最新の研究史総括:
モムゼン(2010)の場合・・・「最終解決への転換点」(本文、注)
12月説をどう評価しているか?
S.214
第三帝国諸占領地、徳のソ連の研究が、我々の認識を飛躍的に拡大し、
東中欧におけるドイツ占領政策と体系的なヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策との関連性を証明した。
(これはまさに永岑1994、2001の見地)
同時に、ヒトラー、ベルリン中央官庁の命令に還元されるのではなく、彼らと地域の権力者との相互関係のなかで、
最終解決が実行されたことも、コンセンサスとなった。
(この点、永岑2001の場合、親衛隊警察の全機構(ヨーロッパ全域に張り巡らされた支配機構
(その活動、事件通報ソ連と国家警察重要事件通報)、その支配の必要性との関連性をみるなかで、検証した)
S.215 ]
Martin BormannとHeinrich HImmlerの「危惧」なるものが、絶滅政策を加速した。
(永岑の場合は、独ソ戦の推移、スターリングラード戦の在り方が、総力戦敗退の圧力と相まって、決定的「加速」要因とみる。)
ヒトラーの包括的命令をめぐる問題も、相変わらず、論争。
世界観的な種々の「絶滅」構想・観念が、実際に行動に移されるのはいつか、これが問題の核心。
(私の場合は、独ソ戦と世界大戦、その諸困難・敗戦への道を実行への客観的強制的要因とみる。)
強制的移住と保留地プラン
S.216 1939年1月30日の有名な演説・・・エヴィアン会議失敗を受け(あるいは嘲笑し)、
1940年10月、ゲシュタポ長官ミュラーが、スペインとフランスからのユダヤ人移住を禁止。
「新たな世界戦争とユダヤ人によって解き放たれたら、『最後にはユダヤ人種の絶滅だ』」との言説は、
20年代に規則的に表れてきたユダヤ人を人質として利用するという反ユダヤ主義的扇動の常套句に
属するものだった。これがのちに独裁者のユダヤ人問題についての立場に現れ出た」
(世界戦争の責任論としてのユダヤ人問題、という関連性は、通底。
欧米諸国にも受け入れられる反ユダヤ主義の論理)
S.217
ヨーロッパにユダヤ人受け入れの「自由な土地」があり受け入れ可能と、主張したものと(モムゼンの解釈)
したがって、なお強制的移住政策の延長線にあるもの(モムゼンの解釈j)
(ホロコースト研究者、私の見解とは、違う。
この演説が、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅に果たした意味に関して、きちんと位置付けるべきだ)
ポーランド攻撃、ポーランド共和国解体、総督府創設、西プロイセンの併合が、「完全に新しい状況を創り出した。」
「移住政策を相対化した」
戦争の状況(侵略とそれに対する反撃・抵抗)が、大規模に暴力的手段を行使することに対する抑制を取り除いた。
総督府が、ソヴィエト占領諸地域で行われる抑圧の実験場Erprobungsfeldとなった。
(このポーランドの位置づけは、ブロシャート説以来のもの、
しかし、ポーランドは民族主義的支配体制であり、その指導層・軍人の殲滅であり、
ソ連のユダヤ=ボルシェヴィズム打倒・殲滅という基本戦略との違いも重要、
国家権力の中枢を撃破殲滅する、という基本戦略の点では同一だが)
S.218
ヴェストプロイセン、ヴァルテガウから総督府へのユダヤ人移送作戦・・・フランクの抵抗、それにゲーリングも同調。
袋小路に入って、・・・
1940年はじめ、
そこで浮上したのが、ソ連へのユダヤ人移住。
・・・しかし、ソ連政府の無関心(冷淡さ)により、挫折。
アイヒマンによって推進されたニスコ・プロジェクト・・・これに一連の他の保留地構想解決策が結び付いていた。
ルブリン地区における保留地諸計画
ハイドリヒが作成した近距離計画・遠距離計画
関係諸官庁の対立的利害関心から、挫折。
そうこうするうち、ソ連征服戦争の動員準備が始まる。
こうした袋小路に直面する中で、ハイドリヒは、外務省のマダガスカル案に興味を示した。
そして部下にその仕上げをさせた。
フランス進軍後、イギリスがヒトラーの「大々的な平和条件」提示をしても拒否され、計画は廃止となった。ただ、
公式には、1942年になって初めてad. acta
veraltet ablegen, zu den Akten legen
S.219
ヒトラーの対ソ攻撃の決断で、状況変化・・・・「戦後に、ヨーロッパのドイツ支配下ないし統制下の地域への移住させる」させる政策へ。
Danneckers Bemerkung
1941年3月26日のハイドリヒが作成しゲーリングに提出した文書、そして7月31日にゲーリングから全権を付与された計画
「ヨーロッパのドイツ影響下のユダヤ人問題の全体的解決のための準備」命令。
ゲーリングがハイドリヒに7月31日に与えた全権が、
長い間、ヒトラーの「ユダヤ人問題最終解決」命令と混同されてきた。
S.220
NS指導部は、ソ連の速やかな敗北とイギリスの譲歩を想定していた。つまり、10月にも、中心的戦闘が終結するとの想定。
ゲッベルス日記記載。
ソ連に対する絶滅戦争
地域的な「最終解決」は、東部への追放によって行うものと。
これは、ヒムラーの東ヨーロッパにおける民族的「耕地整理」――
この構想は東部全体計画Generalplan Ostで頂点に達する――と密接に関連。
しかし、1941年早秋、ユダヤ人問題の将来的展望が根本的に変化。
ソ連に対する人種絶滅戦争Rasesnvernichtungskriegによって。
それは、1941年3月30日のヒトラー発言をもとにして。
(永岑:人種絶滅戦争、とは修飾過多の誇張表現ではないか?
1941年3月30日のヒトラー発言の正確な解釈が必要というのが、私の立場。
大木さんへの批判的コメントの立場。
ヒトラーの6月22日の国会演説をみよ。撃破・絶滅すべきはユダヤ=ボルシェヴィズムだ。
実際の戦闘に置いて、闘いのダイナミズムで、すなわち、ソ連赤軍が国家指導部・スターリン体制の勢力との激闘で、
ソ連人民(国家指導部に従うソ連人民)に多大の犠牲を強いる大祖国戦争になって、
2000万ともいわれる犠牲者数という結果からすれば、それが「人種絶滅」に見えるとしても。)
S.220 -S.221・・常套句「ユダヤ=ボルシェヴィスムス」、ユダヤ人を不穏発生元として、パルチザン・シンパとして、無差別に殺害
8月から、早いところでは7月のうちにも。
S.221
1941年8月1日のヒムラーの親衛隊騎兵連隊に対する命令・・・全男子ユダヤ人を射殺せよ、
夫人子供をプリピャチ湿地帯に追放せよ。
後者は失敗。しかし、背後にある観念は、ユダヤ人から存在基盤を奪い取り、殺戮せよ、と。
ヒムラーは明らかにoffenbar、アインザッツグルッペCの上級親衛隊警察指導者イェッケルンに、
婦女子を含む非労働ユダヤ人の殺害を命じた
労働能力あるユダヤ人と労働不能、非生産的ユダヤ人の区別
同じ発想は、7月16日のヘップナーの提案にも共通。
(非労働ユダヤ人は、ドイツ占領者にとって、厄介者、「大食漢」、パルチザン協力者、などとして、除外=殺害対象となる)
S.222
1941年7月後半・・・ユダヤ人問題の「最終解決」については、「漠然とした観念」vage Vorstellungenしかなかった。
S.223
さらに東方へ
1941年9月18日 ヒムラーがグライザーに「総統のご希望」を伝える。
第一段階として、 ドイツとプロテクトラートのユダヤ人を二年前に併合した地域(東部)へ、
次いで、来年春、「さらに東方へ追放」。
最初、リッツマンシュタットを予定。
しかし、
実際には、ミンスクとリガへ輸送=追放。
S.224
ユダヤ人問題の処理が、「新局面へ」。
それを推進したのは、「自分の地域をユダヤ人から解放したいjudenfrei大管区指導者たちの要求
(永岑:それに、特に重大なのは、ハイドリヒが担当した保護領の治安情勢、
ハイドリヒにおけるDolchstoss想起の治安情勢(
ベルリン大管区指導者ゲッベルスからの要望(8月中旬)・・・ユダヤの星携帯義務化(ヒトラーの承認9月8日)
総督府におけるゲットー化…なかなか進展しない
1941年10月には、ゲットー化の推進過程で、ユダヤ人射殺多発
迫害急進化の決定的刺激・・・オディロ・グロボチュニク(ルブリン地区Distrikt親衛隊警察指導者)
から発する。
1941年7月、ヒムラーから、警察基地の計画・設立を託される。
グロボチュニクは、親衛隊軍需工場その他に、ユダヤ人労働力を使用。
並行的にガリツィア地区の親衛隊警察指導者カッツマンKartzmannが威信を示すクラカウへの道路建設に従事。
ここでもユダヤ人を使用。強制労働収容所をウクライナ地域にまで、連鎖状に建設。
「労働による絶滅」の実際
S.226 ヒムラーが、総統官邸長官ボーラーに依頼して、安楽死作戦T-4あ作戦の専門家を、
リガ、ついでルブリンに派遣。
ユダヤ人処刑の技術的方法を模索して。実験的に。
殺害方法・殺害キャパシティに関して、具体的な構想はまだなかった。
ハイドリヒはアイヒマンをルブリンに派遣して、殺害技等を視察させた。
大管区指導者グライザー・・・ヴァルテガウの10万人にユダヤ人の追放に従事、
彼も、T-4の助けによる殺害方法を検討
1941年10月13日、ヒムラーは、ベウゼッツ絶滅収容所建設の許可を出した、そして、
T-4人員の支援を保障した。
グロボチュニクは、全権を基に、フランクと総督府政府の指導的人物の同意を得た。
1942年春、ソビボールに、さらにその後トレブリンカに、さらなる殺害センターが建設された。
1941年晩秋の諸決定によって、部分的処刑から体系的絶滅への質的な一歩qualitativer Schrittが進められた。
さしあたり、総督府に関して。