責任の所在と軽重は?
日本においても、ドイツにおいても、軍事裁判(東京裁判、ニュルンベルク裁判)は、「勝者の裁判」として批判の対象となっている。
軍事裁判であり、軍事的に勝利したものが、戦争の責任者を処罰するという以上、そこに勝者自身が持っている責任・罪が不問に付されるのは必然となる(アメリカによる大都市破壊・民間人殺戮の原子爆弾投下、他方、敗戦国に関しても、軍事裁判において被告となることは回避されたとしても、それで戦争責任がなくなるわけでもない。たとえば、天皇の戦争責任はその重要な問題)
しかし、歴史から教訓を学び、将来に生かそうとする見地(20世紀の悲劇を克服した地平をさらに高めようとする見地=いわば歴史の法廷)からすれば、勝者・敗者いずれの側の責任についても、戦犯として裁かれたか否かを問わず、軽重を問い、責任の構造を明らかにすることが課題となるだろう。
たくさんの人間が犠牲となり、甚大な物的被害が人類にもたらされた以上、また、ふたたびそのようなことを起こさないためには、その原因と責任を解明していくことは必要である。
責任の所在を巡る最近のひとつの資料・・・靖国神社問題、天皇参拝問題
次ぎの記事は、天皇が、東條、松岡などを主たる責任者とする見地に立っていることを示す。
(Cf. 1941年4月4日のヒトラー・松岡会談記録)
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昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。
昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。
遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。
「松岡、白取」は、靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯の中の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使とみられる。2人は、ドイツ、イタリアとの三国同盟を推進するなど、日本が米英との対立を深める上で重大な役割を果たした。
また、「松平」は終戦直後に宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男の松平永芳氏(いずれも故人)を指すとみられる。永芳氏は、靖国神社が78年にA級戦犯合祀を行った当時、同神社の宮司を務めていた。
昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後になった。その理由を昭和天皇自身や政府が明らかにしなかったため、A級戦犯合祀が理由との見方のほか、75年の三木首相の参拝をきっかけに靖国参拝が政治問題化したためという説などが出ていた。富田氏が残したメモにより、「A級戦犯合祀」説が強まるものとみられる。靖国神社には今の陛下も即位後は参拝されていない。
富田氏は74年に宮内庁次長に就任。78年からは同庁長官を10年間務め、2003年11月に死去した。
(2006年7月20日13時1分 読売新聞)