拙著『アウシュヴィッツへの道』表紙写真は何か?
それは、
ヒトラー生家(記念館)の前にある碑
「戦争とファシズムに反対する記念碑」
どこにあるか?
ヒトラー生誕の町ブラウナウ・アム・イン
(オーストリアの小さな町・ドイツとの国境イン川沿岸の町)
(ヒトラー誕生の時は、ハプルブルク帝国の税関が置かれた町)
(ヒトラーの父は、税管吏)
記念碑に書かれていること:
「平和、自由と民主主義のために
ファシズム、決して再び許すな
何百万もの死者が警告」
*********写真撮影説明*************
2019年6月10日 聖霊降臨祭
( 聖霊降臨祭(復活祭後の第7日曜日, 5月初旬から6月初旬に当たる移動祝日・・・ 三省堂 『クラウン独和辞典』)
ドイツ博物館アルヒーフも休館だということを知って、さてどうしようかと考え、まだ見ていなかったヒトラー生家の現在を見に行くことにした。
ヒトラーのミュンヘン時代の住居、ウィーン時代の住居はかつて調べたことがあったが、生家はまだだったので。
ローカル線を二回乗り継ぎ、
オーストリアのブラウナウ・アム・イン(イン川沿いのブラウナウ)という小さな町に出かけた。
ジンバッハ(ドイツ)とブラウナウ(オーストリア)のあいだのイン川(鉄橋の上・車窓から)
北(下流方向、ドナウ川に合流)
南(ドイツアルプスから)
左(西)がドイツ このあたり東北東に向かって流れるイン川 右(東)がオーストリア
川の真ん中がドイツ・オーストリアの国境線
イン川は、この下流の町パッサウでドナウ川に合流
ブラウナウ駅
小さな町の駅という雰囲気がよくわかる。
駅からヒトラーの生家まで、せいぜい徒歩15分といったところ。
ヒトラーの生家(2階に間借り)とイン川・そのそばの税関所(ヒトラーの父はここの税関吏)とは200メートルほどか。同じ通りで、同じ側にあった。
今では、グーグル・マップで相互の位置関係、そしてイン川、その中央をドイツとオーストリアの国境線が走っていることなどは、簡単にわかる。
から
グーグルマップでブラウナウ・アム・インを調べると、地図Pdf
しかし、現地に行って、歩いてみて、その近さに驚いた。
ヒトラーが幼少のころの記憶はなくても(生後数か月でこの町を離れたが、税関吏の父は同じイン川下流の国境の町パッサウなどに務めた)、
イン川沿いの国境を感じ、
「川の向こう側はドイツ帝国、自分は同じドイツ民族なのに分断され、ハプスブルク帝国のなかにいる」
(『わが闘争』の記述)などと感じていたと想起することは可能であっただろう。
国境意識、民族分断意識、大ドイツ主義と小ドイツ主義の具体的な違いが、日常幼少期体験として(出生地を思い起こす中でくりかえし)、
身に染みていたであろう。
それが、のちの独墺合併の基礎意識・正当化意識とかさなりあっていたであろう。
ヒトラー生家(間借り)
ヒトラーの家は、ザルツブルガー・フォーシュタットという場所・通りにあり、
ブラウナウ・アム・インのもっとも古い中世からの中核都市部分の外にあった。
ヒトラー生家に関する最新の研究――ウィーン大学修士論文ー
ヒトラー生家の前にある
「戦争とファシズムに反対する記念碑」
平和、自由と民主主義のために Für Frieden, Freiheit
und Demokratie
ファシズム、決して再び許すな Nie wieder Faschismus
何百万もの死者が警告。 Millionen Tote mahnen.
* 最近の報道では、ヒトラー生家は、ミュンヘンの党首時代の住まいと同じように、警察署に。
ネオナチの巡礼地、本拠地や宣伝拠点となるのを防止するため。
これに関する報道:
https://www.youtube.com/watch?v=ObTJui7_DZY
https://www.youtube.com/watch?v=O-EXsL_7tUs
* ヒトラー・ナチ体制の犠牲者ということなら、実際には、数百万にとどまらない。
ソ連の犠牲者だけでも、2000万とか2500万人、あるいはそれ以上、とも。
ユダヤ人犠牲者だけでも、600万人。
ヒトラー生家の前から、ブラウナウ・アム・インのもっとも古い都市部分への道、
家から50メートルほどでその市の門(旧市街への入り口)。
この門を通り抜けたら、大きな広場・両側に商店・銀行・官庁などが並ぶ町中心部。
シュタットプラッツ
上の写真街並みの手前、20メートルほどに税関事務所(今の税務署Finanzamt)があった。
この現在の税務署の位置に、かつてヒトラーの父が務めていた税関があった。
左手の通りの左手は、独墺国境となるイン川が流れている。
この写真前方、通りの右手に、上の税務署(旧税関)の建物
この交差点に立つ道路標識・・・川を渡ればドイツのジンバッハSimbach a. I. ドイツ、と。
反対にいけば、町の中心Zentrum、と。
イン川、そして、ドイツ・オーストリアを結ぶ橋。
現在は、国境(川の中央線)があってなきがごとし。
どちら側からも、自動車がすいすい、自転車、歩行者も自由に往来。
ミュンヘンからブラウナウ・アム・インまでは、
ミュンヘンからは2時間少しであった。ローカル線乗り継ぎで。
2019年6月10日のオンラインチケット(日本で購入)
ヒトラー生家を写真で確認した後、
彼の最後、ヒトラー自殺の総統大本営(破壊された総統官邸周辺)の写真、遺言を見ておくのは、歴史を考える上で、重要な刺激をあたえることになろう。
①ヒトラーの遺言
②遺書に署名したフォン・ベロウの記録(回想録)
③アントン・ヨアヒムスターラー『ヒトラーの最後-伝説とドキュメント』Muenchen 1995(2004)
④『ヒトラー最後の12日間』J. フェスト より
⑤ トレヴァー=ローパー『ヒトラー最後の日』(邦訳は、第4版を、橋本福夫訳で、筑摩書房、1975年)
H.R.Trevor-Roper, The Last Days of Hitler, 1947, the Macmillan Press Ltd.
最近のヨアヒム・フェストの本『没落Der Untergang』(これを底本にした映画「ヒトラー最後の12日間」)は、トレヴァー=ローパーの歴史研究に重要部分で依拠。
「ほとんど新しいところはない」との評も出るくらい。
補:ヒトラーの家系
イアン・カーショー『ヒトラー』上、最初の部分 Pdf