2002年8月1日 「設置者権限」を振りかざした「凍結」政策の背後にあるものは何か?
苦し紛れの「設置者」?
「貧すれば鈍する」?
「設置者」には,大学をどのように発展させようとい理念と理想はないのか?
財政規模に合わせた削減という寒々しい方針しかないのか?
市議会はそのような方針を決めたのか?
新市長は何を考えているのか?
大学内のこの間の「設置者権限」を振りまわす事務局主導の政策は、市長,市議会,市民の意向なのか?
「大学改革のあり方を検討する懇話会」をはじめて設置した市当局は、大学内部の事務局より謙虚ではないか? 「あり方」さえも検討されていない段階で、研究教育現場を混乱に落とし入れる事態が続いてもいいのか?
改革は大学人の自主的・内発的な総力結集でこそ実現すべきものではないか?
かつてから,横浜市は財政が苦しくなると、たとえば実際にも物理学科を廃止するなど,大学切捨て策をおこなってきたということである。
しかし、最近の横浜市財政が本当にそのように大学の学科や学部を廃止するほど苦しくなっているのか? とてもそうとは思えない。ワールドカップで世界的に著名になった横浜市が、この市立大学程度の規模の大学を維持発展させる力がないとは、世界に向かっていえることか?
いかに財政的状態が苦しくなっても、横浜市の責務・貢献(地域だけではなく、大学の普遍的価値からして日本と世界への貢献)として大学を維持し発展させるくらいの財政能力はあるものと一市民としては確信する。それだけの恩恵を横浜市,横浜市民は日本と世界から負っている。その程度の義務は果たすべきだと,一市民としては考える。
大学の予算のうち、医学部の病院関係を除けば,4つの学部(商学部・国際文化学部・理学部・医学部)で、大学費なるものは公開されている予算表で明らかなように130億円にも満たない。さらに毎年の削減で次第に減ってきている。二兆円から三兆円の財政規模の世界的都市で、4つの学部あわせてわずか120億から130億円程度しか使っていないというのは、いったいどのような水準なのだろうか。(詳しい財政分析は、随助教授作成の統計諸表を参照されたい)
しかし、問答無用の財政削減が強行されてきている。その圧力を背景に、これまでの日誌でも見てきたように一部の事務局責任者からは、「設置者権限」が振りまわされている。市民は,この状態をどのように考えるのか?
矢吹先生の訴えに対する広い社会からの反応が示すように(http://www2.big.or.jp/~yabuki/)、現在のような「問答無用」の「凍結」「人事削減」のやり方に賛成する人々は多くはないように思われる。これは,今後の社会の反応によって示されることだろう。
このような乱暴なかたちで,せっかくの多くの有為の研究者を悲憤慷慨させ、意気阻喪させ、おちついて研究に専念する時間を奪い、研究を妨害し、あるいは他の大学に移る参段ばかりするようにさせる,次第に多くの大学人にただひたすら逃げ出すチャンスだけをうかがうようにさせることが,はたして市民の希望なのか?
横浜市民,横浜市議会,横浜市長は,そのような大学内に蔓延し始めている意気阻喪を知っているのか?
そのような実態を知っているのか? 折に触れて「設置者権限」を付して事務局から出されてくる資料(たとえば受講者数その他)が、歴史を無視し、恣意的で,一面的にスクラップに有利なものだけが選び出されているということを知っているのか?
そこには75周年を迎えようとする大学の歴史の中で、たくさんの人々の血のにじむような努力によって構築され維持され発展充実してきた学問・科学体系・カリキュラム体系への畏敬の念がみられないが,市民,市議会各位、市長は、そのようなことを知っているか?
恣意的一面的な資料を見ただけで、関係する大学教員が自分の仕事への侮辱を感じ、それまでの粉骨砕身の貢献を完全否定されたと感じ、金銭的・財政的発想しかない現在の事務局の教養・思想の低い水準・スケールの小ささに嫌気がさし,怒りをぶちまけていることを知っているのか?
私がこのようなHP文書作成のために使っている時間も、もし今回のような横暴な諸政策,そこから噴出する怒りの連鎖がなければ必要のないものだった。わたしの研究時間も相当に犠牲にさせられている。
だが,それに対しては、関係事務当局者は「だまっていればいいじゃないか」というのだろう。「黙れ」というのが傲慢不遜な人々の発想であり、大学の大学らしい発展のことなどを考えない人々の気持ちなのだろう。実際にそのような人々も結構いるのだろう。わたしの研究しているホロコースト(民族的宗教的マイノリティ・ユダヤ人に対する絶滅政策・大量虐殺)の論理にも,まさにこの「黙れ」の論理,マイノリティ絶滅の論理がある。ホロコーストも「貧すれば鈍する」第三帝国の敗退過程の現象だった。権力者は何百万人もの人々を抹殺した。それには成功した。ヒトラーは自殺直前の政治的遺言で、この「中央ヨーロッパからユダヤ人を絶滅した」ことを「功績」とし,その「功績」だけをドイツ民族に対する貢献として「誇る」ことができた(詳細は拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942』同文舘、1994年、直接的には同書の「むすび」を参照されたい)。
しかし、注意せよ。ホロコーストは世界史の汚点として,人類史の悲劇として、後世にいたるまで語り継がれることを。それを遂行したもの、すなわち、ヨーロッパ全域を占領下に置いて権力の絶頂にあったときには讃美されたあの第三帝国の権力者たち(その追随者・手下、アイヒマンのような中下級管理職,「運び屋」アイヒマンは帝国保安本部第IV局ゲシュタポ・B IV課長)といえども、後世からはいつまでも極悪人として記憶されることを。もちろん、世界中の同時代人からも憎まれ,うらまれたことを。
自分が握っている(と思いこんでいる)「設置者」権限に溺れることなかれ。
商学部など古い学部が,大学の発展拡大として喜んで賛成してきた「鶴見キャンパス」の拡大、そこでの人員増などの影響(すなわちビルドしたことのつけ)が、既存学部の上にのしかかってくるという構造になっていることは考えられる。小川学長が強行に、くりかえし「スクラップ・アンド・ビルド」を主張するのは,自分の出身母体である総合理学とその連携大学院でのビルドのつけを,既存学部の廃止・縮小によって埋め合わせようということなのかもしれない。それならば、この間の学長の態度がよく理解できる。自分の頭にあるのは総合理学と鶴見キャンパスのことだけだというわけだから。文科系の縮小や廃止は「市長のご意向」なるもののお先棒担ぎとして、すすんで行おう,ということなのだろう。しかし,文科系の人間の養成・文化系諸学問の発展を必要としないという教養・視野がいまや大学の学長のものであるなら、世界の大学の発展史において、きわめて特異なもの、悲しむべきことのように思われる。また,学長選挙の公約とも違うことのように思われる。実際にそのような学長が現在の学長だとするならば、あの有名な名学長三枝博音(本学図書館の「三枝文庫」は貴重,彼の勉強の仕方がよくわかる)の横浜市大に託した理想と希望(市大新聞に掲載された彼の理想と希望は感銘深いものだった)は、無残にも破壊され、消えうせることになる。
横浜市が、先端科学技術の発展のために,将来の幾世代にわたっても重要となるだろう科学の真理探究のために、鶴見キャンパス(COE構築)に大変な財政投資をしたことは、社会的世界的貢献として優れた行いだと誇りに思い、喜んでいた大学人にとっては、大変な思いちがいであり、実はそのしわ寄せで、文科系の自分自身の学科や学部が大変なことになるという,苦い果汁を味わわされる結果となろう。私ものその一人だが。
商学部、文科系諸学問の大学人は,理科系の理解ある人々と手を組んで、この暴虐をはねのけることができるか?