矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』




第五章 民族運動


第五章より


1919年3月の朝鮮万歳騒動・・・「晴天の霹靂」・・・「従前の武断的専制政治を和らぐるの必要」

軍人総督から文官総督へ
  ・・・最初の
文官・田総督の施政方針
「台湾は帝国を構成する領土の一部にして、当然帝国憲法の統治に従属する版図なり・・・したがってその統治の方針は総てこの大精神を出発点とし、書簡の施設経営をなし本島民衆をして
純然たる帝国民としてわが朝廷に忠誠ならしめ、国家に対する義務観念を涵養すべく教化指導せざるべからず」。

すなわち、内地延長主義への転換。

「従来比較的軽視せられし教育を重要視し、かつ
専制政治を転じて本島人の統治的地位-自由権参政権など-を内地人と同一化するをもって統治目標とした。」

「民族運動社会運動の台頭」





台湾統治・・・「大正七、八年の交をもって前後二期に分かつを得る。前期は、・・・・政治的には本島人に対する差別的警察専制統治・・・・、後期は文治的発展期・・・要するに帝国主義が島内にありては従前よりもやや柔軟なる衣裳を着ると共に、島外に対する積極的なる経済発展を高調すること、これ近年台湾統治政策の特徴である。今日においても、台湾統治は警察政治的にあらずとは言い得ざるにしても、前代に比較すればその面目を改めたるは事実である。・・・」






「日本帝国主義の支配の進展は、本島人の民族的運動を当然の結果として自から成熟せしめつつあった。・・・・・」

「新領土たる植民地において異民族を統治するに当たり民族的反抗を受くるは通例のことである。ただ、その反抗の態様は歴史的に発展する。台湾にありて当初我が国の領有に反抗したるものは旧清国官吏及び地方豪族など・・・・


明治二十八年より三十四年まで土匪の台北を襲うこと二回、台中を襲うこと二回、その他各所の守備隊弁務署支庁憲兵屯所を襲うこと五十数回、巡査派出所襲撃などは枚挙に遑あらず・・・・・
明治三十一年ないし三十五年に土匪殺戮数1万1950人・・・・・・・・」





1914年・・・新たな段階の民族運動・・・「台湾同化会」
   板垣退助が組織・・・「台湾人を日本人同様に化育すること及び台湾人にも内地人同様の権利待遇をあたうべきことを主張」。

  総督府はこの運動を極端に圧迫。




「台湾議会設置請願運動」


総督府は大正12年(1923年)末、治安警察法によりこの運動を弾圧・・・指導者を投獄