下記は、大学に昨日提出した「復命書の「5.所感」の記載事項(正確には、このHP用の文書に転換するにあたり、「復命書」の誤字・脱字を可能な限り訂正し、若干補足したもの)である。

 

大学に提出した公文書(に若干の補足を加えたもの、公文書そのものは情報公開で市民は誰でも読むことが可能、それを私は自発的にこの場でやっている)であり、しかるべき重要人物(学部長から上は学長まで)が決裁する文書(印鑑を押し、報告内容を読んだことを確認する、その証拠がはっきり残る)である。

したがって、そこに、今回の問題の所在を明確に示し、抗議しておいた。

これを読んだ責任ある人々がどんな行動をするか、それが今後の彼らの責任感を示すであろう。いずれ、この場でもその動向を紹介していきたい。

 

(93日午後3時前、早速、商学部事務長からは、「事務のミスである」との説明を受けた。そのかぎりではなるほどというものだった。だが、なぜそのようなミスが発生したかの要因、さらに背景要因にかんしては、納得できなかった。担当職員は比較的新しく来た人で、その人に対する指導監督責任はだれがとるのか?そのような人事配置をした責任は誰が取るのか? いずれ学部長から学長までがこの文書の決裁を下すわけで、どのように処理するのか、対処の仕方を見てみたい。

入試過誤問題では、当時の4名の評議員の一員だった責任から市長からの「訓告」をいただいた。また学長からもお言葉があった。「訓告」は教授会、評議会等の慎重審議の結果であり、厳粛に受け止めたい。

それでは、そのような意味での管理責任[今回の私の場合は4週間苦しんだわけだが]、誰がどのように取るのであろうか? 研究者が行っている研究活動、調査活動において、仕事への没頭が第一の条件である。その研究の根本的第一条件を阻害された,ということはどのようにカウントされるのだろうか? しかも、論文(今回は著書)を書けば、それは学界と社会の批判の対象となる。その精神的緊張のぎりぎりのところで仕事をしているものにとって、4週間もいろいろと心配させ、もしかしたら学界と社会にとって重要この上ないドキュメントを発見できた可能性を奪ったかもしれないというのに、簡単に口頭で、「すみませんでした」ですむのか? なるほど、当初目的のこと、強制収容所の調査と『ホロコーストの力学』(目次参照・出版社に92日付けで発送)を書き上げることはできた。だが、不用な精神的いらだちがなければ、もっといいものができたとは十分に言えるのではないか? あるいはありうべき誤りを直せたのではないか? そこに命をかけているものにとって学問的名誉、さらには真実・真理の探究、そして広く深くは、それは600万人にも上るユダヤ人犠牲者の名誉、ホロコーストをどのようにとらえるかと言う日本と世界の学界の名誉にもかかわることで、軽軽に扱ってもらっては納得しがたい。二人の受験生の生涯を入試過誤が左右するとすれば、われわれ研究者の仕事は、深くは、そのような人類的責任・世界的人類史的責任[1]とも関係しているのである。二人の入試過誤被害者の受験生が「もしも過誤がなく昨年四月に入学していたらノーベル賞級の天才的仕事をしていた可能性もある[2]」ともいえるわけで、その意味で、一つ一つの誤りは厳粛に受け止める必要がある。)

 

自分への何らかの不利益を覚悟しながら、また、貴重な研究時間を割きながら(こんなばかげたことによって私は出張中も、この文書を義憤にかられて書く時間も、本来の研究時間を奪われているのだ)、あえて抗議することが可能な人ばかりではないであろう。多分、夏季休暇中に出張した人の多くは私と同様の不当な措置にもかかわらず、泣き寝入りしているであろう。

 

93日午後3時前の商学部事務長の説明では、これまでのところ私のほか一名が該当者だという。しかし、この類のことで泣き寝入りをしている人は結構いる可能性がある。時間がせっぱ詰まっているときに、文書を出さなければ出張させないこともあると脅かされれば、絶対的命令だからだ。昨年の911日事件に関する「学長通達」なる事務的な傲慢な命令を思い出すだけで、すなわち、「出張先の相手から安全かどうかの証明を取り寄せよ」などというあの傲慢さ・軽薄さ、文書を起案配布した関係事務局のレヴェルの低さ、それを指導監督できない責任者を思い出すだけで、怒りがよみがえってくる。)

 

だが問題は、大変重要である。

大学の研究教育を発展させるのか、事務局(この制度を導入した昨年4月以降の、とくにこの3月の事務局提案責任者)が邪魔するのか、大学経費を本当に研究教育を発展させるために使うのか、そうでないのか、ここにかかわってくる。私が個人的に怒りをおさえ、涙を飲み、我慢すれば済むという問題ではない。

 

 

 

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200284日−91日:短期海外出張記録

 

 以下では調査の概要を述べ、付属資料として、今回の調査・執筆のための出張によって、一応の完成に達した『ホロコーストの力学』の原稿(ここでは目次のみをリンク)を添付する。

 

 しかし,その前に、この復命書(・・・命令によって出張したことの証明)は,書類の決裁欄を見るかぎり、重要関係者全員が見ることになっているので、一言しておきたいことがある。

 それは,本日時点(帰国後、報告書を書く92日の時点・・・注記)出張旅費を受け取っていないということである。

96年,98年の2回のときは、海外出張審査会、教授会、評議会で承認された出張旅費のうち、@旅行社には航空運賃を事務が支払い、A滞在旅費等は現地到着後2日くらいして指定口座に振りこまれていた。したがって、現地で安心して調査研究に没頭できた。今回は,それが行われていない。今回は、航空券は自分で払い込みなさいということなので、妻に銀行から振りこませた。今回の制度で、妻の仕事が増えた.仮に私がやるとすれば、私の仕事が増える。制度は改悪である。教員に負担を転嫁するものである。「いままでと変わりません」といって教員に説明しておいて、これはおかしいのではないか。

(注:商学部事務長の説明では、旅行社への航空運賃の払込は、96年も98年も本人がやったはずだとのこと。最近数年、科研費国際学術研究で出張した場合には、科研費担当事務が航空運賃は支払い、出張旅費残額をわたしの指定口座に振りこんでくれた。これとの混同があったかもしれない。)

 

いずれにしろ、航空運賃以外の滞在費等も振り込みがなく、したがって、出張期間中、すべては自分の前払いで行っていた。出張の期間中、不安と怒りが胸中を去来した。したがって気持ちよく研究調査に没頭できた場合と比べると、調査研究は大幅に阻害された。貴重な市費の使い方として、このような不効率は許されないのではないか。

これは、この3月の制度改正に伴う措置であろうか。

そもそも海外出張を審査し、承認しておいて、旅費は飛行機代も滞在費も、自分で払っておきなさい、あなた方教員のやることは信用できないので領収書とパスポートの提出を受けてからでないと経費は支払えない、後払いだ、ということは制度的に法的に許されることであろうか?

 一般職員にもそうしているか? 学長、事務局長等も出張に際しては自腹で支払っておき、帰ってきて領収書を提出して、支払いを受けているか。

一般職員には、「出張してきなさい。経費はすべてあとで領収書を提出してからとするので、自分で立て替えて支払っておきなさい」ということをやっているのであろうか?

学長は、3月時点では学長でなく、3月の交付金制度導入には評議員・研究科科長として評議会決定に関与しているわけだが、はたして、このような運用における問題を承知であろうか?

 そもそも本来の職務として、必要な書類は細かいものまですべて1ヶ月以上も前に提出させ、海外出張審査会で出張と認定しておいて、しかも、その認定結果を評議会で承認しておいて、その出張費の支払いは出張終了後、関連領収書提出後において行うという制度は、私の考えでは法律に(すくなくとも労働関係法規、しかし、大学の基本ルールなど重要な他の諸法規にも)違反していると思われる。この点は、いずれ明らかになるだろう。

 このやり方は、海外出張のような額が大きい場合だけではなく、最近では国内の学会出張でも行われているやり方である。こんな非常識は、全国でも類を見ないやり方ではないかと考える。いずれ、全国の大学教員に確認してみたいと思う。全国、どこにダしても恥ずかしいようなことを平気でやっている昨年4月以来の事務局の責任者とはどういうものか?

 

 

 

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出張調査の概要(行動日程の説明と所感)

84日成田発、直行便で、同日、現地5時半にミュンヘン空港着。市中心部(北西)のミュンヘン現代史研究所に近いホテル・Rotkreuzplatzに。

 

85日(月)より現代史研究所で[3]、最新のホロコースト研究文献を調査し、準備中の著作『ホロコーストの力学』の草稿の各所に適宜、推敲・添削の手を加える。アイヒマン証言の問題性に関する最新の評価に接して、コブレンツ連邦文書館滞在日数を増やすことにした。現代史研究所では文部科学省短期海外出張でミュンヘン滞在中の京都大学大学院経済学研究科・今久保幸生教授と一緒になった。

 

89日午後2時から3時過ぎまで、今久保教授と一緒に、ミュンヘン大学日本研究所Japan-Zentrumヴァルデンベルガー教授(向かって左端,中央は院生で助手)を訪ね、日独シンポジウムのこと、現代日本経済とドイツ経済のIT化の進展度のこと、ドイツの大学における外部評価のことなどを議論。

810日は文献・資料・原稿整理。

811日、ミュンヘン現代史研究所がオーバーザルツベルク(ベルヒテスガーデン)の旧ヒトラー山荘跡に最近開設した史料博物館Dokumentation Obersalzbergを訪れる。

雨の降る悪天候(それもそのはず、「100年に一度の大洪水Jahrhundertflutがパッサウ、レーゲンスブルク、ベルヒテスガーデンなど南ドイツ地域、ついでエルベ川に沿ってデッサウ、ヴィッテンベルク郡など中部ドイツ、上流のプラハ(チェコ)など、各地を襲ったのは812日から18日で、毎日洪水場面の放映、特別報道番組が多かった)だったが、かなりたくさんの訪問者で博物館はいっぱいであった。

ミュンヘン現代史研究所の外部施設としての博物館だけあって、歴史的資料がきちんと整理されて展示され、最新の歴史研究の成果が生かされていた。ヨーロッパ戦争と太平洋戦争との関連性を示す地図や年表など、重要であり、ホロコーストを世界大戦の経過に沿ってみていこうとする私の方法意識からは説得的なものであった。

本物の啓蒙は、このようなしっかりした歴史研究に基づいた具体的な史料展示・史料解説でこそ達成されるであろう。ずっしりと重いその展示物解説書を買い求めた。(拙著にもそのなかから何箇所かを引用)

 

813日にはベルリンへの途上、ワイマールに立ち寄った(駅前のホテルInterCityHotelに宿泊・室内から中央駅をみたところ)。郊外の山の中、ブーヘンヴァルト強制収容所(内側から玄関方向)を見学した。ゲーテとシラーの町ワイマールの郊外にあるブーヘンヴァルトはその対照性において、歴史に対する深刻な反省を迫る。コッホが考案した処刑設備(頚部射殺Genickschuß・・・身長計測時に、背後の秘密の隙間から頚部を射殺する装置・設備、8000人のソ連人戦時捕虜を殺害したと解説にあった)は、オラーニエンブルク(ベルリン郊外)ザクセンハウゼン強制収容所でかつて見たことのあるものと類似のものだった。あらためて沈思黙考を迫るものだった。

 

814日、「ユダヤ人とユダヤ人の嘘」で激しいユダヤ教攻撃をしたルター[4]がザクセン候の保護の下にギリシャ語聖書のドイツ語訳に没頭したアイゼナハ(ワイマールから約1時間)ヴァルトブルクの城(玄関外側)(城内から外の風景,その2)(ルターの部屋)(1817年ルター宗教改革300年記念の学生祭開催・城内最上階祝祭の間)を訪ねた。

イエス・キリストの福音の教えに帰れと説く強烈なカトリック批判・福音主義の精神は、狭い民族宗教としてのユダヤ教を批判するナザレのイエスの精神(諸民族宗教の狭さを超えた世界宗教の提起)をユダヤ教・ユダヤ人批判の側面においても、独特の形で生き返らせ継承するものだった。

ゴールドハーゲンの言う「400年以上の伝統を持つ反ユダヤ主義」はまさにルターの宗教改革・プロテスタンティズムにおける宗教的ユダヤ教批判、その意味での反ユダヤ主義の要素のことである。ドイツのプロテスタント地域,オストエルベ地域に継承された反ユダヤ主義の他の地域に比べての強烈さは、一つの歴史的要因としてはホロコーストの力学を考える際に考慮にいれるべきものである。

(アイゼナハにはバッハ[5]の生家あり・バッハ記念博物館・バッハ像内庭ピアノ小型オルガン小型ピアノ)

 

適切なイデオロギー批判は、広い裾野を持った啓蒙の見地からして、必要不可欠だということであろう。ただし、ヒトラーがオーストリア出身であり、その反ユダヤ主義がウィーン仕込であること、第一次世界大戦とその革命による終結の過程で鍛えられた人種主義的反ユダヤ主義であったこと(ヒトラーの強烈なキリスト教批判・「弱いものの宗教」としてのキリスト教軽蔑を想起せよ)からも明らかなように、単線的に400年の反ユダヤ主義とホロコーストを結びつけるゴールドハーゲン流歴史観は歴史科学たりえない。

 

815日、ワイマールからベルリンへの途上、ルターが95か条のカトリック批判文書を張り出した城教会Schloßkirche( 独英解説版 )ルターは城主の保護(ルターが95か条の論題を張りつけた門)を受けていたのだ。ヴィッテンベルク修道院で長年生活し、余生もそこで送り、ヴィッテンベルク大学で教鞭を取った。ヴィッテンベルク市の説明書には「当時の最高水準の大学だった」と。

 

ヴィッテンベルクはメランヒトン[6]の町でもあった)のある町ヴィッテンベルク(ルター派プロテスタンティズム、あるいはもっとひろくプロテスタンティズム全体のメッカとも言うべき町)に途中下車した(エルベ川沿岸にあるヴィッテンベルクは、洪水の余波で町の中心部に入る道路の一部が使えなくなっていた)。旧東独時代以来、一度は訪れたかった土地であるが、今回やっとそれを達成することができた。ルターが生活し、結婚し、生涯を送った「ルターの家」は現在修復中で見学できなかった。

 

午後、ベルリン到着後、疲れを押して、郊外のポツダムまで出向いた。そして、第二次世界大戦終結記念日のポツダム会議場を再訪した。特別記念の催しなどは見られなかったが、団体に対するガイドが「ポツダム会談終了後4日して、広島に原爆が投下された」と、ポツダム会議における対日無条件降伏の政策決定と広島原爆投下が関連していることを語る瞬間をたまたま耳にした。日本人(らしきもの)がその話の瞬間にその場を通り過ぎたことは、団体の何人かの私に対する視線(振りかえってみる視線)から、彼らに一種の感慨を引き起こしたとが感じられた。

 

816日はベルリン郊外オラーニエンブルクのザクセンハウゼン収容所博物館(写真は第三帝国ドイツ支配下全域の強制収容所所在を示す地図)(全体俯瞰模型)(正面玄関)(玄関の門・「働けば自由になる」)(種類別囚人服の一つ)(囚人ベット)(晒しもの処刑杭)(1943年ザクセンハウゼンでも青酸ガス・ツイクロンB利用)を訪問。新しい収容所解説書を買い求めた。

 

今回は展示物の内容に新しい部分を発見するより、愕然としたことがあった。総選挙前だったこともあって町には選挙ポスター、プラカードがいたるところで目に付いたが、収容所博物館前(写真奥の突き当たりが収容所入り口)にはNPD(極右・合法政党・ネオナチ的民族主義)選挙ポスターが街路樹ごとにずらっとかけられていたのである。そこには政権党(与党SPDや緑の党)、あるいは野党(保守派のCDUCSU)の選挙ポスターは見られなかった。

 

NPDのポスターの文句は、「ドイツをわれわれドイツ人に(Deutschland uns Deutsche)」,「ドイツ人のためのドイツ(Deutschland für Deutsche)(外国人はいやだ、出て行ってほしい、出ていけなど、さまざまのニュアンスの排外意識を統合したスローガン)であり、「ドイツ・マルクの代わりはトイロTeuroだ」であった。トイロ(Teuro)は、もちろん、まえよりも高い・物価高だという意味のteuerEU統一通貨ユーロEuroとをひっかけたものである。ユーロ批判、ドイツ・マルク放棄批判のナショナリズムを一言で表現しようとしたものである。

ホロコーストの反省の上に立っているドイツ連邦共和国で、その強制収容所記念の門前で、挑戦的に堂々とNPD排外的ナショナリズムを宣伝していることにショックを受けざるを得なかった。

 

817日はベルリンを訪れるたびに一度は調査に行くヴァンゼー記念館に出かけて調査。イギリス人の最新のホロコースト研究書のドイツ語訳が展示されており、「ホロコーストの力学」の関連論点を検証するため買い求めた。新著原稿に何箇所か引用。

 

819コブレンツの連邦文書館でアイヒマン裁判関係史料の調査を開始。文書検索書をたよりに「ユダヤ人問題採集解決」などのキーワードに対応する文書を選び出す。

 

820日以降、830日までコブレンツ連邦文書館で仕事。貸し出し書類には、利用者名の欄に私の名前がNagamine, Michitera となっていた。外国人には私の名前は女性形に見えるようで、文書館やホテルなどとの連絡でもFrau Nagamineと女性だと思い込んでの返事が多かったが、今回もそうであった。

しかし、今回は直接私の文書希望リストを受付の担当者に手渡したので,受付担当者には私が男性だということはわかっているわけで、文字の上で書類を作成し貸し出し手続きする人が勝手に語尾を読み間違えたのであろう。

 

アイヒマン裁判史料類は、連邦文書館が弁護士をひきうけたセルヴァティウスの所蔵文書を購入したものだった。裁判準備過程で執筆されたメモ類、弁護人の手書きの証拠分析文書などが多く、判読困難なものが多かった。客観的利用が可能なのは、活字化された膨大な証拠資料。「ホロコーストの力学」の諸論点にかかわるところをピックアップし、検証作業を行い、草稿に添削推敲を施す。

 

2週間目に入って仕事をしていたら、6月の出張準備中に利用に関してお願いしていたこともあって、アイヒマン関係の文書を整理している館員(アルヒバール、アーキビスト)がやってきて、問題はないかと尋ね、特にないと話していたら、ケンプナーというニュルンベルク裁判検察官(主任検察官テルフォード・テイラーの代理)の個人文書(ナハラス)があるので、それを見てみたらと大きな検索書を渡してくれた。それにより、ヴァンゼー会議の部分など、アイヒマン関連の文書つづりを探した。そうすると、今度の研究書を書く上で貴重ないくつかのすばらしい文書を含んでいた。この発見はうれしいものだった。これも、著作原稿のなかに取り入れた。

 

831日コブレンツを出発、フランクフルト経由(フランクフルト発1345分発)、成田に91日、午前7時半着。自宅には11時近くに到着。



[1] もちろん、人類史的責任は、今日生きているあらゆる人々にある。過去の幾多の悲劇の結果として今日、自分の子孫を残していない無数の人々がある。それを思えば、現在生きている人間ということは、人類史の全悲劇(自然災害であれ、戦争その他の人的災害であれ、意図的であれ無意識的であれ)を免れた幸運な人々の一人だということである。この幸運を噛み締めるためには、悲劇の歴史を知らなければならない。たんに生きていると言うことなら動物・植物・植物人間と同じだ。歴史の認識こそは、人間の証である

[2] 逆に、ヒトラーは、ウィーンで美術学校の試験に落ちて、後年の政治家への道を歩むことになった。世界的悲劇の指導者、第二次世界大戦の、その部分現象としてホロコーストのドイツにおける最高責任者・指令者となった。

[3] はじめは研究所に向かう途中にあるシティバンクで、毎朝、大学からの出張旅費が払い込まれているか確かめ、振りこまれていないことを確認。その控えをプリントアウト。まいにち気になってシティバンクに立ち寄ったことも、わたしの不安と怒りの証明となろう。プリントアウトされた控えが、その証拠物件。

[4] ルター【Martin Luther

ドイツの宗教改革者。ローマに使して教皇制度の不合理を知り、1517年免罪符濫売を憤ってこれに対する抗議書95ヵ条を公表、教皇の破門を受け、宗教改革の端を開いた。救いは行いによらず信仰のみによると説いた。1522年、聖書のドイツ語訳を行い、自ら幾多の讃美歌を作った。ルッター。ルーテル。(14831546[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

[5] バッハ【Johann Sebastian Bach

ドイツの作曲家。ワイマール・ケーテン・ライプチヒなどで教会のオルガン奏者、宮廷楽長、音楽監督などに任じ、受難曲・ミサ曲などの宗教音楽、種々のカンタータ、ソナタ・協奏曲・組曲などの器楽曲を多作し、対位法的作曲技術を以て多声様式を継承、バロック音楽を集大成した。息子のエマヌエル(17141788)、クリスティアン(17351782)を始め、一族に音楽家が多い。作「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ロ短調ミサ曲」「ブランデンブルク協奏曲」「フーガの技法」「平均律クラヴィア曲集」など。大バッハ。(16851750[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

[6] メランヒトン【Philipp Melanchton

ドイツの人文主義者。ルターの宗教改革運動を助けたが、のちにはルター正統派と対立した。(14971560[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]