オットー・ハーンとリーゼ・マイトナー
  (Cf.ナチスドイツにおける原爆開発





「KWG指導部の努力の結果、協会の研究所の大部分は、ナチの時代の初めのうちは、その研究活動をそうひどく妨げられることはなかった。リーゼ・マイトナーのようなユダヤ人研究者は大学との正式なつながりを放棄しなければならないことが多かったが、研究所の実験室では研究は続けていた。後には、彼らは地位を維持することが不可能となり、ドイツを去らねばならなかった。ただしそれが可能だったらという話である。」(85ページ)






ヒトラーは、アインシュタインを追い出すことを、1931年に示唆。
 ユダヤ人への軽蔑・・・・優秀な科学者も、ユダヤ人の場合、追放してかまわないとする態度。


「彼らが達成したことはどれもわれわれから盗んだものだ。
彼らの知識はどれもわれわれとの対決のために使用されるだろう。
彼らは去るべきである。」


実際に、アインシュタインはじめ、多くのユダヤ系物理学者(その著名なノーベル賞受賞者たち)が、ドイツを脱出。
アメリカの地において、反ナチドイツのために活躍。



アインシュタインは、ワイマール期から、平和主義、国際主義を強調。
ナチ政権は、アインシュタインが国外にいるとき、彼の言動を理由に財産没収。
→アインシュタインはアメリカに亡命



原爆の原理が依拠した(出発点となった)のは、
ヒトラー・ナチスが軽蔑し、追放したアインシュタインの発見したE = m c2 
1905年にドイツの学術誌・Annalen der Physik 17 pp.891921 に掲載、特殊相対性理論)


それを、ヒトラー・ナチスは活用する(できる)か?


アインシュタインは、ローズベルト大統領に研究開発の必要性を進言。

ヒトラーに、原爆の研究開発を進言した人は?
オットー・ハーンは?
ハイゼンベルクは?
シュレーディンガーは?
プランクは?






第2章 ゲッチンゲン−1933年
    ゲッチンゲンの著名物理学者ジェームス・フランクは、「公然たる抗議」で、研究所長を辞職。
    体の弱かったマックス・ボルンも、「消極的抗議」ののち、辞職。・・・ケンブリッジのポストを引き受けた。
    リヒャルト・クーラントは、「静から抗議」を行い、「亡命以外に妥当な手だては何も残っていない」と考え、ケンブリッジのポストを受諾。


    「フランクのスタッフのうち一番最初に去ったのは彼の個人的な助手ユージン・ラビノヴィッチだった。・・・フランクの辞職の少し後に、彼はコペンハーゲンに向かった。彼はそこで一年間研究するようボーアに招かれていたのだった。次いで彼はイギリスに渡り、そして1938年にアメリカに渡った。戦時中彼はマンハッタン計画に従事し、後に科学と政治および科学と社会の関係を扱う雑誌『ビュルテン・オブ・アトミック・サイエンティスト』の創始者の一人となった。」(p.
40)

フランクの辞職願いの現行の作成を手伝った人々・・・その一人・・・「助手で公務員法の非アーリア人条項に該当したであろう、ハインリヒ・クーンも、
「ゲッチンゲンを離れることを余儀なくされた。彼はオクスフォードに来るようにというリンデマンの誘いを受け入れた。助手の職務を解くようにという彼の申請は、7月下旬にポールが許可した。戦時中彼はイギリスで原子爆弾の計画に参加した。・・・・」(40ページ)


「ボルンの研究所の被害はフランクのところをさらに上まわった。すなわちそのスタッフ全員が新しい法律によって追い散らされた。ボルンは、彼の研究所には共産主義者がうろうろしていると非難された。この非難は正しくない。しかしロシアの物理学者ジョージ・ルーマーがしばらくの間その研究所で研究していたり、ワルター・ハイトラーとノルトハイムという助手がその頃ソ連を訪問したりしていた。実際ノルトハイムは1932年秋から1933年1月までその地に滞在した。彼にとって、ひとつの独裁から抜け出たところで、別のそれの始まりに直面しているのに気付いたことは大変な経験だった。」(40−41ページ)


「エドワード・テラーはゲッチンゲンのアーノルト・オイケンの物理化学研究所に地位を占めていて、ボルンとは彼の光学の本で一緒に仕事をしたことがあった。オイケンは、テラーを解雇にはしなかったが、すぐに国を去るよう勧めた。彼はロックフェラーの奨学金でコペンハーゲンに一年滞在したあと、次の一年はロンドンのユニバーシティ・カレッジでF・G・ドナンと一緒に研究した。テラーは今でも、亡命者がイギリスで受けた思いやりを非常な感謝の念をもって回想している。1935年に彼はアメリカに渡り、そこで彼とノルトハイムはマンハッタン計画に積極的にたずさわった。」(41−42ページ)


ユダヤ人物理学者追放によるゲッチンゲンの4つの数学・物理学研究所は壊滅状態。








フランク(第二物理学研究所・所長)・・・ゲッチンゲンを離れたのは、1933年11月27日

「彼の助手の一人ウェルナー・区レーベルは、汽車のホームは彼を見送りに来た人であふれそうだった、と回想している。それは『無言の抗議の印象的で忘れられない経験』だった」。(51−52ページ)


「フランクは1934/35年はボーアと一緒に過ごし、次いで1935年から1938年まで再びジョンズ・ホプキンズ大学で研究し、最後には、シカゴ大学の物理化学の教授におさまった。その後シカゴで彼は、アメリカ最初の原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画に引っぱり込まれた。彼の名前は、最初に開発された原子爆弾の使用に反対した、先見の明をもった委員会勧告をすぐに連想させる。その勧告は通常フランク報告と呼ばれている。」




ドイツの物理学におけるユダヤ人科学者追放の重大性



自然科学の中でも、物理学にユダヤ人が入っていける可能性が大きかった。
新興領域・・・・新設ポストの多さ・・・実力主義・・・プランク、ゾンマーフェルトなど















プランクなどのナチスの「大目標」認識=共感
ヴェルサイユ条約による困難の終息
自己を殺し公益のために個々の欲望を犠牲にすること
何百万人もの失業社のための働き口を作り出すこと


プランクなどによるヒトラー・ナチスの誤認






プランク、ハイゼンベルクなど、ドイツに残った人々の見地・・・・ドイツの科学のため、長期的観点(ナチス体制後の視点)で、「教育」の重点。

自主独立の精神−マックス・フォン・ラウエ
追放されたハーバーをたたえ、ガリレオの言葉を、1933年9月の物理学会年会において。・・・プロイセン教育省が非難(89ページ。
フォン・ラウエは、「ナチへの協力拒否のシンボルとなっていた」(90ページ)

フリッツ・ハーバー追悼集会
(ハーバーの死は1934年1月29日、その一周年の追悼式1935年1月29日)
・・・・ナチへの公然たる抗議・・・・KWGで主催・・・・教育省はすべての国家公務員に対し参加を禁止。
   オットー・ハーン、リーゼ・マイトナーなどが参列。





国際的孤立

人的交流の面で(西ヨーロッパ、アメリカの学者との交流の減少、南ア連邦、グダニスク自由都市、ルーマニア、チリなどからの訪問者が、オランダ、フランス、イギリスからのそれと同程度に目立つようになる)(99ページ)


学術雑誌も孤立の影響を受ける。・・・定期購読者の減少、

国外での学会報告・・・ナチ政府の許可が必要・・・審査・決定は宣伝省の帝国学術センターが行う・・・(104ページ)



「物理学者は国民社会主義者の追放政策の一番の被害者であることから、政府とは疎遠となっていた」(105−106ページ)