「国敗れて山河あり」という。しかし、「民疲弊して、法人企業あり」、『巨大法人企業栄えて、民は現代の奴隷と化す』というのが現代日本ではないか[1]。急速な少子化は、「国際競争」の大義名分の下働くものの無権利状態=非人間的生活状態(保育設備等の不十分さなども含めて)が累積的に蓄積した結果ではないか?少子化の急速な進展をどのように考えたらいいのか?たくさんの要因があるであろう。しかし、その一つに、ここで問題にするような資本法人優位の社会システムがあるのではないか。「人本主義」(文部科学省COE研究プロジェクト代表者・責任者・伊丹敬之・一橋大学教授の一連の仕事のキーワード)になっていない日本社会の問題があるのではないか。ヨーロッパ諸国にGDPで「勝つ」ということに酔いしれて、人々の生活の豊かさで「敗北」しているのではないか。
GDP総額では世界第二位を誇りながら、実質GDPでは一人当たり20位に低迷し(これも国連による国際的統計がある)、労働時間は『暗黙に強制された』サービス残業で世界のトップクラスを行き、その結果、定職のない若い人々も過剰(過重)労働時間に苦しむ大人たちも、やせ細り、衰えていく、という現実があるとするならば、そしてその20年近くの無策の結果の象徴としての少子化の急進展が露呈し、日本社会崩壊、ということが目前に迫っているとするならば、主権者である国民は、どうすればいいのか? 現代日本人は、まさに『現代の奴隷』というべきものになっているのではないか。こうした考えを刺激したのが「全国国公私立大学の事件情報」(6月14日付け記事)「九州大学の教職員組合の声明」である。以下にコピーしておこう。
--------------------
…例えば、ある職場の職員からおよそ、以下のような内容の訴えが国会議員に直接送られています。
「九州大学教職員組合のホームページで、先生が国会で国立大学法人の過重労働についての質問をされたことを知りました。私の所属する九州大学について現状をお知らせします。私が所属する部署では、ほとんど全員が(管理職を除いて)、昨年12月から今日まで、おおよそ10時から11時まで残業をしています(36協定を締結しているにもかかわらず)。しかし、1月30時間、1日6時間、1年間で360時間に制限されているため、毎月30時間を上限に自己申告で報告をしています。後は、サービス残業です。大学側は、業務命令を出さず、本人の自主性(但し、業務量は残業をしなければ終わらないだけあります)といいながら、暗黙の強制労働をさせています。どうか、この件について、先生に国会で追求をして頂くようお願いします。」…
Posted by 管理者 : 掲載日時 2004年06月14日 00:14
| コメント (0)
| トラックバック (0)
URL : http://university.main.jp/blog/archives/001206.html
----------------
2004年6月12日 日本国憲法は、大学の自治・思想の自由をはじめ、いたるところで脅かされているが、第9条もまたそうである。違憲状態を逆に憲法改正で正当化しようという大きな動きに、「9条の会」が立ち上がった。大学の自治・学問の自由を守ることと不可分なこうした問題に、重大な関心を寄せざるを得ない。「全国国公私立大学の事件情報」が、これに関心を寄せるのも、憲法問題が「大学の自治」、「学問の自由」、その危機の問題と深くかかわるからであろう。引用しておこう。
---------------------
2004年06月12日
「日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています」−「九条の会」アピール(全文)2004年6月10日
日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。
ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。
侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。
しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を実際上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして、子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは、日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許すことはできません。
アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。
二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません。
憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつこの国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができるのです。
私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。
二〇〇四年六月一〇日
井上ひさし
梅原 猛
大江健三郎
奥平 康弘
小田 実
加藤 周一
澤地 久枝
鶴見 俊輔
三木 睦子
Posted
by 管理者 : 掲載日時 2004年06月12日 00:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
URL : http://university.main.jp/blog/archives/001199.html
------------------
2004年6月11日(3) 教員組合から学習会の案内が届いた。公立大学法人と関係で、大学教員は雇用者の位置になるわけだから、労働法・労働基準法等の基礎的知識は勉強することが必要ということだろう。
----------------
横浜市立大学教員組合
組合学習会のお知らせ
今後のあるべき雇用条件,労働契約について、また
組合と組合員が何をなすべきかを、学びます。
執行委員会の学習会として開催しますが、公開としますので、
一般教員のかたもどうぞふるってご参加ください。
書記長 山根徹也
日時: 6 月17 日(木) 17:15〜
場所: 小会議室(商文棟5 階)
講師: 小城原 新 氏
(本組合執行委員補佐)
主催: 横浜市立大学教員組合執行委員会
---------------------------
2004年6月11日(2) 首都大学東京(俗称「首大」)のHPがアップされたと言うのでのぞいてみた(「首大HP」)。なるほど、COEグループのコースは学部も大学院もなくなっているようだ。せっかく大変な努力でCOE(博士課程がある大学院のみが申請可能)をとっていても、その博士課程すら新しい大学には不必要ということのようである。このようにして、営々と築きあげた伝統や実績が無視されるとすれば、しかも、COEをとったということは、現在全国的に見て優れているという評価を与えられた人々であるにもかからわず(すなわち過去の栄光や実績ではなくて、現在の実力と名誉を証明するにもかかわらず)、慎重な配慮が行われないことを示すわけだ。このことの意味は、長く都立大学で尾を引くのではないか。ものいわぬ人々だけを作り出す権力構造が、新しい大学の出発点で打ち出されたということを意味するのではなかろうか。ポーカス博士は、「都立大の学生や院生と共に大学に残る道を選択したくても,わしも研究者のはしくれだ。これではやっていけない。いずれ脱出をせざるをえなくなりそうだ」といっているが、多くの人の正直な気持ちではなかろうか。多くの人がすくなくとも、「さあやるぞ」といった前向きの気分になれない、というのが現状だろう。
----------------
2004年6月11日(1) 都立大学の情勢に関するポーカス博士のFAQは、ますます水面下で緊迫している情勢を伝える。その部分をコピーしておこう。6月9日(水)の設置審の結果はどうだったのだろう。「就任承諾書」問題に関する都大学管理本部、人文学部臨時教授会の態度に関して論評した近代経済学COEグループの一人の「個人的見解」もコピーしておこう。そこでは、都の強引な行政的権力的手法が、都立大学内部に硬軟両様[2]のさまざまの反応・分裂・分断を生み出し、大変な状態になっていることが映し出されている。強圧的手法での「改革」を通じて切り刻まれた大学人の精神は、今後どのようになるのであろう。ポジティヴな改革が持つべき新しい理念とそれへの生き生きとした結集は、どこにあるのだろう。東京都と横浜市と言う日本の大都市二つが、かなりの共通性(ポーカス博士の下記の文章から一つもっとも根本的なところをあげれば、「教授会権限ゼロ(専門委員会に人事権がある)」)を持って、大学「改革」を行っているが、これは大学の自立的民主的発展と言う点で根本的な問題を抱えるものであるが、さて後世から見るときどう評価されるのだろう。
------------------
T-3 それで本当に2004年6月17日までに就任承諾書が管理本部にそろうんでしょうか? 次へ
ポーカス博士
先日の4大学緊急教員会議で出た話しによると、科技大ではあの時点で様式3の書類作りに追われている教員が不平をもらしていたということだから、科技大では様式3に関しては少なくとも期限内に提出されそうだ。保科大と短大は,少人数だということもあり,ほとんど学長や学部長の目の前で書類を書かされたりするという噂もあるので,間違いなく書類は完成するじゃろう。問題は、都立大じゃが,6月9日(水)の設置審の結果待ちという話も出ている。この日の設置審では5月28日のヒアリングの結果が報告され,その後の審議のおよその方向が決定づけられると言われているからな。 6月14日の教学準備会議で,大学院問題がどのように扱われるかというのも大きなポイントだ。たとえ管理本部が人文学部教授会に2つの条件(大学院問題と雇用・身分保障の問題)をつきつけられたとしても,またさらに4大学緊急教員集会の議決にあった助手再配置問題の条件がつきつけられたとしても,それで大学管理本部が具体的に回答するとは考えられない。では,いったいどうなるのか?
ここからは,まったくわしの個人的予想なので信用しないで欲しい,ただの個人的 speculation だ。2004年6月17日までに集まる都立大からの就任承諾書は半数に満たないだろう。工学部や理学部では,就任承諾書を出す出さないは個人の資格で考えるという意見が支配的なので,個人として出す教員が出てくるはずだ。6月17日というのは,あくまで大学管理本部が設定した日付なので,実際には7月のある日が最終締め切りのはずだ。ということは,意思確認書の時にあったように,管理本部から学長予定者,理事長予定者、管理本部長名でまたまたなんらかの催促の文書が出てくるに違いない。あのおぞましい役人の世界の文書がまた回ってくるのかと思うと,ぞっとする。
「首大」構想に基本的に賛成している都立大執行部の一部の人間は,今回の就任承諾書では,「教員の身分・雇用に関わる問題は関係ないから」,「とにかく文部科学省に書類を提出することが重要だ」と圧力をかけてくるだろう(実際に科技大の学長は,すでにそのようにふれこんで教員を動かしているらしい)。そして実際に,教員の身分・雇用に関わる部分は,法人への就任承諾書で初めて明示されるはずなので,今後の定款の決定とも絡むから,もう少し先に決めても良いと考える人達がいる。しかし,それは罠だ。
ここで就任承諾書を出しておいて,法人への就任承諾書を拒むことは,かなり法的に見て微妙なのだ。
意思確認書の時のように,書類そのものが法的な根拠のなかった場合とは違う。今回の就任承諾書は正式な法的な手続きにのっとった書類だ。
今はとりあえず出しておいて,法人への就任承諾書の時に考えればよい,という問題ではない,とわしは考える。
T-2で述べたように, もし就任承諾書を出せば,助教授や講師の場合,例外なく昇任審査にかけられてしまう。ということは,好むと好まざるとにかかわらず「任期制・年俸制」に移行されられてしまうのだ。だから,「任期制・年俸制」だけは御免だと考えている助教授や講師は,就任承諾書を出したら負け,ということになる。
教授に関しては,今のところ就任承諾書を出したら自動的に「任期制・年俸制」へ移行するというようなことはないが,教授だけ選択権があるというのもおかしな話だ。自分はどうせあと5年以内に退職だからどっちでもいい,だから就任承諾書を書く,という教授がいるとすれば,管理本部の言っている「旧制度」と「任期制・年俸制」がどちらを選択しても教員にとってプラスにならない制度だということを思い出して欲しい。教授であっても,本当に後で悔いが残らない選択を自主的にすべきてあって,「どっちでもいい」という問題ではない。
T-4 ポーカス先生は,条件がそろえば就任承諾書を出すつもりですか? 次へ
ポーカス博士
いや,わしは就任承諾書を出すつもりはない。たとえ人文学部臨時教授会決議 (2004年6月3日)の条件である (1) 「新大学」における大学院の構成, (2) 教員の身分・労働条件が明示があったとしても,就任承諾書は出さない。 これは,わしにとって条件闘争ではない。わしは,ここまで大学という組織が ずたずたにされ,ぼろぼろになった例を「首大」以外に知らない。 実学中心に大学を改革すると言えば聞えがいいかもしれないが,その実,教育責任の不在(単位バンク,英語外注),教育の理念ゼロ(都市教養理念の河合塾丸投げ),基礎研究の軽視(人文系学問の縮小,工学や理学の基礎分野冷遇),研究サポート体制ゼロ(話題にもならない!),最悪の評価システム(外部評価委員がいつも「学外の有識者」という名前で登場するだけで,本当の専門家を加えない),教授会権限ゼロ(専門委員会に人事権がある),など数え上げたらきりがない。都立大教員として 2010年まで大学に残る道を選択したいとも思っっていたが,今進行中の 研究費傾斜配分(N-13)を見ると,都立大教員として残るのは茨の道のようだ。つまり,都立大教員として残っても,研究費ゼロ,図書費ゼロの可能性が高い。さらに,タイムカード導入とか研究室取りあげとか悪い噂が渦巻いている。都立大の学生や院生と共に大学に残る道を選択したくても,わしも研究者のはしくれだ。これではやっていけない。いずれ脱出をせざるをえなくなりそうだ。
T-5 大学院の整備は,本当に就任承諾書を提出する前に決まるのでしょうか?
ポーカス博士
2004年6月14日の教学準備会議でおよその線は明らかになるだろう。 6月8日の都立大学評議会では,前日に行われた第1回大学院検討部会の内容と結果が報告された。案の定,大学院の部局化は盛り込まれなかった。管理本部は,「(大学院)重点化のメリット・意味が未だに不明」 だと言っているらしい。一方で,人文学部での大学院案の構成と教員数は受け入れられ大学院の「人間・社会・文化研究科(仮称)」の教員数 85名が明示された。しかし,その中の専攻別の数は示されていない。
注意しなければいけないのは, 教員数というのが教員定数のことではない,という点だ。どういう意味かというと,教員はあいかわらず学部やオープンユニバーシティなどに所属する。わしの所属するオープンユニバーシティの人文系チームを例にとれば,教員定数10名のところに27名が所属することになり,27-10= 17 で17名が過員(過剰定員)ということになる。この数は人員削減の数であり,辞めたら補充しない教員数じゃ。この17名が大学院を担当することになっていたら,どうなると思う?
答えは簡単だ。大学院での研究・教育なんてあっというまに崩壊する。人文学部に関して言えば,85名という定員を確保できたなんていう状態ではないのじゃ。学部が64名でも大学院は85名,というのは大学院に教員が所属すること(大学院部局化)で意味を持つ数字だったのであって,定数削減が予定されている組織から大学院に教えに来る数を問題にしているのではない。
----------------COEグループの一人の「就任承諾書」に関する論評---------------
昨年8月以来の「新大学」問題のメイン・イベントである、(移行後の大学への)就任承諾書の提出期限は、6月17日に設定されているようだ。就任承諾書が必要数集まらなければ、少なくとも来年度の開校は不可能になる。
都立大の外部の方(あるいは都立大内部でも学生諸君の場合)には、最新の動きを追うことはなかなか難しいだろうと思われる。そこで、(時間制約もあるので、ごく簡単にではあるが)その辺をこのページに書いてみたい。
人文学部臨時教授会で、
1.
新大学における大学院の構成
2.
教員の身分・労働条件
が明示されない限り就任承諾書を提出しないことを決定したそうだ。
·
この効果を予想してみよう。この決定が有効であるためには,当然のことながら,「もし要求が満たされないならば、人文学部は本当に就任承諾書を提出しない」と管理本部が信じなければならない。しかし,これまでの経過を客観的に見て、管理本部がそう信じなければならない理由はないように思う。今回もまたわずかでも有利な条件を引き出すための「条件闘争」にすぎないとみなすのが(客観的にも、管理本部の観点から見ても)自然だ。とすれば,管理本部にとっての最適戦略は,ちょうど3月の「意思確認書」問題のときと同じように,上記方針を転換できる(人文学部執行部にとっての主観的な)理由となり、「収穫はこの程度で仕方がないか」と人文学部執行部に思わせる程度の最低限のアメ(もちろん,大半は後日反古にする)を差し出して終わりということになるのではないだろうか。(これは、人文学部という組織全体についてのコメントです。そこに属する個々の方々については、当てはまる場合も当てはまらない場合もあるでしょう。念のため。) - toda
·
ちなみに、管理本部は、私たちが経済学グループの大半が本当に「三行半」をつきつけるとは思っていなかったのだろう。その結果、設置申請間際になって、膨大な量の書類仕事等が発生したはずだ。私たちが、管理本部所属の都職員から相当恨まれていることは想像に難くない。まあ、気の毒ではあるが、それを私たちのせいにされても困る。(^^; 上司の判断ミスを責めてもらいたい。- toda
--------------------
2004年6月10日 昨日のノーベル賞科学者・小柴昌俊教授の衆議院文教委員会における発言の詳細な記録が、Academia
e-Netowork LetterNo.123に掲載された(国会の委員会の会議録へのリンクも張ってある:ダウンロードして一読したファイル)。都立大関連の緊迫した情報も含め、それを以下にコピーして、自分のものとしておこう。この会議録本文は、ダイジェストよりはるかに感動的である[3]。
質問者の加藤氏が「国会議員だからできるぜいたく」といっているが、われわれ一般国民も、こうして議事録が公開されれば、すくなくとも文章ではっきりとノーベル賞科学者の気迫ある答弁、強靭な精神力を感じ取り、科学の最先端の問題を知ることができる。どこかの大学のように、紋切り型の無内容な議事録しか公開しないで、「これまでやってきたことですから」というような旧慣墨守でお茶を濁し押し通してしまうのでは駄目なことは、こうした議事録公開を読んでもはっきりする。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Academia e-Network Letter No 123
(2004.06.09 Thu)
http://letter.ac-net.org/04/06/09-123.php
ログ http://letter.ac-net.org/log.php
━┫AcNet Letter 123 目次┣━━━━━━━━━ 2004.06.09 ━━━━
【1】都立大の危機 --- やさしいFAQ 緊急情報より
http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/〜jok/kiki.html
【2】都立大の危機 FAQ 廃校 or 改革? 就任承諾書をめぐって
http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/〜jok/kiki-t.html#s-dasanai
T-3: 「それで本当に2004年6月17日までに就任承諾書が管理本部に
そろうんでしょうか?」
【3】衆議院文科委における小柴氏の総合科学技術会議批判
第159回国会 文部科学委員会 第22号 平成16年5月26日(水曜日)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009615920040526022.htm
【4】ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)
「メディアコントロールーー正義なき民主主義と国際社会」抜書
集英社新書 ISBN 4-08-720190-2
(原著1991年 訳2003年4月)
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0190-a/
───────────────────────────────
都立大学の方々が大きな困難な直面されているが、独立行政法人制
度の本質を純粋な形で体現した「首都大学東京」がそのまま実現さ
れてしまうかどうかは、大学の大半が独立行政法人化してしまった
日本(学校法人も今回の私立学校法改正により独立行政法人に近づ
いた)にあっては、大学関係者の大半に直接影響することである。
この困難は、戦場における困難と同質のものがあり、当事者の気質
や価値観や世界観や倫理観により多様な行動が生じるのは自然なこ
とだが、個人的利益を考えても、大学が結束し役所と交渉した方が
有利なことは自明である以上、囚人のジレンマの陥穽を何としても
避けていただきたい、と祈るばかりである。(編集人)
━ AcNet Letter 123 【1】━━━━━━━━━━ 2004.06.09 ━━━━━━
都立大の危機 --- やさしいFAQ 緊急情報より
http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/〜jok/kiki.html
──────────────────────────────
◎ 2004年6月7日: 都立大学・短期大学組合が
「就任承諾書」「意
思確認書」提出にあたっての5項目の要求
(http://www5.ocn.ne.jp/〜union-mu/0607.pdf)を発表。 T-1, T-2
──────────────────────────────
◎ 2004年6月8日:「世界」(7月号)発売。準特集「私たちはなぜ
『首都大学東京』にNOと言うのか」
──────────────────────────────
◎ 2004年6月11日(金)に都議会文教委員会が13時から開かれます。
大学管理本部がいったいどのような答弁をするのか見守る必要があ
ります。 12時から傍聴券が先着順で配られます。時間の許す方は是
非傍聴を。 東京都議会のページは
http://www.gikai.metro.tokyo.jp/。
──────────────────────────────
◎ 2004年6月5日:都立大学・短期大学組合の(傾斜配分に関わる)
公開質問状(5/10)(http://www5.ocn.ne.jp/〜union-mu/0510.pdf)に
対して5月27日付で文書による「回答」があったことが公表された。
高橋理事長予定者宛の公開質問状だったが,経営準備室事務局,大
学管理本部管 理部の泉水 一氏からの「回答」となっており,高橋
理事長予定者からの回答では ない。しかもその内容は極めて場当た
り的で呆れ果てた内容。詳しくは, 都立大学・短期大学組合の
形
式、内容ともに不誠実な回答に抗議する: 5・10公開質問への「回
答」とその批判(「手から手へ」第2287号
http://www5.ocn.ne.jp/〜union-mu/0604.pdf)を参照。
──────────────────────────────
◎ 2004年6月5日:昨日の緊急4大学教員集会(18:06〜21:07)は,
学会シーズンに もかかわらず参加者120名〜200名で,議論白熱する
場面も。各組織からの現状報告に加え, 就任承諾書の実体が紹介さ
れる。助手有志からは新たな声明(*1)が発表され, 「就任承諾書
(助手に対しては「意思確認書」)提出の前提となる諸条件を 明確
にすることを強く求める」という決議(*2)を若干の修正を含んで採
択。
*1 http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/〜jok/joshu060704.html
*2 http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/〜jok/kinkyu4dai-ketsugi060404.html
──────────────────────────────
◎2004年6月3日:「開かれた大学改革を求める会」ニュース第7号
(http://www.geocities.jp/hirakareta_daigakukaikaku/news7.pdf)
緊急発行。6月3日人文学部臨時 教授会では,(1) 新大学における大
学院の構成, (2) 教員の身分・労働条件が明示されない限り就任承
諾書を提出しないことを決定。
──────────────────────────────
◎ 2004年6月8日発売予定の岩波書店『世界』728号(2004年7月号)
に準特集「私たちはなぜ『首都大学東京』にNOと言うのか」が組ま
れる。
・川合 康「都立新大学問題?何が起こっているのか 開かれた大
学改革を求めて」(P.200-208)
・ アラン・ジュフロア起草 西川直子訳・解説 「[フランス発]
東京都知事への要望書」(P.218-222)
・ 経済学グループ 浅野皙・神林龍・戸田裕之・村上直樹・脇
田成 「都立新大学構想の評価と経済学者たちの選択」(P.209-217)
・ 東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程1年 吉田達也
「読者談話室:大学は独立心を忘れたのか」(P.18)
◎ 2004年6月1日: 緊急4大学教員集会の 呼びかけメッセージ
(pdf)が公表されました。 6月4日の緊急4大学教員集会では,学生
や院生の参加も呼びかけています。
━ AcNet Letter 123 【2】━━━━━━━━━━ 2004.06.09 ━━
都立大の危機 FAQ 廃校 or 改革? 就任承諾書をめぐって
http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/〜jok/kiki-t.html#s-dasanai
T-3: 「それで本当に2004年6月17日までに就任承諾書が管理本部に
そろうんでしょうか?」
──────────────────────────────
ポーカス博士
先日の4大学緊急教員会議で出た話しによると、科技大ではあの時
点で様式3の書類作りに追われている教員が不平をもらしていたと
いうことだから、科技大では様式3に関しては少なくとも期限内に
提出されそうだ。保科大と短大は,少人数だということもあり,ほ
とんど学長や学部長の目の前で書類を書かされたりするという噂も
あるので,間違いなく書類は完成するじゃろう。問題は、都立大じゃ
が,6月10日の設置審の結果待ちという話も出ている。この日の設置
審では5月28日のヒアリングの結果が報告され,その後の審議のおよ
その方向が決定づけられると言われているからな。6月14日の教学準
備会議で,大学院問題がどのように扱われるかというのも大きなポ
イントだ。たとえ人文学部教授会が2つの条件(大学院問題と雇用・
身分保障の問題),さらに4大学緊急教員集会の議決にあった助手
再配置問題の条件がつきつけられても,それで大学管理本部が具体
的に回答するとは考えられない。さて,どうなるか?
ここからは,まったくわしの個人的予想なので信用しないで欲しい,
ただの個人的 speculation だ。2004年6月17日までに集まる都立大
からの就任承諾書は半数に満たないだろう。工学部や理学部では,
就任承諾書を出す出さないは個人の資格で考えるという意見が支配
的なので,個人として出す教員が出てくるはずだ。6月17日というの
は,あくまで大学管理本部が設定した日付なので,実際には7月のあ
る日が最終締め切りのはずだ。ということは,意思確認書の時にあっ
たように,管理本部から学長予定者,理事長予定者、管理本部長名
でまたまたなんらかの催促の文書が出てくるに違いない。あのおぞ
ましい役人の世界の文書がまた回ってくるのかと思うと,ぞっとす
る。
「首大」構想に基本的に賛成している都立大執行部の一部の人間は,
今回の就任承諾書では,「教員の身分・雇用に関わる問題は関係な
いから」,「とにかく文部科学省に書類を提出することが重要だ」
と圧力をかけてくるだろう。実際に,教員の身分・雇用に関わる部
分は,法人への就任承諾書で初めて明示されるはずなので,今後の
定款の決定とも絡むから,もう少し先に決めても良いと考える人達
がいる。しかし,それは罠だ。
ここで就任承諾書を出しておいて,
法人への就任承諾書を拒むことは,かなり法的に見て微妙なのだ。
意思確認書の時のように,書類そのものが法的な根拠のなかった場
合とは違うのだ。今回の就任承諾書は正式な法的な手続きにのっとっ
た書類だ。今はとりあえず出しておいて,法人への就任承諾書の時
に考えればよい,という問題ではない,とわしは考える。
━ AcNet Letter 123 【3】━━━━━━ 2004.06.09 ━━━━━━
衆議院文科委における小柴氏の総合科学技術会議批判
第159回国会 文部科学委員会 第22号 平成16年5月26日(水曜日)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009615920040526022.htm
──────────────────────────────
○・・・加藤(紘)委員 どんなことでも、世の中のことは政治家
が最終的には責任をとらなきゃならぬのだと思います。ただ、なか
なか我々にも、目ききとしての能力は欠けているものですし、基礎
学力もない。そうなると、じゃ、実質的に日本の科学技術研究の最
後の責任者はだれなのだと。
・・・・・・日本では総合科学技術会議ということになるんです。
今、実際は、会議の座長は総理大臣ですから、一カ月に一遍かそこ
いら会議が開かれて小泉さんが全部見ているわけにはいかない。そ
うすると、その中の四人の常任の委員さんがおられる、その人たち
なのかなと。
僕は、形として言えば、それぞれの四人の方が学長をされた方とか、
全部専門家ですから、その方が最終的には我々にかわって物を考え
て提案していただいて、そして最後に我々がそれでいいですねと、
総理も我々政治の人間も言うという形にはなっているんだけれども、
それが機能しているかねというテーマもあるんだと思います。どう
ぞ。
○小柴参考人 今加藤議員の言われたことは、私もふだんから感じ
ております。非常に大事な問題だと思うんです。
それは、今加藤さんが言われた、四人の専門委員がおられて、その
方が判断を下すということになっているわけですけれども、実は私、
昨年そのことにちょっと関係したことがございまして、痛切に感じ
ましたことは、私、きょうぜひ議員の皆さんに申し上げて、考えて
いただきたいんです。
これは、私が生涯にわたって長という名前のつく職について管理職
手当をもらったことがないから言っているんじゃありません。それ
とは別に、学長とかなんとかの長になって管理職として立派な業績
を上げた先生方が、例えば医学部の先生だった、あるいは何学部の
先生だったからといって、その分野の学問でちゃんとした判断がで
きるという保証は何もないんです。しかし、今までの歴史を見ます
と、各省のお役人がそういう大事な委員として推薦する場合に、結
局は、学長職をどれだけやったかとか、そういうことが判断の基準
になって推薦されているわけです。
私が申し上げたいのは、その専門委員というのは、例えば四人いて、
四つの分野において本当にその分野の研究を評価し判断のできる、
そのことで一番日本の中で信頼できる人になっていただきたい、こ
ういうふうに思うんです。ですから、それは必ずしも学長さんの中
にいるとは限りません。
申し上げたいことは、科学技術総合会議という名前で呼ばれている
会ですけれども、二、三年前の尾身大臣のころに策定された、科学
技術のこれからの基本的に重要なことというので選ばれたのは、例
えばナノテクノロジーとかバイオテクノロジーとか、全部が技術に
直結して利益を生み出しそうな科学、そういうのだけ選ばれたんで
すね。私、ある折があって尾身さんにそのことをポイントアウトし
たんですけれども。実は、そういう技術に直結した科学の研究とい
うことは、その分野にちょっと足を置いた人間ならば、この研究は、
やれば、二、三年後にこのくらいの成果が得られて、このくらいの
利益になるということは判断できるんです。
問題はどこにあるかというと、五十年、百年たってもどういう結果
になるかだれも予測は絶対にできない、そういう基礎科学をだれが
判断して、どういうふうにプロジェクトを選んでいくか、これは本
当に難しいんです。だからこそ、だれがやっても一〇〇%正確な答
えが出ないんだったらば、一番当たりのいい人に勘を働かせてもら
う、これ以外にないんですよ。
では、一番勘の働きが当たるような人というのはどういう人かとい
えば、その分野でちゃんとした実績を上げて国際的にも評価された、
その人に、本気でこの問題を考えてくださいよ、本気で考えて考え
て考え抜いたあげくのヤマカンというのは当たりがよくなるんです。
それは、申し上げられると思います。
━ AcNet Letter 123 【4】━━━━━ 2004.06.09 ━━━━━━
ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)
「メディアコントロールーー正義なき民主主義と国際社会」
集英社新書 ISBN
4-08-720190-2 (原著1991年 訳2003年4月)
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0190-a/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087201902/
──────────────────────────────
「・・・民主主義社会のもう一つの概念は、一般の人々を彼ら自身
の問題に決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の
人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとするも
のだ。
そんな民主主義社会の概念があるかと思われるかもしれないが、
実のところ、優勢なのはこちらのほうだと理解しておくべきだろう。
・・・・・・」
「1916年に、ウッドロー・ウィルソンは「勝利なき平和」を綱領に
掲げて大統領に再選された。第一次世界大戦さなかのことである。
世論は平和主義一色で、ヨーロッパの戦争にアメリカがかかわるい
われはないとされていた。
しかし実際には、ウィルソン政権は戦争に関与していったので、何
らかの措置を講じる必要が生じた。政府主導の宣伝委員会ーーいわ
ゆる「クリール委員会」ーーが設立され、半年足らずでみごとに平
和主義の世論をヒステリックな戦争賛成論に転換させた。
・・・・彼等の目的は、当時の極秘審議録に書かれているように、
「世論の動向を操作する」ことにほかならなかった。
だが、それよりも肝心なのは、彼らがアメリカ社会の知識階層の考
えを操作しようとしたことだ。そうすれば、その連中がイギリスに
よってでっちあげられた宣伝を広め、平和主義の国を好戦的なヒス
テリー集団に変えてくれる。
その思惑は当った。みごとに当った。そして、これが一つの教訓と
なったのである。国家による組織的宣伝は、それが教育ある人々に
支持されて、反論し難くなったら、非常に大きな効果を生む。この
教訓は、のちにヒトラーをはじめとして多くのものが学び、今日に
いたるまで踏襲されてきている。」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集発行人連絡先: admin@letter.ac-net.org
ログ:http://letter.ac-net.org/log.php
趣旨:http://letter.ac-net.org/index.php
#( )の中は編集人コメント、「・・・・・」は編集時省略部分
-
---------------------
2004年6月9日(2) 総合理学研究科・佐藤真彦教授HPから、今回の公募に関する情報が、トップダウン方式で記者会見によって行われたと知った。その方式は、すでにこれまで「決定権は大学改革推進本部だ」といってきたことからして、予想されたことであった。初めて知った(気づいた)のは、次の部分である。
<参考>大学改革推進本部 教員選考委員会
委員長 小川恵一(市立大学 学長)
委員 柴田悟一(副学長)
委員 布施 勉(国際文化学部教授)
委員 清水一男(市立大学事務局長)
委員 中上 直(市立大学事務局総務部長)
学外委員 大野功一(関東学院大学 学長)
学外委員 伯井美徳(横浜市教育長)
これらの人々は、それぞれの専門分野(物理学、経営組織、海洋法、会計学、そして事務関係)では、それぞれにしかるべき実績を上げておられるのだろう[4]。
だが、今回募集の各ポストの人事判定に関して、本当にふさわしい人なのだろうか?
光物性(実験系)で、有能だ、将来性がある、科学的学問的能力がある、応募者の中で一番優れているなど、かりに30人くらいの応募があったとして、この委員のなかのどなたが全体の論文等を見て、いちいち的確な公平な判断ができるのだろうか? 応募者が多くなればなるほど、応募者は結果に注目し、選ばれた人を見て、その業績その他を判断し、選考委員会のあり方を評価することになろう。評価するものが評価される。
例えばまた、民法に関して判断する能力を持つ何人がいるとしても、全体として委員会が法律の学問的能力の判断能力(能力の上下関係)があると社会的に説明できるだろうか? それを証明できるような関連の学問的業績を上げているのだろうか。民法関連学会にどの程度の人が属しているのだろうか?
すべての公募科目に関して権限を持つとされる上記委員のそれぞれの学問分野に関する判断能力・見識は、社会から信頼を受けるに足るものだろうか?
3月末発足の大学評価学会(HP:大学評価学会)で、国立天文台の台長である海部宣男教授が、「ピア・レヴュー」の確立こそ、大学の科学研究を発展させる上で重要だと主張されていた[5]。科学には科学の論理で対決し、競争しなければならない。学問の土俵で競争し、評価し評価されなければならない。さすがに、スバル望遠鏡(ハワイ・マウナケア山頂)設置を初めとする宇宙科学研究の世界的最先端を行く研究所とその責任者であるだけにすぐれたことをいうと、この根本思想に共鳴したが、今回の教員選考委員会のあり方は、まさにそれはとまったく違った原理であるように思える。
専門的な学問的科学的能力を判断する上で、それぞれのポストに関しては圧倒的に多くの人が素人であるように思われるが、それは私の無知のせいなのだろうか。私のように狭い範囲の研究しかやっていないのではなく、上記の各委員は全分野に渡って専門的見識をお持ちなのだろうか?私など、たとえば光物性ポストの個々の応募者が投稿しているであろう光物性関連の専門学術誌(自然科学だから国際的認知度)に関しては、まったく何を言われても機械的に「はいそうですか」としかいえないが。
逆に、学問科学の関係は素人だから、応募者の「人柄を判断する」、「大学の目標との合致度を評価する」などということをたくさんのひとが受け持つことになるのだろうか?そんなことになれば、学問的判断・科学的判断よりも他の判断が支配することになるだろう。これはこれでおそろしいことになりそうである。神戸大学の阿部泰隆教授がどこかでいっておられたが、「人柄」などあいまいな基準で判定されたら、学問は死んでしまうであろう。科学における批判精神といわゆる「人柄」などは、必ずしも整合しないからである。それは、科学研究の場に身をおいた人間しかわからないかもしれない。「学問の自由」や「大学の自治」は、なぜ必要だったのか? なぜ憲法的保障まで必要だったのか?いろいろな意味での「権力[6]」「世論」と科学的真理の探究とは矛盾するということであろう。そうした点の保障はどうなるのだろう?
このような疑問は私だけが持つのではないだろうから、いずれきちんと説明があるだろう。具体的に今後どのような手続き(専門委員会組織?その委員公表など)と判断(審査結果報告書など)と、その判断の公表があるのだろうか。透明性はどのようにして確保されるだろうか?
この点、委員の任命に関しては、まさに総合科学技術会議で、ノーベル賞科学者・小柴昌俊教授がいっていたことが、直ちに記憶によみがえった。下記に再度コピーしておこう。
--------------
新首都圏ネットワーク |
|
毎日新聞ニュース速報
「長のつく職にあったからといって、科学をちゃんと判断できる保証はない」
ノーベル賞学者の小柴昌俊・東大名誉教授が26日、衆院文部科学委員会で総
合科学技術会議の人選に注文をつけた。小柴さんは昨年、自らが推すニュート
リノ実験施設計画を同会議が「C(要見直し)」と評価したことに異議を唱え
た経験がある。
小柴さんは同日、加藤紘一議員(自民)の質問に参考人として出席。加藤議員
が「政治家に代わって科学技術の価値を判断する責任は、総合科学技術会議の
常勤議員にある」と指摘したのを受けて持論を述べた。
同会議が承認した科学技術基本計画の重点4分野について「技術に直結して利
益を生みそうな科学ばかり。50年、100年先の価値を追求する基礎科学は
誰が評価するのか」と指摘。さらに「国際的に評価され、日本一信頼できる人
が常勤議員であってほしいが、役人が推薦する基準は結局、学長などの経歴だ」
と苦言を呈した。
同会議は小泉純一郎首相が議長を務める「科学技術政策の司令塔」。現在の常
勤議員4人中2人が大学の元学長だ。
【元村有希子】
-----------
2004年6月9日(1) 来年4月発足の公立大学法人・横浜市立大学の「専任教員公募」と「新しい人事制度の案(中間案)」が公表された、という情報を得て、大学HPにアクセスしてみた。教員公募についていえば、なぜこの4つの科目だけなのか、どのような判断なのか、カリキュラム体系との関係など、なんら社会的説明をしていない。われわれ一般教員はいっさい関知しないところで、公募がなされている。その科目選定の社会的説明責任は、大学改革推進本部や法人の責任予定者はどこかではたしているだろうか? 私だけが知らないのか? これでは、どこでどのような議論をしたがわからないまま、結論だけを鵜呑みにせよと言うことになる。理性的説明による同意調達ではなく、結論だけを権力・権限をもったものが行使するということになる。大学の自治も大学人の自立的判断もない。どこかわからないところ(決定権を握っているのは大学改革推進本部・法人経営責任者だとされているだけ)で、検討した諸主体・諸委員の資格・選抜規準・判断能力や見識もわからないまま、したがっていかなる意味で妥当な検討結果を踏まえたものかが明らかでないまま、まさに決定だけを知らせる、結論だけを大学内外に知らせるというトップダウンの形式だけがあるということではないか。
そうした疑問が直ちに湧くのは、次のような事情による。国際総合科学部国際教養学府関連では、すくなくとも(カリキュラム体系の審議検討は教員が行ったわけではなく、参考意見の聴取だけが行われたのであり、すでに今回の決定においては教授会等から組織としての審議の権利が剥奪されているが)、いくつかの科目は、退職教員補充を予定して開設されることになっていたはずだ。少なくともこれまでに配布されたカリキュラム貼り付リストにはそうなっている。ところが、それらは今回まったく公募されていない(どういうわけか不補充は国際教養学府に集中しているように見える・・・国際教養の重視を掲げながら、本当は文科系教員ポスト削減という実質だけを狙っていたということか)。なぜなのか? 大学改革推進本部・法人経営責任者が公募ポスト・公募条件等の決定権を掌握するとして処理を進めている以上、それらの妥当性が、きちんと説明されなければならないだろう。商学部経済学科関連でも、通常ならば基幹的なポスト(博士課程要員として博士号を持っていた人のポスト)が、どうしたわけか欠落している?まさに説明抜きの欠落は、恣意性そのものである。社会的説明責任をはたしているものではない。
公募条件では、任期制を打ち出している。新たに採用される人々の場合、現在の全国的な若手研究者の需給バランスからして、どのような人々が当該ポストに応募することになるのか、任期制導入が応募者の質にどのように影響するか、これが問題となる。
もしも提案されている任期制の条件が妥当であり、魅力的ならば、多数の応募があるだろう。優れた人々が、これまでの公募実績で集まったよりも多い人々・優秀な人々が押し寄せるならば、そしてこれまで以上の優秀な人材を採用できたと社会に具体的なデータで説明できるならば、構想中の任期制が社会的にプラスの評価を受けたと言うことだろう。さてどうなるか?
今回中間案として提起されている「任期制」なるものは、さっと一読するかぎり、京都大学再生医科学研究所で発生した問題やその他全国の大学の任期制(大学教員任期法による制度=再任は神気募集と同じ扱い、再任拒否を当然とするもの)がはらんでいる諸問題を一応考慮しているように見られる。
「努力・実績に応じた再任」を基本とするようであり、さらに、努力・実績しだいではこれまでよりも若くしてテニュアを獲得できるようでもある。昇任審査・業績審査が透明性を持ち、公開性を持ち、社会的説明責任を果たすものならば(そのようなものと全国の若手研究者・大学人が判断すれば)、応募者は多くなろう。文面では、公平性や透明性を打ち出しているが、外部委員(誰がどのような基準で選抜するのか?その妥当性・透明性の保障は?)などが加わると言うことであり、その信頼性がなければ、かりに応募者の数は多くても質は悪くなるだろう。質がいい人々が来ても、本当に優れた人が選ればれるかどうかわからないだろう。
昇任審査・テニュア付与審査等は学部長・コース長がやるようであるが、学長、学部長、コース長等を市長任命の法人責任者がトップダウン方式(ボトムアップの実質を検証できる公的システムを欠如したままのやり方)で任命することになれば、そうした任期制その他の評価において官僚的機械的形式的な上位下達のシステムが作動し、大学らしい自由な雰囲気はなくなるであろう。そうした雰囲気はあらゆる水脈を通じて全国の大学人や社会が知るところとなろう。
市長による理事長任命、理事長による学長任命、学長による学部長・コース長任命というトップダウン方式(非民主主義的方式)と公平性や透明性と「大学の自治」、「学問の自由」がどのように整合するか、ボトムアップの民主的側面がどのように保障されるのか、その実質こそが問われることになろう。一読する限り、自分に対して下された評価(文書による評価が必要であろうが)に対して反論し、異議申し立てができるシステム設計とはなっていないようである。こうしたところにも、トップダウン方式がにじみ出ているということだろう。法人経営者独裁体制がいつの間にか進行することになるのではないか、それが定款に対する教員組合の批判(藤山嘉夫(教員組合副執行委員長):定款(案)と定款(案)に関する組合の見解04-2-13)、「大学人の会」の批判(「大学人の会」の市大「定款」(案)批判)の本質的部分であろう。
もちろん、任期制を法人発足に当たって、原則として全教員に適用しようとしている点については、適用のあり方が問題となろう。その移行が現在の市大の個々の教員へ不利益措置とならないようにしなければならない。本学教員には、全国の公立大学教員と同じく、これまでは教育公務員特例法や地方公務員法の枠組みで、65歳までの定年が前提にされていたのであり、先日の労働法専門家(深谷信夫・茨城大学教授)の説では、これまでの制度は「65歳定年までの任期制」=身分保障の意味での任期制=テニュア制と解釈できるからである。
これまでの実質的なテニュア制度(定年制・・・定年までの身分保障)からしても、また今回打ち出された「努力・実績に基づく客観的で公正な評価」と言う原則からしても、法人への移行という外在的な変更で(その個人その個人の努力や実績にかかわりのない事情変更で)、雇用条件などを、どさくさにまぎれて劣悪化するということは許されない。この点、教員組合と法人側のしっかりとした議論(交渉)が必要である。その合理的交渉こそは、来年4月以降の法人化の成否を決することになるだろう。
「評価」のあり方をめぐっては、大学評価学会の呼びかけ人(運営委員)である池内了氏や学会代表・益川敏英氏が、貴重な意見を全国紙で公表した。「全国公私立大学の事件情報」、「新首都圏ネットワーク」等の情報から、以下にコピーしておこう。歴史系の諸学問は、まさに基礎科学に属する。池内氏、益川氏に共鳴。
-------------------------------------
2004年06月09日
[理系白書・提言]名古屋大教授・池内了さん
毎日新聞(2004/06/08)より
◇基礎科学は誰が守る
国立大学が法人化された。大学の裁量は見かけ上広がるが、運営費交付金は文部科学省が握っている。裁量を広げるにはムダを切り捨て金を稼ぐしかない。その結果、基礎科学はやせ細る。
あらゆる学問を支えるのが基礎科学だ。言葉への理解や知識が不十分だと深みのある文学が語れないように、自然科学のさまざまな領域が物理学や化学の上に発展してきた。こうした基礎を学ばないと、広い視野も柔軟性も育たない。だが「基礎は重要だ」と叫び続けなければすたれてしまうのが今の時代の現実だ。
大学の役割は二つあると思う。一つは基礎的な学問を守り育てる。もう一つは社会の要請に応えることだ。法人化は後者を加速させる。物理や地学といった地味な講座を、聞こえのいい新領域に改組する大学も出てくるだろう。
私立大学に物理学科や天文学科はほとんどない。金がかかる、もうからない、そんな学問は「経営」にはなじまないからだ。だからこそ国立大が担ってきたのだ。
ゆったりと静かに流れる時間。大学にはこれが必要だ。教員がせき立てられずにじっくり考えて行動することで、研究が深まり、教育も変わる。学生はその様子に刺激を受ける。学問とは何かを学び、考える力を身に着ける。
ぜいたくに聞こえるかもしれないが、日本は大学教育に金を惜しみすぎる。日本の高等教育への公費支出のGDP(国内総生産)比は0・5%。欧米の約半分である。
教員も意識を変えなければならない。「教育は雑用、落ち目の教員がやればいい」という風潮がある。教育は産学連携や論文などと違って、成果が出るまで5年10年かかるから、評価が難しい。しかしあえてそこに取り組まない限り、現状は改善しない。
名古屋大でも教育の再点検が始まった。理学部では学生の必修科目を減らして副専攻を設けることなどを検討中で、視野の広い人材育成への改革を議論している。同様の模索が、法人化を機に各大学で始まっている。
改革はいいことだが、すべての教員がビジネスマンのようになってしまうと、本当の学問はなくなる。日本の「知」を支える土台が崩れていくのを見過ごしてはいけない。【聞き手・元村有希子】
………………………………………
■人物略歴
◇いけうち・さとる
兵庫県姫路市生まれ。72年京都大大学院理学研究科博士課程修了。京大助手、北海道大助教授、国立天文台教授などを経て97年より現職。専門は天体物理学、宇宙論。
[関連ニュース]
理系白書’04:破れ、専門の壁 人材育成、国立大の模索(毎日新聞6/08)
Posted
by 管理者 : 掲載日時 2004年06月09日 00:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
URL
: http://university.main.jp/blog/archives/001170.html
大学評価学会 発足にあたって
資金配分のための「評価」に基礎研究はなじまない 益川 敏英氏
新首都圏ネットワークの新聞掲載記事より転載
大学評価学会 発足にあたって 資金配分のための「評価」に基礎研究はなじまない
益川 敏英
「評価」ばやり
今年三月に大学評価学会が発足し、これに少々かかわった。この「評価」であるが、昨今日本は評価ばやりである。現在の科学は過去の膨大な蓄積の上に成り立っている。その上に新たな結果を付け加えようとすれば、更に高度で精密な装置や計算機を使い、分析・研究しなければならない。必然的に研究費がかさむ。
一九七〇年代以前と違い日本国家が成り立つには科学・技術が不可欠で、国としても財政面から支援することが必要であると認識され、科学研究費のような補助金も昔に比べれば随分多くなった。民間のこの種の援助も結構多い。しかし、研究者は彼がこの精度この規模で実験をするのならば、更にとなる。またそういう努力をしないと全体の流れから取り残される。必然的に研究補助金に対する応募は多くなり、競争審査ということになる。研究者は研究の未来や実行する手段に思いをはせるよりは、報告書や次の申請文を書くことに忙殺される。
プロジェクト研究のような開発研究が必要な部分はある。これらの筋道が予測できるようなものには事前評価はある程度意味があるにしても、基礎科学のようなものにはなじまない。基礎研究もある程度予測を立て研究を始めるが、予想通りであればがっかりするであろう。予想外の出来事を期待している。だから基礎科学には事後の結果分析と次の可能な計画立案が重要になる。
役立つまで百年
基礎科学の重要な発見から、それが社会で役に立つ技術まで発展するには百年の単位の年月が必要である。そして基礎科学は研究者の知的好奇心を原動力として進む以外に方法はない。ここが資金配分の事前審査の際の評価になじみがたい所である。ある程度実績のある人が面白いといって研究している以上、「役に立ちそうでない」は理由にならない。広い視野と「少々」大目に見るくらいしか方法がない。そして社会がどれほどの決意で基礎研究を進めようとしているかである。
基礎研究から実用までに百年の時間が必要であることを実例で示しておこう。一九一一年にオランダのオンネスは極低温でのものの性質を研究しているなかで偶然にも金属の抵抗がなくなり、電流が流れ続ける現象を発見した。動機は極低温で何が起きているのか、いないのかの好奇心のみであった。何か重要なことが発見できる保証もない。何か社会に役立つことをと考え研究を、始めたわけでもない。科学の発展にはこれを許す度量が肝要である。その後多くの研究者の悪戦苦闘のすえに一九五〇年代中ごろに、この現象が生じる機構が理論的に解明された。
好奇心のみ
超伝導現象が発見されてすぐにこの魅力的な現象を実社会に応用しようとする研究が始まった。しかし、実用に供することが可能なほどに安定して運転できなかった。超伝導コイルの一部でも臨界温度より温度が上がると抵抗が生じ発熱してコイルが蒸発してしまう。この克服に手間取り、なかなか実用化ができなかったのである。ようやく超伝導コイルは新新幹線で実現できるところまできたのが現状である。さように基礎となる研究の開始時には、いかなる応用が可能なのか研究者にも見えていない。ただ研究の原動力は未知のものへの好奇心のみである。この段階の評価が目先の利益にのみとらわれたならロシアの古いことわざのごとく産湯と一緒に赤子をも流してしまうことになる。
基礎科学の評価は研究者が面白いと思い同僚の研究者の友好的でかつ批判的なコメントに耐える以外に良い方法はない。
最後に実際にあった逸話を話そう。東北地方でのカキの養殖の話である。ある湾でそこに流れ込む川の上流で森が乱開発された。結果として湾に養分が流れ込まず、カキの生産量は大幅に減少した、とのことである。
-----------------
2004年6月8日(2) 「大学人の会」が市長宛に提出した定款に関する公開質問状(下記に付録として掲載)に関して、今井清一名誉教授などに対して、回答があったようで、しかも、4月16日というから、1ヵ月半以上前に回答があったようである。その情報が寄せられた。『カメリア通信』最新号に掲載であり、総合理学研究科・佐藤真彦教授HPでも公開されている。ここでは、『カメリア通信』をコピーし、佐藤教授HPにもリンクを張っておきたい。相互を読み比べることによって、何が問題なのか、わかるであろう。教授会などの重要な審議の自立的主体的権限(それに伴う義務)などにはまったく言及がなく、法人至上主義の体制(上意下達の行政組織のシステム、下からの意見は参考意見として聞き置くだけというもの)であることは明らかである。はたしてこれで、自由で生き生きした大学になるのか、問題はそこにあろう。大学までもトップダウンの企業のような閉塞状況に陥るのではないかと、危惧する。大学の自治や学問の自由は、最低水準になるのではないか、と危惧する。本学の大学教員の評価、国公立大学(教員)の本学に対する評価、受験生や社会の評価が、本学の教員の活動のあり方(自由度と創造度)を通じて、明らかとなるであろう。大学間競争において、大学の本当に発展させるものは何か、これが問われる。法人がすべての決定権を握り、教員・教授会などには「参考意見を述べさせる」だけのやり方をとっている大学で、すばらしい大学があるのかどうか、大学内の意見を吸収し大学の研究教育に反映させていく循環的構造が形成されず、恣意性や独裁性がはびこることになるので派にか、危惧される。「公明性」、「透明性」など、果たしてどうなるか。これまで以上の秘密主義(「大学像」策定過程の秘密主義)が大学を支配するのではないか。自由度、創造度、公開性、透明性、社会的説明責任のあり方が、具体的な事実で今後検証されていくであろう。
---------
************************************************************
横浜市立大学の未来を考える
『カメリア通信』第23号
2004年6月8日(不定期刊メールマガジン)
Camellia News No. 23, by the Committee for Concerned YCU Scholars
************************************************************
“市民派”中田市長の“官僚的”不誠実回答――横浜市立大学問題
「大学人の会」に対する市長の回答(2004年4月16日付)
市広聴第104976号
平成16年4月16日
横浜市立大学問題を考える大学人の会
呼びかけ人
今井 清一 様
伊藤 成彦 様
久保 新一 様
清水 嘉治 様
田中 正司 様
柳澤 悠 様
山極 晃 様
横浜市長 中田 宏(公印)
公立学校法人横浜市立大学定款(案)について(回答)
市立大学の改革について、ご意見をありがとうございました。
さきに要望(2004年3月8日)のありましたことについて、次のとおりお答えします。
先の市会で議決されました公立大学法人横浜市立大学定款の策定に際しては、次のような考え方によりましたので、ご説明させていただきます。
1.「大学、学部、課程その他の重要な組織の設置又は廃止に関する事項」等を経営審議会の審議事項としたこと
「大学、学部、課程その他の重要な組織の設置または廃止に関する事項」等を経営審議会の審議事項としているのは、組織の設置または廃止により、職員の定数、運営経費や学生数などの変化が、大学の経営を左右する重要な事項であることにもよるものです。
また、重要な規定の制定についても、現行の大学の諸規定については、法人化後は「法人規定」となり、重要な規定は、経営審議会における審議を経て、法人の長である理事長が決定するものです。教育研究に関する諸規定であっても、それを審議する「経営審議会」は、学長をはじめとする教育研究側の理事も含め構成されていることや、定款第21条第2項で「教育審議機関は、経営審議会に対し意見を述べることができる」と規定されていますので、教育研究側の意見は十分に反映できるものと考えています。
なお、これまでも大学や学部、学科などの設置、または廃止については、学校教育法第2条第1項及び第5条の規定により、大学を管理し、経費を負担する設置者の権限であると規定されています。
2.理事長と学長を分離したこと
理事長と学長を別にしたことについては、大学自らがまとめた「私立大学の新たな大学像について」でも述べられていますが、市立大学の場合、教育研究に加えて、厳しい大学間競争の中で経営面の重要性が問われており、特に付属2病院の難しい運営・経営面に対しても責任を持たなければなりません。そこで、理事長と学長を分離する運営形態とすることにより、経営組織と教育研究組織の役割を区分し、それぞれの権限と責任の所在の明確化を図ることとしました。
なお、法人の審議機関のうち「経営審議会」には副理事長となる学長をはじめとし、教員も構成員となる一方で、「教育研究審議会」については、学長を最高責任者とし、学内の教員や学長が指名する学外有識者により構成されます。さらに、「経営審議会」に対し、「教育研究審議会」が意見を述べることができるなど、教育研究側の意見が反映されるシステムとしており、学問の府としての大学の特性への配慮をしています。
3.学長選考会議の委員に学外者を入れたこと
地方独立行政法人法において、学長の選考は、「経営審議機関」の構成員の中から当該「経営審議機関」において選出された者と、「教育研究審議機関」の構成員の中から当該「教育研究審議機関」において選出された者とにより構成する「学長選考会議」で行うことが規定されています。
これまでの選考は、学内者のみで行われていましたので、学長選考会議の構成員に学外者を加えることにより、幅広い視点から、より公正性・透明性・客観性の高い選考を確保していこうとするものです。
引き続き改革への取り組みを行っていきますので、ご理解・ご協力いただくようお願いします。
*********************************************************************
市長に対する「大学人の会」の見解(2004年3月8日付)
「公立大学法人横浜市立大学定款(案)」に関する「大学人の会」の見解
地方独立行政法人法成立にあたっての付帯決議は、公立大学法人の設立に関して「憲法が保障する学問の自由と大学の自治を侵すことがないよう、大学の自主性・自立性を最大限発揮しうるための必要な措置を講ずること」であった。しかし、公立大学法人横浜市立大学定款(案)の内容は、この精神に反して、公立大学法人横浜市立大学をいかにしたら設置者の影響下に置くことができるかという精神に基づいて起草されたものであるという疑念を禁じえない。以下定款案の問題点を指摘する。
1.教育研究審議会から教学の基本事項の審議権を剥奪
大学の自治と学問の自由を保障する憲法に基づき、学校教育法は「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなくてはならない」と規定している。国立大学法人法も、教員人事、教育課程の編成に関する方針、学則その他研究教育に関わる規則の制定・改廃は、教育研究評議会の審議事項とし、経営協議会の審議事項は経営に関わる事項に明示的に限定されている。
これに対して、「公立大学法人横浜市立大学定款案」(以後「定款案」と略称する)では、経営審議会は、「経営に関する重要事項を審議する機関」(地方独立法人法77条)としての権限を逸脱して、「大学、学部、課程その他の重要な組織の設置または廃止に関する事項」、「教育課程の編成に関する事項で法人の経営に関するもの」、「重要な規程の制定及び改廃に関する事項」など教学に関わる最も重要な事項を審議事項としている。他方で、国立大学法人法では教育研究評議会の審議事項となっている、「教員人事に関する事項」及び、「学則(法人の経営に関する部分を除く)その他の研究教育に係る規則の制定又は改廃に関する事項」が、定款案では教育研究審議会の審議事項から除外されていることは特に重要である。
教育研究にかかわる最重要事項に関して教学に関する審議機関による審議事項から排除することは、学校教育法の趣旨に違背し、「教育研究に関する重要事項を審議する機関」として教育研究審議会を規定する地方独立法人法にも違反している惧れがある。
2.市長が直接支配出来る運営機関
国立大学法人法では、学長が法人の長となり、学長による経営協議会の学外委員の任命にあたっては教育研究評議会の意見を聞くことが義務付けられている。地方独立法人法も、大学における教育研究の特性を考慮して公立大学については「公立大学法人の理事長は、当該公立大学法人が設置する大学の学長となるものとする」ことを原則とした。公立大学協会も、「公立大学法人は、原則として学長が兼務する理事長を中心として自主的・自律的に運営する」ことがとりわけ重要であるとしてきた。しかし、横浜市の定款案は、こうした研究教育の自律的運営の重要性に配慮することなく、例外的に採用できるとされた、学長と理事長の分離の方針を採用した。
定款案では、市長によって決められる理事長が、副理事長の一人(学長)以外のすべての理事を任命し、これら理事によって経営審議会が構成される。前述のように教学の基本的な部分の審議権さえもつ経営審議会の委員=理事(一人を除くが)の任命権を、市長が任命する理事長がもつことによって、市長は大学の経営のみならず研究教育の深部までに影響を与えることができる制度となっている。市長による大学の官僚的統制が強く懸念されるもので、大学の自主性と自律性はほとんど消滅するのでないかと危惧せざるをえない。
3.学内意志の反映が困難な学長選考制度
定款案では、学長選考会議の6名の委員のうち、経営審議会の委員3名(しかも教育研究審議会委員を除外し、1名以上は学外者でなくてはならない)に加えて、教育研究審議会から選出される委員3名のうち1名は学外者である教育研究審議会委員を加えることを規定している。つまり、学内の教員を母体として選考され、その意志を代表しうる可能性のある委員は2名を超えることが難しい仕組みになっている。大学内の最も基本的な構成員である教員の意志が、学長選考においても反映できないような制度設計は大変問題である。
このほか、定款案の多くの規定が大学の自律性を犯す惧れのある内容となっており、全体として本定款案が、大学の自主性と学問の自由を無視した、設置者による大学の官僚的統制を保障する内容であることに、深甚な危機感を持たざるをえない。横浜市の定款が、少なくとも国立大学法人法の規定に準拠したものに根本的に改定されることによって、上記の危惧の一部は軽減されるものと考え、再考を要望する。
なお、「横浜市立大学の新たな将来像」に基づくコース案等の検討が、すでに大学の外部で、横浜市大学改革推進本部によって進められている。また横浜市立大学教員組合が指摘するように医学部看護学府の教育研究内容の策定とさらには教員採用人事に関してさえも、横浜市の大学改革推進本部が進めつつあることが事実であれば、これは大学の教学に対する設置者の直接的介入であり、定款決定に先立って、大学の教学に対する行政的支配が行なわれているという疑問が生じることを付記したい。
2004年3月8日
「横浜市立大学問題を考える大学人の会」
-----------------------------------------------------------------------------------------
編集発行人: 矢吹晋(商学部非常勤講師) 連絡先: yabuki@ca2.so-net.ne.jp
--------------------------------------------------------------------------------------------
---------
2004年6月8日(1) 都立大学破壊に抗議する近代経済学グループ「12AngryMen」の人々、その他の関係者による特集記事を載せた『世界』が本日刊行される。時の権力によって押しつぶされても、これに抗して、正当な科学や学問の論理から毅然と反対した人々がいたということ、それが歴史的記録として残ることは、都立大学の歴史、日本の歴史、人類の歴史を考える上で、重要である。一時的にマイノリティが押しつぶされ、はじき出されることは、歴史上、いくらもあるからである。だが、それを押し返して、人類は歴史の大局を切り開き、大きな歩みを進めてきた。どのようになるか、現在進行中の都立大学問題、そして本学の問題を考えていく上で、戸田氏の要請に連帯することは、学問・科学の発展に微力を尽くそうとするものの当然の行為であろう。以下に、いくつかのチェーンを経て届いた彼からのメールを掲載しておこう。
-----------------------Original
Message-----------------------
私たちはなぜ『首都大学東京』を拒否したのか
Date: Sun, 06 Jun 2004 23:04:51 +0900
みなさま,こんにちは。
御無沙汰致しております。戸田@都立大です。
既に新聞等でも報じられているように,これまでそこそこまっとう
な大学であった東京都立大学(と他の都立3大学)の改組・転換によっ
て,無知と思い込みの産物であるグロテスクな大学もどきを来春開
校する準備が進められております。
これに対して,都立大学近代経済学グループでは,(この構想が姿
を現した昨年8月時点の)在籍者16名中3名が他大学に転出,12名が
新大学への移行を拒否しました。(もちろん,他分野でも,今年度
末までの研究者流出は相当数にのぼるだろうと予想されます。)
この顛末を6月8日発売の『世界』に掲載しますので,是非御一読く
ださいますようお願い致します。
東京都立大学経済学グループ
浅野皙,神林龍,戸田裕之,村上直樹,脇田成
「都立新大学構想の評価と経済学者たちの選択」
論文の予告編は
http://malloc.ddo.jp/tblog/index.cgi?page=12AngryMen
で御覧になれます。
『首大』は現在文科省設置審にて審議中です。私たちを含めて都立
大関係者の大半は,不認可で当然のずさんきわまりない計画である
と考えておりますが,各方面からの情報では,大きな政治的圧力が
かかっているやに聞いておりまので,結局は某文化学園大のように
認可されてしまうのかもしれません。
しかし,私たちは,少なくとも東京都の大学「改革」の実態を公の
記録に残すことは,日本の学問の将来のために重要であると考え,
この論文を発表致します。(また,私個人のこの問題に関する見解も
上記URL http://malloc.ddo.jp/tblog/ にて公開しております。)
もちろん,誰しも好き好んでこんなことに時間を使っているわけで
はありません。しかし,たまたま犯罪を目撃してしまったら,(普
通に良心があれば)見なかったことにはできないのと同じことです。
東京都による大学「改革」の実態をなるべく多くの人々に知ってい
ただきたいと思います。このメールをみなさまのお知り合いや加入
されているMLなどに転送していただければ幸いです。
戸田
--
Faculty of Economics, Tokyo Metropolitan University
http://malloc.ddo.jp/tblog/
--------
2004年6月7日(4) 任期制の導入に関しては、九州大学の芸術系研究院でも、「大規模な」導入に違法性等を理由として、反対している。総合理学研究科・佐藤真彦教授HP掲載の記事がこれをつたえている。以下にも、コピーしておこう。
----------------
━ AcNet Letter 121 【2】━━━━━━ 2004.06.04 ━━━━━━
九州大学教職員組合・大橋支部声明
2004.5.19
「芸術工学研究院に大規模な任期制を導入することに反対します。」
http://analog.ad.design.kyushu-u.ac.jp/union-g/
http://analog.ad.design.kyushu-u.ac.jp/union-g/campaign/campaign2004051902.pdf
─────────────────────────────────
大橋支部は、芸術工学研究院に大規模な任期制を導入することに反対します。
1. 任期制とはきわめて強力な制度である
任期制とは、失職させることを目的とする制度です。5年任期のポ
ストに就くということは、5年後に自動的に失職することを法的に
承認することを意味します。任期を定めて雇用された者はいかなる
状況においても任期満了後には自動的に失職します。再任とは、失
職によって空席となったポストに対して、あらためて新規採用を行
う手続きを意味します。したがって再任において大学がとる手続き
は、新規採用と法的には同等の手続きとなります。
新規採用は、採用する側の都合で任意に行うことができます。新規
採用においては、いかに能力・実績がある人といえども、採用され
るとはかぎりません。したがって、再任を拒否された側が任期中の
業績にもとづいて法的な救済措置を求めることはきわめて困難です。
このことは京都大学の再任拒否事件に対する地裁判決で明確に指摘
されています。裁判所は、再任を期待して業績を上げたとしてもそ
れはたんなる期待にすぎず、それに応えて再任する義務は大学にな
いと判決しています。任期制とは、雇用継続にかんする完全なフリー
ハンドを使用者に与える制度です。まずは以上のような任期制の法
的本質を理解することが重要です。
2. 大規模な任期制の導入は違法の疑いがある
任期制法は、こうした任期制の本質に鑑みて、任期制の導入を特殊
な研究領域や研究形態に制限しています。任期制法は、任期付きの
ポストを意図して制限することにより、その全面的な適用を法的に
回避しています。ところが九州大学の一部においては、研究院のす
べてのポストに一律に任期をつけるような導入がなされています。
こうした全面的な導入は、任期制法に関する文部次官通達や国会に
おける議事録を読む限り、任期制法が意図したものではなく、むし
ろ回避しようとしたものです。
研究組織の全構成員が労働権利上、防衛権を実質的に剥奪されるよ
うな組織形態は、きわめて異様です。違法の疑いのある任期制の運
用によって、研究院はきわめて不安定で流動的な状態におかれるこ
とが予想されます。
3. 任期制は芸術工学を崩壊させるおそれがある
芸術工学研究院以外の九州大学の基本的な組織は、講座制により、
学問分野がそれぞれ独立していることにより成立しています。それ
ゆえに任期制がその分野そのものの処分に直結することは一応避け
られます。これに対して芸術工学研究院においては、各専門分野は、
インターディシプリナリティの理念によって、はじめから固定化を
避けるかたちで設計されています。
かつての九州芸術工科大学は、その不安定さを教員の身分保障で補
うことにより、相互に異質な学問文化が共存し、協力することを可
能としてきました。教員は、同僚の異質さにときにはとまどい、と
きには耐えながら、新しい学問と技術を生みだすことを課せられて
きたのです。九州芸術工科大学は、各分野の相互協力をデザインの
理念の中核に位置づけることで、全国にも例のない教育組織と研究
組織を作りだし、類例のない学風を築いてきました。こうした利点
を評価されて、われわれは伝統ある九州大学の一員として迎えられ
たのではないでしょうか。
任期制により教員の身分保障が失われれば、芸工大の伝統は破壊さ
れるでしょう。学問分野の存立が保証されないということは、再任
拒否が教員の努力と全く無関係に行われる可能性を高めます。ある
専門分野の中で教員がどれほど教育・研究に励んだところで、その
分野自体が、その時々の研究院の執行部の戦略上(もしくは九大本
部や文科省の戦略上)不要ということになれば、その研究分野は教
員ともども廃止されるでしょう。そもそも任期制とは、そうした自
由な処分を実現するためにつくられた、きわめて強力な法制度なの
です。
任期制の下で教員は、自分の努力とは全く無関係に、その時々の状
況の中で自分の学問がいつ除外されるかもしれないという恐怖にお
びえながら、ひたすら再任という僥倖にすがるという精神状態を強
いられるでしょう。そうしたいわば恐慌状態におかれたとき、おそ
らく研究院は、分野再編のヘゲモニーを奪い合う、生死を賭けた闘
争状態に陥るかもしれません。こうした精神状態は、各学問分野の
疑心暗鬼を招き、相互協力を難しくし、優秀な教員の離脱を招き、
芸術工学の発展の障害になりかねません。
九州大学の中期目標は、「学問分野の特質に応じて」任期制を導入
することを定めています。芸術工学研究院は、その自らの特性を十
分に考慮する必要があります。
4. 運用による任期制の形骸化は困難である
現在の九州大学の一部に導入されている大規模な任期制は、再任を
原則としており、著しい不適格者のみを除外するという運用がなさ
れると伝えられています。またそうした条件で任期制が導入された
とも聞いております。芸術工学研究院においても、こうした運用を
条件として大規模な任期制が導入される可能性があります。しかし
ながらこうした運用は、教員を定期的に失職させるという任期制の
趣旨に矛盾しています。矛盾した制度の運用は、かならず、外部か
らの批判を浴びます。
たとえば任期制において再任率が百パーセント近くであったとしま
す。それは当然、任期制の形骸化として世論の批判を浴びるでしょ
う。そうした場合に、たとえば中期目標に再任率を数値目標として
掲げるということになりかねません。そうなれば、誰かもしれでもいいから
誰かを切らねばならないという状況すら生じるません。そ
のときに個々の教員にとりうる防衛手段はほとんどありません。
5. 任期制は自傷行為である
教員のポストは大学の資産価値の中核を形成しています。九州大学
全体の予算が一定である以上、任期制への移行により給与や待遇が
大幅に向上することは考えにくいと思われます。待遇が同等のまま
ポストに任期を付ければ、そのポストに対する評価は下がります。
大規模な任期制への移行は、教員の労働条件だけでなく、大学の資
産価値にとっても不利益変更となるのです。
現在、任期制の大規模な導入は、決して国立大学全体の趨勢とはなっ
ていません。九州大学は、全国の大学の趨勢に反して、自分の保有
するポストの価値を一方的におとしめているのです。ポストの魅力
が減少すれば、当然そこにリクルートできる人材の水準は低下し、
学内の有能な教員はより価値の高い学外のポストに移動します。任
期制は、人材の入り口に枠をはめ、有能な人材を選んで流出させる
機能を果たします。
九州大学は大学院大学です。大学院大学では、すぐれた教員による
一貫した指導が必要です。教育の一貫性が保たれない大学に優秀な
学生が入学するとは思えません。優秀な院生を獲得できるかどうか
は、大学院大学としての評価にとって決定的です。人材の流動化が
進めば進むほど、九州大学の教育機関としての評価は大きく損なわ
れます。今の時点で任期制を大規模に導入することは、大学間競争
において、おそらく十数年のうちに、取り返しのつかない研究・教
育水準の低下を引き起こす可能性があります。
6. 任期制は人と人とがつながる原理を変えてしまう
旧芸工大から芸術工学研究院が引き継いだのは、異なった分野の教
員が自分の専門に立脚しつつ、その枠を超えて自由に活動する伝統
です。そうした伝統は、一人一人を尊重し、その人格を尊敬し、創
意を引き出すいくつもの小さなチームによって支えられてきました。
そうしたチームの中では、温かく励まし合う雰囲気の中で、今まで
知ることのなかった同僚の新しい可能性を実感したり、自分の新し
い可能性を見出すことが目指されてきました。事務員をも含む、そ
うした生き生きしたチームワークこそ、組織の活力の源となってき
たのです。COE、科研費による研究、リサーチ・コア、FD、公開講
座などの活動はすべて、こうしたチームワークを基礎としています。
失職という脅しによって業績や労働を強制することは、陰鬱かつ陰
惨な雰囲気を作りだします。というのもそうした手法は、魅力によっ
てではなく、脅しによって、他者の行動を左右しようとするものだ
からです。失職という脅しが生みだすのは、創意や愛や喜びに裏打
ちされたのびやかな活動ではなく、人間の主体性への不信であり、
その自由への侮蔑であり、恐怖に支配された業績でしかありません。
恐怖によって人を動かすことに慣れた組織は、教員だけでなく、事
務員をも、いずれさらに弱い立場に追い込むことになるでしょう。
非常勤職員、事務職員、技術職員、教員、そしてもっとも大切にす
べき学生それぞれが、自由な発意と自己の良心にもとづいて活動す
ることが最も重要であり、大学はその自由な状態を作りだし、擁護
するための制度であるべきだと、九大教職組・大橋支部は考えます。
そのためには、大学を構成するすべての人々の生活が、学問活動以
外の利害によって左右されることがあってはならないと考えます。
真理以外の価値に屈しないこと、人間の自由を信じること、自由の
うちに人間の可能性を見いだそうと努力すること、そこにこそ、大
学の価値があると考えます。
九大教職組・大橋支部は、教職員のみなさんに、任期制への反対を
訴えます。旧芸工大のように、大学を心を込めて育ててゆくために、
人間を信じるみなさんの心に訴えます。
--------------
2004年6月7日(3) 教員組合ニュース6月7日号を頂戴した。検討中の任期制導入問題をめぐって、その前提となる諸法律、それに対応した大学当局(公立大学法人)のきちんとした諸規則等の制定の必要性がわかりやすく解説されている。こうした懇切な法律問題の解説を受けてなお、はじめに「大学像」ありきという無茶なやり方でつっぱしるならば、そのこと自体、そしてそれから引き起こされる法的諸問題・紛争が、公立大学法人・横浜市立大学の名誉を出発の時点から著しく傷つけることになろう。教員組合ウィークリーの主張に全面的に共鳴する。任期制導入が公立大学法人に移行した場合のいくつかの限定的ポストについて、大学教員任期法の趣旨に合致するとした場合でも、それにはしかるべき合理的な説明・根拠が必要である。誰が、どのような根拠で合理的と判断するのか、その社会的説明責任は誰が果たすのか、どのような明示的な条件設定において公募するのかなど、大学の命運を左右するものである。新しい制度の導入においては、しっかりした検討が必要である。「大学像」の策定過程、それに出された諸問題・諸学部等の決議、全国で発生している任期制関連問題をきちんとクリアして、「なるほどこのポストにこの理由で任期制を導入するなら、そしてこの明確な審査基準がるのならば、大学の学問研究の発展にとって意味があるだろう」というようなものにしなければならない。京都大学教職員組合の教員部会は、仮に導入するとしても、大学教員任期法におけるプロジェクト型のみが、検討に値するとして提言している。定款によって決定権を掌握している以上、その運用の仕方をはじめとして、新法人の経営責任者たちの責任は重い。
-------------------
2004年6月7日(2) 本学の数理学コース廃止に対して、日本数学理事長・森田康夫氏が声明を出した。その内容は感動的である。声明を掲載したカメリア通信第22号にリンクを張り、念のため以下にもコピーしておこう。横浜市のような公立大学が、長年の伝統と実績を持つ数理学コースを維持しないことこそ、国際貢献、社会貢献に反することではないかと、森田理事長の文章はいっている。
---------------------
************************************************************
横浜市立大学の未来を考える
『カメリア通信』第22号
2004年6月5日(不定期刊メールマガジン)
Camellia News No. 22, by the Committee for Concerned YCU Scholars
************************************************************
日本数学会理事長声明
横浜市立大学における数理科学の教育について
平成 16 年 5 月 25 日
日本数学会理事長 森田 康夫
横浜市長 中田 宏 殿
横浜市立大学 最高経営責任者 孫福 弘 殿
文部科学大臣 河村 建夫 殿
日本学術会議会長 黒川 清 殿
横浜市立大学における数理科学の教育について
現在、横浜市立大学理学部には数理科学科があり、教員11名で学生定員30名の教育を行っています。学科の規模は日本の数学系学科の中では小規模ですが、受験生の人気は理学部の学科の中でも高く、
英文専門誌
Yokohama Mathematical Journal
を発行し、卒業生は教育界や実業界などで全国的に活躍しています。
さて、横浜市立大学は横浜市と連携して大学改革を検討しており、平成15年10月22日に開催された臨時評議会で「横浜市立大学の新たな大学像について」を採択しました。ところが、平成16年3月25日横浜市大学改革推進本部事務局が発表した「国際総合科学部(仮称)コース・カリキュラム案等報告書」では、上記の横浜市立大学の改革案にあった国際総合科学部理工学府の数理情報コースが外され、数理科学の体系的な教育が横浜市立大学からなくなろうとしています。私は、この決定は数理科学(広い意味での数学)に対する理解不足から来るものであり、再考が必要ではないかと考えます。
日本の数学者は従来、数学が世の中の生活に役立っていることを、余り強調して来ませんでした。
しかし、ニュートン力学には微分積分学が必要不可欠であり、電磁気学にはベクトル解析が必要であり、量子力学にはヒルベルト空間論が必要であり、相対性理論には非ユークリッド幾何が不可欠なように、科学の研究と応用には数学が欠かせません。経済を始めとする文系の学問にも、数学がよく使われます。最近の例を上げると、情報科学の基礎は数学の基礎とほぼ同じであり、情報通信に使われる暗号などには代数学の高度な知識が使われており、伊藤清が構築した確率微分方程式の理論が金融工学に使われております。この様に、数学は科学が進歩した現在社会の不可欠な基礎となっています。
また、数学の証明とコンピューターのプログラムが構造的に類似しているため、数学の専門教育を受けた人は、ほんの少しプログラム言語の勉強をすると非常に優れたプログラムが書けるのが普通であり、電機業界やソフト業界では数学系の学科を卒業した学生が数多く活躍しています。その他、将来予測、品質管理などには統計学の知識が不可欠なため、卒業生の一部は、保険や年金の設計や管理、メーカーの生産現場などでも活躍しています。
私は新しい横浜市立大学が掲げる「発展する国際都市・横浜とともに歩み、教育に重点を置き、幅広い教養と高い専門的能力の育成を目指す実践的な国際教養大学」との理念に賛成致します。しかしそのことを実行するためには、「科学を語る言葉である」数学の充実した教養教育が不可欠であり、また、中田市長が掲げる「横浜の特性を活かし、今後の成長が期待されるバイオ関連産業や IT 産業の育成支援に取り組む」ためには、数理科学の体系的な教育が不可欠であると考えます。
ナノテクノロジー、バイオ、IT のような成長著しい産業では、5年も経つと技術革新により必要とされる技術は一変します。大学での教育では基礎をきちんと教えることが重要で、「即戦力」を強調し過ぎると、教えられた知識はすぐ役に立たなくなります。時代の脚光を浴びる産業は次々に変わりますが、卒業した学生は40年程度働かなければなりませんから、教育の設計には長期的な視野が不可欠です。なお基礎的な学問は、多くの分野に応用が効き、時代の求めに柔軟に応じられることも指摘しておきたいと思います。
設置者である横浜市が、横浜市立大学に地域貢献を求めることは当然です。しかし、その他にも忘れてならないことがあると思います。
大学教育の質が上がれば上がるほど、学生は全国から集まる様になるのが普通です。その様な場合、横浜市から見ると、他地域に住む子弟の教育のために財政負担をしているように思えるかも知れません。しかし、4 年間横浜市で学習した影響は大きく、彼らは日本各地に分散した後、横浜市のスポークスマンとしてその地で活躍し、横浜市のステータスを上げると共に、観光面や経済面でも横浜市に貢献すると私は思います。
私は、横浜市が充実した教育を行う大学を持つためにも、IT 産業の育成を行うためにも、さらに全国的なステータスを高く保ち、観光や経済面でメリットを受けるためにも、新しい横浜市立大学において数理科学の教育を重視することを訴えたいと思います。
日本数学会 理事長 森田 康夫
-----------
2004年6月7日(1) 都立大学教員集会(6月4日)の決議の情報を都立大の危機 --- やさしいFAQ、新首都圏ネットワークにリンクし、以下にもコピーして掲載しておこう。
新首都圏ネットワーク |
|
------------------
2004年6月4日 衝撃的なニュース。都立大人文学部臨時教授会は、重大な決定を昨日行ったようだ。2週間ほどまえの日本西洋史学会(於・東北学院大学)で、都立大学人文学部の人にもあってちょっと言葉を交わした(彼は私のこの日誌を時々見ていますといっていた、私は弱音を吐いた)が、あの方もおそらくはこの決定に加わっておられるのだろう。
「都立大の危機 --- やさしいFAQ」によれば、「◎ 2004年6月3日:「開かれた大学改革を求める会」ニュース第7号緊急発行。6月3日人文学部臨時教授会では,(1) 新大学における大学院の構成, (2) 教員の身分・労働条件が明示されない限り就任承諾書を提出しないことを決定」と。
どこまで結束してこの態度を貫けるか。ニュースによれば、臨時教授会の決議は、「全会一致だった」という。総長もすごいが、その選出母体の人文学部もすごい。
諸種の圧力に抗して、大学人としての正々堂々たる態度をつらぬくためには、教授会メンバーの大変な精神的エネルギー・結束力が必要となろう。今夕に開催される「4大学教員緊急集会」は、どのようになるか。上記ニュース第7号によれば、「今後管理本部側がどのような具体案を示してくるか、皆様も動向にご注目ください」とある。
注目せざるを得ない。
東京都行政当局は、経済学部COEグループに続いて、人文学部も、ばっさり切り捨てるということになるのか? いくらなんでも、そんなむちゃなことはできないだろう。意思確認諸問題ではCOEグループを他と切り離して、切り捨てたように、いまから人文学部を分断して、いくつかのコースだけを申請するように変更するか? そんなことはそもそもありえない?
とすれば、設置認可申請書の取り下げということになるのか?
それとも???
-----------
2004年6月3日 本日は定例教授会。ほとんど審議事項らしい審議事項はなかった。割愛人事が出たことくらいが重要なことかもしれない。先月からうわさのあったS教授の割愛であった。割愛願い文書の日付は4月中旬だが、6月教授会審議事項となったのは、5月31日に、相手先から実際に割愛願いの法人責任者が来られることになっていたからだとのことである。詳しい説明はなかったのでわからないが、今回もまた法科大学院創設に関わる人事と想定され、だとするとまさに名誉ある勤務先変更ということになろう[7]。とくに異議もでるはずがなく、承認された。
議論となったのは、図書貸し出し規定問題であった。かつては教員の研究図書は研究目的のため、研究上の制約・束縛を最大限に回避するため、期限の上では無期限で自由に、図書を借り出すことができたという。10年か10数年ほど前か、コンピューター化によって半年に制限されたそうである。その時も、大幅な研究不都合が主張されたが、機械化・合理化・効率化の観点が優先して、半年となったという。(ただし規則適用においては研究のための柔軟性が約束されたようであるが、実際にはいろいろと悶着を引き起こすこととなったようである)。
この4月からは、4週間限定だと知らされ、騒然となった。(そもそも本学図書館にはドイツ現代史関係洋書・洋雑誌がほとんどなく、関係雑誌も予算削減でどんどん継続打ち切りとなり、そんな関係で本学図書館を研究目的の上ではほとんど利用しないので、今回の措置は個人的にはあまり実質的な不利益とはならないが、教員集団の研究の自由を束縛し抑圧するものとして、非合理的な制度改悪[8]として、怒りを感じる)、不利益効果を生じるのは今回の場合、教員だけだからである。すべての規則などの画一化・一律化が、きちんとした理由もなく、ここでも押し付けられようとしている。そう感じられる。そこでは、専門研究者の研究のあり方・自由度・自由の要請が、ますます無視され、あるいはそれらを許容する予算的余裕がなくなり、形式的事務処理の効率化が優先されたものという感じがぬぐえない。他の大学の具体例を調べてみる必要があるが、今回の措置によって教員の研究の自由度が減った、と言うことだけは事実である。予算の厳しい折、その圧縮圧力の中で、教員の「特権」など廃止してしまえ、というのが支配的な空気であるのかもしれない(今回の措置はその空気の反映であろう)。特権かどうかに関して言えば、教員の研究の独自性をどのように判断するかの問題だろう。そこまでいかないでも、教員の研究の自由度が減り、精神的負担が増える(研究没頭時間がそれだけ減るとおもれるが、あまり気にしない人もいるかもしれない)ことだけは確実だろう。
教員借り出しの場合、研究用ということで申請し書類を書けば、従来のような柔軟な期限延長運用があることになっているという。とすれば、これまでとの違いはなにか。借り出しの際に、わざわざ特別の申請用紙に図書整理番号などを手書きで記入し、書類を提出することである。(ここでも、なぜ機械化しないのか? 教員カードに何か磁気的記号を付加しておけば、教員研究用、ということで電気的に自動処理はできるはずだ。合理化は必要を見てさらに推進すべきものだろう)。つまり、研究用は特別配慮するが、面倒でも手書き書類は書くようにということである。これは、ほとんどいやがらせと同じように感じるが、どうであろうか。ちょっとした工夫で、研究用図書の区別などはできるのではなかろうか。私のように、PCでの情報処理になれているものにとって、老眼の不便さの中で、細かな図書整理番号等を手書きでいちいち書くのは苦痛以外の何ものでもない。考えただけでぞっとするが、我慢すべきか。そうでなくとも、あまり借り出しはしないのだから。
実質的には、教員が利用中・借り出し中の図書を、誰か他の人が利用したい時が問題となる。
そのとき、教員側が適切に借り出し図書を返却すれば、何も問題は起きない。
実際に、教員借り出しのどれほどの蔵書が、別の利用者によって借り出し請求を受けているのか、請求がぶつかり合い、不都合が毎月、半年後と、一年ごとに、どの程度・何件程度、発生しているのか。仮に私の関係の数少ない図書で言えば、ドイツ語の戦中戦後期の専門書を借り出す人は、そんなにいないはずだが、どうだろうか。制度改変(とりわけ研究の不便・研究自由の束縛を引き起こす制度改変)にあたっては、利用重複申請などの統計をきちんととって見る必要があろう。
ミュンヘン現代史研究所をよく利用するが、その場合、研究所の所員・研究員(ミュンヘン大学などの教員も多い)が研究室に借り出している図書もよくある。その図書は司書が、それぞれの所員・研究員の部屋から一時的に借り出して、われわれ一般利用者のための閲覧室まで持ってきてくれる。その一冊一冊に、「この本は利用がすみ次第、何々所員に返却すること」と言う小さなメモ紙が表紙にクリップで留められている。これで、一般閲覧者と研究所の所員研究者との利用のぶつかり合いは調整されているのである。司書が媒介者として活躍している。
つまり、貸し出し担当司書が教員の研究室と閲覧室を往復し、適宜、利用重複のぶつかり合いを調整するメカニズムを構築できれば何も問題はないのである。ただ、ここに人員・予算が関係してくる。研究の自由度は、事務処理予算の問題でもある。
少なくとも私の着任以来、この8年ほど、本学では毎年のように(今年は20%前後)、図書費が減らされてきた。最初はいろいろと抗議の声も上がっていたが、いまではむなしさに声さえも出なくなっている。予算削減は、人手・人員削減とも関係するのであろう。図書館の人員削減は相当に進んでいるということも耳にした。
こうして、研究は、予算削減のあおりで、ますます不自由になる、ということである。研究の自由度と経済的基礎とは関係する。幸い私は、科研費が当たる年もあり、何とか必要最低限の図書は科研費関係で購入し、ドイツへの短期集中的な研究出張で専門的な部分の不足を補う、ということでなんとかやっているが、そうでない人にとってはさらに打撃は加わると言うことだろう。衣食たって礼節を知るというが、まさに、経済状態が悪ければ、文化・科学の研究などは、先ずは削減の対象となる、ということであろう。
予算でも、電子関係予算は増えている。そうした予算増と関係ない分野、専門分野によって(日本史研究など)、受ける打撃は違うであろう。したがって、今回の問題は、削減される窮屈な予算の、内部での「取り合い」・配分問題でもある(減らされているところと増えているところがあるからである)。誰・どのような分野が打撃・不利益を受け、誰・どのような分野がたいして痛まないか? むしろ電子関係予算の増額(今年はたしか40%増とか)で、どの分野の研究が自由にやりやすくなるのか?
図書の借り出し規定の改変一つとっても、その紛糾の背後には経済問題、研究作業時間の問題、事務処理労働時間の問題が横たわっている。したがって、研究教育は教員が、経営は法人が、などという形式的二分法が、情報交換の障壁(「ベルリンの壁」、「パレスチナ人居住区の壁」)を打ち固めることになれば、今後、大学内に何をもたらすであろうか。まさに、「バカの壁」が打ち立てられることになるのではないだろうか。
ノーベル賞経済学者スティグリッツ『マクロ経済学(第2版)』p.36によれば、
「企業は、労働者の意欲を高めるためにもかなりのエネルギーを費やしている。労働者の士気が低い場合には生産性も低くなるからである。そこで企業は、労働者が一生懸命に働くように経済的なインセンティブ、すなわち飴と鞭を用いる。飴とは、好業績をあげたときには高い賃金を支払うか、あるいは昇進の可能性を増大させることである。一方の鞭とは、好業績があげられなかったときには解雇と脅かしを用いることである。労働者により高い賃金を支払うことによって質の高い労働力、すなわち一生懸命働きかつ離職する可能性の低い労働者を雇用することができるという理論は、効率賃金理論efficiency wage theoryとよばれる・・・」
さて、わが大学のプロジェクトR幹事会が「大学像」で打ち出した一律主義・画一主義の諸項目は、この経済学の一般的常識(教科書的知識)に照らしてどうなるであろうか? 「意欲」、「士気」を高めるものとなっているか? いまだ、具体的なことが見えてこない。
-------------
2004年6月2日 毎日新聞夕刊(5月29日)に本学記事が掲載されていたことを知った。この記事は、総合理学研究科・佐藤真彦教授HP、「全国国公私立大の学事件情報」(6月2日の記事)、「新首都圏ネットワーク」(6月1日記事)、「カメリア通信」第21号(矢吹晋教授)、「日々通信」第103号(伊豆俊彦教授)などにも紹介されている。今谷先生の教え子が思い余って書いた文章が採用されたようである。貴重な歴史的史料となろう。以下にもコピーしておこう。今谷先生(現在非常勤講師)は、いうまでもなく、矢吹晋名誉教授(現在非常勤講師)と並んで、本学有数の著名な研究者である。たくさんの御著作で全国に知られている。研究条件のいい国際日本研究センターだからそこ移った、名誉ある栄転だということはまさにそのとおりである。そのことだけを一面的に強調する人々もいる。だが、それは事実のまさに一面でしかない。今回の夕刊記事でも述べられているように、本学は非常に自由な雰囲気だった。その雰囲気と先生のお仕事・研究に油が乗る時期と重なって、実に多産な18年間を市大で過ごされた。執筆予約だけでまだ20冊ほどもあると間接的に耳にした。市大に骨をうずめるつもりだったとも伺った。だが、2年ほど前から、教授会・評議会を無視する乱暴きわまる「改革」の嵐が押し寄せた[9]。さらにその上、日本中世史研究者として古文書に没頭し、機械化された文字処理になじまないお仕事のせいもあってパソコンなどは使わない先生に、成績入力から何から、パソコンをやらないと苦しくなるような圧力(「始末書を書いてください」云々)や雰囲気がかもし出された[10]。事務局責任者が教員を商品扱いする[11]言葉を、大学戦略会議といった委員会で公言していたというような無礼な雰囲気が漏れてきた[12]。こうしたことにほとほと嫌気がさした、というのも事実であろう。プッシュ要因(市大に「引きとどめる諸要因・諸力」を上回る「押し出し諸要因・諸力」)とプル要因(国際日本研究センターの研究条件のよさ=魅力等の諸要因)が合成されたものであろう。東京のご自宅に介護が必要な親御さんをかかえて、単身赴任の京都生活を余儀なくされるのであって、単純に喜び勇んで移るのではない、とか伺った。ご事情を伺えば、まさにそうであろう。今回の記事も、まさにそうしたことを感じ取らせるものである。もしも本学の改革がもっと明るい経過を辿っていたならば、すなわち、いい研究者を守り育て、これまでの自由でのびのびした雰囲気がさらに促進されるようであった(ある)ならば、粗雑[13]ではなくきめ細かい配慮のある改革ならば、昨年秋に国際日本研究センターからのお誘いがあっても、断られたのではなかろうか。昨年秋、京都からのお話があったのは、「大学像」をめぐって教授会・評議会が紛糾した時期であったとうかがっている。現在進行中の改革において、嫌気がさして出て行くことだけを考える教員が増えないようにする点で(公明正大さ、公正さ、社会的説明責任、学則等の諸規則とその精神・法律等の遵守など)、決定権を掌握した行政当局の大学改革推進本部の責任は重い。独立行政法人化にともなう新体制を担う責任者(その準備作業のため今年4月1日から本格的に最高経営責任者としての予備活動を始めている)は、長い私学・私立大学経営の経験から大学というものの事情を知っている点で、過去2年間の人々とは一味違う、ともいわれる。はたしてそうならば、教員組合の労使交渉申し入れなどに対して、大学教員任期法・労働関係諸法律などに則ったしかるべく合理的な反応、非官僚的対応が見られるであろう。また、定款[14]自体は大学自治の観点から問題が多いものであっても、その運用において大学の自治、大学の自立、教授会の固有の価値と意義を尊重することが制度的にある程度は可能であろう(新たな学則制定が必要となろう)。その運用の仕方(姿勢)も、おいおいに判明してこよう。「期待」が実現されるか裏切られるか、ほのかな希望が膨らむか萎縮するか、一つ一つの問題とそれへの対処が証明していくであろう。「首都大学東京」の現状(設置認可との関係での「就任承諾書」の条件など)も緊迫の度を増しているかに見える。
------------------
新首都圏ネットワーク |
|
---------------
2004年6月1日(3) 「全国国公私立大学の事件情報」に、任期制(任期法)の不当拙速な適用・運用を問題視する引用記事が掲載された。京都大学再生医科学研究所・井上教授再任拒否に関する評論記事である。以下にコピーしておこう。都立大学の公募への応募状況も暗示するように、きちんとした制度設計を行わないままの導入を拙速にやることがいかに大学を破壊するか、本学でもすでに各教授会や教員組合から懇切な意見表明がなされている。導入するにしても、任期法の法律に従った明確な制度設計、採用教員の「公正な評価」、そのための「公正な規準」が必要であり、またそれを判断する公正な委員会構成も必要だろう。その一つ一つを検討し、その検討内容を公開すること、これが大切である。任期法の立法趣旨は、「大学教員の流動性を高めて優秀な人材の受け入れを促す」ことであるとすれば、まさにその実質的効果(活性化と質の向上)が、実績で社会的に説明できるような制度設計でなければならず、その逆の効果しか生まないようなことではだめだろう(都立大の一桁という応募状況はまさに「逆の効果」をしめしている)。したがって、その制度設計の検討過程も密室審議であってはならないだろう。
------------------
日本経済新聞地方版(5/31)より
欧米に倣い、大学教員の流動性を高めて優秀な人材の受け入れを促すため、「任期制」の導入をうたった法律が施行されて七年になる。大学の再編・法人化と歩調を合わせるように浸透しつつあるが、「制度的に未成熟なのでは」と考えさせられる訴訟の判決が今春、京都地裁であった。
原告は京都大の研究所の元教授。任期満了で再任を申請し、業績を検討した外部の専門家による評価委員会から「再任可」とされたのに、教授会に当たる協議員会が再任を認めなかったのは恣意(しい)的――として、大学側などに処分の取り消しを求めていた。
判決は「法律上、任期制教員に再任してもらう権利はない」として訴えを退けた。「協議員会の審査は適正だった」とした大学側に軍配を上げたが、「協議員会が評価委員会の決定を全面的に覆したのは極めて異例」とも言及しており、再任を認めなかった理由をつまびらかにしない大学側の姿勢に、裁判所が苦言を呈した感は否めない。
元教授は判決を不服として控訴しており、大阪高裁で双方の論争が続くが、協議員会が本人にきちんと説明していれば、法的手段に訴えなくてもすんだのではないか。
大学の教員はいったんポストに就くと、研究や教育に熱心でなくても定年まで職を奪われる心配がない。その割を食って、優秀な若手研究者がなかなかポストに就けない。任期制は、そんな問題を解消する狙いもある。二〇〇二年十月時点で国立大学の七割弱の六十五校が導入済みだ。
「再任は可」としている部局が多いが、客観的な審査の基準を巡って頭を痛めているようだ。
例えば、研究、教育、地域、貢献などのカテゴリーに分けたうえ、研究だと学術誌に掲載された論文や特許発明などの項目を細かく設定してその年間の件数を点数化させ、一定ラインをクリアしていれば、「再任」を認める――など方法はいくらでもあるだろう。ところが、基準の解釈が難しいのか、「一年以上協議しているものの、甘くするか厳しくするかで議論がまとまらない」(九州大学医学研究院)といった声も聞かれる。
その九州大では四月の国立大学の独立法人化にあたり、教員の任期に関する規則の中に「再任の可否にかかわる教授会の審査結果に不服がある者は、教育研究評議会に申し立てを行うことができる」とする条項を盛り込んだ。大学としても恣意(しい)的な審査を排除していこうという新しい試みについて「別の運用上の問題が生じる恐れもあるが、大きな進歩」と法律関係者は評価する。
任期制の教員から再任審査があった場合に、公正かつ適正な評価がなされなければ、学問の自由や大学の自治に関する趣旨が根底から損なわれかねない。大学側は待ったなしの対応が迫られている。
Posted by 管理者 : 掲載日時 2004年06月01日 00:08
| コメント (0)
| トラックバック (0)
URL : http://university.main.jp/blog/archives/001100.html
---------------
2004年6月1日(2) 本学において、移行期の諸制度不確定状況で、「教員人事」までも、大学外部の行政当局が決めてしまえるシステムが作動している。こうした本学の状況とまったく同じ問題が、より先鋭的に(本学の場合、学部長、学部長経験者等、内部のものを行政の選抜によって「委員会」のメンバーに加えているので、まったく排除している都立大は「より先鋭的」といえるだろう)、すなわちすでに公募が行われ選考が大学外部で内部者をまったく排除した委員会によって、選考基準等の明確な規定もその公開もなしでおこなわれるという形で行政の独断専行が進んでいると言う点で深刻な問題をかかえる都立大学の場合、人文学部教授会は設置審に意見書を出した。都立大学の深刻な問題は、この人文教授会の意見書で非常に鮮明にわかる。今後、憲法的問題・法律的問題をめぐる訴訟等の場合、重要なものとなろう。設置審はどのような判断を下すのだろうか。憲法や学校教育法等の諸法律とその立法精神の現実への適用に関する問題(合法性・違法性の問題)である。その情報(「意見広告の会」ニュース157より)をコピーしておきたい。
--------東京都の新大学設置に向けた教員公募・選考体制の問題点------------
文部科学省大学設置・学校法人審議会御中
東京都は、都立の現存4大学を統合しこれを改組転換する形で新大学(首都大学東京)
の設置認可申請中であり、新大学の教員組織としては、現4大学の教員の移行を前提に
構想を固めてきた。しかし、大学側との十分な協議を経ないまま、トップダウンで新大
学開学準備を強行した結果、教員の転出を招き多くの欠員を抱えるとともに、新分野の
研究組織等の設置もあり、現在新規教員の公募と選考を急いでいる。しかしながら、我
々人文学部教授会は、この教員公募・選考の体制およびその運用に関し、大学の自治を
侵すものとしてここに深甚な危惧の念を表明せざるを得ない。教員の選考という大学組
織の根幹に関わる重要事項が、大学管理本部のもとに設けられたまったく別個の組織(
教員選考委員会)に委ねられ、大学として責任を負えない体制のもとに進められている
からである(注)。しかも、相当数の教員選考に結論を下すはずのこの委員会には、規
程および運営規則があるようには見えず、審議内容もまったく公表されてはいない。
たしかに、新大学は現4大学とは別個の組織であり、その設置準備も別個に行われうる
という考え方が可能であろう。しかしながら、新大学はまったくの新設ではなく、現4
大学の改組転換を前提にするものである限り、現大学との連続性に十分な配慮を払う必
要があることは言を待たない。自立的な教育研究組織としての大学は、たとえ組織編制
上の部分的組み換えがあったとしても、同じ教員集団に立脚する以上、新大学における
教育・研究にも直接の責任を有しその十全な遂行に努める義務を担うものである。その
意味で、実際に選考作業に携る「分野別小委員会」に委員として現大学教員が参加する
ことは当然と言えるが、しかし、この小委員会委員の選任が評議会・教授会等大学の正
規意志決定機関に図られないまま行われていることは大きな問題であろう。さらに付言
するなら、この小委員会にも委員会規程や細則などは存在せず、公の委員会組織として
の要件を満たしているとは考えられない。
また、少なくとも現体制を見る限り、分野別小委員会の結論が親委員会である教員選考
委員会に諮られる段階で、必ずしも専門的知識を有するとは限らない委員により恣意的
な判断が加えられる恐れがあることも指摘すべきである。教学準備会議の座長(新大学
学長予定者)によって主宰される選考委員会には現大学の教員は一人も加わっておらず
、小委員会の主査は、議決権を持たず参考意見を述べるだけのオブザーバーに過ぎない
のである。このような体制のもとで、どのようにして教育・研究への不当な介入を避け
、大学が自らの義務を主体的に遂行することができるであろうか。
以上の理由により、我々東京都立大学人文学部教授会は、貴審議会がこうした事態を重
く受け止め、新大学設置認可審査の過程で申請者に対し強く注意を促すよう要請する次
第である。
※(注)教員選考委員会は、教学準備会議委員のうち、座長(学長予定者)および外部
専門委員(外部学識経験者)3名の計4名のみにより構成される。
以上
-----------
2004年6月1日(1) 教員組合(過半数代表はキャンパスごとに決めることになっており、実態からすれば、瀬戸キャンパスの過半数代表ということになろう)は、独立行政法人化後の過半数代表教員組織として、勤労条件等の交渉を孫福氏に求めた。その文書(5月31日号の組合ニュースおよび申し入れ書)が送られてきた。ここにもリンクを張っておこう。正々堂々たる主張(交渉要求)であり、オープンな議論である。社会のどこから見てもおかしくないようなオープンな場で、正々堂々と議論し、正当な勤務条件等を確定していくことは、本学を発展させていく必須の条件であろう。移行期ということで、評議会・教授会がまったく無視されているような大学自治崩壊状況において、教員組合の主体的なこうした筋の通った行動と建設的主張は、われわれに勇気と希望を与えてくれる。医学部や他のキャンパスの教員も、過半数代表を選出するために、教員組合に結集するなど、早急な対応が求められるのではなかろうか。国立大学においては、法人発足のぎりぎりになって過半数代表問題が出ていた。そうした国立大学法人の問題をすでに知っているわれわれとしては、後発の有利さを活かし、就業規則等も、国立大学法人の中でもっとも合理的なものを選び、社会的説明責任のあるものを制定していくべきであろう。
-------------------
[1] @財務省(大蔵省)統計によれば、全法人企業の資産に関しては、1985年から2000年までの15年間に、資産合計が560兆円ほどから、1250兆円ほどに2倍以上に、ふえた。
A財務省(大蔵省)統計によれば、全法人企業の従業員数は、1985年から2000年までの15年間に、1987万人から3294万に増えている。従業員は1.5倍程度の増え方だが、資本額(当期末)は、101.4兆円から、301.5兆円に約3倍になっている。一人の人間が動かす資本がほぼ倍になっている。
B財務省(大蔵省)法人企業統計によれば、1981年1月はじめの資本金(27兆8576億円)が、2000年3月末には、76兆9112億円に、すなわち、2.76倍に増えているのである。
急速な少子化が進行するのと平行して、他方には、法人企業のこうした『急成長』(過剰成長?)があった、という事実がある。
詳しくは、法人企業統計調査 時系列データ参照、その分析が必要。
Cf経済史講義メモ(20040608)、.経済史講義メモ(20040615)
[2] 原則的対応と無言の屈服とのハザマの「条件闘争」−昨年8月以来のとの政策の劇的転換、急激な問答無用の改革で脱出先がさしあたり見つからない人をはじめとして、当面さまざまの理由で内部にとどまってやらざるを得ない人、いや逆に内部にとどまってまさにわずかでもよい道を探ろうとする人々が条件闘争にならざるを得ないのではないか―など。
ドイツ第三帝国の時代で言えば、亡命した人、亡命できた人、いや内部にとどまって地下運動に命をかけた人など、それらの中間にある多様な意識状態の多数の反ヒトラーの人々の関係のようなところがある。
「保科大と短大は,少人数」で、力の弱いところが行政の圧力、分断政策に屈せざるを得ない状況(噂だが)も、ポーカス博士は伝えている。
[3] もちろんダイジェストのおかげで、また今回のリンクのおかげで、本文を読むチャンスに恵まれたのであり、そのきっかけをつくってくださったダイジェスト作成者(編集者)に感謝しているのはいうまでもない。歴史研究においてオリジナルなドキュメントにアクセスした時の感動のようなものが、国会の記録にはある、という意味である。
[4] もちろん、最近のお仕事がどのようなものか、また過去のお仕事がどのようなものか、教員プロフィール(本学関係者の場合、ある程度検証可能)などの業績リストなどにより検証する必要があろう。
また実際のお仕事がどのように学界で評価されているか、どのような学界に属しどのようなお仕事をなさってきたか、ひとりひとりについて検証する必要はあろう。
[5] これに関連して、大学評価学会に参加された科学研究分野をフォローしているジャーナリストの英文和文の論考も興味深い。団藤保晴氏「大学改革は最悪のスタートに− 急務はピアレビューを可能にする研究者の守備範囲拡大−」
[6] 上記委員会の肩書きを見れば、職務上の権力者がずらりと並んでいることがわかる。すなわち、一名を除き、肩書きに「長」が付く人ばかりで構成されている。予算、研究奨励金その配分において、われわれ一般教員とは違って、「発言権」「権力」を持っている人々だ。「議会権力」ではなく、「執行権力」を持っている人々だ。議会権力に当たる教授会・評議会は無力化されている。戦後の大学の民主的制度はいったいなんだったのか?
今回の「改革」(定款)は、こうした大学内の「権力」所持者の力=トップダウン権力を保障する制度設計になっている。その大学を支配するのが、行政権力であり、法人経営者を任命する市長権力ということになる。
cf.定款に対する教員組合の批判(藤山嘉夫(教員組合副執行委員長):定款(案)と定款(案)に関する組合の見解04-2-13)、「大学人の会」の批判(「大学人の会」の市大「定款」(案)批判)
[7] 関西のK大学法学部からだった・・・2週間ほど前、東北で学会があり、そこで久しぶりにあった同じ大学の経済学部の友人F教授(彼自身は脳内出血で倒れ、右手右足不自由になっていて、夫婦で闘病生活・危機からの脱出記録を書きミネルヴァ書房だったかと記憶するが出版している。遠方の学会への出席は「倒れてから初めて」といっていた)から聞いたところでは、法科大学院創設に関わる法科大学院スタッフは、友人のような68歳定年の学部と違って、特別に72歳までの延長とか。S教授はこれに関係するのではなかろうかと推測する。
もしその推測どおりなら、諸種のプラスの条件(もちろん長年生活した横浜を離れる諸種のマイナス要因もあろうが)に加えて、本学の65歳定年よりも7年も長く働けることになろう。これは働く意欲があり、学生教育が好きな元気な人間にとっては大変な魅力だろう。名誉に加えて実質的な喜び・生活の安定がある
元気でご活躍なさることをお祈りしたい。
[8] 6月2日付けの日誌で紹介した今谷明教授のいう「不合理」さの具体例の一つ。Cf.総合理学研究科・佐藤真彦教授HP、「全国国公私立大の学事件情報」(6月2日の記事)、「新首都圏ネットワーク」(6月1日記事)、「カメリア通信」第21号(矢吹晋教授)、「日々通信」第103号(伊豆俊彦教授)
[9] 「事務局責任者だけに責任があるかのようにいっても」という意見もある。もちろんそうである。大学教員サイドのどこに問題があったのか、予算、人事など大学の自治のための諸制度に関して、洗いなおす必要はあろう。
ただ、すでに制定された今回の定款は、法人化にあわせて、一挙に、教授会・評議会等大学の自治・自立の存立基盤を、制度上は無にしたのであって、過去の大学の諸種の問題が、これまでの教授会・評議会にあったのだと宣言している内容となっているのではなかろうか? 教授会・評議会をなくしてしまえばうまくいく、という宣言を今回の定款は行っているのではないか? 教授会から人事権を剥奪すると言うのは、これまでの教授会の人事を駄目だ、と評価し判定したということではないか?
このような意味内容を持つと思われる定款を、どのように評価すればいいのか?
[10] 3学部事務室統合、事務合理化が、それを必然化させた。
私などは、パソコン活用派だから、便利なこと効率的なことは認めている。情報機器が感じさせてくれる科学技術の発展に感動しているほうである。だから、合理的な情報化は、むしろ遅きに失したとさえ思うところがある。
しかし、大学というところは、あまりにも画一主義的ではだめだろう。
研究の自由とは、それを支えるある程度の事務処理その他の自由度が前提条件であり、不可欠だろう。
事務の都合だけで画一的効率化を全教員に押し付けるというのはまさに研究の自由を束縛するものであろう。さまざまの事務処理を、効率性だけで、画一的なやり方、一律主義で押し通すのは、貴重な研究者の精神の自由を抑圧するものだろう。
[11] これは、過去のことだとだけはいえない。評議会無視・教授会無視は、今年4月以降も続いている。無視され続けて、あきらめ状態(「諦観」状態)と言うのが大学内の雰囲気かもしれない。
評議会の議論は必然的に低調にならざるを得ない。それでも重要な発言等記録すべきことに関して、評議員が議事録加筆を求めても、「これまでこのようなものだった」と、旧慣墨守を正当化の口実として、加筆修正などは認めない、という態度がとり続けられているようである。
ともあれ、改革の進め方は、大学の自立的主体性を認めていない。行政当局の大学改革推進本部が意志決定決定を握ることをこれでもかこれでもかと明示するシステムのシェーマ・図表は、評議会・教授会に「報告」される。
個々の大学教員をピックアップして利用するが、決定は行政が行う、というシステム。
大学教員集団を自立的自治的主体とみとめていないのである。言葉で「商品」と言わないだけである。こうした基本枠組みで、果たして生き生きとした大学(研究の自由や学問の自由、精神の自由が最高度に発展する大学)になるのか。
こうした事態が、移行期と言う特殊事情だけのものか、それとも恒常化するのか。
「定款」の規定自体は、恒常化を制度化したものである。Cf. 「大学人の会」の市大「定款」(案)批判:藤山嘉夫(教員組合副執行委員長):定款(案)と定款(案)に関する組合の見解04-2-13
可能性として、運用である程度の手直し、修正ができるというところだろう。
たとえば、現在の学長選出制度でも、教授任命でも、市長が「任命権者である。だが、大学の自治を尊重して、大学の選挙制度に基づいて選出された学長や、大学評議会・教授会が持つ人事権で選ばれた教授等が、市長によって任命された。
「決定権」と実質的な運用における「大学の自治」の尊重は、100%完全ではないにしても、両立しうる。それがすくなくとも、現行学則の諸規定に反映している。
[12] 事務局責任者の号令の元、評議会議長・学長の制止を押し切って、評議会を全事務局管理職が総退場するということに象徴される暴力的なやり方だから、統合できた、「改革」がここまで進んだ、と「歴史における暴力」を評価する立場があり、またそれをひそかに語る人々もいる。
何事もそれを正当化する理由を見つけるのに事欠かない、その歴史事象の問題性・背景・諸要因をしっかり見つめることが本当の改革のためには必要である。
[13] 「粗雑」とは、「全教員任期制」、「研究費原則廃止」、その他の強引な「大学像」における一律的提言。
[14] 「定款」ではなく、「諦観」と読もう、とささやかれている。