2022-11-21〜30 ドイツ博物館(ミュンヘン)アルヒーフ調査
科研費(コロナ禍で一年自動延長)航空機開発と世界航空交通の黎明―ヴェルサイユ体制下のユンカースを中心にー
による調査

今回の目的:第一次世界大戦終結までのユンカース機の発達過程
    ――世界初の全金属製旅客機 F 13を可能にしたものは何か?」:史料調査

問題意識:原爆開発に関することだが、「戦時においては、科学・技術上の理念の実現は驚くほど短縮される」(1942年当時ソ連の科学行政の頂点にいたセルゲイ・カフターノフ)(市川浩『ソ連核開発全史』ちくま新書、2022年11月刊30ページ)。
 まさに、金属製航空機開発にもそのようなことが言えるのではないか?


事前に調査対象目録を送付。

Vorbestellung-Bestellunsliste 2022-11-18

 

FA Junkers Luftfahrt und Verwertung

 

1.1 Flugzeugforschung Prof. Junkers vor dem 1. Weltkrieg
   (第一次世界大戦以前は、航空機研究)

第一次世界大戦以前の史料

Bestell-Nr.0101

T0
, T02, T03, T04, T05, T06, T07  

 

Bestell-Nr.0201

1.2 Junkers-Flugzeugbau im 1. Weltkrieg
  (第一次世界大戦中、その戦前の構想・研究の上に、実践的航空機建設へ)

第一次大戦期の史料
 T01, T02, T03, T04, T05, T06, T07, T08, T09, T10, T11, T12, T13, T14,T15


調査実態
 
 量があまりにも多いので、
まず、201/14, 15, 10を調査。
ついで、
  201/01, 02, 03, 04, 05を調査。
  (すなわち、201についても、すべての文書つづりを見ることができなかった)

    コピーを673枚とったほか、
    ドキュメントをCanon小型カメラで撮影・・・約2000枚ほど。 


 第一次世界大戦までのユンカースの活動(Bestell. Nr.101)は、今回は全く見ることができなかった。


 次回(2023年2月を予定)に調査したい。



土曜日(26日)と日曜日(27日)、図書館は空いているので、アルヒーフでコピーした文書の整理、
および「ユンカース・アルヒーフ史料紹介」の草稿を執筆(A4で30枚ほどを仕上げる
・・・・2月調査で補足、添削が必要)。


今回調査の時に撮影したドイツ博物館アルヒーフとミュンヘンの様子。


図書館:アルヒーフはこの中の最上階に。

 ドイツ博物館付属(同じ敷地内)の図書館


 この図書館案内ポスターには、
 「すべての人に開放、土曜日と日曜日も。9時から17時まで」と。


  閲覧室での作業中に。
   


アルヒーフ

 アルヒーフ(図書館最上階にある)入口


  文書閲覧室



 一番奥の机に、借り出した文書箱と仕事用パソコンなど。



ドイツ博物館の入館口が、この間に新しい場所・新しい建物になっていた。
以前は、中庭から。
今は、博物館島の等南端近くに。


 
 この博物館案内板は、上が南(ドイツアルプスの方向)。




  入口(玄関ホール)の南側。


玄関ホール横から、イーザル川(ドナウ川に流れ込む、北方・ドナウ川方向を見たところ)










――ロシアのウクライナ侵略戦争に関連するいくつかのこと――

①航空路(ルフトハンザ)

 往路・・・ベーリング海峡・アラスカ・北極海・北極点、グリーンランド・デンマークを経由して、北部ドイツから南下して、ミュンヘンに。
     飛行時間14時間40分

 復路・・・帰路は、ミュンヘンから、南方向(バルカン半島→黒海のトルコ沿岸)、それからカスピ海ジョージア中央アジア(カザフスタン)中国(北京近く)朝鮮半島(韓国)日本海中部日本太平洋にでて羽田、というルート。
 
飛び立ってから着陸までは11時間45分(機長放送、ルフトハンザの旅程表では12時35分翌朝9時5分、12時間30分とある)。
 意外に短時間(往路の北極海・北極点経由は14時間40分だったので、それと比べると)。


 ロシア上空を飛べないことから来るこの往路は、かつて、ソ連時代の1975年夏、初めてDAAD留学(立正大学在外研究)で、アンカレッジ経由ハンブルク着の北回りに乗ったことを思い出した。

 復路の経路は、初めての経験。こんなルートもあり得るのだと。
 しかも、偏西風の影響もあるのだろうが、わずか12時間ほどとは。

 しかし、もちろん、疲労はかなりのもの。往路は特に従来より2-3時間ほども長く狭い座席に縛られるので。


②ズデーテン問題・ズデーテン難民の想起
 ロシアのプーチン政権が、ウクライナの「東部ロシア人地域」への「抑圧・弾圧」を口実にして、
ロシア人優勢地域をウクライナから分離独立させようとする今回のやり方は、ナチス・ドイツ、
ヒトラーによるズデーテン併合をどうしても想起させる。

  昔の拙稿:ズデーテン問題htm

 それで、かつて、1985年から86年の一年間、立正大学在外研究でミュンヘン大学社会経済史研究所(Prof. Dr. Wolfgang Zorn)に在籍の折、ズデーテン問題(彼の元での博士論文が刊行されたばかり)を調査したことを思い出し、そのズデーテン文書館を見に行った。
 「いまどうなっているかな」と。
 早朝、9時開館のドイツ博物館での作業の前に、すぐ近くなので、足を延ばした。


「ズデーテンドイツ人の家」
 この中にズデーテン関係の諸組織・諸機関が入っている(下の玄関ガラスにズデーテンの名前が入った各種組織・機関名)。
アルヒーフも。

  


 驚いたことは、この間に、同じ通りの近く(50m先)に、ズデーテン博物館ができていたことだった。
 



 
1938年のミュンヘン危機(ズデーテンのドイツ人マイノリティ「迫害」、「民族自決」要求)を経て、ヒトラーのズデーテン併合、その後チェコの保護領化、さらにポーランドの「ドイツ人少数派のポーランドによる迫害」なるものとその「保護」、そして戦争への突入、

ナチス・ドイツ敗戦によるズデーテンドイツ人の追放⇒国境を接するドイツ地域に300万人ほどのズデーテンドイツン人が流れ込む。
  バイエルン州、そして、ミュンヘンにも非常に多くのズデーテンドイツ難民。


③上のことと関連するが、今回、ミュンヘン市庁舎の壁に、その当時のことを書いた記念板(写真下)がはめ込まれていることに気づいた。
下の写真の下部に明記。






  「1945年以後、ミュンヘンは、14万3000人以上の故郷被追放者(Heimatvertriebene)の
生計獲得の場となった。彼らは、わが町の復興と生活に決定的に貢献した」と。

 実際には、戦後混乱期、大量の難民は必ずしも、ミュンヘンをはじめとするバイエルン州の各農村等で必ずしも歓迎されないところがあった。
 その負の側面を強調せず、ポジティヴな面を、市の記録として前面に押し出している。

  戦後再建期のドイツについて詳しくは、たとえば、
 拙稿「ドイツ経済再建の人間的社会的基礎」廣田功・森建資編著『戦後再建期のヨーロッパ経済――復興から統合へ』日本経済評論社、1998年を参照されたい。
  Pdf



 ドイツ全体で東欧から1千数百万人のドイツ人が追放され、故郷を奪われた。
 300万ズデーテンドイツ人の運命を検討することは、ウクライナ東部の「ロシア系人民共和国」の分離独立問題などを考えてみる貴重な歴史素材だろう。

 この戦争最終局面(敗戦による東欧ドイツ人の避難・追放・難民化については、たとえば、2001年の下記拙稿を参照いただきたい。
 『独ソ戦とホロコースト』(日本経済評論社)
 第7章 疎開、逃避行、追放による難民化と「普通のドイツ人」 Pdf
  





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2022-11下旬のミュンヘン中心部の様子


 マリーエンプラッツ・クリスマス市


  誰も、マスクをしていない。(メインの通り、カウフィンガー通り)


聖ペテロ教会(マリーエンプラッツ)…天井のフレスコ画が有名


クリスマス市の出店(マリーエンプラツ)



    電車(写真は路面電車)のなかは、マスクをするように、との警告。
    「口と鼻は覆うように」と黄色いポスター。