2002711日 生涯学習関係謝金廃止について

−秋からリカレント講座を「開講する予定」の人と雑談してのメモ−

 

 従来、時間外の職務として謝金が支払われていた。

 これが突然、いっさい廃止された。

 かわりに、涙ばかりの「研究交付金」が支給されることになった。

 これは不当なことではないか?

勤務条件の一方的な劣悪化ではないか?

 不当労働行為ではないか?

 それに簡単に「協力」していいのか?

 いずれ、法的にも、教員組合でも、問題になることであろう。

 

 別の機会に(この経済史講義メモの注記16)、「労働強化」との関連で、危惧を述べて置いたので、その該当箇所を参照箇所として置きたい。

 

 

--------------上記講義メモの注記16の関係箇所だけを抜粋しておけば---------------

 

  「正当な対価」を支払わないとき、それはまさに搾取という概念にぴったりくる一時代前の資本家的やりかたである。

 しかし、この「正当な対価を支払わない搾取」というのは、どこかよそごとであろうか?

 いや、じつは、この大学のなかでもそれが行われようとしているのではないかとの深刻な疑念がある。

 

 大学教員は、持ち駒学部4.5コマ(商学部では慣行的に講義2コマ8単位分相当とゼミナール2年後半0.5コマ、3年1コマ、4年1コマ)、大学院修士課程の講義0.5、博士課程の講義0.5コマ、演習は修士と博士合わせて1コマ、したがって大学院2コマ。学部と大学院で6.5コマの負担である。

学生が一こまの講義のためにその倍くらい予習復習しなければならないように、大学教員はこの持ち駒負担のために、倍以上の時間、準備しなければならない。

そのほかに、定例教授会が月に一回、定例学科会が毎月一回、さらに、各種委員会が最低毎月一回ある。

さらに、学部と大学院の入学試験の出題、採点なども負担としてある。最近は入試の回数、形態が非常に増えたため、秋以降は毎月何か(学部か大学院)の入試があるという状態である。

 以上ははっきり決まった定例的な負担である。

 

 しかし、このような教育と入試に関わることだけを教員はやっていればいいのか。

 

 そんなことはない。教育と研究とは密接不可分なところがあるが、それでも大学教員は研究の証明としての研究論文、書評の執筆や翻訳など、その研究者でしかなしえない研究時間を必要とする。

 以上の仕事をするために、週40時間労働の全部を使うのが普通である。いや、それではとても足りない。それ以上の時間を研究のために割いているのが普通である。

 

ところがさらに、自分の研究が日本全国、あるいは世界の学会の水準に遅れないように、あるいは対応するように(できればその先を行くように)不断の努力をし、週末や夜間には研究会に出席したり、学界の一員として専門学会の委員としての仕事がある。

今日、普通には週40時間の労働時間が一般的であるとすれば、真面目な大学教員は研究と教育のために40時間以上働いているのが普通であろう。

 

したがって、通常の平均的就業時間40時間を越える義務的な仕事を、強制できるはずがない。その普通の研究と教育の職務のための40時間を越える時間外勤務(夜間・週末の職務)を強制することは、不当労働行為となろう。

 

仮に、時間外勤務を大学教員のなっとくづくでやる場合にも、それにはそれにふさわしい時間外勤務の手当てを支給するのが「正当な対価」というものである。そして、それはこれまで何十年もずっと支払われてきた。たとえば、夜間や週末の市民講座を担当するとき、準備時間相当分と講義時間分とを合わせて2万円から3万円の間の謝金が支払われていたのである。

 

ところが、新年度から、この時間外職務の講師謝礼が、謝金として支払われず、支払われるのは研究交付金という名目のわずかに3000円だというのである。

これはおかしくはないだろうか。

大学教員が地域のために貢献することはいろいろある。それは市民講座やリカレント講座に限定されるものではない。実は、受講生の皆さんのような大学に入ってきている学生ための講義を、そのための研究をしっかりやることも、すぐれた学生を社会に送り出すことも、長期的にみれば、また全社会的に見れば、地域に貢献することである。講義に地域の社会人などを科目等履修生として受け入れるのも地域貢献である。

ところが、最近、論理が一転して、「地域貢献」(という名目の「市民講座」などの時間外勤務)を正常職務に入れてしまい、かつては時間外勤務として、それなりに負担の重さに対する評価と配慮があったのに、位置づけを変えるだけで謝金をばっさり一〇分の一程度に減らしても当然だというのである。

「負担の重さ・時間外負担」に対する「正当な対価」は出さないということである。深刻な疑念というのはその意味である。大学教員の仕事を正当に評価しないで、大学教員が内発的意欲を持って仕事をできるというのか? 大学教員はかすみを食べて生きる聖人君子か? 仕事のエネルギーは無限にあるというのか? 根本的な人間観が誤っている。

 

一般職員なども「時間外勤務」の手当てを出さない、いままで時間外でやっていたことを時間内でやれ、市民講座などは時間内の通常・正常職務と見なし手当てはばっさりカット、かわりに研究交付金という名目の金(資料代くらいか?)3000円だす(これは使わなければ取り上げてしまうというもの)ということになれば、一大社会問題になるのではないだろうか?

 

もちろん、地域貢献のための特別の講義を時間内にやるためには、本当は、教員数を増やすべきである。しっかりとした教授陣(常勤と非常勤)を増やすことで、地域の人のための特別講座にさく時間も確保できる。教授陣の人数等はそのままにして、新たな負担だけを追加することは、教育と研究にしわ寄せがくることを意味するだろう。

つまり、「地域貢献」を名目に負担を課すことは、本来の研究と教育を阻害することにつながるのである。この基本的なことを無視しては、いい大学は作れないだろう。