60年代にルール大学との協定、シンポジウム開催などの初期には、有澤廣巳氏等が中心だったと伺っている。
松田智雄先生も最初からの中心メンバーの一人。
有澤門下として中村隆英教授(東大名誉教授)も、一貫した参加者だと伺っている。私の直接関係した3回の日独進歩でも中村教授は中心メンバー・報告者だった。
ドイツ側では、五賢人会議メンバーのハックス教授(ボン大学)、ワトリン教授(ケルン大学)、ボーフム大学東アジア研究所のクラウス教授、クレナー教授などが中心的参加者。
私が直接関与したのは、3回であり、
1993年9月 日独シンポジウム(ボーフム)大会(ルール大学)
1996年3月 日独シンポジウムk(東京)大会(東京大学)
1999年9月 日独シンポジウム(ボーフム)大会(ルール大学)
ルール大学(1999年9月シンポジウムの時、撮影)
1993年9月のボーフム大学におけるシンポジウムには、ちょうどコブレンツのドイツ連邦文書館で半年間の長期研修中だったため、松田智雄先生のお誘いもあって、参加。
その縁で、次回の東京での大会には、事務局長を任された。最終局面で、松田先生がご逝去。
それもあって96年3月の大会開催はたいへんだったが、大会は無事成功(本学着任直前だったが、矢吹晋教授などに案内を差し上げたところ、矢吹先生は中国問題のセッションにご参加くださった。)
東京大会の記録は、クレナー教授(ボーフム大学)と渡辺尚教授(京都大学教授、現在、東京経済大学教授)の編集で、『型の試練』信山社として出版されている。
1999年のボーフムでのシンポジウムでは、97年のアジア経済危機への対応策に関して「宮沢構想」など日本の政財界の構想を紹介した。この年のシンポジウム記録も、シュプリンガー社から、クレナー教授、渡辺尚教授編で出版されている。
(cf.Globalization and Regional Dynamics von Wolfgang
Klenner, Hisashi
Watanabe)
ボーフム大学と東京大学は相互交流協定を結び、日本学(ヤパノロギー)を中心に、かなり密接な関係を築いていた。
毎年、東大からは客員教授がきていた。私がいた二年間では、西川正雄教授(教養学部)、そして、有賀弘教授(社会科学研究所)であった。
当時、松田智雄教授は退官後、特命全権公使としてケルン文化会館の館長であった(その後、筑波に新設された図書館情報大学の学長)。
松田先生の指導の下、たくさんの日独シンポジウムが開催されていた。
(日本代表・松田教授挨拶)
松田智雄教授ほか、
日独シンポジウム参加者会食(93年9月)
(93年9月、日独シンポジウム会場・
大学内・植物園近く旧農家改造)