200278日 学部教育における教養科目の再定義、必修・選択必修・選択の検討の必要性

 

 現在、商学部後任人事で問題になっているのは、「体育」のポストである。これを考えるためには、設置基準大綱化以降、横浜市立大学が教養科目の設置形態(必修・選択必修・選択)と科目メニューのあり方に関して、どのような検討を行ってきたかということが検討されなければならない。

 昨日の日誌でも強調したように、学部改革については、また改革に必要な「ひと、もの、かね」について、なかでもその中核、ないし柱となる人材補充に関しても、学部メンバーがいろいろな角度から意見を述べ、叩き台とすべきだと考え、以下に当面の考えを表明しておきたい。

 もちろんこのポストは、従来、一般教育の「体育」として、全学的コンセンサスのもとにカリキュラム編成などが行われてきたのであり、仮に学部内の意見がある程度まとまったとしても、全学的コンセンサスがどこまで得られるかはわからない。まさに、全学的な場で教養カリキュラム体系が真剣に議論されるべきであり、最終的にはその場に持ち越され、議論されることになるかもしれない。ここではただ学部内の一つの意見として表明するにすぎない。

 この問題も、他の問題と同じく、じっくり話し合わないと、対立の種だけを残すことになり、学部と全学の活力ある発展につながらないだろう。じっくり話し合い検討するためには、それぞれの立場から意見を表明する(きちんと文書で正々堂々と表明する)必要があろう。問題をしっかりと把握するために、まちがいを恐れず、批判の素材を提供する意味もあって、文書で意見表明しておくところである。

 

1.    設置基準大綱化により、教養科目等に課せられてきた厳しい「規制」が緩和された。教養科目・一般教育科目の制度をどのようにするかは、各大学の教育方針によるものとされ、したがって各大学・各学部の教育方針・教育理念が問われることになった。カリキュラム体系に関する各大学の見識と自由裁量における学部・大学の位置づけ・理念が問われることになった。

2.    この点では、横浜市立大学は、きちんとした検討を怠ってきたのではないか? その付けが、今回の「体育」ポスト後任問題で露呈したのではないか? 改めて根本的に問われているのは、大学として教養科目を大学教育のなかでどのように位置付けるかということであろう。

3.    設置基準大綱化が示した現実は、全国的に教養科目・一般教育科目の、文字通りなだれを打っての縮小・廃止の傾向であった。逆にいえば、教養科目担当教員と大学経営の両サイドから、長年にわたって鬱積してきた「教養科目」廃止の気運が、いかに強かったかということである。教養科目の位置づけは、実は、きちんと行われてこなかったということではなかろうか。それは長年にわたって形骸化してきていたというのが実態だったのであろう。

4.    しかし、あまりの無制限のなりふりかまわぬ教養科目・一般教育科目廃止にたいしては、その弊害がまたただちに認識されるようになった。実際、学生の視野と勉学をあまりにも狭い専門教育に限定することは、ダイナミックに発展し激変する現代社会にとってはほんの短期間・限定的職場でしか使い物にならない人材を養成することを意味する。現代社会・現代世界が求めているのは、競争がますます世界規模化し激しさを増すなかで、激動する社会・経営のダイナミズムをつきぬけ乗り越えていく多面的能力を秘めた強靭で柔軟な人材であろう。そこで、細かな専門知識などを統御する教養力の育成、教養教育の再度の重視が検討され実施されつつあるというのが、この間の経緯であろう。この間の経緯は、拙速ながむしゃらな「改革」熱病への感染(この病気は一循環遅れてわが大学にも迫りつつある)、十分な検討と大学らしい理念の欠如した制度変更が抱える問題点を暴き出している。

5.    ともあれ、横浜市立大学がなにも本格的に検討せずにいた間に、教養科目をめぐって、社会は二転三転したということである。

6.    したがって、横浜市立大学は、いまこそ教養科目をどのように位置付けるか、検討すべきなのだろう。本学の制度改革にあたっては、学則の理念、その第1条・目的の精神を基準に、じっくり検討していく必要があろう。

7.    しかし、一般的にそのような課題を提起しても、多忙を極める大学人には精神的時間的余裕がない。具体的な問題を通じて検討を深め広げていくしかないだろう。その意味で、商学部「体育」ポストをどのような位置づけ、改革していくか、そこでのものの考え方は、重要になろう。

8.    したがって、学部メンバーには、自分なりに、「体育」ポストに関する見解を表明することが求められているということだろう。教授会の場で短時間に錯綜した意見がぶつかり合うのはプロダクティヴでないだろう。冷静に検討しうるこのような文書形態での意見表明も、建設的な集団意思形成の一つの「叩き台」とはなりうるのではないか。

 

9.    結論的にいえば、私は、すでに教授会で出された意見と同じく、いまでは、体育を「必修科目」として存続させる積極的理由は少なくなっているのではないか、と考える。

10.予算削減の脅威という厳しい現実を前提条件とすれば、「体育」の必修をはずし、選択科目に位置付け直してもいいのではないか。予算削減圧力というこの前提条件を市当局が再検討するなら、また問題は別だろう。しかし現在のような市当局の一律無前提の予算削減方式、それを事務当局がそのまま学内に下ろすという現状では、このような選択肢にしかならない、というにすぎない。体育・スポーツをどのように位置付けるか、大学人(大学内事務局および関係市当局)の教養が試されているということでもある。

 

11.たしかに、体育・スポーツは、人類史の発展を考えると、現代人にとってきわめて重要であり、ますますその重要性は増している。体育・スポーツの人間生活における決定的重要性人間らしい精神的肉体的生活をおくるための必要不可欠性は、私の担当する経済史講義メモ(脚注32とその本文の部分)でも強調したところである。

12.現代人の生活では、科学技術の発展によって肉体労働の側面が決定的に減少している。科学技術の発展・生産諸力の発達は人間を辛苦の肉体的労働から解放する意義・使命を持った。日本および世界における産業の第三次産業への大々的移行の必然的傾向もそれを示している(Cf.総務省・統計局統計センター「日本の統計」・第三章労働・賃金、第6節:産業3部門別就業者数の推移)。サービス産業では肉体的労働ではなくてまさに人間関係・精神的労働が決定的に重要である(もちろん現代では第一次産業、第二次産業でも科学技術の発展で肉体労働のウエイトは決定的に減少している)。人間生活の生産的側面(しかしそれは同時に人間の肉体的精神的労働能力の消費・支出=消耗・疲労の蓄積過程)である仕事において精神的側面のウエイトが非常に増えてきた。また今後その傾向が一層進むことは確実である。肉体的活動・疲労とのバランスを失した精神的過労、精神的疲労の蓄積をどうするか、これは現代人にとってきわめて重要な問題である。

13.仕事の場における精神的ストレスを解消し、頭脳を支える身体全体を動かして血流と細胞(頭脳細胞を含めた全身体組織の細胞)を身体全体の意識的自覚的運動で活性化させること、それを通じて人間的喜びを獲得し、同時に仕事への肉体的精神的エネルギーを再活性化すること、そこでの体育・スポーツの重要性は、現代生活においては否定しようがない。現代世界の高度な生産の発展・科学技術の発展とその生産過程への導入が、余暇における体育・スポーツの重要性を必然化している。余暇における肉体的鍛錬・リフレッシュ、そこでのスポーツの決定的意義はますます広く認識されるようになっていると考えられる。まさにその認識は現代人の基礎的教養でなければならないだろう。

14.したがってこのようなスポーツの人間の精神と肉体における意義を専門的に研究し教える教員がわが大学に一定数いることは絶対に必要不可欠であろう。いやむしろ、普通の大学のようなスポーツ・体育切り捨ての方向性に対しては、横浜市立大学は体育・スポーツの教員を堅持することで、市民や日本・世界に対して、現代世界・現代企業・現代経営におけるスポーツ・体育の重要性に対する明確な見識と教養を示すべきだろう。肉体的に虚弱な頭でっかちの人間は、二十世紀のいびつな教育(知育偏重・詰めこみ教育偏重)が生み出した不具化した人間類型であり、激動の21世紀のいかなる場所においても、使い物にならないのではないか。企業が各大学のスポーツクラブ経験者を優先的に採用するには、それなりの深い理由があるのではないか。頭でっかちの軟弱な「専門人」がすぐに使い物にならなくなることは十分に承知しているのではないか。一定の発展性のある専門知識を持った生き生きとした活力ある骨太の強健な教養人こそ求めているのではないか。(横道にそれるが一言すれば、専門知識に関しては、学部学生の卒業生を採用する場合、それほどの重要性を置いていないのではないか。現在の学部レヴェルの専門知識にそれほどの重要性はないのではないか。21世紀の現代世界では、現在の高度に進展した学問状況からすれば、専門知識の獲得と専門能力は大学院修士課程のレヴェルが必要になっているのではないか。だから、それは大学院修士課程の充実・拡充政策と結び付けるべきものではないか。この点からも商学部は、たとえばすでに和田淳一郎助教授が入念詳細にたたき台を作っている「1年修士制度の創出」など、大学院重点化制策を真剣に考えるべきではないか。その重点化には、これまでの大学事務局・市当局の姿勢からするかぎり、また現在の市の財政状況から推測するかぎりなおさら、学部定員削減による余力をもって大学院教育に振り向けるしかないだろう。)

15.そのような意味で、商学部の専任教員として今後もスポーツ・体育関係の人材を置く必要性はあろう。それはそれで学部と大学の見識、深い現実認識・現代人認識、現代社会・世界の必要性を社会的に示すことになろう。多くの大学人は、ここで述べた以上に体育・スポーツの意義、その大学教育における必要不可欠性を深く認識しておられるのではなかろうか。

16.ただその場合に、純然たる実技系「体育」の教員、ないし自然科学的側面を研究教育する人材であることが必要か、商学部の人員配置としてそれが求められているかについては、熟慮検討の余地がありはしないか。実技面はクラブ活動などの支援を強めることで補うべきではないか。むしろ、スポーツの現代生活における文化的精神的側面人間の全体的活性化企業生活・社会生活の活性化の側面など、スポーツ・体育のもつ現代的側面が重要視されるべきではないか。それこそが正面から研究教育されなければならないのではないか。

17.その前提のうえで、現在の人員配置が、設置基準の厳しい制約のなかでの実技系人員配置であったのならば、すなわち商学部生定員350人(全学で1700余名)に対する実技系「必修」科目措置に関わっていたとすれば、必修をはずし、選択科目にすることは認められるのでははないか。学部の専門各コースの基幹科目でさえ選択必修となっていることを考えれば、現行の「体育」必修の制度は、現在の学部カリキュラム体系のなかではバランスを失しているのではないか、ということである。

 

18.以上のようなことを踏まえて、そのポストは、実技系の人材ではなく、学部の特性に応じた人材とすること、すなわち現代経営・現代企業における仕事能力活性化におけるスポーツの重要性(スポーツの意義)、スポーツ産業の発展の必然的傾向を研究し教育する人材で補充してもいいのではないか。

19.そして、そのような現代文化論的・現代社会論的なスポーツ論の研究者・教育者の行う講義であれば、国際文化学部や理学部・医学部の学生にとっても聴講に値する講義ではないか。その意味で、全学的必要性がある人材ではないか。

20.そのような人材は、講義における実技負担よりも、現代社会・現代経営・現代企業におけるスポーツの意義を研究教育する専門科目担当とし、大学院修士課程、あるいはさらに博士課程の科目なども担当できる人材が求められるのではないか。

 

21.以上の見解は、全学的科目としての、一般教育科目としての「体育」の位置づけに関する認識が不充分であることを露呈しているものであるかもしれない。その点は、全学的見地での教養科目・一般教育科目の存在意義等に関する責任者各位(とりわけ体育関係の諸先生)の態度表明・説明から学びたい。そして、必要ならば訂正を行いたい。