映画「ベアテの贈りもの」 (岩波ホール)と
野村胡堂・あらえびす記念館
この映画は、ゼミの議論で話題となり、女子のゼミ生が見たというので、学会(政治経済学・経済史学会、略称「政経史学会」)の仕事で東京に出たついでに、神田神保町で途中下車し、見にいったものである。
映画は、ベアテ・シロタ・ゴードンさんが岩手県紫波町(しわちょう)の「野村胡堂・あらえびす記念館」での講演場面をはじめと終わりに配して、ベアテさんの話をおりまぜながら、多様なドキュメント写真・映像で構成したものである。
野村胡堂・あらえびす記念館には、ベアテさんのお父さんのピアニスト・レオ・シロタさん演奏・収録の貴重なレコード3枚が保管されている。
「ベアテの贈りもの」がまさか、野村胡堂・あらえびす記念館でのベアテさんの講演を主要な素材にしているとはしらなかったので、驚いた。
実は、銭形平次の作者「野村胡堂・あらえびす」のことは、大学で経済史を学び始めたころゼミの先生(故・遠藤輝明・横浜国立大学教授)から、ドイツ経済史の「松田智雄先生の奥さんは、あの銭形平次の作者で有名な野村胡堂の娘さんですよ」、「胡堂はたいへんなレコード収集家でね。あらえびすというペンネームで音楽評論などもおこなっていたのですよ」などと聞かされていた。(野村胡堂の長男・一彦氏と松田先生が旧制・成城高校時代・東大時代に友人だった関係)
まさか、そのレコード収集のなかに、ユダヤ系音楽家であるレオ・シロタ氏演奏のストラビンスキー作曲「ペトリューシカ」がはいっていたなんて。
ベアテさんの父シロタ氏は、ハルピンの演奏会の時に山田耕筰と会い、山田耕筰に招聘されて来日し、東京音楽学校(現・東京芸大)の教授をしていた。
しかし、日独伊・三国防共協定から日独伊・三国軍事同盟へと日本とナチス・ドイツの関係が緊密化するなか、ユダヤ系(ロシア出身)ということでベアテさんはドイツ人学校(大森)にいづらくなり、アメリカンスクールに移り、結局、アメリカで進学することになる。(当時の日本のユダヤ人政策については、阪東宏著『日本のユダヤ人政策1931−1945<外交史料館文書「ユダヤ人問題」から>』未来社、2002年、など参照されたい。)
日米開戦後は、ベアテさんは日本に残る父母と音信不通になる。
シロタ氏夫妻は、戦時中を軽井沢で、厳しく苦しい状況下で生き延びた。
ベアテさんは、戦争終結後、父母を訪ねて日本に行く道を探した。その可能性は見つかった。日本占領軍であった米軍の軍属として。
その占領軍軍属の仕事として、アメリカ側の日本国憲法の草案作成作業があった。
ベアテさんは、唯一の女性として、女性の人権、男女平等などの条項をつくる上で、さまざまの先進的憲法条文などを探し、草案を作成した。
その彼女の努力の跡が、第14条、第24条などに反映されている、というわけである。
ベアテさんによれば、「男女平等・同権の問題は、天皇制問題と同じくらい大問題だった」と。
ベアテさんの講演最後の印象的な言葉・・・第14条、第24条など、彼女が関係した条文は、「歴史の叡智です」と。この点が、本質的に重要なことだろう。
大学院では松田智雄先生の指導を受けることになった。
この紫波町の「野村胡堂・あらえびす記念館」の建設・開館(1995年)当時には、日独シンポジウム(1996年3月開催)の事務局長として、松田先生とはしばしばお会いするようになっていた。先生は、日独シンポジウムとこの記念館の創設(あらえびすが収集した8000枚余のレコードの記念館への移転など)に深く関わっておられた(寄付ないし寄託していた「東京都から記念館に貰い受けることになりました」とある会合の時話していた)。開館記念式には招待状もいただいた。
せっかくのチャンスではあったが、開館記念式には多忙でいくことができなかった。しかし、今回、予想もしていなかった「ベアテの贈りもの」をみて、記念館の様子を知り、何重もの意味で、「偶然の出会い」「偶然の積み重なり」に驚いた次第。
ゼミでの議論、ケルブレ教授の家族社会史の講義、その感想会、など一連のことが結びついたわけで、「偶然と必然の連鎖」を感じる。
--------映画「ベアテの贈りもの」より-----------
ベアテ・シロタさんは、次のような人物。
「1923(大正11)年
ウィーン生まれ。
ロシアのピアニスト、レオ・シロタ氏が父。
レオ・シロタは、リストの再来と言われた
5才の時、山田耕筰の招きで東京音楽学校(現・東京芸大)に
赴任した父とともに来日し、少女時代を乃木坂で過ごす。
1945(昭和20)年
GHQ民政局のスタッフとして再来日。
22才の若さで日本国憲法の人権条項作成に携わる。
その草案は、第14条「法の下の平等」、
第24条「両性の平等の原則」などに生かされている。」