ソ連戦時捕虜の
 総数、
 労働配置の数、
 死者・殺害されたもの数



ゲッベルスが1941年12月12日の日記で示した数値(90万人死亡)は、dの欄の「死亡・逃亡・釈放」の半分以下の数値である。

1941年末(1942年はじめ)に、収容所内で生き残っていたものは116万人、それに労働配置に投入されていたのが約15万人、ということである。

その後の半年間に、死亡・逃亡・釈放が約80万人増えている。

最終的に、捕虜総数が569万人余、そのうち収容所内で生存しているのが105万人余、労働配置に投入されていたのが63万人余、そして、400万人が死亡・逃亡・釈放、と。

 (シュトライトの研究によれば、補助員などが
釈放され、その総数は100万人だという。ごく少数の逃亡成功者を別とすれば、彼によれば、戦争終結までにソ連戦時捕虜・総数約570万人のうち、330万人、捕虜総数の57,8%が死亡したという。)




出所:拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942』同文舘、1994年, 225ページ。



オリジナルは、次ぎの研究論文(研究書)




(Göttingen 1981)



C.シュトライト
「ソ連戦時捕虜の取り扱いの社会政策的側面」






シュトライトの研究書、

(Bonn 1991)






同書、ソ連戦時捕虜死亡に関する箇所