「大学図書間で起きていること」(随さんの意見)への私の見解:

 

図書館問題を考える場合にも、大学の図書館であること、したがって大学の目的の実現を根本基準にすべきこと、常にその見地から議論を整理し、論理展開していくことが必要である。

 随さんの言うように、言うべきときに言っておかなければ、「承認したではないか」といわれる。反対と異論は出きるだけ明確に、きちんと論拠を示して提示しておく必要があろう[1]

 

随委員情報によれば、「今日、さすがの事務サイドも「完全武装」してきた。いきなり「横浜市立大学学則」や「情報センター規定」、そして「大学将来構想委員会答申議事録」まで持ち出して、一般開放の必要性を訴えた。「市民の実際生活並びに文化の向上発展に寄与」とか「市民とのパートナーシップにより地域社会への貢献を行う」などの文言にわざわざ下線を引いて委員たちに資料を配付した」と。

 

随さんのご指摘の上記のような事務サイドの「完全武装」は、「一般開放」の強行・正当化という自分の論理・自分の主張に都合のいい部分だけを、大学の諸規定等から抜粋したものである。したがって、「完全武装」を狙ってはいるが、実は、大学の使命に対する認識不足という馬脚をあらわし根本的欠陥を露呈している。

 

 たとえば、学則第1条は、たしかに、その末尾に、「市民の実際生活並びに文化の向上発展に寄与」という一節がある。

しかし、それはあくまで第1条の末尾においてであり、「あわせて」という形で付属的な性格のものである。

 

 随委員とともにこれまでわれわれが主張してきたのは、大学として最も重要な前段である。

そこには何が書かれているか。そこでは、

「横浜市立大学は、国際港都横浜市における学術の中心として、真理の探究につとめ、学生に高い教養と専門の学術を教授し知的、道徳的および応用能力に富む人材を育成するとともに、世界の平和と人類の福祉に貢献」することとなっている。

 

この大学の使命の最も根幹になる部分が、こんなにも毎年のように図書費削減を問答無用で強行していると、また、十分な人やモノ、かねの裏づけなくサービス業務を拡大すると、学生や教員のやる気は消えうせ、抑えこまれ、無気力を増幅し、だめになってしまう、ということである。

 

学生と教員が安心して教育と研究に没頭できないような雰囲気、教育と研究の条件の悪化で学生と教員が本務に専心できないような状況、これを問題にしている。

教員はそうでなくとも、教育・研究で毎日、精神をすり減らしている。現代の日本の学界と学生が求める要求は、並大抵の努力では応えられないほどのものである。事務サイドからは、できるだけ快適な教育研究条件の整備を望みこそすれ、意欲をそぐようなことばかりされては、「早く逃げ出したい」という人びと[2] が増えても仕方がないであろう。

 

 「市民サービス」はそれ自体として結構なことである。誰がそれをいけないといえようか。「市民サービス」というあたりまえのその言葉自体をだれが否定できようか。

しかし、一般市民には地元・地区の図書館がある。地区の図書館と違った大学の図書館は、大学独自の使命に貢献するもの、学術の中心としてのその独自性・特殊性を持ったものでなければならない。

「市民サービス」というサービス業務の追加を行うなら、それに対応して、「人、もの、かね」の補充を行うのか。それががあればまだいい。ところが、それはないのである。

ないどころか、むしろ逆に「人、もの、かね」が毎年のように削られる。これは、これまでの教育条件・研究条件が悪化するということである。それによって、大学本来の活動が阻害されるということである。

 

 大学(図書館)の事務サイド(事務局・事務局長・総務部長等、市長や関内の本局と交渉する人びと)が証明すべきは、「人、モノ、かね」を削減しつつ、対外的サービスの量を増やして、それでもなおかつ大学の学生と研究者の教育研究条件が向上している、ということだろう。そんなことは証明できるか?

事務サイドは、この本来証明すべきことを考えたことがあるのだろうか。

予算(本来、市議会の決定を受けての執行だけのはずだが、学則による評議会の審議事項である「見積もり」まで含めて)をにぎり、学則で定められた評議会審議事項「予算見積もり」に関する審議を一度も行わせず、「予算のことはわれわれに任せられている」としてきた事務当局[3]は、上記のような本来実証すべきことをこそなすべきだろう。

「一般公開」の正当化に都合のいい諸規定だけの抜粋などは、論外というべきだろう。この点で、随さんの基本的メッセージに賛成である。

 

本論とはちょっとずれるが、問題の根源が同じなので、一言しておくべきは次の点であろう。

すなわち、随さんが上記の文中で指摘しているように、「市民サービスとして市大の教員たちは、毎年リカレントだの、市民講座だの、さんざんやらされている」。

ところがその謝金が、これまたこの4月から、教員のこれまでの時間外奉仕の意味など何も知らず評価しないかのごとく、したがってまったくやる気を失わせ士気を阻喪させる形で、ばっさりと切り捨てられた。

研究に没頭することはあっても議論に熱中することはなく、むしろあまり議論が好きはなく、日ごろ忙しく、会議は早く切り上げて静かに研究や教育準備に専念したい生涯学習推進委員会の教員たち(生涯学習推進委員会の教員だけでなく多くの教員がそうである[4])の「弱み」は、逆手に取られた。「議論の余地なし、決まったことです」と[5]。その原案を作るのが「予算を握る」事務局である。かくして、二十年、あるいはそれ以上のながきに渡って継続してきた本務外・時間外奉仕(「勤務」といっていいか厳密には問題があるかもしれない)としての仕事への謝礼が、ばっさり、合理的根拠なく切り捨てられた[6]。恐るべき横暴といわなければならない。

それをやるための「論理」の組立て、大義名分、人を黙らせる水戸黄門の「印籠」が、これまた、一面的な「市民のため」、「地域貢献」であり、いまやそれが本務の一つだというのである。地域のために講座を開くこと、そのことは問題ない。もちろん、しかるべき位置づけ.しかるべき配慮があるならば、大学教員はやることに吝かではないであろう。しかし、週末や夜間に、貴重な研究時間や教育準備時間、学界活動の時間、そして人間としての体力回復のための休息の時間を割いて市民向けに特別の準備をして行う「市民講座」(市民に無料)・「リカレント講座」(有料で講座料としてしかるべき額を市民から徴収している)等にまで、謝礼など出さないでいいのだ、それは本務だとなれば(しかもそのような規定は、長年の位置づけ長年やってきたことに反することである、かつては講義時間とそれにおなじだけの準備時間をカウントしていた)、いったい学内平和は保たれるのか。市民は、いやいやながらの疲労困憊した教員のインセンティヴの欠如した講座を聞きたいだろうか? 正当に評価されない仕事に不満をいだく大学人の講座を聞きたいだろうか?[7] 

長年確立していた慣習法・不文律[8]を、定義さえちょっと変えれば無視しうるのか。このような長期的労使慣行の破棄は、違法行為ではないのか? 重大深刻な疑念を持つ。いずれ、その点は今後の展開ではっきりしてくるだろう。

 

2001年4月以降とくに顕著になってきたこのようなやり方を次々積み重ねることで、はたして、大学の本来の使命である教育・研究の条件は向上していくのか?その向上にこそ大学のスタッフは全力を尽くすべきではないのか? そのような大学の理念と使命を深く考え、市長や関内の関係部署、市議会に適切に伝えているのか?

予算削減の事実を押しつけるだけ、業務量増加の事実を押しつけるだけ、教育・研究条件の悪化を押しつけるだけ、それに都合のいい諸規定の抜粋を示すだけ、その論理に都合がいいように関係規定を「定義しなおす」ことだけ、これでは、「世界平和」どころか、学内に怒りを巻き起こすだけであり、学則第1条の根本理念の実現とは逆のことではなかろうか。

 

 われわれは、大学の使命の達成(学則第1条、とりわけその根幹部分の全面的実現)のために、大所高所から問題を見ていく必要があろう。「予算を握る」事務サイドにも、学則の根本精神を踏まえて、大学の真の発展のために奉仕するように希望したい。

 

 追:事実誤認のご指摘や、ご批判・反論を歓迎します。nagamine@yokohama-cu.ac.jp

   適切なご指摘があれば、私の文章表現、論理展開等を推敲し、改善したいと思います。

 

 

 



[1] しかし、「言うべきこと」をそのときどきに主張しても、大勢としては無視されつづける、いや抑えこまれさえすることがあるのは、歴史の苛酷な現実である。

先覚的なものが問題にいちはやく気づいて発言・主張(しかし、あまりにも先端的なためにしばしば変人、奇人あつかいされ、場合によっては獄につながれ、処刑され)、やっと幾世代もたってから、真に大衆的民衆的にその問題が認識されるのは、ちょっと歴史を紐解けば、枚挙に暇ない。人間の社会的な規模での認識は画一的には進展しない。

 

随さんの言うように、いまのままでいけば、10年後、20年後には(いや数年後にでも)、市立大学の商学部は大学創設時の唯一の学部としての名前だけ記録に留めて、消滅しているということは十分ありうるであろう。

 

現在、1学年350人定員で、4学年合わせて在学生は1620余名で、学生数は最大の学部である。しかし、教授数、研究設備、教育環境、その他、他学部と比べて実態はどのようになっているか?

 

医学部は公表されている大学予算を見ても歴然とするように、大学予算、市の大学への補助の圧倒的部分を占めている。最先端の研究を踏まえた2つの市大病院の治療において、市民はその大学への財政負担・財政支出の見返りを十分に享受しているといわなければならない。市の大学への財政支出の圧倒的部分は医学部とその病院への支出なのだから。

大学全体としては、その予算構造に見合って、十分な地域貢献をしている。このことを誇っていいであろう。予算、教員数、設備などすべてをとって、いまや市大とは医学部であるというほどの地位であるのだから。さらにまた今年も、先端医療研究センター(鶴見)の新設のための調査費予算=医学部関係予算がついたという。これだけ巨額の財政援助があるということは、市長、市議会、市民が医学部とその病院の価値と地域貢献を認めているからだろう。

 

「地域貢献」と声高に叫びたてて、貧弱な補助(商学部は計算のし方では「黒字」学部になる可能性さえある)貧弱な予算しか与えられていない学部の犠牲をこれ以上もとめなくてもいいであろう。「予算を握る」市当局、大学事務局、市議会は、悲痛な叫びにもっと耳を傾けるべきだろう。

 

また、理科系も、理学部、総合理学研究科、木原研究所、鶴見連携大学院とその予算、教員数、設備、市からの補助は、医学部についで巨大な額に上っている。現実のこのような発展は、横浜市(市長・市議会・市民)が、医学部を大切にし、莫大な支出に見合ったその実益(市民への高度最先端医療)を十分に享受し、その上で最近は鶴見地区再開発による市の発展との関係もあって理科系の発展に価値を認めてきたということである。

 

だが、医学と理科の発展拡大で「国際港都市横浜市の学術の中心」と称することができるか?

 

医学は健康な人間が病に倒れたとき治癒し、あるいは病に倒れる前に予防するための学問治療体系である。医学発展の前提は、元気に働き活躍する社会の広範な人びとである。現実社会をになう人びと、今日と明日の経済と経営を担う教養豊かな専門能力を持った優秀な人びとを育てなくて、医学・医療は存立し得るのか?

医療費を支払い得る前提は、元気で働く人びと(その人びとが元気で働く時期の余裕資金)である。横浜市の健全な経済的発展こそが医学・医療の存立の基本前提である。医学・医療にしか目の行かない社会、市民とは、まさに末期症状的な社会と市民であろう。

 

健全な経済と経営の運営こそは、したがってその担い手である若い人びとの力量(語学力など教養と専門知識、判断力など見識)総合的養成こそは、横浜市の一つの重要な国際的使命・責務ではないのか?

十分な予算で、他大学・他都市がうらやむほどの充実した教授陣、教育設備、研究設備で、立派な国際的経済人、国際的経営人、そして国際的文化人をそだてることが、学則の基本精神の実現ではないのか?

 

ところが現実はどうか?

設備を取ろう。文科系学部は教室、演習室、講義室が重要な場所である.その講義棟は現在、どのような水準にあるのか?心ある市民は大学に来て、自分の目でみて欲しい。少しの予算しかないとき、この間の大学当局は何をしたか、見て欲しい。「学生の教育環境改善をほったらかし、玄関、総務などの事務の改装・美化を真っ先にやっている、クーラーをいち早く装備しまっさきにつけるのは総務など2階だ、学生は西日のあたるところで青息吐息」という心有る大学人の批判がまったく不当かどうか。学生が誇りに思うことが出きるような学問の場にふさわしい立派な講義棟を建設することも急務ではないのか。

学則の根本精神無視がどれだけ学内にはびこっているかは、一つ一つの問題を直視しながら、検証しなければならない。

 

横浜市立大学の喜ぶべき発展拡大の過程は、必然的に、大学創設学部である商学部の相対的地盤沈下とともにであったということは厳然たる事実である。

 

商学部の学内における相対的地盤沈下は大学全体の発展の証でもある。だが、商学部の絶対的な地盤沈下・消滅が、横浜市(市長、市議会、市民)の方針なのか?

 

市民は、貧弱な配慮しかしないで、まだこれ以上の犠牲を求めているのだろうか?

何かあると、たとえば今回の図書館問題でもそうだが、「市民」が大義名分として振りかざされているのである。「市民」を看板にして目だった仕事をすれば、「予算を握る」その関係者は「関内への道」において世俗的な意味で出世する。「洪水はわがなき後にきたれ」か?商学部など文科系学部を含めた大学の全体的長期的発展など我関せず、か。

 

しかし、そもそも横浜市民はこのような問題があることを知っているのであろうか?

これまでもことあるごとに噴出し、今回改めて図書館問題で露呈し、その他、種々の現象で噴出してきたのはそのような疑問であり、それに対する怒りである。

 

[2] 商学部に着任してから6年間少しだが、この間、商学部からは他大学へ相当数の人が移った。早稲田大学政経学部(教授一名、近代経済学)、同社会科学部(教授一名、財政学)、一橋大学と神戸大学の新設ビジネススクールに1人ずつ(助教授、会計学、マーケッティング論)、法政大学経営学部(助教授一名、会計学)、青山学院大学法学部(助教授一名、民法)、中央大学文学部(助教授、英文学)。この現象をどう解釈するか? 沈思黙考に値する。

 

他大学に移るにはいろいろの事情がある。しかし、硬直した「教授枠」(実際には、大学設置基準で「教授を半数とする」という規定があるのを逆手にとって、半数を「上限」ないし「枠」と解釈して「教授枠」としている)の制度運用などもその重要原因である。そして、図書館問題で露呈したような予算問題も、一つの大きな原因であろう。

 

商学部などは、経済・経営・商学部系の学部を持つ私立大学はもちろん他の国公立大学の教授比率から見ても教授割合が低い。商学部などは講座制を取っていない以上、もう少し教授数がふえてもいいはずである(6割程度までか?)。むしろしかるべき研究業績のある教授数の多さを誇るくらいをめざすべきではないのか?

研究教育業績との相互関係さえ明確であれば、教授数の多いことは研究教育内容の充実を意味する。 

 

かつて大学院もなく、また大学院はできても修士課程しかなかった時代とは違って、現在は、博士課程も経済学研究科、経営学研究科に設置された。当然にも博士担当の教員は研究業績の質量などが学部担当より厳しく求められる。かつて学部しかなかった時代の教授50%という「枠」に市当局が固執しつづけていることが、どれだけ研究上、学問上、教育上、まっとうでない不正常な問題を引き起こしていることか。

 

博士課程担当や教授昇格は研究教育業績を中心とすべきだが、はじめから「教授数=教員定員の50パーセント」という制約がはめられていることによって、しかるべき年齢なり研究教育業績を持っていても教授に昇任ができないことがちょっと計算すればすぐわかる。そこで採用人事は、当該ポストの本来的使命のウエイトもさることながら、厳しい年齢制限などで自由度が損なわれる。逆に、何らかの事情で教授ポストがあけば、「研究教育業績」の基準は甘くなる。いずれの場合も、担当する科目・演習指導等の資格と研究教育業績との相互関係が中心基準になっていないことが問題を引き起こす。

 

そもそも大学院に博士課程を創設するときは、当然にも博士課程要員として教授ポストを増やし、教授枠を拡大すべきであった。商学部は、学部の上に2つの研究科2つの博士課程を持っているのである。にもかかわらず、古い学部だけの時代の教授「枠」そのままなのである。その矛盾には深刻なものがある。

 

いろいろな大学を調べてみるといいだろう。大学院を創り、ついで博士課程を創って、教員数が一度も増えなかった大学があるかどうか。ところが、そのような増設に伴う人員増という基本的なことが行われてこなかったのである。だから、若手の中には「負担だけ増えて」という反発が根強い。当然の怒りであろう。その怒りはどこに捌け口を求めるであろうか?

 

大学院博士課程増設・一学部2研究科体制に伴う教授ポスト数拡大は、今からでもやるべきことだろう。その意味で現状打破のために、私は上に「6割程度までか?」と一応の目安を提起したのである。

 

[3] 学則無視と思われるのは、したがって今回の第1条の根本精神の無視だけではないであろう。

 

 学則上の審議事項をきちんと審議事項として取り上げてきたかどうかは、公文書である評議会議事録を検証してみればいい。二十年以上も在籍の長老教授に確認したところ、「自分の知るかぎり、予算見積もりについて審議したことは一度もない」と。

 

[4] 静かに研究に没頭したい大学研究者の精神的態度の根底にあるものとして、わたしの研究室の別のページでも引用したヘーゲルをここに再録しておこう。すなわし、「その研究が深く根本的であるほど、それは自己を友として孤独であり、外に向かっては言葉少ないものである。皮相軽薄な人間は、早急に仕上げて何にでもすぐに口をさし挟むが、真面目な人間は、ながい困難な研究によってのみ展開されうる大きな内容のためには、静かな研究を続けながら、ながい間そのうちへ沈潜するのである」と。ヘーゲル『小論理学』上、岩波文庫、57ページ。 

[5] 議論抑圧のやり方の多くは、「時間がない」である。議論を前もってやんわりと封殺するやり方は、「時間がありませんのでよろしく」である。

 

議論を紛糾させないために責任を持って前もって意見書をまとめて提出しようとすると、「そんなのはこれまでになかったやりかただ」云々と提出させないようにする。責任ある意見書をまとめる能力もなく、文書による責任あるかたちでの意見表明ができないことを正当化するかのごとくである。

意見書を提出しようとすると「変人」よばわりである。また、情報公開で開示請求された場合、反対意見などが公開されると困るとして、「これを配布していいのですか、情報公開の対象となりますよ」と、「臭いものに蓋」、意見書・資料提出を認めない、抑えこむというやり方もとられることがある。恐るべきことではないか?

 

 議論を本当に深め、内容の濃いもの、建設的なものにするのは、むしろ前もっての資料作成、それにもとづく事前討議や意見書作成、それに対する対抗意見書の作成、理性的討議の積み重ねであろう。

 

 ところが、議論を活発に、深化発展させようという基本姿勢ではなく、決まったことを黙々と承認することを求める風潮が蔓延している。自分の専門研究に没頭したい教員はこれによって足元をすくわれる。きちんとした議論が戦わされないこと、これは大学の基本的あり方ではないだろう。

大学教員が決まったことの伝達機械・伝声管になりさがったら、自律的・自主的・創造的・批判的研究に専念することを使命とする大学教員ではなくなるだろう。大学に求められているのは、既存の到達点の吸収と共にその克服、その発展であり、現状の問題点の発見であり、その発展的解決である。創造的批判精神なしに、そのような問題発見、問題解決はありえないのである。

 

 それはしかし、学問だけのことではない.現実社会すべてがそうである。問題の直視、その克服策の模索、そこでの批判的創造、発展的創造をこそ社会は求めている。その基本精神が大学から欠如していて、日本の発展はないだろう。

 

[6] よく言われた議論は、「一般職員はそのような手当てをもらえない」ということである。大学教員と一般職員は職務・勤務形態が違い、給与体系も違うのは厳然たる事実である。それを無視して、大学教員を一般行政職に引きずりおろそうとする扱いなのである。

 

[7] 大学の講座は、「科目等履修生」の制度などで市民に開放されている。本格的に本務として市民講座を位置付けるなら、しかるべき「人、モノ、かね」をきちんと準備して行うべきである。そのようなやり方こそ、きちんとした企画であり、発展的プロジェクトである。「人、モノ、家ね」を準備しないで、現在の教員に負担を負わせるという発想は、容認できない。労働強化・負担増加というかたちでの現在のやり方(いや、大学院創設を人員を増やさずやったように、これまで一貫してそうであった)を問題にしている。

 

そのやり方は、不当な労働強化・負担増加を拒否するであろう多くの市民の共感を得られるとは思われない。

 

[8] この点も最近顕著に目立つことであるが、最近の事例を一つ挙げれば、長年、国際交流セミナーで、来日中、ないし日本滞在中の外国の研究者を招聘してセミナーを行うにあたっては、交通費込みで五万円という枠が定着していた。そのような慣例に従いヨーロッパ共同体歴史家会議を主導するパリ大学(1、ソルボンヌ、パンテオン)教授ロベール・フランク先生をこの4月に招聘した。

 

ところが、年度末ぎりぎりになって、「予算の都合で」新年度から謝礼が3万円にばっさりと4割カットとなったとの通告があった。いまどき、4割も突然カットされるということが、通用するだろうか。だが、カットを正当化する理由を探し出してくる「能力」は「予算を握る」事務関係者にある。非常勤講師手当て問題(これについては、5月一〇日付非常勤有志の抗議文・質問書・要望書が出されている)でも、同じような事態が起きている。

 

非常勤講師は大学教育の重要な構成要因である。専門の分化が高度にすすんだ現代社会において、専任教員がカバーし得る学問領域・講義担当科目の数は限られている.その欠落部分を補うのが非常勤講師であり、その講師料はきわめて低い水準のものである。それすらも一律大幅収入減となるように、しかも一方的通告で(教授会にも知らせず)カットしたのでは、カリキュラム編成・非常勤講師依頼の任務をおっている教授会の職務への重大な妨害であり、専任教員と非常勤教員の相互信頼関係は損なわれる。結局は、予算カット以上の教育へのマイナスの影響、教育の質の低下をもたらすことになろう。

 

このような国際的信用や対外的信用をはなはだしく失墜させる行為(対外的折衝をしている関係教員の面目失墜、やる気阻害・意気喪失)が、次々と行われているのである。これが、「国際港都市」を掲げる横浜市の大学で起きていることである。事務局が作った今年の予算説明の美辞麗句の背後にあることである。本当は、「市財政が厳しく、国際交流予算も削減され、これまで通りの運営ができません」というべきところなのである。信用失墜を回避しようと教員がどれだけ余分な奔走、涙のにじむような苦労をしていることか。

「予算をにぎる」事務当局と予算を使用する大学人との間の相互連携がうまくいっていない。これが現在の大学のシステムの根本問題であろう。