20080625−30

成田発25日、往復に3日間、会議期間3日間で、ウィーン大学現代史研究所主催の会議(「両大戦間期の中欧・南東欧戦略構想」)に参加し、今朝、成田着、午後、研究室に来て事務処理。

 

最近、ルーマニアやブルガリアのEU加盟を歴史的にどうとらえるか、この問題関心から、両大戦間期の「広域経済圏」のあり方との歴史的位相差を確認したいという問題意識で、科研費の研究を進めている。すなわち、EU拡大の最先端―南東欧への拡大―の意味を考えて見たい。

今回の会議は、それにピッタリの国際会議だった。時間的に極めて苦しい日程(火曜日の教養ゼミA、大学院の講義演習を終えた後水曜日に出発、帰国は火曜日の教養ゼミ等を休まなくてすむように月曜日)であったが参加した。結果的には、大変有意義だった。

 

とくに、ルーマニアのブカレスト大学史学教授ムルジェスク氏と直接話し合うことができたのは、きわめて有益であった。彼の話で印象的だったのは、1995年加盟申請、1999年実質調査、そして2004年くらいまでにさまざまの条件整備、それを踏まえての2007年1月1日からEU加盟というプロセスで、厳しいEU基準をクリアできたことであった。しかも、それは、実は、ルーマニアの民主化(行政の透明性)にも貢献した、内発的な発展だけでは実現できないことがEU加盟に向けての努力の中で実現できた、といった意味のコメントであった。ある種の社会改造が、EU加盟を目指す中で実現できた、ということだろう。

 

そこで実現した行政の透明化と関係するのだろうが、会計検査院Rechnungshofから依頼され、資料集をまとめ、会計検査院の歴史も単著として発表できたという。彼の著作リストを見るだけでは分からないことが、直接話してみると分かってくる[1]

普通、官庁の文書は30年原則で、歴史研究に供されるのは30年後であるが、すべて見せてくれた、という。会計検査院としては、ほとんどの人が知らないこの役所の仕事を多くの市民に知ってもらうこと、情報公開が緊要だと考え、実現したのであろう。

 

ルーマニアがNATOに加盟して、アフガニスタンにも派兵していること、最近の犠牲者はアフガニスタン派遣兵士だとのことであった。イラク戦争は「だめな戦争」だが、アフガニスタンへの派兵は、NATO加盟国としてしかるべきものだ、と。

 

私は、日本は、「厳しいEU基準」からすれば、かなりの長期にわたって加盟申請すらできないだろう、GDPの160%もの国の借金の累積状況ひとつ取ってみても、とコメントした。借金漬けの国、財政規律の確立していない国、というのは、信頼されないのではないか。国が借金まみれの一方で、民間・巨大企業群には莫大な資産の蓄積がある。一方の極には、規制緩和なるもので急膨張した非正規雇用の問題もある。人権状況という点でも、人間が大切にされる民主主義の原則からいっても、日本の格差構造は、問題だろう。租税構造も問題となろう。

 

会議にはセルビア人、ハンガリー人の研究者、さらに、イギリス、アメリカからの研究者も参加していた。今後、この関係を発展させ、できれば、ブルガリアの歴史研究者・現代EU拡大史研究者とのコンタクトも構築できればと考えている。アジアからの参加者は日本人の私だけであり、日本人がEU拡大に関心を持っていることが、会議参加者の間では印象的だったようである。

 

現在は、ルーマニア、ブルガリアなど東欧諸国の一員だった諸国が、よりよい政治・経済・文化・生活の水準を求めてEUに参加を申請し、36項目の参加基準をクリアして初めてEUに参加できる、そのような民主的平和的なプロセスでの大経済圏への参加であり、その拡大である。両大戦間期、列強が自分の指導下・覇権下に勢力拡大のための「広域圏」形成を目指し、列強のそれぞれの「帝国」の間の利害対立が激化し、戦争へと展開したのとは、歴史的位相が本質的に違っている。

 

ウィーンには、1985年夏、当時勤務していた立正大学の在外研究でミュンヘンに1年間留学中のとき、数日間滞在したことがある。しかし、記憶に残っているのはシュテファン大聖堂とプラターの大観覧車(映画『第三の男』で有名)くらいしかなかった。今回、ウィーン・カード(72時間、18.50ユーロ)で、気楽に短時間の空きを利用できるので、これはと思うところを見て回ることができた。美術館・博物館などは、時間がなくて入る余裕はなかったが、19世紀末アール・ヌーヴォー関係のさまざまの建築、ヒトラーが受験に失敗した造形美術学校(美術館)、旧ウィーン・ユダヤ人街の一部など、この眼で確認できた。

ウィーンの町は、人口170万人とかで、日本の都市の規模からすると小さいし、今回、旧市街だけを行き来したためかもしれないが、「意外と小さい町」という印象が強く残った。

泊まったホテルは、インターネットで探して見つけたホテル・コルピング-ツェントラル(U4、中央駅から3つ目の駅ケッテンブリュッケン・ガッセ)だったが、ウィーナー・ツァイレという見所のすぐそばで、手ごろで便利だった。ただ、ユーロ導入当時、1ユーロ=100円くらいだったのと比べると、このところ、160円代がほとんど、この間は168円くらいだったので、ホテル代も高い感じ、予算的にはかなり苦しい。

 

スイス・オーストリア共催のサッカー・ヨーロッパ選手権が開かれる期間と重なっていることを後で知って、ホテルが取れたのは幸運だったかと思ったが、町は案外平穏だった。出発した29日の夜、決勝戦だったので、夜はどうだったか?ドイツ人とスペイン人の応援団は相当に盛り上がっていただろうが・・・機中、現地時間の2時半過ぎ、めずらしく副操縦士が「現在、右手にベルリンが見えます。ベルリン上空を飛行中です、ドイツ最大のまちです、よく見えます」などと解説していた(これは日本人向けの解説だろう)が、そこから、決勝戦を控えて盛り上がったドイツ人の気分を感じざるを得なかった。

結果も、朝方、機内放送で伝えられた。「ただいま試合が終わりました。スペインが1:0で勝利しました」と。これらの特別情報サービスは、乗客の多くがドイツ人なので(飛行機はルフトハンザだった。オーストリア航空による直行便は出発21日前にはすでに埋まっていて予約できなかった、これはヨーロッパ選手権のせいかもしれない)、当然か。



[1] ケルブレ教授も、4月来日時(17日)の大学院生等若手とのセミナーで、外国に出張することの意義を、現地の研究者と直接会話できることにあるとしていた。そこから、図書館を何ヶ月か走り回って探しても分からないような貴重な発見がある、といっていた。そのとおりだと感じた。