経済史講義メモ

No.5 File: kogikeizaishi514

最終更新日:2003121

 

「前期的資本」と「近代に独自な資本」(その1)

―高度に成熟した商品経済社会=市場社会=現代社会における価値法則の貫徹―                                           

 

大塚久雄テキスト冒頭:

資本主義とはなにか? 

いつから資本主義社会なのか?

人間の経済生活の中で資本が支配的になった(その前提=商品貨幣経済が支配的になった[1])のはいつごろか?

 

封建社会の中から生成した資本主義が支配的な生産様式となったが、現在はどのような生産様式が支配しているのか?

現在の世界の経済システムは、単純な「資本主義」か?

現在の世界の経済システムの到達点は何か?

 

普通には「市場経済」が現代世界経済の特徴をあらわすものとして使われるが、市場経済とは何か?

市場経済の生成発展と現在の形態までにはどのような歴史があり、どのような質的展開があるのか?

 

ドイツでは「社会的市場経済(soziale Marktwirtscaft, social marketeconomy)が第2次大戦後(の西ドイツで)主張され、政策化されたが、それは単純な資本主義と同じか?

通貨統合にまでこぎつけたヨーロッパ統合の前進のなかで新しい経済社会秩序が模索されているが、その観点から「社会的市場経済」も再検討されつつある[2]

「社会的な市場経済」、「社会志向的な市場経済」は、19世紀的・20世紀前半的資本主義の変容ではないか?[3]

 19世紀の資本主義は、まさに資本が主人公だという様相を呈していた。労働者は人間としての生活を保証されず、15時間、16時間と働かされた。

 労働者が人間としての自己主張をして、労働時間を規制し、労働環境を人間的なものにし、資本の横暴を押さえ、人間と労働の原理が資本の原理をチェックするようになった。

資本は、抜き身で自分の論理を押し通すことはできず、ただひたすら自己の価値を増やすことだけに専念できなくなってきた。

労働者の意識の高まり、人間としての自覚は高まってきた。

 働く人びとの人間的自覚、文化と教養の水準がだんだんと高まってきた。

 

 

そもそも資本とは何か? 資本の論理とは何か?

人類史でいつから資本はあるのか?

「近代に独自な資本」とは何か?[4]

 

普通の人びとは、資本の歴史性、資本主義の歴史性、商品や貨幣、労賃、賃金労働、利潤,利子、その他の経済諸形態・諸範疇の歴史性、すなわち、それらの生成・発展・消滅に関して、考えてみたこともない[5]

 

しかし、人類史をちょっと振り返ってみれば、いやちょっと日本の100年‐150年ほど前を振り返って見るだけでも、そのような見方の浅薄さがわかる。江戸時代の日本は人口の圧倒的部分は農村に住み、農村の経済生活の圧倒的部分は自給自足的・現物経済的なものだった。

すでに邦訳も出たJ. ダワー(Dower) “Embracing Defeat: Japan in the Aftermath of world War II”[6]は、次のように書いている。

「ながい鎖国時代に商業化は進んだが、産業革命はまだ起きておらず、科学の目覚しい進歩もみられなかった(Although the ecnonomy had become commercialized in those long years of seclusion, no industrial revolution had taken placem, nor had there been any striking advances in science.)」と。

 

「商業化」は、近代的資本主義の前提条件・必要条件ではあるが、十分条件ではない。

近代的資本主義の誕生にはたくさんのほかの要因が必要だった。そのたくさんの媒介項は、近代資本主義を世界史上、最初に構築していった西洋の経済史をみることによって、確認していかなければならない。西洋資本主義発達、あるいは封建制から資本制への移行の媒介諸要因の主要なものを見つけ出すのが、日本の西洋経済史研究者の課題であった。

すでにわが国における経済史研究の蓄積は膨大なものに上り、細分化した研究領域の全体をフォローすることは専門の経済史研究者といえども困難になっている。われわれ研究者も、また受講生諸君も、主要な筋道を把握しようとする主体的態度がないと、細部に足をすくわれる。

 

他方には、そもそも経済の歴史性、経済的諸範疇の歴史性を把握しない人びとの浅薄さ、軽薄さというものがある。

 

マクロ経済学の入門書は、「マクロ経済学とは、雇用、物価、所得、経済成長、為替レート、政府財政赤字など、経済全体にかかわる大きな問題を分析するための学問[7]」であるという。

だが、「雇用」という基本的な経済生活のあり方は、古い時代からのものではない。

経済生活の全体で「物価」や「所得」が問題になるのも古い時代からのものではない。

「為替レート」が民衆の経済生活と深く関係するという現象も、古い時代からのものではない。

「マクロ経済学」自体の歴史性を、それが取り扱う諸概念の歴史性を見据えなければならない[8]

 

「雇用」、「両替」(為替レート)、物価、所得など個々の現象は、個別的、偶然的、偶発的な現象としては古い時代から ある。しかし、それが社会全体(社会の圧倒的多数の人びと)に関係してくるのは最近のことである。この個々の現象の量的増大と一般化、普遍化は、その背後に大きな経済生活の構造的発展・構造的転換がある。経済生活の有機的総体的連関の拡大・深化(最近ではグローバル化)は、歴史的現象なのであり、人間(人類)が自然との格闘の中で時間をかけて作り出してきたものである。

 

この講義を受講する皆さんは、細かなことは理解できなくても、経済的諸現象・諸範疇が歴史的なものだという基本的な歴史的センスは身につけて欲しいものである。

 

 

資本の前提としての商品と貨幣

     現代経済生活では当たり前となっている商品はどこから生まれたか?

     貨幣はどこから生まれたか?[9]

・ 商品と貨幣は、非常に古い時代から地球上のさまざまの地域で社会の大部分の人々が現物経済で生活しているところで誕生[10]

 

 

商品=貨幣関係・・・・売り(WG)と買い(GW

生産物が商品として売られ、購買されるということは、歴史上非常に古くから見られる現象であり、古い時代のさまざまの生産様式と共存し、付属的周辺的な経済関係として、歴史貫通的に地球上のいたるところに存在した。

 

それでは、資本はどうか?

 これまた非常に古くから存在した。したがって、比喩的に「前期的資本」と呼ばれる・・・非常にさまざまの生産様式との共存。

(前期の由来・・・洪水前期からの資本。聖書伝説「ノアの洪水」よりも前からあったタイプの資本、それほどに非常に古いタイプの資本[11])

 

 

日本でも古くから門前町、城下町、各種の定期市(四日市、十日市、その他)が形成され、商業取引があったし、高利貸しもあった。(日本の商業史・流通史に関して、最近、優れた通史が書かれた。石井寛治『日本流通史』有斐閣、2003年。 )

 

だが、近代的な産業資本は存在しなかった。

 

中国でもすでに宋代社会において、「農村の隅々に至るまでが、貨幣経済の渦中に捲き込まれていた」し、宋代(960-1279)以後、清朝(1616-1912)の中期にいたるまで、大運河が形成され、人口は大運河の沿線に集中し、膨大な商業都市が発達した[12]

 だが、近代的産業資本は存在しなかった。

 

  それでは、近代に独自な資本、近代的産業資本の誕生の前提条件は何か?

  そもそも近代的産業資本とは何か?       

 

先取り的に一言すれば、「近代に独自な資本」がどこで、いかにして生まれてきたかを問うことは、問題の別の側面からすれば、「近代に独自な労働者(=雇用者)はどこからでてきたか?」を問うこと。

 

 

前期的資本の特徴は何か? ・・・いずれも流通過程で儲ける、増える。

 

前期的資本の二つのタイプ

1.GGeld貨幣)―WWare商品)―G’(=G+ΔG・・・最初に投下した貨幣量Gに追加分ΔGをくわえたもの、増殖した貨幣量)

ものを買って売る(売るために、買う=仕入れる)商人資本、商業資

  

2.G・・・・G’  金貸し、高利貸し、利子生み資本、金融資本

 

 

近代に独自な資本の特徴は何か?・・・生産過程で価値増殖する。

近代に独自な資本=産業資本

資本主義的生産様式・・・労働力の売買(労働力の商品化)[13]・・・賃労働者の存在・・人間の一定層の賃労働者化

 

   PmProduktionsmittel生産手段)           (G’=増殖した貨幣量)

GW     ・・・・・・・・・・・・・・・・・P・・・・・・・・・W’G’

   AArbeiter賃金労働者=雇用労働者[14]) (生産過程)   (W’=新しい商品=価値増殖した商品、付加価値がつけられた生産物)

 

最初の投下資本(G)で、生産手段(Pm機械・原料など)を購入し、労働者(A)を雇い、生産現場・企業の中で製品を製造し、できた製品(W’)をうって手に入れた貨幣額(G’)が、当初より増えている、というのは、まったく一般的な法人企業(資本)のあり方である。資本一般はそれを本質とする。

そのありさまは、個別企業ごとに毎年、毎期、決算(財務諸表)が公表されているので、確認できる[15]

 

無数の売買現象の、個々的な損得の背後にある法則的なものはなにか?

個々の売買において、ある人は損をし、ある人は得をするといったことは売買の現実。だが、現実に無数の企業が利潤をあげている。

個別的な損得、個別企業の黒字赤字を超えて、法人企業の総体として、全体として、付加価値(とくに、価値増殖)が生まれるのは何によってか? 

付加価値を産み出すのは何か?

 

最初のGW(商品の売りと買いでは、法則的恒常的な関係においては等価交換を前提としなければならず、それを前提すれば、売りと買いからは価値増殖はおきない。

売りと買いの交換行為、交換過程で、どちらかが得をすれば、どちらかが損をするからである。買い手が得をすれば売り手が損をする。買い手が損をすれば売り手が得をする。

 

売買=交換からは価値増殖(もうけ、利潤)は発生しえない。

 

商品と貨幣の持ち手が変わったからといって、価値は増えない。100円の商品が150円の商品になったりしない。

 

だが、市場社会は、売りと買いとからしか増加分(もうけ、利潤)を獲得することができない。

どうすればいいか?

 

「近代に独自な資本」をよく分析してみなければならない。

現在の日本でますます社会の圧倒的経済活動を担うようになっているごく普通の法人、産業資本においてはなぜ価値が増殖するか? 

増える根拠は何か?・・・・新たな価値の創造があってこそ、価値は増殖する。

すなわち、価値の実体=労働時間が新たに追加されてこそ、価値は増加する。

原料に機械を使って加工するという労働過程で、新たな労働(現実の生きた労働)が加えられ、製品に対象化され、その新たな労働(現実の生きた労働)ある一定時間を超えた時点から、当初の価値量を超え、生産物に対象化された労働時間=価値は増加する(価値増殖)のである。

 

 労働過程と価値増殖過程[16]、支払い労働と不払い労働[17]、必要労働と剰余労働、不変資本と可変資本の内容と相互関係をはっきり掴む必要がある[18]

 

 

現代日本の社会統計・公的統計による検証

 

人件費部分、必要労働部分は「人件費」部分であり、これが支払い部分である。それ以上の部分、剰余労働の部分が資本、法人企業の掌中にはいる・・・従業員全体の仕事=労働の成果としての剰余価値。そこから資本の取り分として利潤、営業利益。

 

 

財務省の付加価値統計は下記の諸項目からなっている。

 

人 件 費

 

支払い利子

賃借料など

租 税

 

営業利益

 

 

 

 

必 要 労 働 部 分

(働くものとその家族の生活の維持、衣食住の費用、しかるべき教育・文化・余暇の費用[19]、働くものがその社会秩序等を維持するために支払う所得税など国税と地域の共同的公共的生活の維持のために支払う地方税などを含む=具体的な勤労者(国民)の支出動向数値は、総務省統計局の家計調査[20]を参照)

剰 余 労 働 部 分

(企業のものとなる。そこから企業が利子、賃借料・地代、国家的公共的諸制度の維持・国家の維持のため税金(法人税など)を支払い、残りが営業利益となる。この営業利益から、役員特別賞与、および資本準備金など資本蓄積・経営拡大)

 

 

下記の財務省統計をみると、勤労者が付加した労働のうち、だいたい70数パーセントを生活費=必要労働部分=労働力Arbeitskraftの維持と再生産のための費用として取得している[21]

 

これを、労働時間、賃金統計

http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/13fr/mk13r.htmlと組み合わせて、みると、常用労働者5人以上の日本全国の営業所の平均的な時間給(単位時間あたり貨幣額)などがはっきりする[22]

 

 

 

付加価値に関する最近の具体的数値は、財務省(旧大蔵省)の下記統計を参照。

(1995-1999年の統計 www.mof.go.jp/ssc/1c002u1.xls・・・今回は省略,

 

 

(下記は日本全国の法人企業統計:19962000年の統計www.mof.go.jp/ssc/h12.xls、ここのページには110表あるが、下記はその第5表。統計は、日本の全産業の法人企業統計であり、恣意的な統計でも、私的な統計でも、ほんの一部の統計でもない。日本社会全体の大量現象=その背後にある大量法則を確認できる)

 

第5表

付 加 価 値 の 構 成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(単位:億円、%)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

構成比

構成比

10

構成比

11

構成比

12

構成比

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  付加価値

2,697,206

100.0

2,756,607

100.0

2,704,127

100.0

2,675,469

100.0

2,766,294

100.0

  人件費

1,965,808

72.9

2,031,204

73.7

2,033,555

75.2

2,019,617

75.5

2,025,373

73.2

  支払利息・割引料

192,084

7.1

170,151

6.2

182,101

6.7

144,427

5.4

135,564

4.9

  動産・不動産賃借料

254,076

9.4

255,199

9.2

273,979

10.2

249,560

9.3

256,993

9.3

  租税公課

133,216

5.0

139,462

5.1

143,363

5.3

113,593

4.3

107,279

3.9

  営業純益

152,022

5.6

160,591

5.8

71,129

2.6

148,272

5.5

241,085

8.7

  付加価値率

18.6

 

18.8

 

19.6

 

19.3

 

19.3

 

  労働生産性(万円)

734

 

734

 

712

 

694

 

702

 

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                  

        (注) 1. 付加価値=人件費+支払利息・割引料+動産・不動産賃借料+租税公課+営業純益(営業利益−支払利息・割引料)

 

 

 

     営業純益=営業利益−支払利息・割引料、 

3.付加価値率=付加価値÷売上×100  

   4.労働生産性=付加価値÷従業員数

 

 法人企業にとって、「売上に占める付加価値の割合」が、一つの重大関心であることは、上記の表の項目、すなわち、付加価値率をみてもわかる。売上高には、原料費・機会設備の減価償却費など、諸コストが含まれている[23]

 

 

 

 

 

平成13年分結果確報:

賃金(=労働時間の貨幣表現)と労働時間(賃金の実体)の関係

賃  金(月間)

現金給与総額

きまって支
給する給与

所定内給与

所定外給与

特別に支払
われた給与

351,335

(-1.2)

281,882

(-0.8)

263,882

(-0.5)

18,000

(-4.2)

69,453

(-3.0)

労働時間   
   
    (月間)
  
    (年間)

総実労働時間

所定内労働時間

所定外労働時間

出 勤 日 数

所定外労働時間
(
製 造 業)

153.0時間

(-0.8)

143.6時間

(-0.7)

9.4時間

(-4.4)

19.9

<-0.1>

12.6時間

(-8.5)

1,836時間
[1,848
時間]

1,723時間
[1,714
時間]

113時間
[134
時間]

     

151時間
[169
時間]

雇  用
労働異動(月間)

常用労働者

一般労働者

パートタイム
労 働 者

入 職 率

離 職 率

43,378千人

(-0.2)

34,281千人

(-1.1)

9,097千人

( 3.6)

2.06

<0.03>

2.15

<0.06>

出所:http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/13fr/mk13r.html



仮に、上記の財務省統計により、平均的な付加価値に占める人件費割合を75%と高めに評価する(平成12年度は73%だが、念のため、いわゆる「搾取率」、不払い率を低めに評価して)として、総実労働時間の4分の1不払い労働時間(その貨幣換算を、企業法人がまず取得し、利子や地代を支払い、さらに税金[24]などを支払い、残りを資本家=役員[25]と法人が取得)ということになる。

 

現金給与総額は、実労働時間の75パーセント分の支払い労働の対価である。

153時間×75パーセント=114.75時間が労働者に支払われた労働時間である。この支払割れた労働時間=支払い労働に現金給与総額351,335円が対応することになる。

 

時間給(正確には単位時間あたりの現金給与総額)はつぎのとおりとなる。

351.335円÷114.75時間=時給3062円・・・・日本全国の平均的な勤労者の1時間の労働は3062円と貨幣表示(日銀券表示)

 

 月に153時間−114.75時間=38.25時間の不払い労働時間

 つまり、38.25時間×3062円=117121.5円を企業が取得することになる。企業はそこから税金などを支払って、最後に営業純益を取得する。

日本の雇用労働者がどの程度月給(現金給与総額)のうちから貯蓄・借金返済などに回すかはわからないが、ともあれ、彼らの生活を維持し子供を養育するなどのために給料を支出していることは間違いない。彼らが購入する衣食住[26]の費用(価格総額)が給与総額と対応する。

 

1ヶ月間の平均的雇用者の労働時間=153時間=貨幣表現に直すと

351335(支払い労働部分)プラス117121.5(不払い労働部分)468456.5

 

以上を総括的に表示すると、

75パーセント

(=付加価値に占める人件費割合=労働分配率[27])

114.75時間(総労働時間中にしめる人件費対応労働時間)

351,335

必要労働(時間とその貨幣表現)

 

支払い労働(時間とその貨幣表現)

25パーセント

(=資本分配率)

38.25時間

117121.5

剰余労働(時間とその貨幣表現)

不払い労働(時間とその貨幣表現)

 

精密な計算にはいろいろの階層差、地域差(さらには個人差)などを考慮するなどしなければならない(上記賃金統計資料の参照資料をクリックしてみると、実に詳細な統計が作成されている)が、大局としては、このように言えよう。ここでも、細部にこだわって、必要労働剰余労働の配分の大局的動向[28]、そこでの大局的法則性を見失ってはならない。

 

さらに特筆しておかなければならないことだが、現在の先進国では、このように労働時間とその価格(貨幣表現)が統計的にも、大局的に明確になってきているということである。

また、いわゆる搾取率、あるいは剰余価値率といったものも、大局的大量法則的に数値で確定できるようになってきている。社会統計の完備と精密化は、このようなことを今や可能にしているのである。だが、その社会統計の意義と重要性をどの程度の人が認識しているであろうか。価値あるデータの存在とその認識とのあいだには、巨大なギャップがある。そのギャップは、社会的偏見、科学的偏見を媒介にして継続しているものなのである。

 

ともあれ、全国的統計によって裏づけられ検証可能になっているという意味で、商品の価値法則[29]、労働価値の法則、商品価値の労働時間による規定抽象的社会的人間労働による価値規定(まさに日本の統計では全労働者をその個別の多様な仕事を抽象した一般的抽象的人間労働として数値を出している)が、手に取るように明らかになってきているといえよう。

 

労働時間による価値規定、価値法則は貫徹しているのだ。

価値法則は先進国の進んだ社会の全国統計によって実証され、検証可能になっている。

それはあたかも、光学電子顕微鏡やその他のナノテクノロジーによって、かつては理論的実験的に推測され、化学式や化学模型として構築再現されていたていた化学物質(分子構造、原子構造など)が視覚的に顕微鏡写真映像として目に見えるようになったのと同じである[30]

 

このような労働時間による価値規定があるからこそ、価値実体である労働時間の何時間かを表す尺度として紙幣[31]が流通し、価値尺度となり、一般的流通手段となり、蓄積手段となっているのである。

 たとえば、単純労働は、時給850円とか900円という形で、明確に時間と貨幣額とが対応して示されている。複雑労働についても、別に見るように同様である。

 

かつて、商品社会が未成熟な段階では、金や銀などの実物貴金属=それ自体として価値実体を持つものが一般的等価物とならざるを得なかった。

しかしいまや、労働時間の価値規定が大量的統計を通じて、まさに一般的社会的に、ますます、きわめて明瞭に確定できるようになったため、それほどに成熟した商品経済的発達の基礎では、単なる無価値な紙(紙幣)が、労働時間の一定量をあらわす(労働時間の一定量を表現する)ものとして、現実的裏づけを持っているといえよう[32]

・・・・従来の諸経済学説・最近のさまざまの貨幣学説の批判のための基本的見地=労働価値説の学問的科学的普遍的復興と新水準への揚棄・・・近代経済学、現代的経済学批判の課題[33]

 

 

「社会的に作用している力の作用は自然力と少しも変わらない。われわれがこれを認識し、それを考えにいれぬ限り、それは盲目的で、暴力的で、破壊的である。だが、ひとたびわれわれがそれを認識し、その活動、その方向、その効果を把握すれば、これをだんだんとわれわれの意志に従わせ、これを手段としてわれわれの目的を達成することは、われわれしだいである。[34]

 

 


近代資本主義社会とは、近代に独自なタイプの資本=産業資本が人間の経済生活で土台となり支配的となっている生産様式

社会の就業人口に占める雇用者=賃金労働者、サラリーマンの数が、しだいに比重を増す。資本・賃労働関係がしだいに社会の全体に浸透する。

 

「近代に独自な」生産様式という歴史理解[35] ・・生産様式を歴史的な生成・発展・没落において見る見地[36]

   原始共産制社会、氏族社会

   古典古代的な奴隷制社会

   封建社会、

   資本主義社会

 

現代は、資本主義社会であると同時に、資本の論理をさまざまの人間的論理で規制する社会。 

現代世界は、資本の論理と労働の論理、人間の論理の激しいせめぎあいの時代。

 

現代社会の成熟度に応じて、すなわち働く人びとの教養水準、文化水準、政治的発言力などによって、資本の論理は多様な法的社会的規制によって制限・制約されている。

現代の世界では、働く人びとの労働時間は社会的に法的にある制限内に押えこまれている。18時間労働、週40時間(ないしそれ以下)労働がしだいに確立されてきている。   

産業革命時代の「資本の横暴=資本主義」は、押えこまれている。

 

 

 

 

   



[1] 『資本論』第一巻第1章、冒頭の文章、すなわち「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。」Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine „ungeheure Warensammlung“, die einzelne Ware als seine Elementarform, in: Karl Marx, Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie. Erster Band, Hamburg 1867(1. Aufl.), 1890(4. Auf.), Berlin(O) 1962, S.49.

 このことの意味は、裏返せば、資本主義的生産様式が支配的でない社会では、富の形態は別のものだということである。

何だろうか? 

大塚久雄のテキストを読むこと。

 そして、詳しくはサブテキスト大塚久雄『共同体の基礎理論』を読むこと。

 

ソ連東欧圏の崩壊、中国の市場社会化によって、世界が歴史上最高段階の「市場社会」になった現代社会こそは、まさに、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」である。市場での取引対象が商品であることはいうまでもない。商品が経済生活の「基本形態」であることもいうまでもない。その個々の商品は、いまや世界的な連関の中で生産され、消費されている。その点でも世界史上、最高の発展段階にある市場社会が現代だということである。金融や為替の世界的連関が社会の表面を蔽っているが、その基礎には、商品経済の世界的連関、人間の経済生活の世界的連関がある。

したがって、商品は何であるのか、商品と貨幣とはどのような関係にあるのか、この分析と解明、理解はまさに今日、きわめて重要な経済学の問題である。商品と貨幣の歴史性を把握するのは経済史学の問題である。

 

[2] 「社会的市場経済」をめぐる議論の最近の状況については、石井聡「『社会的市場経済』と西ドイツ経済史」名古屋大学国際経済動態研究センター『ニューズレターNo.1320023月、2128を参照。

 

[3] そもそも「社会的市場経済」が構想されたのは、世界大恐慌という形での資本主義の破産状況とそれにつづくナチズム・ファシズムの台頭・世界戦争という人類社会崩壊の危機をどのようにして乗り越えるべきかという問題関心からである。単なる概念をもてあそんでいるわけではなく、恐慌大量失業世界戦争をどのようにして克服するか、この問題提起に対する解答の模索の結果であり、その一つの答えが「社会的市場経済」、あるいは「福氏国家」である。生産手段の私的所有、企業経済の私的性格を基礎にしつつ、競争条件の調整、競争結果のマイナス面にたいして一定の調整を国家的社会的に図るというシステムである。最近喧伝された「セイフティーネット」は、その国家・社会による「市場経済」調整機能の再発見・再定義である。

 

世界大恐慌・ファシズム・戦争に対する克服策の別の答え方が「ソ連・東欧型社会主義」であった。その本質は生産手段の国家所有化、その肥大化を基礎にした中央集権的官僚的統制経済であった。後者は1990年までにその破産が証明された。

 

 だが、いわゆる「市場経済」は、大量失業を克服していない。ソ連東欧崩壊後の「自由主義」と「市場主義」の支配は、世界で経済的貧困や失業を大量に生み出す結果となっている。市場競争上の弱者は、強者の前に屈辱的非人間的状況に置かれている。また、市場至上主義のグローバリズムは、世界各地で反対の運動を巻き起こしている。グローバルな自由主義的市場の攻勢に対応できない地域や人びとは、どうすればいいのか。一方的なグローバリズムは、そのような世界的弱者をなぎ倒す。それに対する一定の緩衝政策・温室政策が必要であろう。

 

また、市場経済の競争は生産力をめぐる競争であり、市場参加者の生産力・生産性上昇(その一つの形態が「効率」化や「合理」化)によって必然的に遅かれ早かれ過剰生産に陥る。日々の新聞で報じられる国内的世界的な市場摩擦現象はまさにその過剰生産を証明する。

したがって、人間の生産能力は、早晩、過剰化した生産分野から別の分野、社会と世界が必要とする分野に振り向けられなければならない。つまり、新しい市場の開拓とその新しい産業への人員の移転がなされなければならない。

 

そのようなダイナミックな転換において、その転換と移行の過程で、社会的構造転換の結果としての失業を、個々人の負担に押しつけるのは、野蛮な資本主義、野蛮な市場経済主義に他ならない。

 

浮浪者、長期失業者、破産による自殺者の増加といった日本社会で見られる諸現象は、まさにその社会的野蛮の表現である。大きな社会的生産力拡大・構造転換の責任を個人に押しつけるの背理であり、社会的責任は社会が負わなければならない。個人責任と社会の責任の相互関係を明確化しなければならない。

失業者・破産者等の新たな職業的可能性の発掘、そのための教育訓練、彼らの能力の再活性化のための訓練施設の制度化などは社会がなすべきことであろう。

 

[4] テキスト・大塚久雄『欧州経済史』岩波現代文庫における問題意識、課題意識。

[5] 現在、普通にみられる現代の「マクロ経済学」の理論体系自体、そんなに古いじだいからのものではない。ジョン・メイナード・ケインズがその古典的著作『雇用・利子・および貨幣の一般理論』を出したのは、1936年のことだった。29年以降の世界経済恐慌とこのだけぎを最も厳しく受けたドイツにおけるナチスの登場、世界経済の閉鎖化といった現実と直面して書かれたものである。そこには世界的な大量失業問題をどのようにしたら克服できるかという問題意識・課題意識が大前提としてあった。はじめに問題ありき、であった。ある意味では結論も先にあった。すなわち失業の消滅、雇用創出、完全雇用の達成がそれであり、そのための有効需要の創出である。そして、その中間項として、政府・国家の能動的役割ということである。国家と政府が主体的に社会経済を操作するという構想と実践は、失敗したとはいえ、ソ連の社会主義国家の中心理念であった。ケインズの根本的発想は、その意味では決して神秘的なものではない。

 

市場と国家、市場主義と国家主義、市場主義と公共主義、私と公などの相互関係の歴史的空間的発展関係、

 

19世紀にも世界経済恐慌はあった。

それと20世紀二〇年代末以降の世界恐慌とはどのように違ったのか?

19世紀から20世紀にかけて、世界の経済はどのような根本的構造転換を遂げたのか?

 

[6] ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』岩波書店、2001年。

[7] 伊藤元重『マクロ経済学』日本評論社、2002年、2ページ。

[8] かつて、60年代から70年代は、国の経済規模、発展度合いなどを測る物差しとして、「GNPGross National Product国民総生産」の概念が一般的だった。しかしその後、冷戦終結後とりわけ、国際的な経済関係の相互浸透は飛躍的に増大し、実際に国内Domesticで行われている生産と国民Nationalが行っている生産とのあいだに大きな乖離が生じるようになった。いまでは、国内総生産GDPGross Domestic Product)が、国内で行われるすべての生産活動を意味するものとして、経済成長などの経済指標を語るときには主として使われている。

 総務省統計局統計センターの「国民経済計算」の解説によれば、いまや、一国の経済の状況を体系的に記録するマクロの経済統計体系である国民経済計算SNA: System of National Accounts)において、「国民総生産GNP)の概念がなくな」った

一国における「生産」と「所得」とのあまりの乖離がすすんだことによって、経済の概念と実態とが合わなくなったのである。実態に合わせて、用語(概念)が変更されているのである。

 

すなわち、最新の国民経済計算システムである「93SNAでは,これまでの68SNAで利用されていた国民総生産(GNP)の概念がなくなり,同様の概念として,国民総所得(GNIが新たに導入されている。

従来の68SNA上で使用されていた国民総生産は国内で生み出された付加価値(GDP海外からの純所得として得られる。しかし国民総生産は生産測度という性格のものではなく,所得測度としてとらえるべき性格のものであった。

一方,93SNAでは,68SNAにおける国民生産所得測度である点を明確にするために,国民総所得GNI)と定義し直し,国民総所得は各経済主体が(海外からも含めた)受取った所得の総計としている。

したがって名目国民総生産68SNAベース)は名目国民総所得93SNAベース)と同一となり,実質国民総所得93SNAベース)は,実質国民総生産に輸出入価格(デフレーター)の差によって生じる所得の実質額(交易利得・損失)を加ることで新たな調整を行い,国民が受取った実質的な所得をより的確に表すこととしている。」

 

 このような国民経済計算システム(用語変更)がすでに)93SNAで採用されていることを考慮すれば、2002年出版の入門書(伊藤元重『マクロ経済学』日本評論社、2002年)でつぎのようなことを言っているのは、時代遅れの感が否めない。

 すなわち、「国際化によって乖離が大きくなるGDPGNP(同、26ページ)という見出しで、現在でもなおGNPが有効な概念として使われているかのような印象を与えているからである。「経済の国際化が進めば、企業の海外活動が増え、人の国際移動が拡大し、国内で活動する外国企業や外国人が増え、海外で活動する日本企業や日本人も増えます。その結果、GDPGNPの乖離は大きくなり、両者を区別することが重要になってきます」()というのは、まちがいではない。

しかし、いまではすでにその区別が重要だという段階を通り越して、GNPではすなわち、「生産」という概念は経済実態を表さない、むしろ「所得」と見なければならない、統計数値の内実は生産ではなく所得だということがますますはっきりしてきて、国民経済計算の最新版では国民総所得GNI)概念が用いられるようになっているのである。上記、伊藤の入門書には索引項目にも国民総所得GNI)がないのであるが、国民総生産GNP概念がいまや過去のものになったという歴史的変化は、決して見過ごすべきことではないであろう。

とくに、「実質国民総所得93SNAベース)は,実質国民総生産に輸出入価格(デフレーター)の差によって生じる所得の実質額(交易利得・損失)を加ることで新たな調整を行」うとあるように、「輸出入価格の差」などが大きな要因となるような場合、あるいは、生産の空洞化が大きく進んでいるような場合、生産概念と所得概念で把握していることが大きく食い違う場合などは、現実認識がおおきくずれることになろう。

 

日本の最近の経済の問題のひとつの要因は、この「生産の空洞化」現象ではないのか?

労賃の安い海外に生産拠点が大々的にうつされてきたということ、これが日本国内の製造業の停滞、長期不況などと関係があるのではないか? 

海外で雇用を創出したことが、日本国内の雇用を減らすこと、失業の増加につながっていないか?

だとすれば、日本が新たな雇用を、高賃金でも雇用が可能な科学技術的に高度な生産構造(生産分野)を見つけ出し、創造することが求められているのではないか?

 

[9] 分業の発達、交換のための余剰生産物、交換の一般的媒介手段の必要・・・アダム・スミス『国富論』第1編第4章 「貨幣の起源と使用について」

[10] アダム・スミスを前提にしたマルクス『資本論』第1巻第2章 「交換過程」

[11] 大塚久雄「いわゆる前期的資本なる範疇について」大塚久雄全集、および『資本論』第320章、第336章。

[12] 宮崎市定『中国史 下』岩波全書、1978年、315-316ページ。

[13]『資本論』第1巻第4章 「貨幣の資本への転化」。

詳しくは、この第4章を読み、丹念に正確に理解する必要があるが、若干コメントしておこう。マルクスが発見した決定的なこと、彼が自分の発見として特定していることは、剰余価値の発見であり、その実体としての剰余労働である。

それは、労働Arbeitと労働Arbeitskraftのちがいを発見することでもあった。労働者と資本家(企業)との間で、売買されているのが、普通には、そしていまでもほとんどの人の意識では、労働だと思われている。契約上も1日の労働時間が定められ、その労働時間に対応するものとして賃金が支払われている。すなわち、社会の「表面では、労働者の賃金は、労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現象している。」(『資本論』第一巻「第17章 労賃」の冒頭、 Das Kapital, Bd.1, S.557

 

しかし、実際は、労働者(現代ではサラリーマン)は、労働力Arbeitskraft=労働する能力を売っているのであって、労働者は賃金として自分が提供した労働時間の全体に対する額ではなく、労働力Aribeitskraftに対応する額を受け取っている。

 

「労働力の価値または価格(Wert resp. Preis der Arbeitskraft)」を通俗的には、「労賃(Arbeitslohn)」(労働に対する報酬)と表現する。

 

通俗用語の「労賃」、科学的に正確な規定である「労働力の価値または価格」は、この労働力の価値の大きさの変動を規定するすべての契機を含む・・・すなわち、「自然的な、または歴史的に発達した第1次生活必需品の価格と範囲、労働者の養成費、婦人・児童労働の役割、労働の生産性、労働の外延的および内包的な大きさ」。(『資本論』第1巻第20章 労賃の国民的相違、大月書店版、727ページ)

 

 

資本家は労働者が一定時間働く労働力=労働能力を購入している。

つまり、労働力の売りと買いKauf und Verkauf der Arbeitskraftが、科学的な認識である。

地動説、すなわち地球が太陽のまわりを回っていることが自然科学的真理であることがわかっても、日常的現象、日常的意識には天動説が正しいように見える。すなわち、太陽が地球のまわりを回っているように見える。これと同様のことが、経済学においても存在するのである。

資本家企業が払う額は、労働力を維持し再生産するために必要な額であり、労働者自身と家族の生命・生活の維持のために必要な額である。すなわち、必要労働部分が労働者本人と家族の生活維持に必要な部分に対応する。

 

 人間労働は、自分と自分の家族を維持する以上のものを生産してきた。人間は自分と自分の家族の生活の維持のために必要な労働時間(必要労働必要労働時間)を超えて、仕事をして来た。この労働を剰余労働といい、その時間を剰余労働時間という。

 

「製造工の労働は、一般に、彼が加工する材料の価値に対して、彼自身の生活費の価値(すなわち必要労働部分・・・永岑)と彼の雇い主の利潤の価値(すなわち剰余労働部分、不払い労働部分・・・永岑)を付け加える。・・・製造工は、その雇い主から賃金の前貸しを受けるのではあるが、実際には雇い主になにも費用をかけさせるわけではない。というのは、一般にこのような賃金の価値は、彼の労働が投ぜられる対象の増大した価値のなかに、利潤と一緒に保存されているからである」(アダム・スミス『国富論』第二編第三章、岩波文庫、2000年、109ページ、旧大内・松川訳(2)337ページ)

 

資本家的生産様式、資本主義的生産様式では、その剰余部分(剰余労働部分)が資本家・法人企業・資本の手に入る。それが資本の増殖、価値の増殖の秘密である。

 

 「価値一般の認識のためには、価値を単なる労働時間の凝固として、単に対象化された労働として把握することが決定的であるように、剰余価値の認識のためには、それを単なる剰余労働時間の凝固として、単に対象化された剰余労働として把握することが決定的である。ただ、この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会賃労働の社会から区別するのである。」(大月版資本論、第一巻、282ページ。)

 

[14] 日本の雇用労働者数は、資本主義の発展とともに急増し、戦前の1923年に約396万人だったのが、現在では5365万人で13・5倍(総務省「労働力調査」参照)。歴史的経過については、中村隆英著『昭和経済史』岩波書店、岩波セミナーブックス17などを参照のこと。

 

[15] 各企業の損益計算書、貸借対照表などをみるとよい。

 損益計算のもっとも通常の営業利益をだす方式は、

T売上高(G’)マイナスU売上原価=売上総利益

売上総利益マイナスV販売費および一般管理費=営業利益。

 

Vの販売費および一般管理費のなかに労働に対する支払い額(すなわち、「販売および一般管理業務に従事する役員・従業員・の給料、賃金、手当、賞与」)がふくまれている。ごく一般的な啓蒙的解説書、伊藤邦雄『ゼミナール 現代会計入門』日本経済新聞社、2001(3版、第2)196ページ。 

 

 この「販売費および一般管理費」は、上記の人間労働に対する支払い部分A)と

それ以外の部分(すなわち、販売手数料、荷造費、運搬費、広告宣伝費、見本費、保管費、納入試験費、交際費、旅費、交通費、光熱費、通信費、消耗品費などのコストと租税公課、さらに減価償却費、修繕費、保険料・・・以上Pmに対応、不動産賃貸料…これは地代関係)を含んでいる(伊藤、同上)

 

租税公課をのぞき、販売手数料以下、保険料までの諸項目は、現代ではそれぞれ別の法人企業(別の資本)がその業務を行い、ものとサービスを販売している。すなわち、買い手も法人企業であり、売り手も法人企業である。

 

現実の商取引においては、売り手と買い手が駆け引きをし、値引き合戦をしたり、市場で有利な取引先を見つけたりして競争している。そのような売買行為の全体を通じて、全法人企業の相対的な取引関係では、増加分は出てこない。ある企業が得をすれば別の企業がその分だけ損をする。「売りと買い」という流通過程からは、増加分=総体としての営業利益は出てこない

しかし、商品社会においては交換関係からしか、すなわち「売りと買い」とからしか、増加分は生み出せない。営業利益は売りと買いとの差からしか生まれない。

 

この矛盾を解決するのは何か。

 

買ったものを使って、価値増殖できるものは何か?

価値の実体とはなにか?

   価値とは、対象化された労働、抽象的社会的人間労働の対象化されたものである。

価値を増殖できる特別の商品とは何か?

それは価値自体を創造する労働力という商品であり、その売買においてしかありえない。

 

労働力をもった人間に対し、その労働力に見合った貨幣額を支払う(そのかぎりでは等価交換、したがって不当な取引ではない)。しかし、買った労働力商品、労働する能力=労働能力を企業は使用する。労働能力の使用は、労働そのものである。生きた労働。

付加価値その全体を働く人びとがその労働で生み出したもの、労働の対象化されたもの、その貨幣表現である。

最近の財務省の法人企業統計・付加価値統計(別掲)によれば、人件費(働く人びとに対する支払い部分)として支払ったのは売上の75%であり、残りの25%は法人が取得する。

 

[16] 『資本論』第1巻第5章 労働過程と価値増殖過程。

 

「労働力の買い入れに前貸しされる資本部分(v、たとえば90ポンド)は、一定量の対象化された労働であり、したがって、買われる労働力の価値と同じに不変な価値量である。ところが、生産過程そのものでは、前貸しされた90ポンドに代わって、みずから活動する労働力が現われ、死んでいる労働にかわって生きている労働が現われ、静止量に代わって流動量が、不変量に代わって可変量が現われるのである。その結果は、vプラスvの増加分(=Δv)である。」(『資本論』第一巻第7章 剰余価値率、大月版、279ページ)。

 

このvからv+Δvへの生産過程での増加、これが価値創造と価値増殖の秘密である。

     90+90

     90+60

     90+30 などなど。

 

「ルクレチウスのいう『無からはなにものも創造されえない』は、自明のことである。無からはなにも生じない。『価値創造』は労働力労働への転換である。この労働力はまた、なによりもまず、人間有機体に転換された自然素材である。」(同上、280ページ)Wertschöpfung“ ist Umsatz von Arbeitskraft in Arbeit. Ihrerseits ist die Arbeitskraft vor allem in menschlichen Organismus umgesetzter Naturstoff. Das Kapital, Bd.1, S.229.

 

[17] 「不払い労働」は、それぞれの国の社会経済的な文化的な妥当な水準の労働条件で労働者の正常な自分と家族のために必要な生活費をまかなう「支払い労働」を労働者が取得している場合にも、発生するものである。

その意味では、「『不払い労働』とは、雇い主が正当な対価を支払わないで職場内で使用する賃金労働者の『労働』に他ならない」(楠井敏朗『富、権力、そして神―社会環境論序説―』日本評論社、2002年刊)というのは、マルクス理解として正確ではない。

雇い主が労働力(商品)を購入し、その労働力に対して正当な対価を支払って、企業内でその労働力を使用する、すなわち労働させる。この「正当な対価」に対応する部分が支払い労働部分である。

マルクスの理論においては、労働力に対する「正当な対価」を支払うという正常な売買関係を前提して、なお、人間労働力の生産性からして、人間は自分に必要な部分を生産するよりも多量の労働を支出し得るということ、この人間労働力の労働生産性(自分と家族の生活の必要以上の部分を生み出す労働部分)を雇い主、資本、企業が取得すると分析し、解明したのである。

 

資本、資本家、企業法人が、「正当な対価」を支払った後でなお残るその「不払い労働」部分を、資本の生産したものとして取得すること、ここが問題なのである。それは、資本が生産したのではなく、人間が史的に形成した労働生産性の高さが産み出したのである。この人間労働が歴史的に達成したものが、資本の生み出したものとして理解され、資本によって取得されること、ここに問題がある。

資本そのものも、さらにいえば、人間労働の対象化されたある価値量(c+v)であるにすぎない。

 

 「正当な対価」を支払わないとき、それはまさに搾取という概念にぴったりくる一時代前の資本家的やりかたである。

 しかし、この「正当な対価を支払わない搾取」というのは、どこかよそごとであろうか?

 いや、じつは、この大学のなかでもそれが行われようとしているのではないかとの深刻な疑念がある。

 

 大学教員は、持ち駒学部4.5コマ(商学部では慣行的に講義2コマ8単位分相当とゼミナール2年後半0.5コマ、3年1コマ、4年1コマ)、大学院修士課程の講義0.5、博士課程の講義0.5コマ、演習は修士と博士合わせて1コマ、したがって大学院2コマ。学部と大学院で6.5コマの負担である。学生が一こまの講義のためにその倍くらい予習復習しなければならないように、大学教員はこの持ち駒負担のために、倍以上の時間準備をしなければならない。そのほかに、定例教授回が月に一回、定例学科会が毎月一回、さらに、各種委員会が最低毎月一回ある。さらに、学部と大学院の入学試験の出題、採点なども負担としてある。最近は入試の回数、形態が非常に増えたため、秋以降は毎月何か(学部か大学院)の入試があるという状態である。

 以上ははっきり決まった定例的な負担である。

 

 しかし、このような教育と入試に関わることだけを教員はやっていればいいのか。

 

 そんなことはない。教育と研究とは密接不可分なところがあるが、それでも大学教員は研究の証明としての研究論文、書評の執筆や翻訳など、その研究者でしかなしえない研究時間を必要とする。

 以上の仕事をするために、週40時間労働の全部を使うのが普通である。いや、それ以上の時間を研究のために割いているのが普通である。

 

ところがさらに、自分の研究が日本全国、あるいは世界の学会の水準に遅れないように、あるいは対応するように(できればその先を行くように)不断の努力をし、週末や夜間には研究会に出席したり、学界の一員として専門学会の委員としての仕事がある。

今日、普通には週40時間の労働時間が一般的であるとすれば、真面目な大学教員は研究と教育のために40時間以上働いているのが普通であろう。

 

したがって、普通の業務にための40時間以上の義務的な労働は、強制できるはずがない。その普通の研究と教育の職務のための40時間を越える時間外勤務(夜間・週末の職務)を強制することは、不当労働行為となろう。

仮に、時間外勤務を大学教員のなっとくづくでやる場合にも、それにはそれにふさわしい時間外勤務の手当てを支給するのが「正当な対価」というものである。そして、それはこれまで何十年もずっと支払われてきた。たとえば、夜間や週末の市民講座を担当するとき、準備時間と講義時間とを合わせて2万円から3万円の間の謝金が支払われていたのである。

 

ところが、新年度から、この時間外職務の講師謝礼が、謝金として支払われず、支払われるのは研究交付金という名目のわずかに3000円だというのである。

これはおかしくはないだろうか。

大学教員が地域のために貢献することはいろいろある。それは市民講座やリカレント講座に限定されるものではない。実は、受講生の皆さんのような大学に入ってきている学生ための講義を、そのための研究をしっかりやることも、すぐれた学生を社会に送り出すことも、長期的にみれば、また全社会的に見れば、地域に貢献することである。講義に地域の社会人などを科目等履修生として受け入れるのも地域貢献である。

ところが、最近、論理が一転して、「地域貢献」(という名目の「市民講座」などの時間外勤務)を正常職務に入れてしまい、かつては時間外勤務として、それなりに負担の重さに対する評価と配慮があったのに、位置づけを変えるだけで謝金をばっさり一〇分の一程度に減らしても当然だというのである。

「負担の重さ・時間外負担」に対する「正当な対価」は出さないということである。深刻な疑念というのはその意味である。大学教員の仕事を正当に評価しないで、大学教員が内発的意欲を持って仕事をできるというのか? 大学教員はかすみを食べて生きる聖人君子か? 仕事のエネルギーは無限にあるというのか? 根本的な人間観が誤っている。

一般職員なども「時間外勤務」の手当てを出さない、いままで時間外でやっていたことを時間内でやれ、市民講座などは時間内の通常・正常職務と見なし手当てはばっさりカット、かわりに研究交付金という名目の金(資料代くらいか?)3000円だす(これは使わなければ取り上げてしまうというもの)ということになれば、一大社会問題になるのではないだろうか?

もちろん、地域貢献のための特別の講義を時間内にやるためには、本当は、教員数を増やすべきである。しっかりとした教授陣(常勤と非常勤)を増やすことで、地域の人のための特別講座にさく時間も確保できる。教授陣はそのままにして、新たな負担だけを追加することは、教育と研究にしわ寄せがくることを意味するだろう。

 

そもそも大学教育とは何か?

大学で学ぶ人間の知力・判断力・教養を高め、社会に出て仕事をする能力を高める=働く場所を通じての社会貢献の能力を高めることである。知力の向上はその個人の喜びであり、高く広く強靭・深遠な知力はその個人の能力であると同時に、社会的なものである。個人の能力の総和が社会の能力である。大学で人間を教育して優秀な人材に育て上げ、社会に送り出すことは、社会全体の、したがって横浜なら横浜もその一部である社会の労働能力を引き上げることになる。

民間企業にとっても社会全体にとっても、持っている可能生産要素のうち、「技術開発と研究開発により多くの生産要素」を投入すれば、「それだけ現在の生産活動に使われる生産要素の量が少なくな」る。

しかし、現在のような長期不況期・大量失業期、資本と労働力という二大生産要素があまっているとき、超低金利、すなわち金利などない状態で資本を借りられるときにおいてはどうか。

社会が過剰生産になっている、これまでの生産分野が満杯になっている、失業者がたくさん出ているという時代には、むしろ貴重な人材・貴重な物的資源を大学や研究機関などに振り向け、失業したものを再教育する、新たな能力を身につけさせるということは、決して無駄ではない。むしろ、積極的な先行投資とみるべきであろう。大学、いっぱんに教育への投資は、長期的な開発投資であり、開発戦略の社会的な実施である。

「経済成長に影響を及ぼす労働量とは、労働人口の増加と、一人ひとりの労働者の教育レベルの向上の、両方を考慮に入れたもの」(伊藤元重『マクロ経済学』日本評論社、2002年、303-304ページ)というのは、よく考えてみるべきことである。

伊藤は、クルーグマンの分析を紹介してだいたい次のように言う(同、308ページ)

 

一九九〇年代までのアジア諸国の奇跡的とも言える経済成長を分析してみると、「高い成長のほとんどが生産要素の増加によって説明されてしまい、全要素生産性の増加率がほとんどないような状態」だった。「この状況が意味することは、アジア諸国の成長は先進国からの大量の投資(資本の増加)と、労働の増加によってもたらされたものであり、アジア諸国内に持続成長をもたらすような技術革新は起こっていない」ということだった。

1950年代に急成長を遂げていたソ連についても、その経済成長を「生産要素の増加と技術進歩(全要素生産性)に分解してみると、その大部分が生産要素の増加によって説明された」。「つまり、ソ連の成長は、社会主義の下で、消費を犠牲にした生産財への資源の集中のもとで起きたものであって、技術進歩に裏づけられていない持続性のないものであった」と。

 

注意しなければならないのは、ソ連は米ソ二大陣営の一方の旗頭として、軍事技術・宇宙開発では先頭を切っていたということである。スプートニク・ショックという言葉がそれを端的に示している。

つまり、消費財関連の技術進歩が、軍需技術開発・軍需生産への偏重のために、なおざりにされたということである。「消費の犠牲」→「民間消費財のための技術革新の犠牲」という連関である。ここでも、軍需・軍事技術という「有効需要」が、長期的には非生産的であり、社会を停滞させることが明らかとなる。

 

人間的技術の進歩、教育レベルの向上は、誰が、どのような機関がやるのか?

 

それぞれの地域に働く人々が、全体として高度な能力を持つようになることは、社会とその地域とにとって利益となるものであり、社会とその地域に貢献するものである。大局的洞察力があれば、そのことははっきりわかるであろう。意欲ある、能力開発を目指す社会人は、意欲と向上心のある若い学生と混じって切磋琢磨すればいい。そのような人びとのために、科目等履修生の制度など、既存の制度がある。

 近視眼的な、視野狭窄の発想だけが、自分たちの社会の現在の高い社会的文化的水準の根拠を考えてみようともせず、遠くを、あるいはひろくをみない。近視眼と視野狭窄がそのような全地域的全社会的な大学の媒介的連関的な貢献を見ることができないのである。

大学人は、全地域的全社会的な貢献をしっかり認識した公僕としての広い見識と使命感を持った職員と連携し、教職員の中にある種々の小役人的発想をきちんと理性的に批判し、大学らしい発展の方向をしめしていかなければならないだろう。

いい研究をする環境と条件、いい教育をする環境と条件、この模索と着実な実現こそ大学改革の筋道のアルファにしてオメガであろう。

 

 

[18] 同上、第1巻第6章 不変資本と可変資本。商学部では、経営学科の吉田先生が労働問題に詳しい専門家である。過労死、仕事ではなく「死事」としての労働、「サービス残業」はじめ、現代日本は、生産と仕事の現場で人間的ではない状態がいくつも露呈している。現代日本の労働問題とその根源を、歴史的なパースペクティヴ、理論的なパースペクティヴを踏まえつつ、深く考えてみる必要があろう。

 

[19] 人件費の圧倒的主要部分はもちろん賃金=給料である。

  賃金とは何か?

賃金は、勤労する人、財産(物的な財産とての家屋所有、土地所有、あるいは金融的資産としての株式等の証券など)によって生活するのではなく仕事をすることによって、その「仕事の報酬」を得て生活する人びとの生活費である。

すなわち、リカードが正確に言っているように、一般に、「労働者が、彼自身と、労働者数の維持に必要な家族とを維持する」ために「購入する食物、必需品、および習慣によって不可欠になっている便宜品」を購入するためのものである。D.リカードウ著羽鳥卓也・吉澤芳樹訳『経済学および課税の原理 上巻』岩波文庫、1987(1997年、第5)135ページ

 

労働者が獲得する賃金は、その時々の市場の状況、物価変動、個々の企業の条件などによって上下に変動するもの(「労働の市場価格」)ではあるが、それら変動を貫いて支配する基本的な部分を「労働の自然価格」と呼べば、この「労働の自然価格は、労働者とその家族の扶養に要する食物、必需品および便宜品の価格に依存している」のである。リカードウ、同上、同ページ。

 

 しかもその賃金は、現代の世界先進諸国、そして日本全国でかなり明瞭な標準的な「労働の価格」として、春闘などの交渉を経て、ある一定労働時間・勤務時間の対価として確定されている。「労働・仕事をしている全時間が支払われている」、「労働・仕事に対して支払われている」ものとの観念と現象が一般的には確立している。

 

すなわち、通常の意識では、また、リカードの先ほどの「労働の自然価格」、「労働の市場価格」という表現からもわかるように、賃金は、労働・勤労の全時間に対する対価として意識されている。

 

しかし、労働力その発動としての労働とはちがう。この違いの決定的意味を明確にしたこと、ある一定時間以上の労働が剰余価値の実態となること、ここに価値増殖の秘密を発見したこと、増殖した価値部分が、利潤、利子、地代、税金などの基礎にあることを発見したのがマルクスである。『資本論』第一巻、第4章、貨幣の資本への転化、参照。

 

 「労働価値説は古典派最高の経済理論家リカードによって一応完成された」というのは妥当であり通説である。しかし、その労働価値説が「マルクスによって些末の修正を加えられて、完成の度を深めた」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学』東京経済新報社、2001年、305ページ)というのは、マスクスの発見の決定的意義を貶めるものであり、古典派経済学の批判、すなわち「政治経済学批判Kritik der politischen Ökonomie)」を掲げたマルクスの学説の要点を見失うものであろう。

 

 マルクス批判の大合唱の100年以上の歴史にもかかわらず、また、いまではほとんどの経済学者からまったく無視されているにもかかわらず、マルクスに今日改めて言及せざるを得ないこと自体、マルクス学説の素人(その素人ぶりは、マルクスが「労働力の換算」問題を解明していないという小室、同、306ページの叙述にも端的に現れている)に対する天才の無言の圧力を示すものである。

 

 小室はしかしまだマルクスの名前に言及している。それに対して、たとえば、根岸隆『ワルラス経済学入門−「純粋経済学要論」を読む』岩波書店、岩波セミナーブックス151985(第3刷、2001年、1118ページ)は、限界革命と新古典派経済学を説明するに際して、まったくマルクスには言及しない。リカードまでの古典派経済学とそれに対する1870年代のワルラス(スイス)、メンガー(オーストリア)、ジェヴオンズ(イギリス)による革命=新古典派の形成という対立図式からは、マルクスが完全に無視されている。ただ、このような批判に対しては、マルクスも「古典派」の一翼に含めているとの反応が返ってくるかもしれない。根岸、前掲書において、マルクスの名前が最初に出てくるのは、「壮大な体系を立てたけれども、ごく一部しか書けなかった」人物としてである(同、33ページ)。

ともあれ、根岸によれば、「民主主義ですから人の数で決めれば。ワルラスの流れを汲む新古典派経済学のほうが主流だということになるわけですが、しかし、相変わらず古典派も非常に優秀な現代の経済学者によって支持されていて健在である」と、対立軸は古典派対新古典派ということになっている(根岸、前掲書、18ページ)。経済学の真理性、妥当性は、経済学の理論的発展継承関係と経済史の相互関係を検討しなければ明らかにならないであろう。「主流」は、つぎの時代を担う新しい潮流の批判を受け、後景に退くというのが歴史の厳しい現実である。つぎの時代を担う経済学の新しい潮流はどこにあるか?

 

マルクスの『資本論』第一巻初版は1867年であり、その生存中の諸版にもメンガー、ジェヴォンズの著作への言及はない。メンガー、ジェヴォンズの名前はエンゲルスが編集した『資本論』第三巻序文(1894年)で出てくるにすぎない。エンゲルスによれば、ジェヴォンズとメンガーは19世紀末当時のイギリスでは、ジョージ・バーナード・ショーの俗流社会主義(Vulgärsozialismusに理論的に利用されていた。エンゲルスは、「ジェヴォンズ=メンガーの使用価値=限界効用説」(Gebrauchswerts- und Grenznutztheorieと規定し、他の俗流経済学(ロトベルトゥス、レクシスなど)批判のついでに、ジェヴォンズ、メンガーに言及しているにすぎない。ワルラスはでてこない。以上の事実は、CD: Marx-Engels Werke, Digital Bibliothek, Berlin 2000, Directmedia Publishing GmbHで、ジェヴォンズ、メンガー、ワルラスを検索すれば直ちに判明する。

70年代初版のワルラスの本が300部から500部しか売れず、「経済学の有名な本のなかでもあまり読まれない本の代表」(根岸、前掲、6ページ)であるとすれば、エンゲルスの上記『資本論』第三巻序文に言及がなかったのも不思議ではないであろう。名前の挙がっているジェヴォンズ、メンガーの場合も、彼ら流の「限界効用」経済学が後世これほど大きな潮流になるとは当時は予想できなかったのであろう。

 

ともあれ、

 「商品市場で直接に貨幣所有者(すなわち資本家・雇用者である法人企業…引用者注)に向かい合うのは、じっさい、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まればそれはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。労働は価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は価値を持ってはいない」。『資本論』第一巻、「第17章 労働力の価値または価格の労賃への転化」、大月書店版、第一巻第2分冊、696ページ。

 

「労働の価値」という表現が、科学的には間違っており、通俗表現である。そのことを正確に解明したのが、アダム・スミスを正当に引き継ぎ批判的に発展させたいだマルクスだといえる。 

 

 

[20] 総務省統計局のデータ、ここではとくに家計調査の時系列データ

勤労者:http://www.stat.go.jp/data/kakei/longtime/zuhyou/a18-2.xls

勤労者所得階層別:http://www.stat.go.jp/data/kakei/longtime/zuhyou/j1602000.xls・・・勤労者のあいだに所得での階層があるということ、これが全国統計で明かにされている。その階層差はなにによるのか。

単純労働と複雑労働・専門的労働・熟練労働、年齢給、そして管理職的経営者的業務(職務給)の加味など、「労働力の換算」は現実に企業社会で行われているということが明かである。

労働力=労働能力の発揮としての労働は、同じ単位時間あたりの労働量のちがいとして換算され、賃金・給料の額の階層的な差=所得格差として評価されている。

諸個人がどの階層に位置付けられるか、位置付けられた階層で妥当かどうか、これをめぐっては無数の不満や齟齬、個々人の職階・所得と現実の労働・仕事・働きぶりとの乖離がある。「無能な上司」、「やり手の部下」、「無能な管理職」、「管理職手当てのただどり」、「猛烈社員」、「冷や飯」・・・・

     

全世帯:http://www.stat.go.jp/data/kakei/longtime/zuhyou/a18-1.xls

所得階層別(全世帯・全国)http://www.stat.go.jp/data/kakei/longtime/zuhyou/j1601000.xls

 

これらの統計をじっくり見て、分析するのは実に興味深い。

受講生のみなさん、是非やってみて欲しい。

 

 たとえば、エンゲル係数(収入に占める食費の割合)はこの統計の一部を計算すると出てくる。1963年は37%ほどだったものが、最近では二〇数パーセントとなっている。

 

  食をふくめ、いわゆる衣食住の範囲に入る5項目(衣=被服および履物、食=食料、住=住居、光熱・水道、家具・家事用品の)割合は、1963年の60数パーセントから、2000年には40数パーセントに約20パーセントほども減少している。

 

 これに対し、自動車、電話、ファクス、パソコンなど「交通・通信費」、それに「教育費」などの割合が増大している。個々の世帯の生活の高度化・多様化は少なくとも物的生活条件に関しては、大量的全国的な長期的必然的傾向として貫徹している。

 

すなわち、人間の生産諸力の発達、労働生産性の上昇は、国民の生活水準の向上を結果としてもたらしている。その生活水準向上において、勤労者が生産(経済)の主体的担い手として果たしている自分たちの決定的役割を自覚しなければならない。

 

過去の労働の結晶したものとしての資本は、生きた人間労働なくしては、無価値となる。破産になって放置された工場の機械・設備類を見よ。人間労働がそれら機械設備(資本の固定部分)を利用しないでは、無価値なごみの山に過ぎない。

 

過去の労働の結果(資本)を生かすのは、生きた人間労働である。

 

働く人びとはこのような自分たちの主体的能力・主体的貢献を自覚しているか?

自覚しないで、精神的に奴隷的になっているの者が多くはないか?

このような生産的労働の価値=労働の人間的誇りを認識し、その深い自覚にもとづく生活の向上によってはじめて、「衣食足りて礼節を知る」基本前提が確立される。そうなっているか?

 精神生活・文化水準はどの程度、内実のあるかたちで向上しているか?

 

 過去の科学研究の成果が盛りこまれた書物は、それを生きた人間が読んで、批判的に今日的に必要なものを吸収し、生きた人間頭脳に血肉化して、生きた人全頭脳の活性化によって、はじめて生きた人間の力になる。その意味で、そのかぎりで、「知は力なり」。……反対の現象は、「宝の持ち腐れ」。

 

[21] 必要労働部分と剰余労働部分との比率は、「労働分配率」と「資本分配率」という表現もできる。日本の「労働分配率」が、長期不況の中で、かなり高いことがさまざまの論者により、問題化されている。日銀のアナリストの指摘、および橋本寿朗(20021月病気により急逝)著『デフレの進行をどう読むか−見落とされた利潤圧縮メカニズム−』岩波書店、20023月刊の指摘をあげておこう。

橋本はいう。労働分配率について、「90年代の70%を超える数値は戦後空前の高さである。日本銀行『国際比較統計』でみると、9596年の労働分配率は先進諸国のなかで日本が一番高いし、90年代に上昇傾向が続いたのも日本だけである」と。同、7-8ページ。

 

 不況のときに労働分配率が上がり(資本分配率は下がる)、好況のときに労働分配率が下がる(資本分配率は上がる)、というのは景気循環・市場条件の変動に対し、相対的に固定的な人件費=労働分配率が対応するから当然である。ただし、その相対的な固定的人件費を支払える諸企業に関してであり、市場状況と景気動向で破産・倒産に追い込まれた企業の場合は人件費がそもそもなくなる。働く人びとは失業する。失業者にとっては、そもそも労働分配率などということは関係なくなる。社会的な保障としての失業保健の一定額を取得するだけである。

 

 ともあれ、この長期不況期における労働分配率の相対的な上昇を解決するには二つの道がある。

 一つは、市場拡大・景気上昇で、相対的に労働分配率を押えたままにしておくことにより、資本分配率を引き上げることである。

 これに対して、労働分配率を下げる方法もある。橋本はその方法を提案する。

「仮に1980年代前半の労働分配率まで年1%、5年間で約5%下げると、97年の分配国市民所得は395兆円であるから、他の条件が変わらなければ、約7%の名目賃金の引き下げになるが、初年度に約4兆円、5年目に約20兆円の資本分配の増加が生じる」と(同、8ページ)。

 

 だが、そのような労働と資本の分配率の変更によって、はたして現在の日本の長期不況問題は解決するか?

 たしかに、それによって労働分配率を引き下げるのだから、その分だけ、資本の「収益率は一気に高ま」るとしても、はたして、そこから橋本の言うように「設備投資も復活する」と楽観できるか? そもそも設備投資は、その設備によって生産されるものの市場拡大が前提である。だが、いかなる製品のいかなる市場を拡大できるのか? 

 

現在、長期不況にあえぐ産業部門の問題は、過剰生産設備にあるのではないのか。市場が生産能力のオーバーで、あふれてしまっている,ということが根本問題ではないのか。橋本は、この点には考えが及ばないようである。問題は、新たな投資分野を発掘することである。

 

その点でいえば、最近の放送大学特別講義(確か、桑野教授の)で、太陽光発電の現状と将来が議論されていたが、地球環境にやさしく、CO2削減・京都議定書実行、地球的課題の実現といった点からの太陽光発電への巨大投資といったことは、ひとつ考えるべき新投資分野開拓にあたるのかもしれない。上記特別講義によれば、2000年の世界の電力需要をまかなうには、地球上の砂漠を利用して、807平方キロメートルの太陽高発電施設を建設すればいいという。それを超電動送電とか水素転化の方法で世界各地に運ぶという雄大な(巨大な投資が必要な)構想があるという。

地球規模のかつて、アメリカが29年の世界大恐慌を乗りきるためにTVAなどの発電施設への国家投資をおこなったとすれば、太陽光発電への公共投資は、その現代版ではないのか?

 

労働分配率の強行的引き下げは、すでに幾つかの産業、企業で行われているようである。

最近の新聞報道(20023月)では、春闘で妥結した後で、定期昇給引き上げの据え置きなどが行われているという。つまり、労使交渉の結果を無視した労働分配(率)の強行的引き下げである。それは勤労者の国民所得の取り分を削減することになり、その意味で、最終消費の削減につながる。つまりは、市場自体を削減することにつながる。

はたしてこのような市場削減が、景気回復に結びつくのか、はなはだ疑問である。労働者への分配を減らして増やした資本の配分、資本の側の取り分を一体どこに投資しようというのか?

市場はじめての超低金利が示していることは、資金、営業利益の蓄積はあるが、投資先がないからではないのか?投資先を開拓できないというところに、根本の問題があるのではないか。

 

世界が過剰生産に陥った29年世界恐慌への経済学的闘いの成果としてでてきたケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、市場の創出、すなわち「有効需要」の創出を打ち出した経済理論であった。「われわれの生活している経済社会の顕著な欠陥は、完全雇用を提供することができないことと、富および所得の恣意的で不公平な分配である」(J.M.ケインズ著塩野谷祐一訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社、普及版、1995年、「第二四章 一般理論の導く社会哲学に関する結論的覚え書き」の冒頭、372ページ)というのがケインズの社会哲学であり、経済学開拓の問題関心だった。

 

だが「有効需要」とは何か? 

これについては、歴史から教訓を学ばなければならない。

 

 国内外の市場の劇的収縮、大量失業(最高時点で600万人を越える)に対し、ナチズムは、秘密再軍備から公然たる大規模な再軍備へという軍需拡大で市場創出を行った。ナチ政権誕生当時の大量失業は、数年後、すなわち1936年のベルリン・オリンピックの頃には完全雇用状態への移行していた。

確かに軍需市場もまた市場ではある。しかし、注意せよ

軍需は人間生活にとって生産的な市場ではない。目先の現象に惑わされてはならない。

 

軍事物資の消費=すなわち戦争は、非生産的な目的、敵を創り出し、敵の生産設備や人命、そしてみずからの生産設備と人命を大量に破壊するものである。

たとえ軍需であっても、短期的には、そして短期的にのみ、その軍需市場・軍需関連市場に製品を供給する企業・資本の収益率といった観点からは「有効な」需要である。

しかし、歴史が示すように、そのような世界の生命財産・生産設備の破壊へと向けられた消費=需要は、決して人間生活にとって「有効な」需要ではなかった。

 

 2002年春現在のアメリカ経済の回復が、「反テロ戦争」を口実にした軍需増大によってなされているとすれば(ブッシュ政権下で空前の膨大な軍需予算が組まれたことははっきりしている、軍事生産関連企業が勢いづいていることは必然的結果である、これによる雇用増大で景気が上向きとなるのも、短期的には当然)、きわめて危険な要因が内在しているといわなければならない。

アメリカの軍需主導の景気回復に、正確な分析も歴史的教訓を学ぶこともなしに、日本が期待し、追随するとすれば、長期的にはそこから痛い付けが回ってくることになりはしないか。

 

[22] ここで公的統計に関して一言・・・国民の税金によって維持されている国家や地方自治体など公的機関の作成した統計は、その作成のために膨大な費用がかかっている。実に貴重なデータであり、国民の情報財産である。民間機関の調査とは違って市民・国民の批判のまえにさらされており、その検証が必要である。と同時に、国民がその情報を利用し、国家の活動を監視する、国民のためになっているかどうかを確認する貴重な武器である。

 

[23] これらは、マルクスの言う不変資本C部分である。付加価値率の意味は、マルクスの表現では、(vm)÷(cvm)×100を出していることになる。

 

[24] 国税としての税金部分は、全体的な国家運営のための費用であり、その構成部分のなかには教育関係、福祉関係をはじめ、国民のための支出が含まれており、完全に雇用者のためのものではないとはいえない。しかし、利子、地代、営業利益などが、雇用者の掌中に入るものでないことははっきりしている。

税金削減に財界・法人企業等が熱心なのは、直接的に利子、地代、営業利益を削減ないし圧迫する部分だからである。

 

[25] ここでいう「役員」は、「雇われ重役」であり、一般管理業務の範囲内では、「販売費および一般管理費」から所得を得ている。通常の経営業務責任者、経営者としては、ここからしかるべき報酬を得ているということである。伊藤邦雄『ゼミナール 現代会計入門』日本経済新聞社、196ページ。

 経営者であり同時に資本家である人間と、いわゆる「雇われ重役」とは、所得源泉が違うということである。

日本の「サラリーマン重役」、「雇われ重役」は、新卒の給料の一〇倍程度の所得しかない。日本企業の社長、おおくの「サラリーマン社長」の月収は、新入社員の11倍といわれる。すなわち、1999年の場合、「サラリーマン社長」の月収は221万円、これに対し、大卒新入社員の月収は、198000円と。NHK国際局経済プロジェクト・大和総研経済調査部『対訳:英語で話す日本経済 A Bilingual Guide to the Japanese Economy Q&A―改訂第2Revised Edition』講談社インターナショナル、2001年、1819ページ。もちろん、役員は営業実績に応じた役員賞与などを得るのであり、単に月収だけを一般社員と比較して見てはならない。

 ただ、ビル・ゲイツのような経営者であり資本家である典型的なアメリカの経営者資本家が、莫大な所得をえるのは、経営者としての管理業務による所得、発明家としての特許所得と資本所有からの所得(つまり利潤、あるいは株式配当、利子、さらに蓄積した資本で購入した土地・建物からの地代・賃貸料収入など)とが重なっているためである。

 

 

[26] 雇用者の必要生活物資の値段が下がる事は直接的に雇用者の利益とするところであるが、同時にそれは、資本にとっても賃金部分を抑制するために活用され、資本の取得部分を相対的に増やす事につながるので、歓迎される。

だから財界は、たとえば、食料の値段が「農産物自由化」によって引き下げられることに大きな利益をもっている。雇用者の賃金引き上げ圧力を押さえ込むことができる。・・・・相対的剰余価値(『資本論』第一巻、第10)の論理。

 

 国民の必要生活物資の価値(貨幣表現としての価格)の低下は、現象的にはデフレである。新しい資本投下先・新しい市場を見つけられない財界・資本は、デフレに悪の根源を求めようとしている。本末転倒である。新しい市場を発見・創出する創造性・柔軟にして自由な発想の欠如を、日銀の国債引取り、通貨増発などによるインフレ金融政策で乗りきろうとするのは、何も問題を解決したことにならない。根本的には、新しい市場群新しい商品群、人間生活を豊かにする商品群、日本の資本と商品を求めている世界の諸地域の開発とそのための商品群こそ、発見・創出しなければならない。

 

[27] 労働分配率labor share 企業が生産活動により創出した付加価値のうち、従業員に分配される割合で、賃金・給料なを付加価値額で除したもの。賃金分配率ともいう。」『有斐閣経済辞典』(第三版)、1998年、1264ページ。

反対概念は、「資本分配率」。

資本分配率capital share; ration of added-value to capital・・・「付加価値が企業内外の各種利害関係者のうちの資本に関わる関係者(債権者、企業自身など)にどのように分配されているかを示す指標をいう。

他人資本利息÷付加価値=他人資本分配率

税引後利益÷付加価値=自己資本分配率」(同上、529ページ)

利息部分だけではなく、財務省統計が示すように、土地家屋に地代・賃料もひとまず法人企業が取得し、そのなかから支払われる。

 

[28] 分配率、すなわち労働分配率(または賃金分配率)と資本分配率とは、好景気と不況期の波(上下変動)を貫いて長期的にはかなり安定している。また、労働分配率は一般に先進国ほど高い。

短期的に見ると、好景気には賃金分配率は低下し、不況期には上昇する。

長期的な分配率の傾向を実測すると、この値がきわめて安定的に一定の値を取ることが示されている。さまざまな社会的条件の変遷にもかかわらず一定値をとるというのは「不思議」だとし、ロビンソン(J.V.Robinson)が、「分配率不変の謎」と名づけた。『有斐閣経済辞典』1082ページ。

しかし、「謎」でもなんでもなく、労働者・勤労者の必要労働と剰余労働の割合が国民経済規模である程度の期間を通じて安定性を持つというのは、生産力水準の全体的社会的な上昇にはある程度の長期的時間が必要だということを示しているにすぎない。先進国と後進国の分配率のちがいは、まさにそれぞれの国と社会の全社会的な生産力水準の格差を示しているということである。

「謎」の解明は、基本的にはマルクスの相対的剰余価値論(『資本論』第一巻10章−13章)、あるいは「利潤率の傾向的低落の法則」の解明に関する章、『資本論』第三巻)がすでに行っていることなのである。マルクスを無視して、「謎」だといいつづけているにすぎない。太陽が地球の周りを回っているのだ、と現象に固執する観念の類である。

 

マルクスはいう。1日の労働時間を労働日というが、その「労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変なのである」と(大月書店版第一巻、411ページ)。Der Teil des Arbeitstags, der bloß ein Äquivalent für den vom Kapitqal gezahlten Wert der Arbeitskraft produziert, galt uns bieher als konstante Größe, was er in der Tat  ist unter gegebenen Produktionsbedingungen, auf einer vorhandenen ökonomischen Entwicklungsstufe der Gesellschaft. In: Das Kapital, Bd.1, S.331.

 

他方で、1日の労働時間、すなわち労働日はどうか。19世紀産業革命当時の資本主義の野蛮時代においては、112時間労働あるいはそれ以上などというのが普通であった。労働者の闘いによって、110時間労働、そして8時間労働が実現されてきた。

 

『資本論』第一巻第八章は、この労働日をめぐる歴史的な闘いを総括しており、たとえば、その第五節は、「標準労働日のための闘争 14世紀半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法」を説明し、第六節は、「標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 18331864年のイギリスの工場立法」、そして、第七節は、「標準労働日のための闘争 イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」の説明である。

 

19世紀末段階の世界先進国の労働運動の目標は18時間労働日であった。

2次世界大戦後の日本は、生産力水準の社会的低さを「働き蜂」の長時間労働でカバーして、世界市場に出ていった。今なお、EU諸国に比べれば、労働時間は長い。

ともあれ、ながい世界的な人びとの歴史的努力の成果として確立した18時間労働日は、世界史的到達点、世界的水準を示す。

長期的な努力の結果として確立してきた労働日が安定的であるのは、「謎」でも何でもない。分配率の背後にある歴史の重みを知らないものにとってのみ、「謎」でありつづけるにすぎない。それはまた分配率の基礎にある分配の原則、その論理を理解していないことでもある。

「過労死」、「サービス残業」などというかたちで長時間労働が日本でなお横行しているとすれば、それは日本社会が克服していかなければならない世界的責任のある問題である。

 

[29] 『資本論』、第1巻第1章を参照。

[30] 20世紀を代表する物理学の理論「量子力学」は、極微の世界の出来事を説明するのに偉大な力を発揮した。日本の科学者の最前線を行く研究者の一人・外村彰は、「電子ホログラフィー」という基礎的技術分野を切り開き、量子力学の描く不思議な世界を、画像化という独自の切り口で解明する挑戦を続け、大きな成果をあげているという。読売新聞科学部『日本の科学者最前線−発見と創造の証言−』中公新書ラクレ172001年、310ページ。

 電子は粒子であるとともに波の性質をあわせもつことが知られており、電子波の干渉を巧みに利用し、極微の世界を目に見えるようにした装置がホログラフィーである。

顕微鏡で観察できるものの大きさの限界は、使う光の波長と同じだ。電子波は、波長が可視光(0.40.8ミクロン、1ミクロンは1000分の1ミリ)の数万分の一と短く、それだけ小さなものが見られる可能性を持つことになる。しかし、物体を照らし波を拡大する「レンズ」に完全なものがない。虫眼鏡1枚では像がにじんだりぼやけたりするように、レンズ方式では、光学式にさえ及ばなかった。

 そこで1948年、電子線ホログラフィーを考え出したのが、英国のデニス・ガボールだ。電子波を物質にあて、その形や厚さなどの情報を含んだ波と、発信源から出たままの波を干渉させ、その波形を記録する。記録像に、レーザー光を当てると、細部まで再現された、しかも立体の像が見えるという仕組みだ、とのことである。・・・この原理を使ったのが「干渉型電子顕微鏡」であり、日立中央研究所の外村たちが世界最高水準のものを開発し、磁場のない場所を通る電子が受ける力である「ベクトルポテンシャル」を実証したということである。 これまた世界が納得するような実験装置に仕上げるまで、二〇年もかかったとのことである。(同、310-312ページ)。

 さらに開発努力を続け、2000年には、100万ボルトという世界最高性能の干渉型電子顕微鏡を完成。電子を100万ボルトの超高電圧で加速して、約0.5オングストローム(1オングストロームは1000万分の1)、原子の大きさのほぼ半分という間隔を見分けられる能力があるのだという。驚異的なことである。(同、313314ページ)

 

[31] それ自体としては、紙幣は紙切れであり、無価値である。

それは、日本円をもって、日本円など見たこともない地域に旅行すれば、ただちにはっきりする。その地域では、鼻紙程度の必要もない単なる紙切れでしかない。基礎となる大量的な現実的なものとものの交換関係、労働力商品と貨幣との交換関係が、存在しないからである。

 労働する人びとが、紙幣を労働の対価(厳密正確には労働力の対価)=賃金として受け取り、自分の生活必要物資を購入する無数の膨大な大小の現実的交換において、現実的必要のなかで支出する根本土台において、紙幣は機能している。

 また資本家・法人企業相互が、自分の商品の価値実体を表すものとして紙幣を承認し合うことで、紙幣は流通を媒介し、支払手段となり、交換価値の計算手段となっている。紙幣の背後にあるのは、それが表現する商品の価値であり、商品交換社会という厳然たる土台である。

[32] 現在日本で流通している通貨の定義、種類、その他に関しては、日銀のHPが詳しい状況を提供している。「お金」の製造、発行、流通マネタリーベース=「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」+「日銀当座預金」、マネーサプライマネーサプライ統計の解説

[33] たとえば、日本語訳で13版までを数える(英語版では2002年現在17版)ノーベル賞(経済学)の受賞者サミュエルソンのマルクス理解(近代経済学者としては、その日本語の訳者都留重人の影響もあってマルクスをよく知っているもののひとりといわなければならないが、それでも)の不正確さが、その象徴である。

 サミュエルソンは、「マルクスの経済学は労働価値説から始まる」と正確に指摘する。同『経済学13版』岩波書店、下、829ページ。

 しかし、そのすぐ後で、彼も労働と労働力の違いを理解していないことを露呈する。すなわち、「マルクスは、商品に価値を付与するのはそれを生産するために使われた労働力の総量−直接的な労働に加えて、生産過程で使い切られる建物や機械に体化された間接的な労働―である、と前提した」という。

 価値を付与するのは、労働である。価値の実体は商品に対象化された労働である。

 労働者の総数、その労働者の「労働力の総量」は、労働する人間能力の総力であって、それは価値ではない。人間能力の発現としての労働が対象に働きかけて対象を変化させ、新しい生産物にする、すなわち労働が生産手段に対象化されて生産物が生み出され、同時に価値が形成されるのである。

 マルクスは商品の価値を分析して、c++mであるとする。

 c=「建物や機械に体化された間接的な労働」そのものではなく、そのうち具体的な商品に実際に移転され生産物の価値を構成する部分である。不変資本部分。

 v=労働者にしはらわれた資本部分であり、労働力の価値をあらわす部分である。可変し本部分。

 m=労働者がみずからの労働力の価値を再生産する部分(時間)をこえてはたらくことで生み出される価値であり、これが剰余価値である。

 サミュエルソンは、このことを正確に理解していない。だから、「剰余価値」の根源に関して不正確な叙述をしている。

すなわち、マルクスは、「剰余価値というとき、収入[c+v+m]と総労働費用(その中には、雇われた労働[正確には労働力というべきで、v部分・・・永岑]の直接費用のほか、資本財生産のために使われた、したがって資本に「体化された」、労働の間接的費用[つまり、生産手段の価値移転部分、すなわち、建物や機械など固定資本・流動資本などの不変資本の生産物への移転部分、c部分・・・永岑]を含む)とのあいだの差額[m部分]を意味する」という。個々までは内容的にほぼ正しい。問題はつぎである。

「どうしてそのような差額が生ずるであろうか」、この問題提起こそ肝要である。そして、その答えこそもっとも重要なポイントである。サミュエルソンはいう。「それは、労働者は彼らの労働を資本家に売らざるを得ず、資本家は労働者に対してその産出の価値の一部分を支払うのでしかないからである」と。

これでは、マルクスの明かにした最も決定的に重要な点が理解されていない。上の史的はマルクスが明かにした労働力売買の必要条件の部分のみを指摘しているにすぎない。すなわち、「二重の意味で自由な労働者」(つまり、生産手段を喪失し、生産手段から「自由」なという意味と、封建的身分的拘束から解放されたという意味での「自由」)がいなければ資本が成り立たないという、その必要条件を指摘するにすぎない。資本家が労働者から労働力を購入するためには、労働者が生産手段を持っていない事が前提であり、そのために、労働者は労働力以外には生計手段を持たないこと、生きるためには労働力を売るしかないことが必要な前提条件であるということである。

しかし、問題はまだ完全には答えられていない。

労働者はなぜ資本家から産出の価値の一部分だけを受けとって生きていけるのか。それは、労働者が自分と家族のために必要な価値(必要労働時間)を提供する・働くだけでなく、さらにそれ以上の時間働くこと、剰余労働を行えるからである。

つまり、人間・人類が猿から分化して以来の長い歴史で築きあげてきた労働生産力が大前提にある。労働者は、自分に必要な労働時間以上の剰余労働時間を働きうるということ、これが大前提である。

ここに端的に示されているように、サミュエルソンもまた、マルクスとリカードとの決定的ちがいを理解していない。そのことを先の文章に続く箇所で、はっきり自分でいってもいる。すなわち、「マルクスの価格理論はその五〇年前のリカードのそれとほとんど違わない」と。労働と労働力のちがいの決定的ちがいを理解していないのである。

 

[34] エンゲルス『空想より科学へ』岩波文庫、84ページ。

[35] テキスト・大塚久雄『欧州経済史』、p.4.

[36] 資本主義はどのように修正されているか? 

明治維新以降の日本の経済発展の百数十年は何を示すか?

15世紀以降の世界資本主義の生成・発展・膨張・修正は何を示すか?