独ソ戦、
ドイツの侵攻開始(1941年6月22日)後、

最初の半年間(12月1日までだから5ヵ月半ほど)で380万人のソ連人捕虜
   ・・・・その運命は




ゲッベルスの日記(1941年12月12日の記述)
「約400万人のボルシェヴィキの捕虜・・・・その
90万人は、すでに飢餓、衰弱、病気で死亡、その他の多数のものが来る数週間から数か月のうちに死亡するであろう」と予測。

しかし、その捕虜大量死の責任がドイツにはないこと(ボルシェヴィキの側にあること)を強調しようとする心理も背後で働いている。

ゲッベルスの日記は、つづいて次のように書く。

「ボルシェヴィキは、大部分がすでにそうした
飢餓状態で捕虜になった。彼らは、最善の世話をした場合にもbei bester Pflege元気付けることはもはやできなかっただろう。しかも、ほとんどの場合、故国(ドイツ)内部への東部前線からの輸送は一週間もかかる。・・・・」

「全体として、約35万人の労働者を実際に故国での労働に投入できれば、喜ぶべきことである。・・・・」

「他面からすれば、それは、たくさんのボルシェヴィキの戦時捕虜をあきらめなければならない必然性、従って外国人労働者をライヒ(本国)で今後も確保していかなければならないことの必然性がでてくる。そこからまた一連の心理的物質的困難が発生してくるが、この諸困難とわれわれはこの冬、取り組まなければならない。」




11日、午後3時からヒトラーの国会演説・・・一時間半
  
 「ものすごい犠牲」を明らかにする。
 
 16万人の戦死者・・・・国会全体に動揺・どよめきgroße Bewegung

  人びとは、この戦死者の数を、ヒトラーが示した数が作用する驚天動地よりも、よりはるかに多いと見ている」と。

 
あいまいな表現ながら、国会全体が「ものすごい犠牲」の数に驚いたことは確実であろう。
 そして、それはヒトラーに影響しないわけには行かない。