(2)史料・・・・どのような史料にもとづくか?
史料は、発掘しなければなりません。探し出さなければなりません。
膨大な史料から、適切な史料をえらびださなければなりません(選択)。
社会の中には秘密の資料がたくさんあり、多くは隠されています(秘密)。
都合の悪い秘密の証拠は、しばしば焼却されたり破壊されたります。
しかし、現代社会の多様な相互関係(ものと人の複雑に入り組んだ関係)は、すべての証拠文書・証拠物件をしらみつぶしに隠滅できるほど単純ではありません。
どこかに関連証拠が残り、そこから芋づる式に別の証拠が出てきます。
その発見には時間がかかります。発見に至るまでには、政治や経済の制約・障害・妨害があります。
ナチ体制のように、ヒトラー・ナチ政権を打倒した連合軍が戦後裁判のために、ありとあらゆる膨大な官庁文書を没収するなどということは、歴史上きわめて例外的です。
多くの場合、権力者・官公庁は極秘文書を隠しています。
ナチスの時代の研究は、ソ連・東欧諸国の崩壊によって、格段に進展することになります。ソ連・東欧諸国の国家機関・国立文書館などがアクセスを拒んできた史料群を、自由に利用できる可能性が一挙に増えたからです。
他方また、
刊行された史料集がある場合、きちんと一つ一つを洗い直し、読み直す必要があります。
われわれ一人一人の歴史研究者がきちんと読み、きちんと点検し、きちんと理解できる史料の数は、限られています。
史料の読み落とし、誤解、ゆがんで理解すること、勝手に理解することは、人間にとって必然ともいえます。
自然科学で最近、データの捏造が大問題になっていますね。ES細胞とか、なんとか。
史料の勝手な読み込み、勝手な解釈は、データの捏造に近くなってきますね。
(横道・・・・膨大な史料や研究文献を読んでいて、いつのまにか他人の説を自分の説としてしまうといった問題も発生してきます。
しかし、それは剽窃として厳しく批判されます。
きちんとメモを取り、自分の見解と他人の見解とを区別できるようにしていないといけませんね・・・われわれができることは非常に限られています。独自にできることは、数少ない、量も少ない、と考えておいたほうが安全ですね。
科学者の倫理は、専門の学者・研究者だけではなく、科学的な仕事をしようとするすべての人々、すなわち高校生や大学生などにも、求められるでしょう。
参考までに、日本学術会議の文書「科学者の行動規範」にリンクを張っておきましょう。)
だからこそ、つぎつぎと問題点が発見され、つぎつぎと史料が発見され、新しく読み直され、新しく解読され、論争がおき、検証作業がつづけられるのです。
そうした研究の積み重ねを通じて、しっかりした事実(真実)の数と質が確定されていくのです。