200293日 84日から91日までの海外出張を終えて帰国。

しかし、出張旅費はこの時点まで受け取っていない。(事務に「復命書」提出で出かけたら、「今日振りこみました」と)。 なぜこんなばかげたことが起きたか。それは、この3月に導入された制度変更のためだ。それによる事務の大幅な混乱のためだ。研修と出張との区別が曖昧になっている。大学教員には、「出張」などいらないというのだ。全部自主的な、ないしは自己都合の研修だというのだ。それを理由に、けち臭いことに、日当などを削る。学会参加中の各種保証はしない。職員の出張には日当と出張としての保証をつける。学長の出張、事務局長、総務部長の公務出張には日当と公務出張としての保証をつける。ところが、大学教員が研究のため、学会出張のため出かけると、研修だから日当はださない、保証など知らないと。意図しなかったというかもしれないが、客観的現実はこうなっている。結果責任という言葉があるが、三月に制度改革を強行したことの諸問題に関する結果責任はだれがとるのか?

 

3月末の教員が大変忙しく、精神的余裕のないときに、「なにも変わりません.むしろ便利になります」などと事務局が説明して、導入した「研究交付金」制度なるものが、この手品の秘密だ。それは、大変な問題(私の考えでは法律違反)を含んでいるのだ。「出張」概念の恣意的な解釈、出張研修との概念的範疇的区別の曖昧さなど、問題の根源には、大学の使命と制度をよく知らないまま、財政難とそれによる予算削減という錦の御旗を掲げて、年度末という大変な時期に、突然、強引に制度変更を迫る事務局の態度がある(私の専門にひきつけて言えば、ヒトラーもまた世界経済大恐慌の危機に「巨大な」しかし、ドイツ民族独善主義、独り善がりの民族主義の大志、自民族至上主義の大義をもって権力の座にまい進し、大衆動員に成功し、権力を掌握した、その結果はみなさまご存知の通り。ヒトラーがある種の人々に絶大な人気を持ったこと、その意味と危険性をよく考える必要がある.民主主義のルールを破壊し、ポピュリズム、大衆動員主義だったことも注意しなければならない。強烈な説得力の背後にあった根本的危険性をよく噛み締める必要がある)。それこそ、昨年4月以降、大学に大変な混乱と紛糾、教員と事務の相互不信をもたらしてきたものである。

 

聞くところによれば、学長は、「事務局とうまくやらなければ」といっているという。だれが、きちんとした大学のルールに基づいて行動する事務局と好きこのんで悶着を起こすであろうか。紛糾が起きているときには、その原因こそきちんと調査すべきである。 昨年4月以来の紛糾は、大学の歴史と制度をよく知らないものが強引にやっていることである,というのが私の理解である。ことの是非、理非曲直は、そのことがらに則して判断しなければならない。はじめに「事務局とうまくやらなければ」という処世術的大原則が思考の前面(思考力の全部?)にあれば、本当に大切なことはだめになってしまう。

 

学長の基本姿勢がそうなら、学部長以下、「長」と名のつく学部・研究所の人々が、事務局の顔色だけを見て(これまでの6年間の経験では事務局に「おんぶに抱っこ」で頭の上がらない人がわたしのみるところではかなりいる)、大切なことを忘れることは当然・必然となる。長年の教授会と事務局間の慣行無視・信頼関係無視・法律違反の可能性のあるような制度変更を、「事務局とうまくやる」という通俗的処世術を基本的態度としてやり過ごしていては、大学自治、大学の尊厳、学問の研究教育の自由で創造的な発展などありはしない。

 

問題は、事務局とどのような基準できちんと物事を処するかである。上の言うことにはなんでもしたがうというのでは、大学はよくならないだろう。上のものとは、原理原則、ことそのものに即した当否はさておき、うまくやろうとするのはどうだろう。たとえば自分たちで学長を選んだのだから、学長の言うことはなんでも(といえば極端かもしれないが、それに近い形で)聞く、ことの理非曲直は問題にしないというのでは、問題だろう。それではたんに従順なだけのもの、さらには奴隷的精神のものだけが大学を支配することになる。「関内とのパイプと予算を握る事務局とうまくやる」という処世術的発言が学長の発言として本当であれば、私は学長選挙において彼の発言を信じたことを悲しく思う(そもそも、予算に関しては学則に評議会の審議事項として規定されているにもかかわらず、またこの間、教授会等でその学則条項についてことあるごとに注意を促してきたにもかかわらず、審議事項にあがっていないようである。とすると、大学の最高意思決定機関であるはずの評議会は、決められたことの押しつけ、というだけの結果になる。奴隷的精神は、この制度そのもの、制度運営そのものが基本原因にあるのかもしれない。大学改革の基本問題か?)。

真実、誠実さ、廉直さとはなにか。なにに対する誠実さか。なにに対する廉直さか。大学の使命、すなわち、関内(本局、市長部局その他)とのパイプを持っているということを最大の武器(わたしの耳にするかぎり、黙り込む人はこの点を強調する、黙り込ませるための武器として使われてきたからか?)に本来の研究教育を、阻害し邪魔するような事務局に対してはむしろ毅然とした態度で臨むのが学長の姿勢であるべきだ。

学長は指定職として、大学全体の長として、自分が市長・関内とのパイプをもっと太く強固なものにするべきだ。いつも事務局の仲介を通してだけ関内と接触するから力が弱くなるのだ。

 

事務局は大学の研究教育を支え発展させる縁の下の力持ちとしてこそ重要な意味・意義がある。縁の下の力持ちは、それ自体非常に崇高なことだ。それなくして学問の研究と教育は成り立たないのだから。だが、大学教員はその研究教育のためにこそ、自分のもてる力を発揮しようとしている。それを妨害され足を引っ張られて、黙っているべきだというのか。そのどこに誠実さはあるか? そのどこに、研究教育に対する誠実さはあるのか? 92日、すなわち帰国翌日に大学宛てに出した出張に関する復命書には明確にその点を抗議(リンクを張ったので参照されたい)しておいた。

 

この調子でいやなことが続くと、「早く出ていったほうがいい」といわれていると解釈すべきなのかもしれない。わたしの研究するホロコーストになぞらえて言えば、追い出し要因、追放要因が増えたということは言えるかもしれない。あるいは、わたしから言えば、わたしがどこかから誘いがあった場合に(いまどきそんなにないと思うが)、それにひきつけられる要因、逃げ出すための要因は確実に一つ増えた。(速く逃げてくれ、うるさいのが一人減って助かる,という声も聞こえてくるような気がする)

 

どこか自分の研究を尊重してくれるところがあれば、そこに移るのが、自分の使命・本務と信じている研究と教育のためにはいいのかもしれない。一人の人間にできることなどたかが知れているのだから。一人が通常の健康を維持しながら、研究とそれ以外のことに避ける時間とは限られている。市大病院の最近明らかになった医者のような過労死はしたくない。ぐずぐずとしつづけ、行動への決断をしないで、傲慢な連中にぺこぺこして、あーでもない、こーでもないといくらでも時間をかけて「改革」に「専念」したい人には、それをやってもらうしかない。

 

デカルトは、自分で生きていくだけの財産を相続したため、世俗的なこと、生活費をかせぐこと、いやなことに従事することなく、研究に没頭できることを『方法序説』のどこかで喜こびとしていた。そして、いろいろ社会から要請のある義務もあるが、自分の場合、かけがえのない研究にこそ人生の残り時間を費やしたい、やりたいことはたくさんあって時間が足りない、とも書いていた。そのような自立的財産を持たないものは、何人かの同僚の声のように、どこかに職を求めるしかない。

しかし目下は、ここで職を得ている以上、ここで(ヒック・ロードス!)、自分の信じるところを、やりつづけるしかない。諸個人の人類としての生命は全宇宙史の帰結であるが、諸個人の個別的生命にとっては、ある意味では現在のこの瞬間しかない。卒然と亡くなることはよくあることだからだ。

 

前高秀秀信市長の突然の死を想え! 小耳に挟んだ情報では、選挙違反にまで及んで自分に尽くした元部下への慰労ゴルフ旅行の帰路機内での突然の出来事だったとか。

 

範疇としての大学こそは、自立的財産をもたない研究者に自分の能力を学問研究に、したがって地域と社会への貢献に捧げる可能性を提供してきた。近代的大学のその重要な価値こそ、深く再認識すべきである。自由闊達な研究者・教育者が集まる大学こそは、今後の世界を生きていく上で、日本にとって(いや世界のどの国でも)死活の重要性を持つ。誇りを持って世界の人と交わるためには、いいものを作る力、すばらしい科学技術、高度な教養が必要であろう。大学の理念こそ、細かな技術的議論以上に大切かもしれない。