられますが、もちろん悪い点も考えられます。よって、完全にではなく、部分的にナショナリズムを形成していったらいいのではないかと考えました。以下では、私の考えるナショナリズムを形成することの良い点と悪い点を述べて生きたいと思います。

 まず、良い点について考えてみます。第一に、ヨーロッパレベルでナショナリズムを形成することにより、それまで貿易関係にあった国同士での貿易にかかる関税や煩雑さといった費用が減少し、生産効率の向上につながるということが考えられます。また第二に、ある地域で景気が悪くなったときに、他の地域が支援して、ヨーロッパ内で解決することができると考えられます。さらに第三に、ヨーロッパを統一することによって、今まで見えなかった視点から物事を見ることができ、また議会における淘汰などによって、行政や経済を活性化することができると考えられます。

 次に、悪い点について考えてみましょう。第一に、景気の悪い地域を支援することによって、逆に景気の良い地域が打撃を受けてしまいます。第二に、もとの国の伝統や文化といった独自性が薄まるということが考えられます。特別セミナー中に、映画「カサブランカ」の一節をみましたが、そこからはドイツ国歌「ラインの護り」を歌うドイツ人の、フランス国歌「ラ・マルセーユズ」を歌うフランス人の、それぞれの独自性(ナショナリズム)が垣間見えました。また、私の好きな映画の一つである、「ラストサムライ」の中では、劇中の明治天皇は「身なりは西洋なれど、伝統や文化を守り、我らが日本人であることを忘れてはならない。」といっており、国の独自性の大切さを垣間見ることができます。そして、第三に、ヨーロッパを統一することによって、各国議会の政界・行政などさまざまな面における人員削減がなされる可能性があります。人員削減がなされると、失業したくないから、統一に対して反対する人がが増えるということが考えられます。

 以上、ヨーロッパレベルでナショナリズムを形成することによって生じる、良い点と悪い点を考えてきました。結論として、歴史や伝統といったその国独自のナショナリズムを保護しつつ、貿易や経済・政治面などで部分的にヨーロッパのナショナリズムを形成していくべきだと思いました。

 

 

76.               

77.               

 

 

 



[1]  この意味は、戦前まで(明治大正昭和)の時代、天皇制(主権は天皇にあり)の時代をさす。

 戦後日本国憲法では、天皇は象徴に過ぎない。統治者ではない。

 

 

[2] 映画『カサブランカ』は、配布資料にもあり、また小野塚先生も説明したように、戦争中の映画です。戦争中だから、ドイツに対する戦争にアメリカの若者や国民を奮い立たせようとしたのです。

「悪はドイツ」と。

その映画のメッセージが、全面的に正しければ、戦争はあんなにも大規模に、また長期の総力戦にもならなかったでしょう。

人類の悲劇として、二つの世界大戦の歴史をしっかり研究してみる必要がありそうです。

 

[3] 以外

 

[4]  特別セミナーは、質疑応答などにも一定の時間を取れるといいですね。

 しかしまた、時間制限があるところが、特別講義の緊張感・意識集中を高めるということがあるかもしれません。

 

[5] そうですか? 「君が代」をめぐるいろいろな問題を考えると、また、民主主義原理から考えると、天皇制絶対主義時代以来の君主崇拝の「君が代」には、違和感を持つのですが。それが、あなたも感じている、どこか「愛国心」とは違うなという感覚の基礎にあることかもしれません。

 

[6]  国家と国家が威信をかけて、国威発揚のためにスポーツを援助している時、そのような国威発揚のための「スポーツがなくなったとき、国歌はなくなってしまうだろう」というのは、わかりますね。
 どのような戦いなのか、誰と誰、どのようなもの(国なのか、家なのか、藩なのか、民族なのかなど)とどのようなものとの戦いなのか、整理してみる必要がありそうですね。

 地球市民の見地からすれば、地球上市民として、われわれ一人一人は、何と戦う必要があるのでしょう?地球全体を護るためになすべきことは?

 

[7]  現在の国歌として法律だ定められた「君が代」は、あなたのいうような「人と人を繋ぐ証」として、日本の気質を表現するものということができるでしょうか?
 少なくとも、「君が代」の歴史は、明治・大正・昭和(20年)までは、天皇賛美、天皇制国家・日本の賛美で、国民を統合するための歌だったのではないでしょjか?

 

[8] 通貨に関しては、イギリス、スイスなど若干の国を除き、ヨーロッパは、ユーロで共通通貨となりましたが? 

 

[9] 私も一番最初に「日本人だ」と強く意識したのは、最初の留学の時、とくにハンブルク空港に降り立った時、その後の語学学校などにおいてでした。

 普段日本にいるときに、「日本人だ」と強く意識することはありませんね。

 

 ただ、外国に行った時、「日本という国に強く守られている」という実感は、ないのですが、この学生さんの場合は、私と違う経験のようです。

 

[10] しばしば「同一民族」というのは、擬制であり、多くのマイノリティを含むものだったというのが現実ですね。

 

[11]  日本人である「プライド」とはなんでしょうか? 「君が代」で感じられるものですか?

 

[12] 「歴史」を総合的にきちんと把握することが大切ですね。

 

[13] たしかにこの点は、じっくり確認し検討してみたいところですね。

 

[14] 本当にそう思いますか? あなたは、「自国を誇る」という気持ちで唄っているのですか?

 

[15] EU讃歌はどうでしょう?EU全体の共通の歌としてつくられ、EU全体としての連帯感・共通性を確認し打ち固めるための歌として、制定されているはずなのですが。