3月29日(2) 昨日、教員組合主催の勉強会があった。評価制度に関する法律的問題をいろいろ顧問弁護士と議論した。参加者からは、法人主導(教授会といった自立的機関による審議と決定ではなく、すべて行政当局任任命の管理職・事務局の主導による規則制定・制度制定である) の今回の評価制度に対し、たくさんの根本的問題点が指摘された。教員組合は、それらをまとめ、公表していきたいと考えている。
教員組合は、大学自治の原則を逸脱した(憲法原理に抵触する)管理職・事務局主導・決定の規則や制度であっても、内容の検討抜きに否定するのではなく、その内容を検討してみることが必要との見地から、説明会等への参加をむしろ組合員や一般教員にも薦めてきた。それは、すこしでも教員評価制度を合理的なもの、大学自治の原則にふさわしいもの、学問の自由を守り発展させるもの、としていく作業に寄与しようというスタンスからである。
しかし、この評価問題と深く関わる重大問題が発生していることが会議終了時点で、参加者から知らされた。
それは、サイボーズに掲載された「理事長コメント」 (3月20日付)である。
その内容は、組合代表として会見したときの暖かい雰囲気に冷や水が浴びせかけられような感じのものである。
それによれば、「平成18年度の昇任予定者について、労働契約(任期付教員)の締結がなされず保留となっていた3名に対し、平成19年3月20日に昇任発令をいたしました」と知らせるものである。これは、教員組合が一貫して正当な理由を掲げて要求してきたことを遅ればせながら、執行したものである。遅ればせとはいえ、合理的な判断であり、歓迎するところである。
しかし、その後に重大な問題が「コメント」として述べられている。
それによれば、今回の事例を「特例的な扱いとして、現時点では労働契約を結んでいませんが昇任させることとしたものです」という。
これは、労使関係の基本に関わる重大な文章である。注意深い定式化が必要である。
法人化にあたっての公務員時代からの身分継承の法理からして、労働契約自体は自動的に承認されるのが当然であり、全国の国立大学法人においても、そうなっている。
現在、法人の掲げるデータによれば、任期制に同意していない25%の教員は労働契約なしで労働しているというのであろうか?
労働契約のない人に仕事をさせ、賃金を払っているというのであろうか?
実際には、身分継承の法理からして、労働契約は当然にも継続しているからこそ、仕事をさせ、また給料を払っているのである。
したがって、「任期の定めのない労働契約は身分継承の法理から締結しているが、新たな任期付の労働契約は結んでいない」と明確に限定すべきである。
こうした基本的な点で、公立大学から独立行政法人への移行において法的労働契約的に身分が継承されたことの意味を否定する(教員の神経を逆なでする)発言を理事長が行うことは、到底容認できない。
理事長文書は、「本学では法人化にあたり、『原則として全教員を対象に任期制を導入し、多様な知識や経験を有する教員等の交流の活発化を図り、もって教育研究をよりいっそう推進させる』(中期計画)こととしましたが、これまでの昇任候補者の選考においては、再任時の基準、評価制度などの体制整備が十分ではありませんでした」という。
すなわち、「再任時の基準、評価制度などの体制整備が十分ではありませんでした」という理由から、発令を遅らせてきたという。
つまりは、責任は、法人が、教員の不安を解消するためのきちんとした準備を行わないで、「中期計画」を正当化の理由として、任期制を強制したこと(発令しないことによる精神的経済的社会的不利益を押し付けているので明確な強制である)は、この文章から明確である。その強制力(さまざまの不利益措置を行う力)は、任期制に同意した(せざるを得なかった)教員全体にも作用している。
つぎに、それでは、今回なぜ発令することになったかの理由である。-
「今回、給与制度見直しに伴う労使協議において、再任時の基準(下記参照)を明確にいたしましたが、基準等が不明確な中で選考を行った3名については、特例的な扱いとして、現時点では労働契約を結んでいませんが昇任さえることとしたものです」と。
その再任基準(下記参照)で掲げられているのは、次のことである。
「教育・研究内容について改善が困難で、社会貢献や組織運営にもあまり協力が得られないなど、本学の教員としての能力と意欲が達していない方以外は再任可とします。もちろん、改善の働きかけにより、改善される見通しがつけば、再任することはやぶさかではありません」
このどこが明確なのか?
すでに、3月20日(1)の本日誌で書いたことだが、まったく不明確であり、大学自治・学問の自由という憲法基準・憲法原則からすれば、この基準の適用(制度的保障という点から)違法なものと考えられる。
法人化は、憲法的要請を無視していいということか?
法人の法律遵守は、憲法には関係ないということか?
中期目標とか中期計画といった市当局レベルの基準さえ守っていれば、憲法などは無視していいということか?
「法人が決めたことだから」と、無批判的に、盲目的に従うのは、大学人の精神ではない。大学人に与えられた使命を達成するためには、法人のすべての行動・規範も、理に適っているかどうか、学問的科学的批判の俎上におかなければならない。
3月20日(1)の日誌で書いたことをここにコピーして、根本的な問題をもういちど指摘しておこう。
「教育・研究内容について改善が困難で、社会貢献や組織運営にもあまり協力が得られないなど、本学の教員としての能力と意欲が達していない方」などという評価を、誰が、どのような機関(どのようにして選ばれた人々・組織)が、どのような基準で、判断・判定するのか?
「改善が困難」という判定は、誰が、どこで(どの機関で)下すのか?
「あまり協力が得られない」と判断するのは、誰なのか、どの機関・組織なのか?
その判断主体・機関・組織の判定・判断の公正さの保障は、手続きは?
「協力できない」ような仕事ばかりを押し付けていないと、どうしていえるのか?
「能力と意欲が達していない」との判断・判定は誰が、どのような手続きで、どの機関で行うのか?
そのような状態・結果に追い込んだ原因は、強行的な「改革」であったのではないか?
その検証は誰が、どの機関が行うのか?
不服審査の制度は?
かつてならば、教授会という組織が、こうした諸問題を公然と審議する場として制度化されていた。その点は?
「大学自治・学問の自由」の憲法的要請からすれば、まさに、その判断主体・判断機関が、大学自治の原則に基づいているかどうか、したがって、「学問の自由」を保障する制度設計になっているかどうか、それが決定的に重要である。
現在の学則、現在提案されている教員評価制度は、大学自治の原則、学問の自由の原則をきちんと守ったものなのか?
たとえば、今回の教員評価制度の提案において、第一次評価者や第二次評価者となっているもの、そしてその上にある学長などは、大学自治の原則によって選ばれたものか?
評価される教員たちの管理職に対する評価は、可能となっているか?
管理職が選挙によって選ばれる制度であれば、信任しないものは白票なり、別の候補者なりに票を投じて意思を表明できるが、それはあるか?
不信任決議の制度などはあるか?
全学投票の制度はあるか?
第一次評価者や第二次評価者は、法人によって管理職として任命されたものだが、多岐に渡る研究教育分野の個々の教員の学問内容を評価する能力を身に着けているのか?
人事権・任命権を持つものが、予算も掌握する行政当局であり、その行政当局によりに任命されたものであるとすれば(隠然公然たる種々の不利益措置を執行する力を持っているとすれば)、自治は存在しないと同じである。その根本問題が、ここに関わってくる。
大学教員が、「上から」、「外から」任命されたものによって人事・予算を握られた場合、教員たちは自治能力欠如とみなされているわけで、そうした見下された人間が「意欲」を失うのは当然ではないか?
自治の担い手としての権限(したがって責任)を与えられないで、自治の担い手たりうるか?
地方自治を例にとれば、市長や県知事が国家による上からの任命制であった場合、すなわち、市民や県民が自治の担い手としては権利・権限と責任を失っていれば、それは地方自治破壊というのではないのか? 住民自治がない、というのではないか? 大学における住民とは? 少なくともその重要な住民が、教育研究の担い手である教員であることは否定できないだろう。その教員が、自治の担い手とし手の権利をもっていないとしたら? どこか「外から」与えられた管理職にしたがわなければならないとしたら?
「現在、任期制非同意となっている方の中には、評価制度がどうなるかわからない、将来支給される給料額がどうなるか不安で応じられないという考えの人もいると聞いておりますが、これまでに評価制度の大枠を示しておりますので、今回の給与制度の提案とあわせて、早い時期に新たに同意についての確認を行ってまいります」と。
ここでも、任期制非同意者の態度が、正当であったことが証明されている。
すなわち、上の文章においては、今回の「評価制度」は、再任するかどうかをも左右する重大な意味を持つ制度として、提案しているというのである。
「任期」が切れるかどうか、「再任」されるかどうか?、「何回」再任されるのか?、昇任との関係は?、というのは、身分保障の観点から、経済的社会的観点から、少々の給料の減額などとは比較にならない重大な処遇問題である。これ以上の重大な処遇問題はないといってもいい。
しかし、「処遇」への反映は教員(教員組合の同意が得られてからと繰り返し述べてきたのではないのか?
教員組合、あるいは、たくさんの教員が参加した評価制度の説明会で、当局が語ったことを整合するか?
私は、評価制度の大枠しか示さなかった当局の説明会における説明とは、根本的に背反する内容だと考える。
「任期制は、法人化と大学存続にあたって対外的に約束してきたことであり、今後も人事諸制度の根幹として堅持していく方針である」という。
しかし、「任期制」の内容が不明確、任期制の適用基準が不明確、そうしたことを自ら認めておきながら、そのように内容のはっきりしない制度を「約束した」ことこそが問題である。
それは、大学自治を破壊するやり方での「改革」のプロセスをもう一度、想起させ、証明する。これには、商学部教授会はじめたくさんの教授会の反対決議等で抗議し、それを公開してきたところである。そうしたものを無視して、市当局が無理やり大学に押し付けたのが、「任期制」である。
市当局の「約束」であるかもしれないが、大学では、教員組合をはじめとして、一貫して反対してきたものである。
(Cf.「法人化・非公務員化で雇用条件はどうなる?」、「任期制についての素朴な疑問Q&A」)
ただ、制度が「不明確」でも、さまざまの理由により「同意」した教員がいることも事実であり、そうした多くの教員の不安を取り除き、身分を安定させる(しかるべき明確・公正な基準での評価を実施させる)というのが、教員組合のスタンスである。
任期制教員の一定の条件整備の上でのテニュア付与なども制度化すべきだというのは多くの教員の意見である。
まさに、そうした検討をこそおこない、全社会的に見て妥当な制度を提示すべきなのである。
努力するものが安心して業績を積み重ね、その蓄積が身分安定に結びつき身分保障が確立(テニュア取得)されない限り、若い人々を中心に、脱出のチャンスだけをうかがい、決意する人が、今後もなお増えるであろう。せっかく努力してしかるべき業績(教育・研究・大学運営・社会貢献)を上げてきても、昇任時点に到達すると、未整備の将来の安定の見えない(テニュアのない)不安な「任期制」への同意を求められる(不利益措置の提示・執行により同意を強制される)状態が続けば、それが当然であろう。
その意味で、すなわち大学を本当の意味で活性化し、意欲と充実感のもてるものとしていくために、「任期制」の基準の明確化、基準の具体的諸個人の業績(教育・研究・大学運営・社会貢献)への適用の公正さ・透明さ、そのことを保障する機関・組織のあり方、その大学自治の見地・学問の自由の見地からの制度化を、教員組合は要求していくことになろう。
法人が、「諸制度が整備された」と主張しても、これまで見てきたように、なんら「整備はされていない」。
その前提条件を整備していない状況で、「平成19年度以降の昇任に関しては、従来どおり労働契約(任期付教員)の締結を前提とします」ということは、教員組合としては認められない(この点、現時点ではあくまで私個人の見解で、組合としての正式行動は今後、組織的な検討を踏まえて明らかになるであろう)。
それは、すでに「任期制」に同意している教員の身分・安全を守ることでもある。任期制教員のために、どのようにして身分保障を確立するか、テニュア制を確立するか、という問題でもある。
教員組合の今後の重要課題は、この「任期付教員」の身分保障(大学らしい身分の確立)にある。
そのためには、同意者と非同意者の待遇の違いの意味に関して、論理的科学的に合理性があるかどうか、同一労働=同一賃金原則の適用という点で問題がないか、つめていく必要があろう。その見地に立つとき、当局が何を提案してくるのか、その内容をきちんと精査し、適切なものとするように闘うことになろう。
その点では、次の箇所が問題となる。
「任期制同意者、非同意者については、今後処遇面、教育支援方法等での差をつけることとし、その内容については何らかの形でお示ししていきます」という。
75%(その圧倒的多数は医学部関係・病院医師・・・さまざまの身分保障・生活保障がある医師たち)に優遇措置を講じ、少数者である非同意者をいじめ抑圧する構造となる。
こうした差別の提案についても、「任期制」の意味合い、任期中になすべき仕事の明確化、その評価の基準、評価の主体などの点で、まったく問題は解決されておらず、したがって、不利益措置をこうむることになる非同意者を中心に、反対してきたところである。
任期制同意者も、与えられる「利点」、「差」別が、任期中の達成要件や任期更新の条件とどのように関連するのか、明確化を求めるであろう。そうした教員の要望を集約して、当局に提示していくことになろう。
こうしたことから、一方的な理事長コメントは、任期制(再任条件・再任回数、テニュアの制度化の有無)における教員評価基準(判断主体・機関)の不明確なままでの強制を行おうとするものであり、容認できない。
いい制度をつくり、安心して同意できるようなものとして、制度の魅力によって、同意をえるようにすること、法人サイドの責任はそこにこそあろう。魅力ある制度の提示こそ、まず前提であろう。(任期更新における「危険」と引き換えにできるような魅力とは何だろうか? テニュア制度の確立しかないように思われるが・・・75%の教員に等しく優遇措置を講ずるとは、いったいどういう内容だろうか? 一時金の発想が示されているが、それは「任期制」同意の魅力となるのか? 一方で、非同意者を昇任させないことによる多大の犠牲を少数者に押し付けているが、その恐怖こそが「任期制」同意の誘引ではないのか? 寒々しい「任期制」である。)
いずれにしろ、教員組合は臨時拡大執行委員会を開催し、対応を協議し、理事長名の文書なのだから、理事長に会談を申し入れるなどしければならないだろう。最終的には団体交渉の要求ということになろう。
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3月29日(1) 少数の人間による憲法改悪をゆるしてはならない。「国民投票法案」と称するが、国民のいったいどれだけが投票に参加することを前提にしているのか?一切規定がなく、ごく少数の人間だけの投票で憲法が変えられてしまうことを許すものである。「国民」は、名前だけのものとなり、少数者独裁が可能となる。
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皆様
小林正弥です。
賛同や呼びかけ人への承諾をお願いしてきた「改憲と国民投票法案に反対する
大学人アピール〜不公正な改憲促進手続法案に抗議する〜」をWEBにて公開をは
じめました。結果として、呼びかけ人と賛同人をあわせて108名を数えるまでに
なることができました。
下記のURLにてご確認できますので、ご覧ください。もちろん、これからも増加
させていきたいと思いますので、引き続きお願いします。
http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/Constitution-Appeal.htm
なお、以下に関連メッセージを入れておきます。この種のメッセージも
どこかのHPに掲載することを考えていますので、よろしくお願いします。
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戦後日本の民主主義、最大の「危機」です。
今国会に上程されている国民投票法案(憲法改正手続き投票法案)は
テレビは殆ど内容を報じず、新聞も報道に気迷気分で、
一般国民には内容と意味が殆どよく判っていません。
しかし、4月中旬に衆議院通過とのことです。
この法案は、実質的には憲法改正法案といってよく、
有効投票の過半数ということですから、
有権者の2〜3割が賛成票を投ずれば、現行憲法が廃止され、
新しい憲法に変えられるというもので、最低必要投票率も決められていません。
公務員や教員などに対する禁止や、その他の罰則が沢山あり、
しかもお金を出せば、テレビや新聞の意見広告は自由です。
60日〜180日と周知徹底期間も短すぎます。
我が国の政治・法律・社会の根本立法を変えるのには、
方法の内容から見て民主主義を逸脱する稀な悪法といえましょう。
現行憲法が保障する基本的人権や民主政治の原理を否定し、
現行憲法をホゴにしかねない、憲法違反ともいえそうな法案です。
筑波大学名誉教授 小林弥六
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3月28日 「改憲と国民投票法案に反対する大学人アピールの会」のメンバーから、下記にコピーした意見・情報が寄せられた。
憲法を変える、その手続、国民の意思確認の方法のあり方というような根本的に重要な法律の制定に関して、広く国民世論に耳を傾ける、という姿勢は、今の政府与党には存在しないことが、下記の情報からもわかる。
国民投票法案のあり方によっては、ごく少数のものが憲法を「改正」(改悪)できるようになることは、エジプトで問題化していることからも明らかである。今日の新聞報道では、エジプトの場合、国民の数パーセントの投票でムバラク政権の憲法改正案が通ってしまうという。国民から遊離した政権与党による憲法改正(国民主権によって政権・与党勢力を縛るはずのものが、一部少数勢力・政権与党勢力が国民全体を縛ることになる「改正」)というものが行われることになる。
おごり高ぶる現在の政府与党の衆議院における圧倒的多数は、「郵政民営化」の一点に国民の関心をひきつけた国民投票のような選挙によって得たものだ。しかし、どんな選挙(どんな約束)で得た票かは抜きにして、実際には、教育基本法「改正」(抜本改悪)、防衛庁の防衛省への昇格、そして、「改憲」(軍事国家の正当化・合法化、正規軍の海外派遣の合法化)への地ならし・関係法律整備のために、最大限に活用されている。
国民投票法案さえ通しておけば、国民の危機感・排外的ナショナリズムをあおる状況(北朝鮮問題?、中国問題?、北方領土問題?)を作り出し、一挙に軍事国家・海外派兵を合法化することも可能、その可能性を作ろうというものであろう。
このような政府与党の態度に、国民は納得しているのか?
だまし討ちのようなやり方に国民は何の反対の意思表明もしないのか?
ずるずるとアメリカの世界戦略・軍事戦略の片棒を末端で軍事的にも担ぐように日本の国を変えてもいいのか?
すでに現在でも、イラク戦争に対する態度一つとっても、小泉・安部政権のアメリカ・ブッシュ政権への従属振りは、世界でも際立っている。その道にますます深入りするのか?
政府与党に厳しいお灸をすえておかなくてもいいのか?
主権者たる国民は、一人一人が主権者であることを自覚して、国民的に結集して、「改憲」勢力(軍事力によるアメリカ世界戦略への加担勢力)を国会で少数派に転落させるべきではないか。
平和主義(非軍事の世界貢献)、民主主義、基本的人権の普遍的原理・理念を核心とする現在の憲法を守らなくていいのか?
--------参考--------
[改憲国民投票法案情報センター]
[改憲と国民投票法案に反対する大学人アピール]
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2件、お伝えします。
1)国民投票法案強行採決スケジュール(与党のたくらみ1)
国民投票法案は、27日に与党修正案の提出、28日に地方公聴会開催(2都市で)という日程が定まってしまい、来月12日に特別委強行採決のおそれが強まってきました。
すでに22日には、中央公聴会が行なわれてしまっています。公聴会というのは、国会が審議のために、一般人や識者の意見を広く聴く場ですから、重要法案ではなるべく多くの公聴会を開き、また、公聴会で出た意見を慎重に審議する必要があります。
しかし、与党は、手間がかかってはいけないとばかりに、全都道府県で地方公聴会を開けという要求を無視して、2つしか開かないというわけです。
しかも、政府・与党のやりかたは、教育基本法改定のときにもそうだったように、公聴会を終えると、国民の意見を聴く手続は終わったと称してすぎに強行採決をしてしまうというものです。連中にとっては、ただの、めんどくさい、早くすませたい儀式なのです。中央公聴会でも、反対論と慎重論が優勢だったのに、与党は無視しています。
抗議行動に参加する。ファックスを議員に打つなど、緊急の取り組みが必要です。
2)公務員・教員規制の動機(与党のたくらみ2)
さて、新聞報道には、だいじな情報がありました。今回、与党2党は、公務員・教員の「国民投票運動」を禁止する条項から罰則を削除することで合意しました。これは前から、自民党が民主党との協議で認めていたことなのですが、最近は、また罰則を復活させようとしていたのです。これは、自民党内から、「罰則で禁止しないと、日教組・自治労の改憲反対運動を取り締まれない」という意見が強かったためだそうです(下記記事第4段落)。
なんと露骨なのでしょうか。邪魔者は消せ、という論理ですね。憲法違反です。
ちなみに、自治労とは、地方自治体職員の組合で、市大の教員組合も、自治労所属ではありませんが、同じような自治体職員組合でした。教職員組合と自治体職員組合は、改憲反対運動を支える大きな勢力です。
罰則は、評判を気にした公明党の慎重論を容れて削除することにしたようですが、別の公務員規制を用意するということが前提です。また、罰則がなくとも、公務員・教員の意見や行動が、「違法行為」として攻撃されることに変わりはありません。
とにかく、このふざけた法案を葬り去りましょう。すでに、政府側に日程上の余裕はありません。世論の抵抗が強いと廃案になります。
*
以下、記事**
公務員への罰則規定を撤回 国民投票法、自民が修正案
(朝日新聞 2007年03月26日21時20分)
憲法改正の手続きを定める国民投票法案で、自民、公明両党は26日、公務員・教育者の「地位を利用した」投票運動については、罰則規定を盛り込まないことで基本合意した。自民党は、いったんは罰則規定の復活を公明党に持ちかけたが、公明党の反対で撤回した。両党は27日に党内手続きをへて与党修正案を衆院に提出し、4月中旬の衆院通過を目指す。
自民党は罰則規定を撤回する代わりに、公務員の運動を規制するための新たな策を公明党に提案した。両党はこれまで、国家公務員法と地方公務員法が定める「政治的行為の制限」は「国民投票には適用しない」ことで合意していたが、自民の新たな提案では、この方針を転換。「適用を除外する」と明記した条文を国民投票法案から削ったうえで、3年以内に「政治的行為」への規制のあり方を検討することを同法案の付則に書き込むとの内容で、公明党も大筋で受け入れた。
公務員による憲法改正をめぐる運動については両党のこれまでの実務者協議では、民主党の意向もくんで、公務員と教育者の「地位利用」による運動に刑事罰は設けないことで合意していた。
だが、民主党との共同修正案提出が不調に終わり、自民党内では中川昭一政調会長らから「公務員による運動への規制を強めるべきだ」との異論が出た。
26日の党国民投票法特命委員会でも「自治労や日教組に、改憲反対で自由に活動させるわけにいかない」といった意見が相次いだ。
これを受けた同党役員会では、中川秀直幹事長が、これまでの3党協議の積み重ねを尊重する公明党の意向をくむべきだとの考えを表明。3年以内に「規制」のあり方を検討することで、中川政調会長らも受け入れた。
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3月27日 祖父・岸信介が日米安保条約改定を強行し,その「成果」をあげた後、退陣したように、政府与党(自民党公明党)は、何が何でも改憲促進のための国民投票法案を通してしまう態度のようである。仮に、その犠牲となって安部内閣が倒れようと、保守勢力・改憲勢力の力が堅持できればいい、そして、9条の根本改定さえ実現すればいい(その方向に大きく前進すればいい)、民主党の中の大きな勢力も改憲勢力だから、国民投票法案を押し切ってもたいした抵抗はなく、かえって4分5裂して、安部政権崩壊後も現与党での政権維持が可能であり、与党有利なので問題ない、とでも踏んでいるかのようである。
すでに、自衛隊の軍隊化は進行しており、アメリカ軍の世界戦略の一端を担う基礎固めは着々と行われ、その方向を押し切ってしまうために憲法も一挙に変えてしまおう、ということのようである。これをこのまま許していいのか?
いかに巨大な国家アメリカといえども、イラクで泥沼に入っている現実が示すように、世界の現実は武力による秩序再編の無力さを示している。その失敗の現実を見ながら、なお日本の保守勢力、政府与党は、軍事力の世界的展開に向け大きな一歩を進めようというのか?
現在の憲法を世界の新しい原理として活かそうとする国民が、政府与党に対し、厳しい審判を下すほかない。
--------参考資料--------
[改憲国民投票法案情報センター]
[改憲と国民投票法案に反対する大学人アピール]
高田健@許すな!憲法改悪・市民連絡会です。
複数のメーリングリストに重複送信をお許しください。転送にご協力ください。
与党は自公民3党協力による法案成立という従来の基本方針を断念し、本日、与党単独で法案を衆議院に提出、4月13日の衆議院本会議での採決をめざすことにしました。この修正案が極めて多くの問題を含んだ「9条改憲をとおすための与党に有利に仕組まれた法案」(市民連絡会のサイトに掲載した「何がなんでも9条を変えるための改憲手続き法案」参照)であることはこれまで指摘した通りです。
与党のこうした企てを阻止するために、さらに行動を強めましょう。
@3月29日(木)、4月5日(木)、12日(木)に開かれる衆議院議員面会所での集会(12:15〜13:00)に参加をお願いします。A4月12日(木)18:30〜日比谷野外音楽堂で「STOP!改憲手続き法、4・12大集会」に参加を。
B全国から民主党の衆参の特別委員(市民連絡会のサイトに名簿があります)に激励と要請を。公明党の委員に慎重審議の要請を。電話とFAXでお願いします。
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許すな!憲法改悪・市民連絡会
高田 健 <kenpou@annie.ne.jp>
東京都千代田区三崎町2−21−6−301
03-3221-4668 Fax03-3221-2558
http://www.annie.ne.jp/~kenpou/
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3月25日 市大新聞ブログに、今年度入試合格者数が出ていた(本学HPからの作成というので、すでにHPで公開されたものを総括したものである)。
下記のデータを見る限り、医学部は厳格な定員管理が行き届いているようである。
しかし、国際総合科学部は? 定員は750名ほどではなかったか? 入学手続き者の実数は?
昨今、国公立大学の定員管理の問題が、新聞でも取り上げられるようになった。多くの私立大学が、私学助成との関係で厳しい定員管理の下に置かれ、教育の質を維持するために必死の努力をしているとき、国公立大学への視線が厳しくなるのは当然である。
本学の実情が、問題ないかどうか?
学生に対する教育を重視するという場合、たとえば、30名定員で設定しているクラス(ex.教養ゼミA)に35にも38人も、あるいは40人もの学生が割り当てられるとすれば、学生一人一人の発言時間・報告時間・討論時間が減少し、したがって教育内容の密度が減少せざるを得ない。
そうした定員過剰クラスをなくすためには、当該クラスの開設総数を増やすこと、したがってその必要人数の教員を確保すること、その予算を確保することが必要となる。教員の数を同じにしたままの持ち駒数増加は、教員の教育負担を一面的に増やすだけであり、教員のほかの分野の活動エネルギー、すなわち、研究、社会貢献等の時間に圧迫を与える。
教育内容・教育密度と経営責任は連動する。研究時間や社会貢献のための時間も、経営責任と連動する。したがって、教員評価問題とも連動する。教員評価のシステムにおいて、エフォートを何パーセントにするかという項目が設定されているが、そこにも関係してくるのである。そうしたことの一つをっても、定員問題は軽々に処理すべき問題ではないのである。
軽々に処理すべきではないとすれば、どこが責任を持って処理するかを筋道立てて確立していなければならない。
国際総合科学部に関して言えば、かつての3学部体制のときに確立していたシステムは解体されてしまった。その後の新しいシステムはきちんと構築されているか、これが問題となる。新しいシステム構築がきちんと行われていないことが、上記のような定員管理問題を引き起こしているのではないか。学長や経営サイドがどのようなシステム構築の努力を具体的に行ってきたか、それが検証されなければならなくなろう。
学長責任、経営責任がとわれることになろう。また、教育研究審議会、経営審議会の責任が問われることになろう。
入学者数問題で、どんなことを議論し、決定したのか?
議事録は?
かつての教授会審議では、入学者数に関しても厳しい議論が行われたが、さて、現在の中央集権的入試システムの下ではどうなっているか? かつてと違い、われわれには結果のみが知らされる、ということになっている。
学則のあり方、その改廃のあり方が問題となる。
現在の学則は、評議会教授会の審議によって制定されたものではない。「改革」期において、市当局大学改革推進本部による学則制定であり、トップダウンを徹頭徹尾追求する、行政主義的意思決定の体系となっている。
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本学は3月8日(木)一般選抜入学試験の合格者を発表した。前年度と比較して合格者数は139名増加した。(以下 本学ホームページの資料より作成)
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国際総合科学部 |
医学部 |
合計 |
平成19年度 |
904 |
168 |
1072 |
平成18年度 |
768 |
165 |
933 |
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3月23日 経営サイドと教員組合の交渉経過、組合の主張の実現箇所、および合意書に関して、ウィークリーが発行された(組合HP)。リンクを張っておこう。
---------------組合ウィークリー-----------------
2007.3.22
もくじ
● 新給与制度交渉において行った組合の主な要求とその結果について
● 当局との3月16日付の合意書
● 新給与制度報告会と教員評価制度勉強会のお知らせ
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3月22日(2) 非公式伝聞情報だが、大学で手順を踏んで承認された新しい昇任人事案件が、法人・経営サイドで、何名かに関して「却下された」とのことである。これまた、事実とすれば、新たな大問題の発生のように思われる。
(学長は副理事長であり経営サイド・法人サイドの一員でもあるが、その学長が教学サイド・大学サイドの意思を昇任提案として理事会に提出したとすれば、学長提案・大学提案が理事会(法人・経営サイド)内で却下されたということになる。とすれば、理事会議事録の公開を求める必要があろう。誰がいかなる理由で反対したのか。「経営的観点」が何なのか、明確化するためにはそれが必要だろう。任期制に関するきちんとした制度設計の提示や議論なしに、経営サイドが「実績」をあげるために、「なにがなんでも任期制承認教員を増やそう」、「非同意者は差別しよう」という結論先にありきでは、大学は前進しないし、不利益措置を受ける教員だけが増えていくことになる。それは大学内部の空気を冷たくし、亀裂を深めることになる。)
先日の臨時拡大執行委員会で、「近いうちに団交要求せざるを得なくなる事態が・・・」と予測していたとおりとなった。次回団交では、副理事長としての学長も出席を要請するべきかもしれない。
合理的説明抜きに昇任を却下するとすれば、大学は機能しなくなる。
新たな不利益措置の発生については、組合員の社会的・経済的・精神的利益を守る見地から、組合が断固として抗議し、早急な不利益措置是正と合理的合法的な制度設計(「任期制」に種々の事情や判断・思惑で同意したものも、内容に関しては明確な基準等がない以上、不安であろう、特に身分保障・生活保障のない教員集団には)の構築に向け、団体交渉の議題の一つとせざるを得ないであろう。
任期制の制度設計は本日誌20日(1)でも分析したように、当局側にいまだ存在しないことははっきりしているが、そうした法人サイドの問題性(その背後には関内の市当局がある)はそのままに、不利益措置だけを任期制非同意(当局提示の「任期制」が次々と根拠法を変更し、就業規則は論理不明・法理不明のものとなっており、現在に至るまで明確な安心できる制度の提示がないが故に不安で、大学にあるまじき精神的奴隷化、身分保障の根本的不安定化を危惧するなどの理由で非同意)の一般教員に課すことになっている。
不利益措置の新たな発生は、力(発令権)を持つものが、弱者に不利益措置を課し、その見せしめ行為で全体を縛りつけようとする姿勢といえよう。力で押し通す手法は、構成員の内面的な同意や信頼を得る道ではない。内面的活性化の道とは逆の手法である。昇任発令ペンディング状態の解除(3月16日の連絡、20日の本人への発令)でせっかく温まりかけたわれわれの気持ちも冷や水を浴びせかけられ、法人・経営サイドへの信頼感はこれで改めて傷付けられたといわなければならない。
非公式伝聞情報では、「経営的観点」、あるいは法人にとって都合のいい人間だけが昇任できたとも伝えられる。
なぜなら、任期制への同意・非同意がまたもや問題になったかとも思われるが、非同意者でも「経営的観点から」必要とされるものは、大学側からの昇格申請を、法人として承認している(発令する)とも言われるからである。
大学人事を経営主義的に、経営(市当局が背後にある)にとって都合のいいように推進することは、大学自治の破壊である。TOEFL500点基準を市行政当局の改革委員会が一部教員の協力を得て(すなわち評議会や教授会の審議・決議なしに)中期目標として入れて、大学の教学の自由を奪っているとすれば、人事においても、その大学自治への介入の姿勢が継続していることになる。
今後事実確認と根拠の説明を求める折衝など、大学自治の見地、人事に関する経営(背後の市当局?あるいはそれを意識した事務当局の圧力?)の不当介入問題など、大きな問題に発展する可能性がある。
まさに、大学の自治の問題は、人事問題が一つの決定的なリトマス試験紙ということになる。
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3月22日(1) 昨年7月に昇任資格審査で合格したあと、法人当局による発令が約8ヶ月間ペンディングにされ、この間、社会的・経済的・精神的不利益措置をこうむってきた任期制非同意教員から、彼らに対し、3月20日、午後2時過ぎ、「理事長から昇任を告げられました」との連絡をいただいた。不利益措置をこうむっているにもかかわらず、信念を曲げなかった人々に敬意を表し、昇任をともに喜びたい。
昇任の発令に関しては、「通常のケースと同様、文書はなく、ホームページに掲載される」とのことだという。
「辞令」がない、口頭発令ということは、緊急時ならありうるかもしれないが、普通では考えられない。辞令を作るなど、役所の仕事としてはごく簡単なことだと思うが、どうなっているのか?
理事長の他に同席者は、学長、副学長、副理事長、事務局長。
理事長が、「理解がなかなか得られなかったので昇任が遅れてしまった」というようなことを話したそうである。その際、任期制という言葉は出てこなかったようである。同席した副理事長、学長、事務局長も、これに異論を示さなかった以上、その態度だということであろう。
とすれば、何について、誰の「理解が得られなかった」のか?各人に確認してみる必要があろう。
8ヶ月間に及ぶ不利益措置を受けてきた人々に対し、理解を得られるようにどのようなことを法人(当局関係者)として行ってきたのか、その具体的な証拠は?ということが、今後、問題となろう。
他方、「改革」期の前任者、したがって関内の当居者の「理解」が得られなかったという見方もある。
しかし、独立行政法人として独立したのであり、大学内の実情を踏まえて、また全国的な情勢を踏まえて、さらには、当局自身がきちんとした制度設計をしなかったことを踏まえて、法人当局が独立的自立的に人事政策を進めることを認めないとすれば、これはこれで「独立」の意味合いがないことになり、問題となろう。行政当局の大学自治への介入として問題化するテーマである。
「理解が得られない」とだけ一方的に言って、不利益措置を半年以上にわたって実施してきたわけであるが(執行権力)、そのことはどのように合理的に説明できるのか?
合理的に説明できないことを権力的に執行することがまかり通れば、それは大学ではないのではないか?
権力(発令権)を持っているものは、説明などできなくても、権力を示すことができるということか?
大学こそは、制度を合理的に説明し、その合理的説明によってこそ運営していくべきではないのか?
合理的な説明と説得を抜きにして、大学の活性化は図れるのか?
経済的社会的精神的利益を得ようとすれば、少々説明が理解できなくても、不法不当と考えていても、鵜呑みにして、黙って、従順についていけばいい、という精神を蔓延させることが大学らしいやり方か?
たまたま今回は少数の人間に関する不利益措置だが、こうしたことがまかり通れば、長期的には、昇任問題を抱える若手全員の精神と行動を縛ることになろう。決して、軽々しく扱っていい問題ではなかろう。
同じ問題は、いよいよ今後、全教員に関しても、評価問題に関係して出てくる可能性のある問題である。
合理的な制度を作らなくても(仮に非合理で奇妙なシステムでも)、法人サイドはその責任を問われることなく−数年の任期が終われば法人から去っていく人々だから―、「理解が得られなかった」との理由を掲げて、不同意者・非参加者への不利益措置を行使する可能性があるからである。
もちろん、この間、教員評価制度の処遇への反映については、教員組合とも慎重に議論していくとの姿勢が法人サイドから示されており、その点をわれわれは評価しており、今後、きちんと確認しながら進めていくことになろう。
しかし、組合員でない教員も、医学部中心にかなりの数に上る。
全教員は、自分の問題として、「理解されなかった」とする一方的不利益措置の問題に関しては、熟慮する必要があるのではなかろうか?
そして、それは、大学全体の活性化に関係してくる重要問題ではなかろうか?
今回の問題も、また、教員組合としても、弱い立場の教員を団結することで守り、弱者がいじめられないような大学にしていくため、大学を自由で生き生きとしたものにしていくため、自分の問題としても取り上げ、交渉を積み重ねる必要がありそうである。
「弱者」というのは、「権力」(ここでは発令権をもっているもの)に対して、自らは「発令権」を持たないという意味での「弱者」であるに過ぎない。
法の精神、合理的精神、大学の発展という基準、などからすれば、この「弱者」こそが、非常に重要な問題を提起し、大きな意味での貢献をしているともいえるのである。彼らのがんばりこそが、大学の腐敗を阻止しているとも言えるのである。まさに、そのことが、法人当局(?その背後の市当局? 団体交渉における副理事長と事務局長の態度・発言の違い)には、「理解されない」約8ヶ月間だったともいえるのである。
彼ら「弱者」こそは、真の意味では「強者」であり、当面の(いや場合によってはかなり長期にわたる)不利益に屈しない大きな力を持った人々、強靭な精神力を持った人々であって、その彼らが、発令権・非発令権という力関係の中では、「弱者」の地位に置かれてきたということもできる。
天才の事例を取り上げれば、ガリレオには権力はなく、「罪人」として裁判にかけられ処罰されたが、その意味では、権力者ではなく罰される「弱者」であったが、その「弱者」こそは、本当の意味では優れた人物、大天才であり、人類に貢献した人だったのである。
今回、遅れて発令の運びとなった不利益措置を受けた教員についていえば、いずれも博士の学位を持ち、しっかりした仕事を学会等で行っている実に立派な教員である。ホームページで公表されるということなので、確認されたい。そのうち、一人の若手教員(助手から准教授への昇任が大学側の審査に合格した後も、法人サイドによって8ヶ月間にわたりペンディングにされていた人)は、名古屋大学に4月から准教授として迎えられるということである。その力量のほどは、この事実からも理解されるであろう。
この「引き抜き」(引き抜かれ)人事に関して一言すれば、まさに、そこに大学間競争があるということである。
いい人材を集め、引き抜かれないようにすること、ここに最大の力を入れるべきなのである。教育研究等の業績で合格しているものを、任期制に同意していないからと発令せず、しかも任期制に関する安心できる制度設計は行わず(すくなくとも、これまでのところ、示さず)、不利益だけを若手教員に押し付ける大学に魅力などあろうはずがない。
(医学部のように、地域独占にほぼ近い状態で、その地域の中では最高の位置にあるという学部の人事システムと、国際総合科学部のように全国から人材を集め、全国から引き抜かれる可能性のある学部とでは、事情がちがい、競争条件が違う。そのあたりの慎重な配慮も必要なのである。「全員任期制」などという画一的な手法は、すくなくとも、国際総合科学部では、そしてその中でも文科系ではなじまない。)
不明確な「任期制」で脅かし、不利益措置の執行により、あるいは将来の不利益措置をちらつかせ、恐怖の支配(「ルサンチマンの改革」)を行うことで従順にさせ、業績を上げさせよう、などというやり方は、魅力のない、大学らしくないやり方だ、ということになろう。
この道理は、いつ、誰によって、どのように「理解される」だろうか?
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3月20日(2) 3時半から5時半までの教員説明会(新給与体系と評価制度)に出席した。70人くらい?、100名ほどの教員が参加していたであろうか。
学長挨拶(「試行ではなく本格実施だ」)、副学長の挨拶、その後担当事務局の説明と続いた。
副学長は、最初、3日間かけてシートに記入し、最後の「振り返り」には一日かけた、とのことであった。そのシートの結果がどのように評価されたのか、その点はまだなのか、はっきりしなかった。
総合評価は、A,B,Cのいずれなのか? それに対する副学長の意見・反論等は?
学長は、自らの目標設定とその「振り返り」をどのようにやったのか、学内で公表できるようにやっているのかどうか、明らかにしなかった、今後質問し、確認していくべきものであろう。その際、シートは日本語で書くべきだろう。きちんと日本で仕事をしようとすれば、とりわけ他人の評価が問題となっているとすれば、日本語で書くのがフェアだろう。それは、学長にフェアな精神があるかどうか、試金石となろう。
教員評価制度に関しては、質問時間が限られていたこともあって、そんなに多くの質問や批判は出なかった。いずれ、今後、説明会に参加した教員からの意見などが、教員組合にも寄せられるであろう。
私自身は、「面談」を行う役目を与えられている第一次評価者が「弱い立場」の教員(基本的には相対的に若手の教員だと思うが)に対して、密室でいろいろとあれこれ内面に立ち入るようなことが行われはしないかと危惧し、「面談」への第三者の参加(そこでは発言しなかったが、たとえば、当該教員が希望すれば組合代表の同席もいいかもしれない)の可能性を質問した。
当局側からは、その点は検討していないが今後、検討の可能性をあるかににおわせる曖昧な答弁があった。
(現在は、高性能超小型のICレコーダーがあり、さまざまの事件でその利用が表面化している。弱い立場のものは常にこの超小型高性能レコーダーを携帯して「上位者」、「評価者」との話の場に臨まざるを得なくなるかもしれない。寒々しい不信の構造だが、すくなくとも、同席者制度が実現するまでは、こんなことも考えざるを得ない制度設計だということでもある。A,B,Cといった評価が下されてしまうのだから。)
システムの個々の部分に重大な問題点がいくつもはらまれているように思われる。
安野光雅の「不思議な絵」のようなシステムとなっているかのようである。部分部分で整合しているかのように見えるが、その実、大学の活性化や大学の本当の発展という見地からはまったく非合理なシステム。そのような非合理的な無駄なことに、貴重な時間を割いて、最初、「三日間」、最後に「一日間」費やす、ということにもなりかねない。
今回の教員評価制度で、一番肝心の、ピアレヴューに関しての検討が何もないこと、あるいはその制度設計が今後の課題となっていることへの厳しい批判(今回の制度への参加の意欲を失わせる要因、しかるべき人に評価してもらえないという問題)が出された。
この点、学長が特に立って説明したが、専門研究評価と教員同士の評価という二つの側面があり、教員同士の評価は行える、という側面を強調した。しかし、専門研究評価の側面がなければおかしい、二つの側面ともが必要だ、という質問者の当然の反論があった。
また、「目標設定」に関する質問も厳しいものがあった。はっきりしたことは、研究に関しては、目標の提示がなかった、ということである。
今回の教員評価制度が、まさに世界でまったく類を見ない「オンリーワン」の制度、「社会主義体制の世界でも、資本主制度の世界でも例のない、まさにオンリーワンの制度」であり、「教員をスレイブにしていくものだ」との厳しい意見の表明があった。
「このままこの制度が実施されると、学生に対する態度、一次評価者・二次評価者に対する態度などすべて変更せざるを得ない」とも。
そこまで明確な表現はできなかったが、これまで述べてきたように、私の危惧している点も、基本的にはその線上にある。
教授クラス、とりわけ定年間近の教授層ならば、実質的不利益も他の人々に比べれば大きくないであろうから、
一次評価者や二次評価者の発言・態度その他を厳しくかつ公然と批判することも可能で、決して「奴隷」にはならないであろうが、若手はどうであろうか? 面従腹背と奴隷根性を蔓延させる制度となる危険性は、はっきりと存在する。
それに対抗するには、現状では教員組合といった場で、「奴隷化」を許さない諸制度を提案し、構築していく必要があろう。
もう一つは、 「エフォート」(その記述)に関する質問であった。教育に30%、研究に20%などというエフォートの記述の客観的意味が問題となる。「目標」とその「達成度」ということからいえば、このエフォートの客観的根拠や判断基準も問題となるからである。その点も、はっきりしなかった。個々の教員に「エフォート」の配分を任せるという幹事のようであるが、果たしてそれでいいのか?教員に求められる教育・研究・大学運営・社会地域貢献の諸分野の力量配分は、単に、個々の教員に任されていいのか、個々の教員に任せておいて「評価は勝手に管理職が行う」ということでいいのか?
そもそも、週約40時間の勤務時間のうち、固定的な部分があるはずであり、通常の学期の間は、絶対的な拘束時間があると見るのが、妥当ではないか? 持ち駒数はどう算定されるのか?持ち駒数のノルマ(基準)は? そのノルマ(基準)をオーバーした場合の評価は?
週約40時間の総基準勤務時間の使い方は各教員の裁量に任されているが(裁量労働制)、その中で教育に割いている勤務時間(基準、およびをオーバーした場合)以外は、研究、大学運営、社会貢献の時間となる。
固定的な部分を確定すること(ノルマとオーバータイムを明確にすること)は、エフォート配分算定の上できわめて重要である。しかし、その発想は示されなかった。
質問の一つに、教員に対してだけ、評価制度を押し付けて、職員はやっているのか、という質問があった。「やっている」との事務局長の返答であった。「処遇にも反映しています」と。
それでは、それ(自己目標など教員が他の教員に見せることになっているような諸事項)は、職員全員が見ることができるようなシステムになっているのか?
理事長、副理事長、局長は、目標を公開し、その「振り返り」文書まで含めて、職員全体が見ることができるようになっているのか?
検証すべきことは多いようである。
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3月20日(1) 任期制に関する法人(経営)当局の最新の態度は、昨年12月末の新給与体系説明冒頭に置かれた副理事長文書にある。
それによれば、まず次のように言う。
「任期制は法人化と大学存続に当たって対外的に約束してきたことであり、今後も堅持していく方針であり、人事諸制度の根幹としていくことに変わりありません。」
それでは、その「任期制」とは、何なのか?
廃校もありうるとの恫喝を行ったうえで、大学存続を打ち出したのは「あり方懇」答申における一つの選択肢としてであったが、その段階では、大学教員の任期に関する法律はあっても、その立法の趣旨からすれば任期を予定される教員はきわめて限定的なものであり、決して全員にたいする任期制を容認するものではなかった。
法人化直前の段階には、労基法14条改正が行われ、それによって、有期契約の条項ができた。それが、「全員任期制」という市当局の方針を適用するために活用できるとみなして、利用された。
しかし、その労基法改正は、大学のような組織全体の中心的担い手の全員を有期契約にすることを促進するためのものではなく、対象はあくまでも例外的なものであった。そのような、本来、経営組織体全員(従業員全員)、大学ならば大学教員の全体に適用するようなものとして改正されたものではない法律条項を、しゃにむに押し込んだ。
そうした無理は、就業規則の意味不明・論理矛盾の継ぎはぎ条項(一方で大学教員任期法を「精神」として掲げ、他方で労基法を適用しようとする条項)として、現在も残っている。安定的な身分保障の制度を欠いている。
つまり、「任期制」ということの内容が、法人サイドにおいては明確に定式化されていなかったし、現在も定式化されていない、という状況にあると考える。
そのような状況であるから、教員組合は、弱い立場の個々の教員(教員は一人一人の立場に立てばきわめて弱い存在である)を守る見地から、また教育公務員特例法時代からの身分継承の論理から、全員一律の有期契約強制に反対し続けている。合理的合法的で納得のいく制度の提案であれば、教員組合は交渉の場に着く、ということになろう。また、かなりの数の同意者がいることを踏まえて、任期制の内容を、合理的合法的なものとして、つめていく必要がある。
法人サイドは、任期制を正当化しさらに推し進める根拠として、「75%もの同意者がいる」と、ことあるごとにいう。しかし、こうした発言も、実に意図的なものであり、本当の本質問題を隠すものである。
任期制同意者は、学部別・部局別に%を示すべきものなのである。
75%の内実は、圧倒的多数が医学部関係である。
大学と現場とを往復する医師(教員)が、その身分上の地位から(身分保障・雇用保障が前提として慣例化していることから、実質的不利益措置ではないから)、同意しているに過ぎないのである。
そうした医師教員と身分保障・雇用保障のない八景キャンパスの文科系を中心とする教員とを一緒くたにしているのである。
つぎに、
「任期制同意者、非同意者については、今回の給与制度の見直しに伴い、処遇面、教育支援方法等での差をつけます。その内容については、今後何らかの形でお示しします。」としている。
「任期制」の明確な制度設計が示されていない段階で、「処遇面」での差別がどうして可能なのか?
それは、「今後、何らかの形で」示されるという。
この文章が意味することは何か?
教員組合が一貫して反対してきたことの正当性を証明するものである。これまで制度に関して明確なことが示されてこなかったことを明らかにしているからである。
いまだ、任期制と非任期制の差に関して、明確な概念規定、基準、求められることの違いなど、制度設計の内容がはっきりしていないことをこの文章(表現)は示しているからである。
まさに、そのような不明確な内容の制度を、無理やり押し付けようとしてきた態度、内容は不明確なままで、「法人化と大学存続に当たって」同意させようとしてきたこと、これに教員組合は一貫して反対してきたのである。(教員組合HPの幾多の文章を参照されたい。)
弱い立場にあって、非常に不安な教員たちは、身の処し方に関して苦慮し、教員組合に委任状を提出して、集団として身を守るしかなかった。弱者が「集団として身を守る」権利こそが、近代的な団結権の意味するところであり、憲法的保障のあるところである。
そして、弱い立場の教員の結集する教員組合の態度は、「大学像」を検討する段階で、商学部教授会をはじめとする教授会決議等で公表された主張を継承するものであった。
個々の教員が弱い立場であることの証明は、昇任資格を得た教員の発令が、その発令権を握った法人当局によって、今月まで遅らされているということを見ても明らかである。発令権(それに伴う経済的社会的精神的利益措置、その不行使による不利益措置を左右する力、発令権の行使・不行使)を握っているのは、法人なのである。法人当局は、まさに、この場合において明らかなように、人事に関する権力者なのである。その指令の元に動く職員集団は、権力の機構にいるのである。そのことを忘れてはならない。
(ナチ体制・ヒトラー総統国家の場合で言えば、アイヒマンの事例が参考にされるべきである。中期目標という市当局の定めた「目標」に縛られるという点では、市長に任命された理事長・副理事長なども中間管理職的位置関係にある。行政当局による「目標」の縛り、「対外的約束」の縛りをどのように考えるか、大学経営の最高責任者が、行政の定めた「中期目標」の「目標性」を適切に大学の主体性において判断し、自治的原則で「できること」と「できないこと」をより分け、「計画」と実現の相関関係に関する合理的合法的スタンスをとることができるかどうか、これが問われる。
したがって、その際に、憲法的保障の大学自治の原則がどのように機能しているかが問題となる。
現在、学内に蔓延する一つの逃げ口上は、たとえばTOEFL問題などで、「中期目標で決まっている」というものである。しかし、市長・市当局も憲法・学校教育法を無視していい訳はない。大学自治の原則で、現実を直視し、違法状態・非常事態があれば、妥当な計画見直しはおこなうべきである。
その自治機能の発揮を法人サイドが抑圧しているとすれば(一般教員の正式の発言権を奪うシステム、代議員会等を機能させない現実など)、憲法違反問題として問題化する。「進級」問題は今後、その一つとなりうる。
現実の学生諸君の抱える問題群を前にして、「目標」設定の経過とあり方、「目標」の内容の現実性・正当性なども検証の対象となる。それこそが大学評価の検討対象となる。
ナチ体制化のアイヒマンと違って、大学法人当局の行動は関係する人々の目の前で公然と行われており、公然たる検証の素材は豊富にある。ソ連型統制国家では民主主義を欠如して「目標」の官僚主義的統制が徹底し、逆に、市民・国民からまったく信用されないで、崩壊したことは世界史的事実である。)
3月16日付組合週報が伝えるように、やっと数日前になって、当該教員に「今月中の昇任」が知らされたに過ぎない(正式の文書による発令があったとは、今日現在でもまだ耳にしていない)。
法人・経営サイドの「任期制」の制度設計がいまだ不明確であり、大学自治・学問の自由を脅かす危険性を持つことは、次の文章からも明らかである。
「皆様からご質問の多い、再任時の基準ですが、教育・研究内容について改善が困難で、社会貢献や組織運営にもあまり協力が得られないなど、本学の教員としての能力と意欲が達していない方以外は再任可とします。もちろん、改善の働きかけにより、改善される見通しがつけば、再任することはやぶさかではありません」と。
この文章を表面的に読むと、なんの問題もないかのように見える。しかし、
「教育・研究内容について改善が困難で、社会貢献や組織運営にもあまり協力が得られないなど、本学の教員としての能力と意欲が達していない方」などという評価を、誰が、どのような機関(どのようにして選ばれた人々・組織)が、どのような基準で、判断・判定するのか?
「改善が困難」という判定は誰がどこで下すのか?
「あまり協力が得られない」と判断するのは、誰なのか?
その判定・判断の公正さの保障は?
「協力できない」ような仕事ばかりを押し付けていないと、どうしていえるのか?
「能力と意欲が達していない」との判断・判定は誰が、どのような手続きで、どの機関で行うのか?
そのような状態・結果に追い込んだ原因は、強行的な「改革」であったのではないか?
その検証は誰が、どの機関が行うのか?
不服審査の制度は?
かつてならば、教授会という組織が、こうした諸問題を公然と審議する場として制度化されていた。その点は?
「大学自治・学問の自由」の憲法的要請からすれば、まさに、その判断主体・判断機関が、大学自治の原則に基づいているかどうか、したがって、「学問の自由」を保障する制度設計になっているかどうか、それが決定的に重要である。
現在の学則、現在提案されている教員評価制度は、大学自治の原則、学問の自由の原則をきちんと守ったものなのか?
たとえば、今回の教員評価制度の提案において、第一次評価者や第二次評価者となっているもの、そしてその上にある学長などは、大学自治の原則によって選ばれたものか?
評価される教員たちの管理職に対する評価は、可能となっているか?
管理職が選挙によって選ばれる制度であれば、信任しないものは白票なり、別の候補者なりに票を投じて意思を表明できるが、それはあるか? 不信任決議の制度などはあるか? 全学投票の制度はあるか?
第一次評価者や第二次評価者は、管理職として任命されたものだが、多岐に渡る研究教育分野の個々の教員の学問内容を評価する能力を身に着けているのか?
人事権・任命権を持つものが、予算も掌握する行政当局であり、その行政当局によりに任命されたものであるとすれば、自治は存在しないと同じである。その根本問題が、ここに関わってくる。
大学教員が、「上から」、「外から」任命されたものによって人事・予算を握られた場合、教員たちは自治能力欠如とみなされているわけで、そうした見下された人間が「意欲」を失うのは当然ではないか?
自治の担い手としての権限(したがって責任)を与えられないで、自治の担い手たりうるか?
地方自治を例にとれば、市長や県知事が国家による上からの任命制であった場合、すなわち、市民や県民が自治の担い手としては権利・権限と責任を失っていれば、それは地方自治破壊というのではないのか?
「現在、任期制非同意となっている方の中には、評価制度がどうなるかわからない、将来支給される給料額がどうなるか不安で応じられないという考えの人もいると聞いておりますが、これまでに評価制度の大枠を示しておりますので、今回の給与制度の提案とあわせて、早い時期に新たに同意についての確認を行ってまいります」と。
ここでも、任期制非同意者の態度が、正当であったことが証明されている。
すなわち、「評価制度の大枠」は、やっと提示されたばかりであり、法人化の段階や「大学の存続」が問題になる時点では、その大枠すらはっきりしなかったのである。
まさに、「現在」、やっと、「評価制度の大枠」を、昨年の9月以降の「試行」を踏まえて(?)、検討しようという段階に差し掛かったばかりである。
この間、教員組合は、昨年11月の団体交渉において、9月に「大枠」が示された教員評価制度(案)に関しても、さまざまの根本的な問題点を指摘し、当局と団体交渉記録の確定をめぐって折衝を続けてきたところである。
目標の設定は誰が、どのように、その説明責任は?
評価の主体は?
こうした不安・不明確な段階で、「任期」への同意を求められても応じられないのは、とりわけ、幾多の悲劇的な事例を見ている教員には、また、とりわけ文化観、社会観、歴史観、価値観等の多様性と相互の対立を内包する文科系諸分野の教員には、当然のこととなる。(本日の「全国国公私立大学の事件情報」にも、産業能率大学の不当解雇問題が掲載されている。)
本日、八景キャンパスにおいて、第一回目の教員評価制度の説明会が開催される。他のキャンパスではすでに2回ずつ、説明会が終わっている。
一般教員はどのような質問・疑問を出すのか?
教員組合が昨年11月の団体交渉で出していたような疑問を提出することになるのかどうか。
教員組合の求めにより、当初は本日一回しか設定されていなかった八景キャンパスでも、27日に2度目の説明会が開催される。八景キャンパスの教員は、いずれかの説明会に必ず出席し、質問を具体的にし、その場でできなくても、当局へ、そして組合へ、意見・疑問を寄せられることを期待したい。
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3月19日(2) 教員組合週報(ワープロ転換ミス修正版)が届いた。目次冒頭行の、「承認」(旧)を「昇任」に訂正するものである。
誤解はないはずの箇所であるが、この訂正により、週報が知らせる内容が再度確認されることになった。
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横浜市立大学教員組合週報(2007.3.16.訂正版)
3月16日に発行致しました「組合週報2007.3.16」の目次欄の一部に
ワープロ変換ミスがありましたので、改めて訂正版をお送り致します。
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組合ウィークリー
2007.3.16
もくじ
● 任期制非同意者が今年度内に昇任へ
● 新給与制度報告会と教員評価制度勉強会の開催
任期制非同意者が今年度内に昇任へ
昇任審査で資格要件を満たしていると判定された教員が、任期の定めのない雇用契約から任期つきの労働契約への変更に同意しないことを理由として、昇任発令を受けられないという異常な事態が続いていました。
任期への同意・非同意によって、昇進の差別が行なわれることは、問題であると、繰り返し組合は主張し、団交などでも取り上げてきたことですが、先週末、任期に同意していない該当の教員に対して、今年度中に昇任の発令をする、ということが、当局から伝えられたことを、お知らせします。
任期制の同意・非同意による差別的扱いに関しては、今後とも組合としても注視して対応していくつもりです。また任期制に同意していない教員と、任期制に同意している教員との、どちらにとっても、不利益措置等がもたらされることのないよう注意しなければならないと考えています。
さらに、任期制そのもののあり方が、本当の意味での、大学の活性化、良い大学としていくことにつながりうるのかどうか、むしろそれを阻害しているのではないか、といった現在の任期制の問題点を指摘し、粘り強く取り組んでいきます。
新給与制度報告会と教員評価制度勉強会の開催
新給与制度についての、当局と組合との交渉経過と結果に関する報告会と、教員評価制度について、どのように考え対応すべきかについて、顧問弁護士を招いての勉強会を、3月28日(水)夕方に行ないます。
場所などが決まりましたらまたお知らせいたします。
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3月19日(1) 国際教養大学(秋田)の「任期制」教員の雇い止めに抗議する慰謝料請求のその後の情報が、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)に掲載されている。
「任期制」の制度設計の問題性、その運用の問題性を明確に示しているので、以下に、コピーしておこう。
口約束で「再任可能、何回でも」といったことが、無視され、雇い止めとなっていること、この冷酷な現実を「任期制」問題を考える上では、きちんと見据える必要がある。
この問題が発生しているのは、私立大学ではなく、公立大学であり、しかも、副学長兼事務局長は文部科学省のキャリア組みだったという現実、こうしたことも直視しておく必要がある。
仮に、個々の教員が「任期制」を認める(同意する)場合でも、再任条件、再任審査の公正性・透明性の確保、その制度化、不服請求受付と再任審査内容の開示・説明責任の明示化など、きちんとつめるべき重要事項は多い。
わが大学の場合も、そうした諸条件の点では、何も明確な定めがなく、法人サイド・経営サイドからの具体的提案は何もない状況であり、したがって、労使合意にも至っていない。
本学では文科系を中心に、任期制不同意教員が多い(文科系ではほとんどが不同意)のは、明確な任期制の制度設計がなく、すでに全国で教員の不利な立場を悪用した(少なくとも、慰謝料請求を求める側からすれば不当なやり方で)雇い止めが起きている現実のためである。
任期制に同意の教員が圧倒的に多いのは本学の場合も医学部である。それは非常に多くの医師(教員)が、横浜市・神奈川県を中心に現場と大学を往復することが常態(慣例)となっているという前提条件、したがって雇用保障・身分保障と研究保障とが一体となっているという前提条件のもとにおいてである。医学部でも、任期制不同意の教員が多いのは、そうした保障のないところ(助手・講師等の職務、現在では助手・助教・准教授の職務、分野では非臨床)においてである。
本学の場合、教員評価制度のあり方とも関わり、「任期制」の同意・不同意の前提となる制度設計の具体的検討は、今後の課題である。
こうした状況で、中間管理職が個々の教員に任期制への同意を事務的に求めることは、当局側(事務サイド)としては「上から」の職務命令の遂行として仕方ないことかもしれないが、教員側においては、当然の権利として、そうした事務的対応には不同意の態度をとることは、文科系を中心に必然的となる。評価基準、評価主体、評価機関、再任基準・再任制度の明確な規定の欠如など、文科系教員がもっとも不安に思い危惧する問題(学問の自由・精神活動の自由を抑圧する諸要因)が山積しているからである。
そして文科系を中心とする不同意教員の求める諸条件(評価の基準、評価の主体・機関、評価への不服審査、その審査員・審査制度などの明確化)は、多くの任期制同意の教員(その学問の自由、精神的自由、社会的経済的安全)にも、かかわってくる死活問題である。
不安を持ちながらも任期制に同意した教員の不安を取り除くことは、大学の活性化を目標とする当局側の責任であろうし、組合が弱い立場の一人一人の教員の要望をまとめて団体として、当局にきちんとした制度設計を要求することは当然の活動であり、当然の権利である。
当局側が、任期制の明確な制度設計を具体化することなく、旧態依然として、任期制への同意を求める行動だけを推し進めるとすれば、教員との間に亀裂は深まることになろう。法人・経営サイドへの不信感は蓄積し増幅していくことになろう。
そうした意味で、「任期制」の内容を労使交渉において明確化していくことは非常に重要な課題となる。
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■http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/03/20070316t43021.htm
秋田市の公立大学法人国際教養大の教員10人が、大学側が新年度以降の雇用を更新しなかったことを不服として、連合加盟の秋田コミュニティ・ユニオンを通じ、中嶋嶺雄学長にそれぞれ500万円の損害賠償を求めていることが15日、分かった。同ユニオンは回答によっては県労働委員会に仲介申請する。
同ユニオンなどによると、10人は助教授や講師で、外国人も含まれる。雇用期間は同大が開学した2004年4月1日から07年3月31日まで3年間。契約では「双方の合意に基づき再契約できる」となっていた。
中嶋学長は昨年7月、任期切れとなる教員27人に雇用契約の打ち切りを通告。引き続き勤務を望む場合は一般と同様に応募するよう求めた。うち15人が応募、4人が合格し、11人が不合格となった。
同ユニオンは、大学側が契約時、教員に「評価が良ければ何回でも更新できる」と話すなど、「雇用継続を期待させた」と主張。労働基準法の有期労働契約の基準や判例から、「期待権」を侵害しており、決定は無効だとしている。ただ、新教員の採用が決まっていることから、和解を申し入れた。
同大事務局は「最初から3年間の契約で、原則として更新はしない。評価はあくまで更新する際の参考で、必ずしもリンクしない。要求に対し学内で考え方を整理し、回答したい」としている。
任期切れとなった教員のうち11人は大学側の要請で契約が更新された。事務局は「教育の継続性や08年の専門職大学院開学で、残ってもらわらないと困る人たちだ」と説明した。
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3月16日(2) 組合週報(本日付)が届いた。以下に掲載しておこう。
下記の書記局ニュースが指摘するように、昇任審査で合格の教員への発令が遅れ、したがって、「任期への同意・非同意によって、昇進の差別が行なわれる」ことについては、組合は一貫して問題だと指摘してきた。今後も、そのスタンスは変えない。
現段階までのところ、その差別(区別)の合理的合法的な説明がないからである。「任期制」の明確な制度設計がないのである。
何が合理的かを追求するのが、社会一般と同じく、大学における合理的精神であるとすれば、その基本精神を貫徹するということである。不合理なことをあくまでも不合理と主張し、合理的なものに作り変えていくのが、大学らしい基本精神である。
当局も、「任期制」を打ち出した以上、また、それに何らかの事情で合意した人がいる以上、制度の撤回はできないのだとすれば、制度内容を合理的合法的で魅力的なものとするように、制度設計を明確化し、あるいは改善・改革する必要があろう。
最初、任期制を打ち出し、ついで、全員任期制に過激化し、さらに、大学教員任期法では全員任期制が困難とわかると、労基法改正(14条)に待ってましたと飛びついて、何が何でも「全員任期制」を就業規則に書き込んだ態度は、歴史的検証の前に、「上から」、「外から」の極端な「改革」の深刻な問題性を繰り返し想起させるものであろう[1]。
それだけに、悪夢を想起させないような賢明な制度設計(制度改善)の提起がなければならないだろう。
法人化後の採用者、および任期制同意者に対して、5年任期の終了時点でのテニュア付与などを、きちんと考え、制度化すべきであろう。それは組合の見地となろう。大学の活性化という出発点をわすれないために。また、職務業績給との整合性を確立するために。
今後の労使折衝の重要課題の一つである。
画一的強制の問題性は、TOEFL問題でも同じある。
教員の任期制、その問題性は、普通の市民には何のことだかわからないかもしれない。大学教員に全員任期制にして何が悪いの、という市民もいるだろう。
しかし、外部試験TOEFLの500点を一律に全学生に課すこと、しかも、進級の条件とすること、この画一的強制的なやり方、他の教養科目や専門科目のすべてよりもTOEFLが優位に立つということ、TOEFL一科目が他の全科目よりも学生の進級、ひいては卒業などに決定的意味をもつことは一般市民からも絶対に理解されないことだろう。
これも、一度打ち出したから撤回できない、ということで現在進行している。
果たして、どこまで頑固な態度が維持できるか。
多くの人は、その場しのぎにしか過ぎないとみているが、言っても仕方がないと、黙視している。
このTOEFL500点問題も、合理的合法的に改革するにはどうしたらいいか、これは、それを推進している人々に考えてもらうしかない。
私の考えは、これまでも繰り返し述べてきたが、あくまでも追求の目標(環境条件整備の目標)にすべきであって、進級や卒業の要件にはすべきでない。普通の科目と同じように、点数に応じて、秀・優・良・可・不可の5段階評価にすればいいだけである。
TOEFLから特権を剥奪すること、これが大学健全化の道だと信じる。
大学がとるべき態度は、環境条件整備であり、みんなが500点をクリアできるように環境を整備するにとどめるべきである。
全学生を縛る画一的基準を進級や卒業の、学生の将来や生活を左右する決定的条件にすべきではない。
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横浜市立大学教員組合週報
組合ウィークリー
2007.3.16
もくじ
● 任期制非同意者が今年度内に昇任へ
● 新給与制度報告会と教員評価制度勉強会の開催
任期制非同意者が今年度内に昇任へ
昇任審査で資格要件を満たしていると判定された教員が、任期の定めのない雇用契約から任期つきの労働契約への変更に同意しないことを理由として、昇任発令を受けられないという異常な事態が続いていました。
任期への同意・非同意によって、昇進の差別が行なわれることは、問題であると、繰り返し組合は主張し、団交などでも取り上げてきたことですが、先週末、任期に同意していない該当の教員に対して、今年度中に昇任の発令をする、ということが、当局から伝えられたことを、お知らせします。
任期制の同意・非同意による差別的扱いに関しては、今後とも組合としても注視して対応していくつもりです。また任期制に同意していない教員と、任期制に同意している教員との、どちらにとっても、不利益措置等がもたらされることのないよう注意しなければならないと考えています。
さらに、任期制そのもののあり方が、本当の意味での、大学の活性化、良い大学としていくことにつながりうるのかどうか、むしろそれを阻害しているのではないか、といった現在の任期制の問題点を指摘し、粘り強く取り組んでいきます。
新給与制度報告会と教員評価制度勉強会の開催
新給与制度についての、当局と組合との交渉経過と結果に関する報告会と、教員評価制度について、どのように考え対応すべきかについて、顧問弁護士を招いての勉強会を、3月28日(水)夕方に行ないます。
場所などが決まりましたらまたお知らせいたします。
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3月16日(1) 国際教養大の再任不可教員たちが慰謝料を求める行動を起こしたようだ。大学側・当局側がきちんと説明責任を果たしていないことを示している。
生活と名誉に関わることだから、制度設計、その運用は、十分納得できるような、透明性のあるものでなければならないだろう。
メールで再任不可を知らせるとは。きちんと説明していないということか?
「任期制」、「有期契約」が乱用されたら、大学の雰囲気は活性化の反対の結果となろう。学内関係者が紛争ごとに足を引っ張られ、明るく建設的な大学運営はできないことになろう[2]。
しっかり話し合って、段階的に合意を形成し、確認点を積み上げて、前進していく手法でなければならないだろう。
その点、われわれは、新給与制度に関して、本日、合意書に調印できた。
会議の最後に明るく握手できたのはうれしかった。
優れた経営者は、働くものすべての活力を上手に引き出し、その総力を経営体(ここでは大学)の発展のために結集する人であろう。
今回の合意書を纏め上げるに当たっての経営サイド・最高執行責任者(副理事長)の尽力に感謝したい。
この間、年度末の超多忙な時期にもかかわらず、当局側もわれわれも大変な努力をしてここまでこぎつけることができたと思う。
不確定部分に関しては、きちんと継続交渉を積み上げていくことで合意した。まさに、話し合いの積み重ねで、合理的合法的な線を発見し、確定していくことこそ、大学の健全な発展につながるものだろう。
この間、われわれの側ではここまで到達できたのは、一貫して詳細なデータの洗い直しや計算を担当し、当局担当者と実に粘り強く繰り返し交渉を続け、最後まで冷静・精密に話し合った副委員長の膨大なエネルギー・時間の投入があったからだと思う。それに対応した当局者側のエネルギーと時間も相当なものだろう。
一口に「合意成立」といっても、その背後に当局サイドとわれわれの長時間のなみなみならない肉体的精神的疲労を伴う折衝努力が隠されていることを、組合員、そして、交渉の成果を享受する非組合員の全教員に感じ取っていただきたい。昨日の拡大執行委員会は、合意内容(その説明)に関しては、非組合員にも伝えることにしたので。
なお、「任期制」をめぐる問題は当局の姿勢とわれわれとの間に違いがあるのであり、今後、妥協点を求めて、大学をよりいっそう活性化するにはどうしたらいいか、良く努力しているもの・実績を上げているのが公正にしかるべく報いられるにはどうしたらいいか、学内のすべての人の能力発揮でWin-Winの螺旋的発展関係を作り出すにはどうしたらいいのか、つまりは、制度の精密な安定的で合理的合法的な構築に向けて、厳しい折衝が続けられることになろう。
昨日の拡大執行委員会で関係者に確認したところ、昇任資格審査に合格後、この間、発令がペンディングになっていた(すなわち差別=不利益措置が続いていた)もうひとりの若手研究者(4月1日から名古屋大学の准教授として転出されるとのことだが)についても、今月中の発令が当局から伝えられているとか。関係者の一人は、「それは良かったですね」という反応に、複雑な気持ちだといっていた。
そうであろう。不当な差別を撤回させたのは喜ばしいが、その優秀な人が転出するのは残念だから。
優秀な人を引き止めるような、安心できやる気の起きるような魅力的制度でなければならないのに、優秀な人が転出するのを促進する(あそこの大学は「任期制」でみんな転出しようとしているようだからまずは引き抜きの声をかけてみようと絶好の草刈場にされる)ような制度では。
最先端の真理を見つけるのが「額に汗して」しかできないように、最先端の制度の適正な構築・運用も、労なくしては実現できないであろう。
昨日の拡大執行委員会では、「いずれ、任期制問題で、また団体交渉が必要になるのではないか、その準備を」といった見解も示された。今回の合意事項のなかにも、まさに「任期制」に関わる事項の検討が交渉課題として確認されている。職務業績給の適用・運用の仕方の交渉とも関わり、本番はこれから、と見ることもできよう。
いずれ合意書の内容、合意に至る経過等に関しては、組合ニュースで報告されるが、ここに一言、速報として書きとめておきた。
大学と教員が開学時の平成16年4月に結んだ契約では、全教員に対し3年間の任期制を適用。再契約については「契約者双方の合意」を前提に、大学が規定する評価制度の結果などにより判断するとしている。
契約更新を見送られた教員の1人は、「昨年12月中旬に大学から一方的に更新しない旨のメールが送られた。学長にただすと、『新規雇用の先生があなたの授業をカバーできる』などと説明された。急な話で就職活動もままならない。ショックで怒りが収まらない」と話している。この教員に対する大学の評価は、在職期間を通じて高かったという。
同ユニオンは今月12日付で要求書を提出し、有期労働契約の期間・条件などについて規定した労働基準法や判例を根拠に、「本件は明らかに無効」と主張。
同大事務局は「期限を設けた有期の契約で、手続き上の問題はない。(教員側の主張する)契約更新の『期待権』にも、具体的な根拠がない。ユニオンからの要求については内容を検討中」としている。
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3月15日 臨時拡大執行委員会(執行委員プラス独法化対策委員) メモ
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今日時点での労使合意書(付属諸表、3月9日時点最終合意の基本給表、退職金一般規定、退職金特別規定等の付表)の最終確認。
A
教員評価制度に関する態度・・・説明会で明らかになったこと、今後明らかにしていくべきこと。28日の法律顧問との勉強会の件。
教員評価制度に関して、教員組合として、要求すべき諸事項の整理。
半年間の「試行」に関して・・・どこまで、どのように実施され、総括されたのか?その明示。
制度設計に関して・・・評価委員会のような制度の必要性、その構成・運営に関する規則の必要性、教員評価における管理職の権限・職務の限定性の確認。
B
その他(この間の組合の活動の広報等の体制)
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3月13日 昨日、教員評価問題に関する考えを暫定的に書いてみたが、そこで危惧する問題点が、すでにいろいろなところで問題化している。その特に露骨な注意すべき問題例として、秋田の国際教養大学における人事評価(教員評価)があるようである。「全国国公私立大学の事件情報」(昨日付け)から、コピーしておこう。記事は、都立大学の教職員組合が書いたものである。
お手盛り人事、お手盛り評価をうかがわせる下記の分析は、意味深長。
「管理職」「役職者」による評価権掌握の危険性・恣意性を暗示(明示?)する。
「非再任の理由が業績不足、博士号未取得があげられたにもかわらず、役職者は修士号さえ持たない者も含め全員再任・・・」
そもそも、秋田の国際教養大学には、教授会はあるのか?機能しているのか?人事権は?
下記の情報による限り、学長(=理事長)の専制体制のようであるが。
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大学教員の任期制が持つ問題が浮かび上がってきている。秋田県の国際教養大学には、文部省から副学長兼事務局長が派遣されていた。この大学は3 年任期制、年俸制をとり、今年度がその3 年任期の終わりであった。朝日新聞の昨年12 月17 日付の記事などによると任期満了になる教員27 人のうち11 人が再任を拒否された。この数は全教員の四分の一に当たる。
教員は採用時に「更新の可能性有りの3 年契約」で雇用された。しかし、研究や教育における業績不足、特に博士号未習得を理由に、今年度末に英語集中プログラム教員の14 人中7 人(全員アメリカ国籍)、それ以外では35 人中4 人(そのうち2 人は外国人博士、2 人は日本人修士)、合計11 名が再任を拒否された。(goo Wikpedia)
教学を浸食する経営サイド
この大学はどのような運営体制をとっているのであろうか。法人の理事長は学長を兼務する。「理事長は、法人が設置する大学の学長となるものとする」(定款第10 条)。理事長は、経営審議会の理事3 名、教育研究審議会からの2 名による選考委員会で決められ、県知事により任命される。したがって、経営審議会が優位に立つ。理事は理事長の任命で、そのうち常務理事1 名は理事長の指名である。
この大学は、教授会には教員の選考権がなく、また評価権もない。人事の決定権限は学長=理事長を含む理事などによる大学経営会議の権限である。この経営会議は、学部、課程の改廃、教育課程編成の基本的方針に関わる事項など教学に関することも審議、決定する。さらに、「教職員の人事及び評価に関する事項」(定款第16 条)がこの経営会議の審議事項である。教育研究会議、教授会には教員の人事権はない。教育研究会議に「教育研究の状況の評価に関する事項」(定款21 条)があるのみである。
教授会は、授業科目、学生の身分、賞罰、厚生補導、学位に関する事項の審議をする権限しか与えられていない。そして、学長は重要事項の直接の執行者である。かつ、教授会を主宰し、その議長は学長、または学長が指名する者である。
ようするに、この大学は教学部門の権限が狭く限定され、経営部門が教学部門を浸食し、かつ理事長=学長が理事の選任、教授会の運営に決定的とも言える権限を持っている。民主はなく理事長・学長への集中のみが保障されている。
2年間の評価で非再任を決定
再任に当たる評価は、まず課程長(二つの課程がある)から提出された各教員の評点を学長(=理事長)が評価査定・調整を行い、運営会議に諮る。学長の調整の際に職階に応じたスケールに従って最終評価が下される。職階の上位の者ほど評価基準点が高くなるという。
評価は教育・研究・地域貢献の総合評価である。研究面、地域貢献面に関しては定められた評価基準に照らして各教員から報告された事項について評価者が質的な面も含めて査定し評点を出すことになっている。(平成17年度自己点検・評価報告書)評価項目、配点、評価基準表は別掲。
この体制の中で、今回の事態が起こったのである。この事態が不透明なのは、非再任の理由が業績不足、博士号未取得があげられたにもかわらず、役職者は修士号さえ持たない者も含め全員再任されたことにある。
さらにもうひとつの問題は、3 年任期であるにもかかわらず、再任するかしないかの評価は二年間の評価でしかないことである。というのは、再任しないことは、該当者の最終年度の昨年7 月に伝えられたからである。ようするに最終年度の評価は意味をなさない。
標準の評価でも再任されない
それでは、業績評価はどのような基準なのか。業績評価はS,A,B,C,D,E,X
の7 段階からなっている。このうちS が期待値より想定外に良く、A,B がプラス評価、C が標準、D,E がマイナス評価、X がD、E にも達していないことになっている。
2004 年度と05 年度の業績評価の結果は下記の通りであった。(平成16 年度及び17 年度自己点検・評価報告書より)
標準C に達しなかった者は、2004 年度で5 人、2005 年度で2 人である。2005 年度の二人が2004 年度からいた人だとすると、2005 年度評価で、9 人が標準点C となる。
もし仮に、2005 年度のD と評価された者が2004 年度にC 未満に評価された者に含まれていたとすると6 人が両年度C 評価でも再任されなかったことになる。
このように、C 評価でも再任拒否された者は多い。しかも、朝日新聞の記事によると2005 年度に前年のC からB になった人も対象になっている。そして、実は非再任者は16 名おり、この16 名に新人事の応募資格を与え、15 人が応募し、外部からの公募者約400 人と競わせた結果11 名が残ることが出来なかった。(朝日新聞2006/12/17)
この結果について中島学長は「今回の新規採用でさらに学内が活性化すると信じている。形だけの公募でないし、優れた教員が獲得できた」と言っている。(産経新聞2006/12/26)これを読んで笑ってしまった。なぜなら、再任を拒否された教員のうち再度採用された者がいたわけだから、その教員は再任拒否という評価をされるべきでない「優れた教員」だからである。自らの評価が間違っていたことを言っていることになる。したがって、どうもどのような評価の結果、再任されなかったかが外部者にははっきりしない。外部者だけでなく、該当者にも納得がいかないようで、朝日新聞の取材に一該当者は、こう言っていたという。
「『教員として成績が上がっていたのに、大学を去るなんて想像できなかった。』退職が決まった米国人教員の一人は、今回の結果にため息をつく。学生の授業評価などがもとになる勤務評定は、04 年度は中ぐらいだったが、翌年度は1 ランクアップ。『これなら更新できる』と思っていたという。」
課程長から学長に教員評価が出される段階で、評価者と教職員は個別面談を行い、評価案について意義がある場合は、面談後一〇日以内に、理事長・学長に対して文書にて異議申し立てが出来ることになっている。しかし、評価の最終結果についての異議申し立ての制度はないようだ。
教授会の権限強化が必要
以上のことを整理してみよう。
@ 任期3 年は、実質的に任期2 年である。最後の1 年は非再任者にとって、失業しないための就職探しの期間である。
A 非再任者にとって、最後の1 年は針のむしろに座るようなものである。なぜなら、教員として不適格という烙印がおされて、教育に当たらないといけないからである。
B なぜ再任されなかったが、不明確であり、標準の評価でも再任されない。
C 最終評定は、「学長が個別の評価査定および調整」をおこなう。したがって、学長の権限が大きい。かつ、学長=理事長の大学運営権限が専決的におおきく。それは評価の最終決定に大きく作用している。
D 最終決定に意義を申し立てる時間と制度がない。
このうち、特に問題にしたいことは、BとCとDである。すなわち、運営権が一部に集中していると、評価の決定の過程で案が該当者に提示され、教育活動における同僚評価があっても、最終的に再任、非再任の決定の理由がよくわからないのである。そのうえ、最終決定に対し意義を申し立てる時間も制度もないから、再度任用を希望すると公募に応募しなければならない。
以上のことを我々の大学に引きつけてみると、評価権を学長、学部長などの管理職に集中させてはならないこと、彼らないし管理職のグループに日常の運営でも全面的に専決権を与える慣習を作ってはならないことである。そのためには、教授会の人事権、管理職の選考権を確立しなければならない。
最後に、秋田国際教養大学の年度評価は年報(?俸)に反映されている。評価S は120%、A は110%、B は105%、C は変わらず、D は115%(? 95%)、E は90%、X は80%となる。ちなみに、理事長=学長の年俸は、2422 万円、理事は非常勤で360 万円である。
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3月12日(2) 本日から、当局主催で開催される教員評価制度の説明会(その後半には教員組合と合意に達した段階の新しい給与制度の説明も)に対して、教員組合執行部の態度は、「教員は、当局が提示する制度の説明に、まずは参加してみることを勧める」ものである。
当局の制度説明では、「教員評価制度は、自己点検・評価を行い、各自の強みを更に向上し弱みを克服することにより教員としてのレベルアップを図り、本学全体の教育・研究・診療活動をさらに活性化していくことを目的とするものです」とある。
目的は、問題なさそうである。
よりいっそうの活性化は、本学教員の全員の望むところだろう[3]。
問題は、その目的を実現しようとする手段・方法が、目的を実現するのとは逆の効果・作用を及ぼしはしないか、その要因はないか、ということである。その点をチェックすることができるのは、評価の対象となる教員であろう。危険な要因は摘出し、除去して、活性化の目的に合致するよう合理的に制度を改善していく必要がある。
この間、当局は、半年間の「試行」を行ったわけであるが、その「試行」で明らかになったことは何か、「試行」において発生した問題点は何か、その「試行」の制度にはどのような問題点があるか、これを確認する必要がある。
一人一人の教員は、どのような「評価」のあり方なのか、どこが問題なのか、確認する必要がある。
教員組合執行部は、先日9日の11時から一時間、どういう制度なのか、説明を受けた。そして、その段階で疑問に思うことは指摘した。
説明を受ける、ということは、制度そのものを当局の説明のままに承認するものではない。
人事評価という大学自治の根幹にかかわるところで、制度そのものに、大学自治破壊の要因が盛り込まれているとすれば、それは容認できないことは明らかである。そうした大学自治破壊の要素があれば、摘出し、改めさせることが必要となる。
教員組合は、これまでも、評価制度に関して、いろいろな問題点を指摘してきた。その見地を貫くということである。大学らしい教員評価の制度を構築する一つの重要な主体となる、ということである。
今回の当局主催の説明会は、制度設計の全体に関して当局の考え方を明らかにさせ、問題と思われるところを今後、検討し、公開で指摘し、大学教員の評価とはいかにあるべきか、構築していく出発点という位置づけである。
当局の制度設計では、「評価者」は、当局が任命した管理職によるものとなっているが、その点の意味内容・制度的妥当性が一番の問題点となろう。
特に、研究に関しては、当局案における「管理職」による評価(その内容を明らかにさせなければならないが)は、ピア[4]レヴューの原則とは根本から相反する。
研究評価は、世界的に確立された原則では、同じ研究分野の専門研究者しかなしえない。
学問的科学的批判=評価を行えるのはその専門領域の人間だ(その意味での「同僚・同等者・対等者(ピアpeer)」だ)、専門家同士が学問・科学・学術の論理にのっとり専門的土俵の上で厳しく評価し批判すべきである、というのが学問・学界における同僚評価(ピアレヴュー)の原則の意味である。
それぞれの学問・科学の素人、門外漢が、学問・科学の評価を行えるのならば、学問・科学の研究など必要ないということになる[5]。
それでは、大学は暗黒の世界、痴愚・素人・門外漢が支配する世界となる。
そんなことになれば、学問・科学の土俵で国内・世界で奮闘している研究者は、大学の内部で素人・門外漢によって活動を台無しにされることになりかねない。
個々の教員が研究の領域、学界・学問の世界でどのような評価を受けているかを確認する手段は何か?
文科系の私に気付くことは、専門的研究に関しては、狭いかもしれないが、およそ次のようなことである。
(1)どのような論文を、どのような学術雑誌に掲載しているか?
(2)それは、それぞれの専門学界の土俵に乗っている仕事かどうか?学界動向(学術雑誌、学界の「回顧と展望」など)において、どのように評価されているか?科学的・学術的評価・引用・批判の対象となっているか?
(3)どのような本を、どのような出版社から出版しているか?
(4)それは、それぞれの専門学界の土俵に乗っている仕事かどうか?学界動向(学術雑誌、「回顧と展望」、書評など)において、どのように評価されているか?科学的・学術的評価・引用・批判の対象となっているか?
(5)当該研究者が、どのような学会において、どのような専門家として認められているか(評価されているか)を示す一つの素材は、どのような本の書評を、どのような学会誌に発表しているかということである。したがって、書評も当該研究者の外部評価・学会評価を示す一つの指標となる。それはあるか、どのくらいか。どんな学術雑誌か?
(6)どのような学会に属し、どのような役割(役職・機能なども含めて)を果たしているか?
(7)どのような研究会に属し、どのような役割(役職・機能なども含めて)を果たしているか?
(8)どのような研究費を、どのように取得しているか?
(9)取得した研究費の成果をどのように社会に還元しているか?
(10)
具体的には、学生院生向け・社会向け・地域向けにどのような啓蒙書を書いているか? 学術論文・学術書物・講義・院生指導・市民講座などを行っているか?
こうしたもろもろの点は、個々の教員の単独の「自己評価」=主観的な評価ではなく、広狭・多様・多次元の「同僚」等の客観的外部的評価を意味し、客観的に証拠を集めることができるものである。それぞれの学界での、それぞれの活動領域での、その人の評価をある意味で客観的に表現するものであり、該当データを明確に示すことができるものである。それらデータは、単なる主観的評価ではなく、外部評価・第三者評価を意味する諸要因である。
教員評価において問題となっているのは、一方では自己評価(目標の設定と達成度の自己評価)であるが、他方では、こうした客観的外部評価である。大学評価の法制化が意味するのは、こうした外部評価の必要性を明確化し、制度化したものであろう。
そうしたものとして、昨年8月時点の研究業績(2000年から2000年8月までの業績)の集大成が研究院によって行われたのであり、まさに、これこそは、本学の今後の研究評価の出発点、土台となるものであろう。(もちろん、その以前の段階のすべての研究業績が前提となるのではあるが)
今回の当局の制度設計においては、「評価するもの」が、評価される教員の自由な意思表明によって選出されたものではない。
(もちろん、「選出」が衆愚政治的に堕落する危険性・世俗的利害得失による「選出」に堕落する危険性は、学問の世界だけではなく大学内外において常に存在するが、期間限定での「選出」には一定の民主的チェック機能があることも事実である。また、学内といった狭い範囲からの「選出」が、社会的には理解できないような「選出」である場合もあろう。社会的に妥当性を持った評価が、内部だけでできるとは限らない。その点こそが、第三者評価・外部評価の制度化の背景にあろう。「内々」の、「狭い仲間内だけの」評価では駄目だ、と。)
「評価者」(評価権限を持ったもの)が、評価される人々のチェックを受けないで(また、厳しい社会的評価も受けないで)、当局による任命者(さまざまの意味での権力者)であれば、評価が簡単に狭い利害得失で行われ、学問・思想の自由、個々の被評価者の地位身分(新給与体系でいえば「職務業績給」のランク)を脅かすことができるからである。
そもそも、現在の学則、その運用において、管理職の民主的選出規定は存在しない。
その根本的問題状況で、管理職が、一次、二次の評価者になるということが、問題であろう。
管理職は、現在の本学の制度状況では、教員評価シートの集計の単なる技術的役割にのみ限定すべきものであろう。
それぞれの目標の達成度に関して、A、B,Cといった評価ランクを設定しているが、各人の主観的評価の妥当性に関して、「評価」権限を持つ「管理職」が、「面談」において、介入することについても、問題があろう。
個々の教員の「主観」の内面にまで立ち入る権限が、「評価者」に与えられていいのかどうか、これも根本的な問題となる。
そうした根本問題の指摘も、今後の課題となろう。
繰り返しになるが、私の見地からすれば、「評価者」が、「管理職」であることと「学問・思想の自由、精神活動の自由」との整合性が一番の問題点として、検討されるべきものであろう。
それは、本日付の教員組合週報が指摘するとおりである。
さらに、それが、給与等の物質的諸条件にまで反映されることになれば、さらに問題は深刻かつ重大となる。(その点では、19年度の制度は、あくまでも、試行にしか過ぎないことは、団交において確認済みである。文書確認がまだだという問題は残っている。)
「制度の説明=了解・合意」ということはありえない。了解しうる部分もあろうし、絶対納得できない部分もありうるだろう。
当局の制度説明は、あくまでも、当局の考え方の説明でしかない。それへの参加は、教員の問答無用の同意を意味するものではない。その根本的確認は、言うまでもないことながら、一言しておく必要があろう。
現在、教員全体が参加しうるような制度的に確立され機能している教授会が存在しない。一年一回の教授会はセレモニーと化している。
その意味では、教員評価制度に関する説明会は、かつての教授会機能の一つを復活するという意味合い(復活させるという意義)も持つのではないか、と考える。また、そうしたものとしなければならないだろう。
副理事長(最高執行責任者)は、すでに、折に触れて、教員の納得なくして評価制度は機能しない、という意味のことを発言しているのであり、その発言の意味もまた、われわれの理解と同じであろうと考える。(どこまで同じか、基本的に同じかどうかなどは、今後の説明会のあり方、その後の処理の仕方などでも確認できるであろうし、確認していく必要があろう。)
評価シートに関して、納得し得ない部分に関する記述等を行わない(建設的改善のためには、可能であれば、当該項目を記入しない理由を明記するのが望ましいであろう)ということは当然となろう。
納得し得ない部分に関する態度は保留する(可能であればその根拠を明示することが望ましいであろう)、ということになろう。
教員の活動を他のものが評価するに当たっては、何らかの外部からわかる素材が必要なことは当然であり、その素材を確認する文書形式‘(たとえばシート形式)は、必要だろう。
しかし、その項目等に関しては、また、その個々の項目の評価のあり方に関しては、逐一、きちんと検討が加えられるべきであろう。
ともあれ、教員組合としては、説明会に参加した教員からの積極的な質問・疑義・批判などを集約することを計画している。また、法律的問題に関しては、顧問弁護士などとの勉強会も考えている。28日の午後である。
制度設計の内容を確認しないでは、その制度の問題点も明らかにできないであろう、というスタンスである。
制度設計の内容を確認するのは、最終的には教員一人一人の見識であり、その後の行動も最終的には個々人の判断によるものとなろう。その意味では、説明会の議論は、個々人の理解(誤解)を確認し、問題点・改善点等を検証する機会とすべきであろう。
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3月12日(1) 全大教の代表者会議に参加した。全国の大学における教職員組合の活動振りがわかり、参考になった。
とりわけ刺激的だったのは、島根大学の職員の代表の発言であった。
法人化直前段階では非常に停滞していた組合活動が、報告者となった人の奮起で活発化してきた(組合員の相当な数の増加)ということ、その一番の基礎に、職員が大学の発展にどう関わることができるか、という点でさまざまの意見交換の場が設定できたこと、しかしそのためには、組合役員という仕事は引き受けたくないという普通の職員の人々に対して、「私が役員はやるから」と5年以上にわたって奮闘した報告者の姿勢があったということなどであった。現在では、若い組合員などの自発的参加で、いろいろと有意義で楽しい組合主催の催しが開かれ、ひとりだけが役員活動で奮闘するという状況ではなくなったとのことである。
一番感動的だったのは、その女性職員の人(現在係長職にあるという)が4人のこどもを持っていることであった。
そして、二人目の子供を持つときから、育児休暇制度の導入の恩恵を受けたということであった。
しかし、その育児休暇は昔はなく、この女性の母親(両親が教員をしていたということだったが)は、育児休暇制度を導入させるために活動する組合員だったこと、子供のころの両親の話に、「ストライキしたので給料が減らされた」などという会話があったこと、しかし、そうした先人の苦労の積み重ねがあって、現在の育児休暇制度が実現したこと、という話であった。
育児休暇制度の適用を受けたことを話す娘に、「お母さんはそのような制度を作るためにがんばったのよ、自分の時には実現できなかったけど、お前が恩恵を受けられて良かった」と語ったという。
もう一つは、京都大学における一つの事例であった。
創立記念日に関して、4年目となる今年は、普通の曜日と重なるそうである。そこで、当日、非常勤職員を有給とするかどうかが問題になっているという。
京都大学の代表の話では、創立記念日(休日)は、大学に働く全員が大学の創立を祝い、大学の発展のために協力することを喜びあい、確認するのが記念日の目的であり、そうした大学で働くもの全員のモチベーションを上げるという観点から問題を考える必要があるとの見地で、当局交渉を行っているということだった。常勤は休日を享受し、非常勤は働く時間が奪われ、給料を減らされる、ということでは、モチベーションはあがらない、と。
ともに、同じ大学で働くことを誇りとし、ともに祝い、ともに大学を盛り上げていくという基本的趣旨からして、休日という恩恵を常勤と非常勤とを問わず、享受すべきだということで、大学当局と交渉しているとの話だった。
そして、その趣旨の教職員組合の署名活動に、ある教授会では、教員の4分の3が賛同の署名をしたという報告であった。
雇用形態のいかんを問わず、いろいろな催しへの参加のあり方、そこにおける処遇において、基本に置くべき見地を確認し、その見地から、具体策の適否、妥当性の如何を判断するというスタンスは、大切なことであろう。
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3月10日予定: 全国代表者会議に、単組代表として参加。
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3月9日(3) 昨年7月の業績審査の合格後、昇任発令がペンディングになっていた教員に対し、法人当局から発令が今月中に行われる、と当該教員に連絡があったようである。二人の教員から組合新旧執行部にメールで連絡をいただいた。すばらしいことである。週末を気分良く過ごすことができる。
任期制に関しても、きちんと、大学活性化にはどのような制度設計をすべきかを、これからの教員評価制度のありかたとも関連させつつ、検討していくことができるであろう。
その出発点にたった、ということは、大学の今後のために喜ばしい。
若い人々が、教育・研究・大学運営・社会貢献の諸分野でしかるべき業績をつめば、任期制への同意を迫られる不安なしに、昇任できるということを意味するからである。
もちろん、大学の教育研究に対する社会の期待・希望が大きく、大学の機能・活動・貢献がますます世界的になるだけに、大学人が使命感を持って働くことがこれまで以上に求められるであろう。
若い人々への期待と希望はひときわ大きいであろう。
それだけに、他方では、若い人々の教育研究活動をいかに快適なものとしていくか、魅力的なものとしていくか、彼らの力の発揮を活き活きとしたものにしていくか、これが今後の課題となろう。
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3月9日(2)予定通り、最初の1時間弱、退職金問題の最終提案の説明を受け、ほぼ、組合執行部4役では、これまでの全経過を踏まえて、また市全体の動向など社会情勢を踏まえて、合理的に理解できる制度設計になっているのではないかと考えるにいたった。あとは、文言上の最終確認などを行い、臨時拡大執行委員会で了承が得られれば(得られる内容だと考えているが)、その翌日、最高執行責任者(副理事長)と教員組合執行委員長との文書調印ということになる。
後半は、教員評価システム(説明会)資料の説明を受け、意見交換の場となった。
教員評価システムが、いずれ試行段階・修正改善段階を経て、きちんと機能しはじめ、「ここの部分の評価に関しては全教員、ほぼなっとくできる安定的な制度となったので、しかも、評価のここの部分については給与への反映(対応関係)が合理的に理解できるので」といった形で労使協定が成立して、職務業績給に反映されるようになるためには、前提として、試行段階を充実する必要がある。
(過渡的措置として、19年度の結果が20年度に反映されることはない、という確認は労使双方で合意している。団体交渉における確認事項で、最終文案は確定していないが。)
大学らしい評価のあり方、大学らしい教員評価システムの確立のあり方・手順を模索し発見し、定着化させていくためには、教員も主体的に参加し、問題点を明確化し、改良改善の方策を提言していく必要があろう。
全員の教員が、自らの力量を正確に反映でき、自らの仕事を総体としてしかるべき適切さで評価に反映されるシステムに作り上げていけるように、その適切さ・公平さ・透明さによる内面的な合意と協力をもたらすように前進させることができれば、すばらしいであろう。
そのような主体的な制度形成の一つの場としては、それぞれの分野の評価部会(学部長等で構成)が、その部会に関係する全教員と評価問題で議論する場を設定すべきだ、ということを私の意見として表明した。
会議の最後に、日ごろ感じている意見を表明しておいた。
すなわち、
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こうした制度改革・制度構築においては、管理職が率先垂範すべきである。
管理職の具体的な行動によって一般教員の理解と納得をえるようにすべきである。
学長以下の管理職の率先垂範が、原則である。職員管理職に関しても同様である。
この間、昨年からの半年間、管理職は当然全員が、今回の評価システムに従ったしかるべきシート群をきちんと作成しているはずであろうから、説明会当日には、それを示してもらいたい(模範を示すように)。
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そうした率先垂範の姿勢・具体的証拠なくして(自分たちは後ろに隠れていて)、一般教員に「進め、進め、突撃しろ」といってもゆるされない、と。
今回の当局提案によれば、職務上、「評価者」の位置を与えられるとされている人々が、自らの目標設定、自らの目標実現の検証などをきちんとできていないで、それを公開しないで置いて、他の教員のシートを見て、あれこれいえるのか?という問題意識である。
種々の意味で「権限」をもつものたちによる「お手盛り」が許されてはならない、ということである。
制度によって与えられた権限に胡坐をかくことは許されないであろう。フェアではないであろう。特定一部のものが「権限」によって優遇されるような制度では、大学の教育研究は活性化しないであろう。
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3月9日(1)予定: 当局との最終的な折衝。新退職金制度に関する協定書文書確認(10時〜11時)。
その後(11時から12時)、教員評価制度の説明会文書の説明を受ける。
(組合の任期制・教員評価制度検討WGにもこの場への参加を依頼する)
その後の予定:
任期制・教員評価制度検討WG(書記長が長となる委員会)に、検討を依頼する。
3月15日の臨時拡大執行委員会において、WGの指摘を踏まえて審議する。
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3月8日
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3月7日(3) 昨日の日誌(2)で、危惧していたことが早速本当になった。
下記のような訴えが、教員組合に寄せられた。来週15日の拡大臨時執行委員会では、一つの議題としなければならないだろうと思われる。期限が、20日までということなので。
「猶予期間」が3年ということなので、制度設計の問題に関する議論は、少し時間をかけて検討することは可能だろう。
とりわけ、資格審査は、「教員評価」にかかわることであり、先日の労使合意により、号数のマイナス評価に当たっては、「組合と十分協議を重ね慎重に検討する」となっており、マイナス評価どころか「降格」が「想定される」という以上、組合は教員の訴えをもとに、当局と交渉していくことになろう。
下記の訴えのように、過渡期間においては、「講師」という以前の段階を設定する(保持する)、ということも検討すべきであろう。
すなわち、現在、当局から出されている職務段階ないしランク(教授、准教授、助教、助手)に加えて、「講師」のランクと表を(准教授と助教の中間に)作る、少なくとも、旧制度で講師の資格だった教員が本学に勤務している期間はそうした過渡的措置とする、ということにせざるを得ないであろう。
旧制度(準教授=助教授と講師の総称)と新制度(准教授への名称・漢字の変更で、講師を含んでいた準教授を分解し、助教授昇任資格の認定を受けたものは上のランクに、その資格のない人はそのままのランク=旧講師のランク・号の段階に据え置く)との整合性の点からも、それが必要となろう[6]。
現在、準教授という肩書きを得ている教員が、講師という肩書きになることも、通常ではランクが下がったと見られる。したがって、それだけでも、大変な「降格」の「恫喝」を意味するだろう。それは、当該教員への大きなダメージであるように思われる。「いじめ」の構造そのものだろう。
ところが、もともと講師だった人を、助手を助教と助手の二つに区別した新学校教育法での「助教」というランクに、つまり、講師よりもさらに一ランク下に降格することは、懲罰的な意味合いのようであり、大変な問題となるように思われる。
制度改変を契機とする大変な不利益措置、ということになろう。これは社会的市民的常識からしても、許されないであろう。
下記の訴えが言うように、「恫喝」文書で、資格の取得を促すようなやり方は、大学らしくないであろう。
「改革」の過程で、この種の「恫喝」がいろいろなところで見られ、それが大学の雰囲気を暗くした。
まだ、教員のそうした敏感な神経を傷つけることに思いの至らない人々がいるように思われる。
文書を出した責任者の感性・認識・責任が問題となろう。
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教員組合 御中
先程、サイボウズに、講師に対する恫喝とも受け取れる文書が掲載されました。
旧講師依頼文の5その他の(1)の部分です。
改正学則第55条 2 大学に講師をおくことができる。と明記されているのに
資格のない講師は、助教へ降格するとの恫喝が書かれてあります。
講師を置くことができるのに、何故、助教へ降格するとの恫喝をかけてきたので
しょうか。
任期制に同意していない講師が多いと聞いています。
添付ファイルとしてお送りしますので、ご検討いただければ幸いです。
参考のために、第8回教育研究審議会資料(39ペ−ジから改正学則)も添付しま
す。
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3月7日(2) われわれの執行委員会になって初めての組合ニュースが発行された。
この間、当局との交渉が流動的で不確定部分が多かったため、ニュースを発行することができなかったが、関係各位のご尽力でやっと発行にまでこぎつけられたことをうれしく思う。以下にコピーしておこう。
-------横浜市立大学教員組合週報-------
組合ウィークリー
2007.3.7
もくじ
● 執行委員会報告
● 新執行委員長の挨拶
● 新書記長の挨拶
● 新給与制度折衝の現況報告
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● 執行委員会報告
2007年2月15日(水)、選挙開票の結果を受けて、引継ぎ執行委員会が開かれました。主な議題は以下の通りです。
1、 執行委員選挙開票結果 (投票総数 114票)
重田麻紀子 113票
五木田和枝 114票
河野 純一 113票
永岑三千輝 112票
塚田 秀行 113票
松本 健吾 113票
2、 執行委員役割分担
委員長 永岑三千輝
副委員長 横山 晴彦
書記長 河野 純一
書記次長 石川 文也
会計担当 康 聖一
情報宣伝担当 塚田 秀行(週報「組合ウィークリー」担当)
重田麻紀子(週報「組合ウィークリー」担当)
塩尻 智之(組合ホームページ担当)
福利厚生担当 松本 健吾
給与調査担当 五木田和枝
安全衛生労働時間 小城原 新
3、 引継ぎ事項
当面の当局との交渉課題として、賃金、昇任人事、任期制、教員評価制度に関する問題について確認した。また、組合運営に関わる事項として、総会、代議員会の活性化や役員交代方法等の検討を行った。
● 新執行委員長の挨拶
ドイツ現代史、二つの世界大戦とヨーロッパ統合の歴史を研究している永岑です。21世紀日本の進むべき道を模索し建設する素材を豊かにできればと努力しています。
この数年、厳しい法人化の大波にもまれながらも、組合の存在と活動のおかげで本学の教育研究の基盤が何とか維持されてきたのだと感じています。今度は、その恩返しの番となりました。
本学着任1年後の10年前に執行委員をやりましたので、本学では2度目の執行委員です。先月、みなさまの信任投票の結果を踏まえた執行委員会において、前執行部のご推薦により、委員長に選ばれました。
新しい給与制度への移行期にあたり、不明・不安なことも多いのですが、総会で決められた活動方針にしたがいがんばりたいと思います。これまでの先輩・同僚・後輩のお仕事を引き継ぎ、次の執行部に無事お渡ししたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。
すでにこの間、独立行政法人化対策委員として12月27日には、当局の新給与制度提案の提示と説明の場に出席しました。1月11日および18日の補足説明を受け、組合側の本格的な検討が始まりましたが、何回かの臨時執行委員会に参加し、ウォーミング・アップもできました。そして、2月15日以降、新委員長として交渉に当たってまいりました。
留任の副委員長(新給与体制度検討担当)および書記次長の豊富な知識と精密な分析により、制度設計の難しい部分をかなり詳しく検討できました。その中で明らかになった問題点や検討課題は当局と文書確認を行い、3月2日、基礎的な諸条件、とくに基本給に関して労使合意に達することができました。
最初の関門をなんとか通過し、新執行部一同、一息ついたところです。しかし、任期制の同意・不同意を理由とする差別との闘いをはじめ課題は山積しています。
新しい給与体系はご承知のように基本給と職務業績給との階層的組み立てからなるものです。それは、グローバル化・市場主義化・新自由主義の荒波が独立行政法人化した公立大学の労使関係にも及んできたことを象徴するものです。これとしっかり対峙して[7]、公平・透明で堅実な制度にしていくことが求められています。
現段階では、新制度は根幹である基本給と職務・業績給との概念規定・内容、相互関係・運用方法など制度設計の基本部分において不確定であり、不明確さや問題点を残すものとなっています。根本的問題点は、特に、教員評価制度のあり方と関連しています。新給与体系は、ある意味では具体的な検討がすべて今後の検討課題、したがって当局との交渉課題となっています。
新執行部は皆様のご意見・ご要望を受け止めながら、しっかりと議論を積み上げ、粘り強く交渉に当たりたいと考えます。執行委員が気付かないたくさんの問題点が新しい制度にはあるかと思います。全組合員から、大小に関わらず、ご質問・ご意見・ご要望をお寄せいただければと思います。交渉の積み重ねによって、みんなが安心してこれまで以上に生き生きと教育・研究・大学運営・社会貢献に励めるようにしたいものです。
個々の教員の多面的で総合的な力量の発揮が給与等で的確に報われるような制度を作り上げていくためには、組合(執行部と組合員)が奮闘しなければならないでしょう。そのためには、評価の前提・素材となるわれわれの総合的活動を大学内外にわかるように提示する必要があります。総合的力量の主体・売り手として、自らの仕事をできるだけ全面的に提示することは必要不可欠だと考えます。現在、私たちは仕事を可能な限り正確かつ詳細に、また多様な方法で公開していくことが求められているのではないでしょうか。
われわれが未解決の問題点を一つ一つ解決していくことができ、全組合員が、そして同じ大学で仕事をする全教員が諸分野の貢献を正当に評価されることになれば、したがって、意欲と充実感を持って教育・研究・大学運営・社会貢献においてみずからの力をますます発揮できるようになれば、すばらしいと思います。そのために、微力を尽くしたいと思います。
2007年3月3日
執行委員長 永岑 三千輝
● 新書記長の挨拶
2月15日の執行委員会で、書記長に選ばれました。本宮前書記長のあとを引き継ぐことになります。恒例の挨拶を書かせていただくにあたり、まず、組合員の皆様に、挨拶が月が3月に変わってしばらくしてから、ようやく出るというように、遅くなったことをお詫びします。委員長挨拶、副委員長報告と、きちんとしたものが書かれていますので、私は少し、角度を変えて書かせていただこうと思います。
委員長の挨拶、副委員長の報告にもありますが、2月下旬から3月初めにかけ、当局との折衝が、数日おき、そして2月最終週から3月初めは、ほぼ連日、最後は、一日に3〜4回と行なわれたため、全く時間の余裕がなく、激務であること実感しました。
永岑委員長は、すでに昨年末から、当局側の新給与説明、補足説明、WGなどに数多く出ていたのですが、私は、今年度の組合の仕事を引き受けることになると予想していなかったため、他の仕事の予定を、年末から1月、2月初めにかけて多く入れていてしまっていたので、全部の席に出ることはできませんでしたが、でもそのうち何回かは同席させてもらいました。
とても永岑委員長のように、「ウォーミング・アップもでき」ていたとは言えません。そのような状態で、2月末からの当局との連日の厳しい折衝に臨むことになりました。これでは、まるで野球の9回裏に、突然グラウンドに登場したようだ、と思ったりしました。しかし、この9回裏の意味、そしてもし野球だとすれば、初戦なのか中間戦なのか、といったことは、理解していたつもりです。
副委員長の報告にもありますが、3月2日に、主として基本給の部分について、合意にいたりました。概略については永岑委員長の挨拶によって、また、詳しい説明は、横山副委員長の報告をお読みいただけると、基本的な点はおわかりいただけると思います。
昨年12月27日の当局による新給与制度の説明から約2ヶ月です。本来、もっと早く当局から制度の説明があるとされていたものです。それが年末まで説明がなかったわけですが、しかしこうした短期間で基本的な合意の成立できたのも、前執行部の努力があってこそだと思います。すでに2月には問題点がどこにあるかは明確になっていたからです。それでも、最終段階の折衝は、きわめて厳しいものでした。それを何とか乗り切ってこられたのは、拡大執行委員会の委員のサポート、さらには組合員の方々のさまざまな後押しがあったからだと思っています。
申し遅れましたが、私は新しい学部では「都市文化論」という授業を担当しています。オーストリア、とくにウィーンなどを取り上げて、他都市との比較や、都市の文化のありかたについてふれることが多いのですが、ある都市を取り上げて論じるときに、その背景をどれだけ我々は理解しているのだろうか、と学生によく話します。都市の文化といっても、もちろん突然出来上がるものであるはずはなく、長い歴史の中で熟成されてきたものです。ウィーンの市井の中の伝統に注目し、小文を毎月連載しているのですが、ウィーン大学で教えていたころから書き始めているので、もう17年になります。
そうした文を書き続けるうちに、都市の文化を本当に理解するためには、やはり彼らの話す言葉もわからなければいけないのではないか、と思い始め、ドイツ語のウィーン方言の研究に本格的に取りかかりました。たしか6年か7年前のことです。もちろんそれ以前もいろいろなかたちで調べてはいたのですが、外国人にとって、他言語の、しかも標準語とは大きく異なる方言は、とてもむずかしい上、本格的な文献もきわめて少なく、時間もかかりました。さらに最終段階で方言使用例をより広範に収集しようと思い、それに1年以上も費やすことになりました。こんな仕事は「プラクティカルなリベラルアーツ」ではないのでしょうね、などと冗談を言っていましたが、やっと昨年、本にまとめることができました。
このような仕事をしてみると、評価が毎年行なわれたとしても、6,7年は何もやっていなかったのと同じということになります。ウィーン方言の標準語との文法上の差異などといったことを扱っているわけですから、どれ程難渋したかは、おわかりと思います。「来年にはまとめられるでしょう」などとも言えません。他の本なら、2年続けて出したこともあるのですが、それも、数年の蓄積があってできたものです。仮に目標を設定したとしても、安易な妥協の産物として「これが業績です」というのは、研究者にとって自分自身を欺くこと以外の何物でもないでしょう。そうしたことを考えると、評価制度をどのようにしていくかは、この大学が、研究者の、本当の意味での、知の生産の場でありうるのか否か、という大きな問題をはらんでいます。
話を、少し戻しましょう。今回の、給与表のありかたを調べていてわかってきたことですが、法人化に伴う給与制度の基本設計と、今回の合意案とには実は開きがあります。つまり言葉を換えて言えば、当初の設計自体に無理があったのだといってもよいでしょう。同様に、大学自体の基本設計に問題がある、といってもいいと思います。その問題点は、このところ次第に顕在化しているといってもよいでしょう。また、職務業績給のありかたそのものも、われわれにとって納得できるものではなく、いったいそれがどういうものであるのか、明確にしていかなければならないと考えています。そして、教員評価制度に関する問題は、今年度の大きな課題です。当局は、3月12日から、教員評価制度の説明会を実施するとしています。これにどのように対処していくか、組合としても、真剣に取り組むつもりですので、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
2007年3月5日
書記長 河野 純一
● 新給与制度折衝の現況報告
昨年12月27日に当局から新給与制度案が説明されてから約2ヶ月が経過し、当局との折衝も大詰めに入った。先週は2月27日を除いて折衝の連続で3月2日(金)にその山場を迎えた。その日は午後から夜にかけて3回の折衝が行われ、最後の折衝では副理事長と局長が同席し新基本給の最終提示がなされ組合との間に合意が成立した。これに伴い18年度の凍結分の精算も決まり、残すのは主に退職手当の協議と合意文章作成・調印のみとなった。新給与制度の詳細な説明は別の機会とさせていただくとして、ここでは新給与制度に関する折衝の結果と現況について申し上げる。
これまでの年俸は、毎月の給料相当分(基本給に相当)と職務業績給(諸手当で構成)および年2回の賞与からなり、これに18年度凍結分の修正を行った後、新制度の基本給と職務業績給に移行される。移行においては現給保障されるが、職務業績給は将来的には教員評価の結果が反映され変動運用されることになる。組合としては、この不安定要素の大きい職務業績給の年俸に占める割合を小さくするため、上限を33号に設定された基本給(年額)の金額をできるだけアップして年俸の安定感を増大させることに大きな力を注いだ。その結果、当初提示された基本給に対して101,990円(1号)から162,855円(33号)(平均約13万円)、率としては、2.80%(1号)から2.54%(33号)(平均2.57%)増額させることができた。また、この基本給の増額により、当初組合が要求していた職務業績給の足伸ばしを、実質的に、教授で約6号、準教授で約8号、助教で約10号、助手で約11号実現することができたことになり、各職位の最高号での頭打ち問題がかなり緩和された。
今回の新給与制度における最も大きな問題である職務業績給に関しては、組合は、評価結果の反映対象と考えられる業績給が職務給と一体化された職務業績給の不鮮明さ・不適切さを指摘し、今後もその協議を継続することを求めるとともに、職務業績給が将来恣意的に運用されないよう歯止めをかけることに大きな力を注いだ。その結果、「職務業績給について恣意的な運用は行わない。特に、マイナス評価の職務業績給への反映については、組合と充分協議を行いながら慎重に検討する。」および「職務業績給に対する教員評価制度の結果の反映方法については、19年度に組合とあらためて協議を行う。」という文章を合意書に含めることに成功した。
平成18年度の凍結分の精算に対しては、組合は旧制度を適用して行うことを求めたが合意は得られず新制度によることとなったが、当初当局が提示した18年度から19年度の基本給の号間の1号差に相当する金額に対し、19年3月31日時点での職位における職務業績給1号相当分(教授26,320円、準教授21,385円、助手14,805円)を加えさせることができた。また、17年度と18年度に旧制度を適用したとき、給与表上の級が1つ上の級に移行する(いわゆるワタリ)資格を持っていた教員に対しては、その修正を行ったときに生じる差額も精算に含めることが決まった。
退職手当に関する最終決着はまだついていないので現況を中心に述べる。既に当局から平成19年3月31日で仮に退職したときの退職手当金額は最低保障するという経過措置が提示されているが、これに加えて、期限付ではあるが平成19年3月31日時点の基本給を退職時の退職手当基礎額とする経過措置も含めるよう現在要求している。また、新制度における退職手当は、退職時の職務業績給月額に一定の掛率を乗じた金額を基本給月額に加えた金額を退職手当基礎額とするが、この掛率を当初提示の0.5から大幅アップするよう現在要求している。任期制同意者が任期更新回数の制限により将来退職せざるを得なくなったときの問題については、その生活保障のため「任期更新回数の制限により退職となる者に対する退職手当規程の策定について今後検討する。」という文章を合意書に含めることが決まった。
旧講師で現在給与表上の2級扱いとなっている準教授については、「準教授への昇任内規に照らし合わせ資格審査を行う。資格に達した場合は、旧制度における処遇整理を行った上で、準教授の職務業績給へ移行させる。資格に達していない場合は、現在の給与水準のまま準教授の職務業績給へ移行させる。」と回答している。
新規採用者の職務業績給の格付けについては、組合は、在職教員の職務業績給に比べ大きな差を生じないよう配慮することを求めている。当局は当初、他大学から準教授あるいは教授として新規採用された者の職務業績給の格付け方法については、「準教授以上は他大学における同一職位の経験年数1年を1号相当として格付ける。」としていたが、組合からの批判と要求に対して、「職務業績給の運用方法が決着した段階で調整が必要となった場合は修正を行う。」という文章を追加した。また、企業・公的機関等から、準教授あるいは教授として採用された者の職務業績給の格付けについて、当局は「企業、研究所等からの転職者については、その規模等が異なることから、一律に評価することは困難であるので、ケースを積み重ねていきたいと考えている。平成19年度以降、当分の間の採用者については、個別に検討する。」と回答している。
新給与制度への移行の際に、各教員に対し、「@経験年数を明示する。」、「A旧年俸から新年俸への移行計算の明細を示す。」、「B平成19年3月31日時点で仮に退職したとした場合の退職手当額を明示する。」について合意を得ている。なお、任期制同意者に対する一時金については、新給与制度の問題とは切り離し、「給料表確定後(新給与制度確定後)、任期制の同意確認方法の説明とともに再度(組合に対し)説明を行う。」ということになった。
以上、新給与制度に関する折衝の結果と現況を報告させていただいたが、最終決着がついた段階で組合による説明会の開催を計画しています。
2007年3月5日
副執行委員長 横山 晴彦
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教員組合に皆様の声をお寄せください
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発行 横浜市立大学教員組合執行委員会
〒236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号
Tel
045-787-2320 Fax 045-787-2320
E-mail : kumiai@yokohama-cu.ac.jp
組合HP:http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm
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3月7日(1) 教養ゼミA4の第一回目の討論資料(説明会において第一回目の議論の素材を提供)を作成。「鉄は熱いうちに打て」。
ユリウス・カエサルは、塩野七生『ローマ人物語』(文庫版12)によれば、内乱に勝利した後、首都再開発構想と並んで、「ソフトな面での改造も考えていたのだ。教育水準の向上と、医療水準の向上がそれだった」と(p.189)。
「教師と医師
カエサルは、首都ローマに『アルテ・リベラーレス』(リベラル・アーツ)、つまり教養科目を教える教師と、医療に従事する医師の全員に、ローマ市民権を与えると決めたのである。人種も肌の色も問われない。民族も宗教のちがいも不問。条件はただ一つ、ローマで教師か医師を業とすること。
ローマ市民になるということは、まず、属州税に代表される直接税を免除されるという利点がある。第二に、ローマ法によって保障されるという、個人にとっての安全保障も意味した。
しかし、カエサルは、教育や医学を志すような人々は、右のような直接的な利益だけでは釣れない人種であることも知っていた。
それで、医師には、医療設備の充実で報いる。このカエサルの考えを継承した帝政時代の軍団基地の病院は、それについては帝政期を述べる際に詳述するが、これが二千年昔の病院かと驚くほどの設備と規模である。
一方、教養科目を教える教師たちには、彼ら自身の勉学の機会と、生活の糧を得るための場所まで提供した。『カエサルのフォールム』内の国立図書館は、それ自体がすでに研究所であり、数多い『エセドラ』は、私塾のための一郭であったからだ。・・・・・
それにしても、教師と医師は、人間社会での彼らの職業の重要さを歴史上はじめて公式に認めた人として、カエサルに感謝してしかるべきかと思う。教師と医師へのローマ市民権授与は、まもなくイタリア全土に広まり、その後もローマ人の移り住んだ植民都市や軍団基地にまで波及し、果ては広大なローマ帝国の全域におよぶようになるのだから。」(同、189-191ページ)
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3月6日(2) 午後3時から5時近くまで、当局と事務折衝。退職金問題。
組合側の主張と当局の立場の説明・議論。もちかえり、検討。
八景キャンパスにおいても、2回、教員評価制度の説明が行われることになった。当初から予定の3月20日のほか、3月27日にやることで調整中とのことである。3月20日に学会等で説明会に参加できない教員も、2回目のチャンスには聞くことが可能となった。
もちろん、福浦キャンパスなど、他のキャンパスの説明会に参加することも可能なので、説明をきちんと聞くチャンスは、確保されたと見ていいであろう。
重要な制度に関して、できるだけ十分に教員の納得を得ることが大切なことは、この間の種々の難問(その強行的押しきりの場合の厄介な問題の積み残し)から考えても、明らかであろう。また、教員の納得がいかなければ、教員評価制度は機能しないというのは、副理事長の発言でもあり、その基本スタンスでの丁寧な説明会開催方針と解釈できよう。
就業規則変更等に関して、いくつか、当局から教員組合に対して情報(文書)提供あり。
一つ問題になったのは、「準教授資格の確認について」(3月6日付文書)であった。
この間の法人化において、準教授に昇任した人の中に、講師から助教授への昇任時期を迎えていた人で、ペンディングになっている人の処遇(昇任手続き)などに関連し、準教授としての資格をどう確認するかに関することである。
気になる箇所があり、それは、問題点として指摘しておいた。
「今回の資格確認により資格がないと判断された場合は、3年間の猶予期間を設けますので、その間に資格を取得するように」という箇所(学部長など、当該教員の所属機関長宛て)である。
該当者への文書では、3年間の猶予期間内に「資格取得ができなかった場合は、助教への移行も想定されます」と、降格の可能性さえも想定している箇所である。
法人化への移行期に一挙に、何の審査もなく「準教授」にしてしまったことのために、こうした事後処理問題がでてきているということだろう。ただ、「3年間」というのが妥当かどうか、そのときの審査機関・審査基準などに関して、問題は残りそうである。
厄介なことになりかねないとは、事務折衝に当たった執行部の感触である。
準教授としての資格を与えて、この間単位認定などを行ってきたこととの整合性などが、副委員長から指摘された。
労使の最終合意文書の調印はまだであるとはいえ、3月2日に、次の確認においては合意に達しのであり、それによれば、「職務業績給について恣意的な運用は行わない。特に、マイナス評価の職務業績給への反映については、組合と十分協議を行いながら慎重に検討する」、としているのであって、この合意内容との整合性も問題となろう。
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3月6日(1) 午後3時から事務折衝(先日の文言確認と退職手当関連の折衝を予定)。
助手の助教への昇任問題:
法律改正に伴うもので、任期制への同意・不同意を問わず、簡単な形式的届出文書の提出で、昇任。
一方で、任期制不同意者は、その同意書を提出していないという厳然たる現実の中で(また同意書提出を強制しないという当局の当然の約束の上で)、助教に昇任。
他方で、任期制同意者、すなわち同意書を提出しているものに関しては、「任期は5年で再任は1回可」という文言の上で(心理的圧迫、いや実質的にも?)、昇任。
これだと、制度内容が不確実な「任期制」に不安を抱えたまま何らかの事情で同意した助手の立場が、不利・不安定になる。
この「任期制」に同意した(種々の事情でせざるを得なかった)教員の不利・不安定な立場を守るためには(安心して教育研究にまい進できるようにするには)、
一方では、「任期制」の制度内容を労使合意できちんと整備することによって、
他方では、その労使合意の明確な制度設計(最低限、再任条件の明確化・明文化)の発足にいたるまでは、任期制同意者に不利益措置を行使させない、ということだろう。
任期制の明確な規定、再任条件・再任審査基準・再任審査機関・不服審査機関などの明示なしの同意書、ということからして、任期制に「同意」したものは、一般的な制度への同意を示したに過ぎず、特定の任期に関する具体的な条件提示のない段階の同意にしか過ぎない、と言う点は明確である。
(たとえば、青森公立大学の任期制の場合は、5年間に学会発表1回以上、紀要等も含めたところに論文3本以上などといった明確な再任条件が明記され、それぞれに適用される大学教員任期法の条文・項目が記載されている。そうした明確な規定が提示されていないと言う意味である。)
その意味では、実質的には、任期制同意者も、任期制不同意者と同じ法的位置にある、
とするのが、少なくとも弱い立場にある助手を守る組合の立場であり、これまでの組合の一貫した立場(同一労働・同一賃金、不当・不法な差別を認めないとの原則)であろう。
大学の発展、活性化という観点からすれば、「任期制」に同意している教員も同意していない教員も、それぞれの教育・研究・大学運営等の貢献・社会貢献が自由にのびのびとしたものとなって、しかるべき分野でしかるべき成果を挙げ、しかるべき基準の昇任基準をクリアし、次の段階へ、すなわち準教授へと、全員が昇任していくように、環境条件整えることが大切であろう。
もちろんなかには、しかるべき期間にしかるべき教育研究業績を積み上げることができない教員も出る可能性はある。
しかし、その場合、その責任を当該教員だけに帰していいかどうかは、きちんと考えるべきである。採用時点で、本当にきちんと当該教員の能力を判定したのか?
採用時に教育研究能力という最重要部分の判定ではなく、他の学問外的な・大学らしからぬという意味で「いかがわしい」判断基準が入ったのではないか、など、審査した人々の責任(審査システムとその責任者などの責任)も問われなければならないだろう。
その意味では、当該教員の処遇においては、採用時に審査した側の責任も問うことができるシステムが必要となろう。そうでなければ、いい加減な採用人事をしたことがまかり通ることになる。大学は腐る。
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3月5日 教員組合ウィークリーのために新委員長挨拶の文章を書き上げ、情報宣伝担当執行委員に送付。
年度末会計処理の最終段階の処理。
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3月3日 昨日夕方、6時半からの予定の当局折衝は、組合側が提出した第4次要求書への当局対応の問題もあって、時間が遅くなり、7時半ころから再開。
正式な組合文書は、今回の給与改定交渉で一貫して組合側の中心となった副委員長の総括文書において、また経過と結果に関しては書記長がまとめて、ウィークリー等で知らされることになろう。暫定的なメモを書いておけば、つぎのようなことだろうか。
@
教員評価説明会のあり方をめぐる議論、13:30分からの当局折衝で提出した第4次要求書の取り扱いをめぐって、相当に激しいやり取りとなった。
A
しかし、その厳しい、時に激しいやり取りを踏まえて、一定の相互了解に達した。
B
当局は副理事長との調整、われわれは一昨日の臨時拡大執行委員会での最低限の妥協線を確認の上、10時近くになって、基本給に関し、副理事長(最高執行責任者)が、事務局長も同席の場で、最終の基本給案を提示し、教員組合委員長との間に合意が成立した。
C
残るは、退職金規定などに関するものだが、退職金の新制度の実際の適用者は一定年数経過後であり、今後つめていくことで合意した。(新制度への移行期間、掛け率など)
D
H19年度に、教員評価制度の設計をめぐって労使交渉を相互に誠実に行うことを明文で確認。
E
しかし、その議論に入る前提として、職務・業績給制度に関し、われわれが求めた最低限の安全保障の明文化でも合意に達した。
F
「職務業績給について恣意的な運用は行わない。特に、マイナス評価の職務業績給への反映については、組合と十分協議を行いながら慎重に検討する」、と。
昨年12月27日に始めて当局案が提示されてから約2ヶ月間、教員側の執行委員の交替期、年度末超多忙時期とも重なり、一時はどうなることか相当に神経をすり減らすところであったが、無事、基本的な部分で合意に達することができ、継続審議事項を確認し、明文化できたことは、労使双方にとって、良かったことだと考える。それは基本給に関する合意成立後の双方の穏やかな雰囲気での会談において確認できたといえよう。
当局側担当者と組合4役との気楽な意見交換において、話題となったのは、評価のあり方に関してであった。民間企業における評価でさえ、なかなか大変な問題があり、いろいろの修正・改変が行われていることなどが話し合われた。大学教員の場合の評価の難しさに関しても、いろいろと話し合った。
来週、最終的な確認書・合意書の詰めを行い、正式に副理事長と教員組合委員長による調印ということになる。来週の交渉は、6日に行うこととなった。組合事務室に引き上げたのは、10時半を過ぎたころだった。
書記次長は、科研費による出張で本日イタリアに向け出発したが、その海外学術調査の前日に、夜半まで、労使交渉に精出したということである。当局側も大変だったとは思うが、われわれも大変だった。ただ、基本的な部分で合意に達したことで、報われたように感じる。
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3月2日(2) 入試関連業務を終え、一部の年度末会計処理を終えて、ボックスに入っていた文書類を研究室に持ち帰った。
未処理の雑件を片付けることに気をとられ、そのときは気付かなかったが、副委員長、書記長からの注意を受けて見直してみると、「教員評価制度の実施と人事給与制度の変更点について」の説明会の案内ビラ(A4)が、含まれていた。
「教員評価制度は、自己点検・評価を行い、各自の強みをさらに向上し弱みを克服することにより教員としてのレベルアップを図り、本学全体の教育・研究・診療活動をさらに活性化していくことを目的とするものです」とある。
その目的に異論はなく、活性化のために何をなすべきか、全教員で議論を積み上げていく必要があろう。
われわれ教員組合の圧倒的部分が活動する八景キャンパスでは、3月20日15:30、カメリアホールと書いてある。 2時間ほどの説明だという。
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3月2日(1) 昨日は、一日、朝9時から大学業務、次いでコース会議、さらにその後、臨時拡大執行委員会で、22時まで。
昨日のコース会議では、学生諸君にとって不利なこと、われわれから言えば履修ガイドなどで説明してきたことの「修正」を迫られるかもしれない問題がおきていることを知った。
そもそも、三つの学部を統合して、国際総合科学部を創設したとき、その理念は、名称のとおり、学部の総合性にあり、同じ学部内の科目はこれまで以上に自由に履修でき単位となる、ということだった。それが、別々の学科や学部ではなく、一つの学部の中のコースである、という意味であり、自由化・総合化の位置づけであった。
ところが、TOEFL問題と同じく、これも、カリキュラム体制・コース体制の最終確定段階で、実に不自由な、閉鎖的な画一的システムに変更されてしまった。
「囲い込み」をやろうという勢力いた(発想が働いた?)のであろうと思われるが、コース間の履修制限を厳しくしたのである。かつての学部や学科よりもコース間の垣根が高くなった。
どんなことがおきたか。
たとえば、同じ国際教養系のなかの人間科学コースと国際文化創造コースの間でさえ、相互のコースの学生の別のコースの科目の履修が非常に不自由になった。
具体例を示そう。
私の場合、当初、「ナショナリズム論」は人間科学コースの科目、「ヨーロッパ社会」は国際文化創造コースの科目として設定された。それは、同じ教員がいろいろなコースの科目を持っても良く、また学生も、いろいろなコースの科目を自由に取れることと対応するものとしての設定であった。教員は、研究院に属すのであり、コースへの配属は適宜自由に行うと言う趣旨でもあった。
ところが、最後の最後の段階で、これがひっくり返えされたのである。
それを私が知ったのは後からである。
国際文化創造コースの学生は、人間科学コースに設定された「ナショナリズム論」を履修できない、履修しても、国際文化創造コースの単位とはならない、と。逆に、「ヨーロッパ社会」の科目は、人間科学コースの人や経営科学コースなど、他のコースの人がとっても単位にならない、と。
それではあまりにも不都合と主張し続けた。
その結果、その後やっと、関連科目、国際教養系のなかでは、二つのコースの共通科目と言う位置づけを行い、どちらのコースの人も履修が可能でしかも単位として認定される、ということになった。
その意味では、コース間の垣根を低くすると言う当初理念(学部・学科の狭い壁を取り払って総合的な学部を作ろうと言う理念)に合致する修正であった。
コース間の垣根が高く設定されてしまったことから、三つの学部が存在した当時に比べても履修制限が厳しくなったのであるが、それでは、コース内部の履修科目が少なくなってしまう。
せっかくの多様な科目の設定も生かされず履修制約が多いので、いくつかの科目で、たとえば「ヨーロッパ社会(1)、(2)」と言うような隔年科目を設定し、同じ担当者の同じ科目でも、2回は履修できるように工夫した。
これは、一つ一つの科目が2単位科目であることから、かつての4単位に相当する内容を教えようとするときには必然的におきることである。
ところが、コース会議で練り上げてきた微修正、このような学生のためのカリキュラムの微修正に関して、いろいろと問題を指摘する(私からすれば難癖)声が出てきて、新しい履修ガイドの作成もストップしていると言うことである。
学生のためのカリキュラムの充実は、柔軟に行い、しかるべき段階で文部科学省に伝えればいいのであって、こまごましたところまで当初の科目体系とまったく同じでなければならないと言うのは、問題である。
かつて、三つの学部があったときにはそうしてきた。それが、突然、「できない」などといわれる始末。
ここでもまた、実におかしなことが起きているようである。さて、どうなることか。
人事問題でも、実に奇妙なことがおき始めているようである。いずれ、社会的に明らかとなろう。そのとき、誰が説明責任をとるのか?
素人が密室で議論していても、間違いを起こすばかりであろう。
全教員の自由な発言の場としての教授会がない(1年一回のセレモニーだけ)ことが、ここでも問題を引き起こす一つの原因となっている。
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3月1日(2) 昨日は、3役(副委員長・書記長・書記次長)が、17:30から20:45ころまで、事務折衝で、給与改定システム(新給与体系)の不明確・不確定な部分に関して、少しでも解明すべく、緻密な議論を行った。その結果を、私も含めた4役で22時50分ころまで議論した。本日の3時からの事務折衝、そして19時からの臨時執行委員会への提案の素案を議論するためである。
副委員長・給与問題WG長の実に詳細緻密な詰め(私には気の遠くなるような精密なデータと計算、お話を伺っていてもしばしば良く理解できないこともあるほど綿密)で、いろいろな点が明らかになり、また、教員の生活・教育研究条件の安定化のために一定の確認が取れるなど(ただし、当局側回答にはまだ重要点で不明確なものがあり、この点で最後のきちんとした詰め、安心して次の段階に進むための最低限の確認が必要)、基本的な部分に関して一定の前進が見られた。
ただ、職務業績給(職務給と業績給の概念の明確化・相互連関など)に関しては、当局側も緻密な制度設計や概念規定をしているわけではなく、われわれの側からの問題提起にも答えていない。この段階で、また、H18年度給与改定・凍結分清算の予算措置・事務処理のために残された時間的制約の中で、ぎりぎりのところまでつめるにしても、継続交渉課題として確認書(給与改定合意文書内に箇条書きで明文化するなどで)残すしかないように思われる。
教員組合が行っている交渉においても明らかなように、職務業績給の明確な規定は存在しない。
今年に限れば、「現給」保障という根本前提の下に(トータルではマイナスがないという根本前提、ほんの少しでも職務や業績の蓄積で給与にも上乗せがある)、話が進んでいる、というに過ぎない。
その意味での「現給」保障の根本前提があるからこそ、内部の配分(基本給なるものと職務業績給の分け方・傾斜)などの検討に入ることができているのである。
長い間の大学教員の累積的実績を踏まえた上での「現給」を前提としつつ、時間をかけての一定の改善が可能であるに過ぎない。
その根本を忘れた議論(新制度の提案)では、誰も納得しない。
当局が、教員に不安感を抱かせることに喜びと意義を感じるなら別だが、それでは安定的な制度の提案にはならない。
不確定部分・未決定部分については、たとえば、新規採用者の格付け(位置づけ)問題[8])、退職金制度のあり方なども含め、確認書に継続交渉事項として明記しつつ、妥結に進まざるを得ないであろう。
昨年11月の団体交渉記録さえいまだ確定できていない異常事態であり、その確定作業も次の重要折衝課題となる。事務折衝では決着がつかないとすれば、この確定のためだけでも、新たな団体交渉も必要になるかもしれない。
昨年12月27日の当局提案、1月11日と18日の追加説明で当局側の新給与体系提案の骨子がわかった。
その後、具体的折衝に入ったわけで、この教員サイドにとって一年間で最も神経の消耗する時期と重なったことから考えても、教員組合側(とりわけ事務折衝にあたる副委員長・書記長・書記次長)の疲労の蓄積と、にもかかわらずの誠実な態度は、確認しておかなければならないだろう。
教員の執行委員は、年度末、試験の採点、成績判定、学位審査、その報告書作成、科学研究費の報告書・会計処理など教育研究関連、さらには社会貢献関連のいくつもの仕事をこなしながら組合関係の仕事もやっているのであり、経営サイドの専任職員とちがい、給与関係、組合関係の仕事だけをやっているわけではない(仕事の量と人員との関係で経営サイドの専任職員も、上のほうはどうか知らないが、直接交渉の前面に立つ人々の場合には、過重労働に陥っている可能性はある、とりわけ給与改定の難問群がある現在のような場合には)。この教員の置かれた事情からすれば、3役は、ベスト以上(言葉の矛盾をあえて無視して)の仕事をしていると考える。
職務・業績給の体系と密接に関連するのが、大学教員の人事評価システムである。これに関する「新たな」法人案ができつつあるようであり、その説明会が、最初に福浦キャンパス(医学部)で、ついで瀬戸キャンパスなどで行われるとのことが、事務折衝の場で、当局側担当者から明らかにされた。瀬戸キャンパスでは、3月20日だということである。
誰が説明責任を負うのか?
誰が説明するのか?
だが、そもそも、新しい提案の前提は何か?
昨年秋の「試行」が、どのような意味で「試行」であったのか?
「試行」の実績は、どのようなものだったのか?
そのデータは?
その試行において発生した問題はなんだったのか?
試行に参加した人数は、専攻分野や学部によってどのように違うのか?
その専門分野の違いによって、試行に参加した人はどのような感想を持っているのか?
一言で言えば、「試行」の総括が何もわれわれ教員に示されていない。
「評価者」は、管理職だったのか?
どのような資格の管理者なのか?
その力量は?
その訓練は?
評価するものが評価される。被評価者が、評価者を評価するシステムも組み込まないと、評価は一方的になる。
仄聞するところでは、「試行」に参加したある教員の場合、エフォート欄の書き方に関して、管理職が介入してきたともいわれる。
その介入の基準は、どこで誰が決めたのか?
評価の権力を握るもの(一次評価者、二次評価者・・・)が、勝手に個々の教員のエフォートのあり方(教育・研究・大学運営・社会貢献の諸分野への仕事の時間の割り振り、エフォートの割り振り)に介入しては、精神の自由、学問の自由はなくなる。すでに、試行段階で、そうした介入がなされたとすれば、重大事態である。こうした点を逐一、事実に即して明らかにしなければならない。
そうした不確定・不明確な事態、管理職(「上から」、「外から」任命された人々)の恣意的介入の有無などが、なんら明らかになっていない段階で、次の一歩は、どこまで踏み出せるのか?
不安を撒き散らすだけではないのか?
不安を解消するには、全教員による評価システムの問題点の解明が必要である。
人事評価システムは、大学を活性化するか腐敗させるかということでは、給与体系以上に(あるいは、評価が給与に反映されることを考えれば、決定的に)重要なテーマである。大学の自治・学問の自由にとって、人事権(人事システム)が生殺与奪の意味を持つことは、すでに明らかにされているとおりである。(芦部『憲法』)
権力サイド(任命権者、予算掌握者などの権力=執行権力)が学長、学部長、研究科長をはじめとする管理職を自由に(恣意的に・・・社会的説明責任抜きに、社会的に透明な選考基準、選考主体の選び方の不明確さなど)任命し、人事を行うことになるならば、その大学は、権力の言うままの大学となってしまう。
その危険性はすでにあり、その兆候もすでにある。
学長は、大学人から選ばれたものではなく(民意の問い方はいろいろあるであろうが)、経営サイドによって一方的に(対立候補の選考過程も含め、選考システムを検証せよ)選ばれ任命されたものであることが、その象徴的事例である。
教員組合は、この人事評価システムには、全力で、全組合員、そして全大学人の意見を集約しつつ、対処していかなければならないであろう。
自らの評価、自らの学問の自由、精神的自由(即、成果・業績のあり方)に深く関わる人事評価システム、したがって大学人の生殺与奪に関わる問題である以上、説明会には、全組合員が、また非組合員も、参加し、不明な部分、不公平な部分はしっかりと指摘し、改善させるようにしなければならないだろう。
法人案の策定過程には、大学人のごく一部の人間しか関与しておらず、全教員による公然たる議論を踏まえたものではないからである。かつてなら教授会できっちり時間をかけて議論したはずのものである。
「説明会」が、真に大学人の総意を結集する契機となるのか、「お上」からの通達の場、これまでの多くの「説明会」のように、単なるセレモニー・アリバイ作りとなるのか、大学の今後にとって重大な分かれ目となる。
教員組合には、そうした大学人の声を集約して、評価システムの健全な構築(問題点の適切な指摘・運用における問題点の指摘・批判、建設的改善など)に主体的に関与することが求められているであろう。
教員組合の執行委員会には、評価制問題のワーキンググループを書記長を長として立ち上げており、組合員・非組合員を問わず、また教員だけでなく学生・院生・職員・市民などからのそこへの意見集約をお願いしたい。
評価システムと評価が透明・公平・的確であればあるほど、大学は活性化し、自由な創造的な大学として発展するであろう。
教員の評価は、総合的に(教育力・研究力・大学運営力・社会地域貢献力の総合として)、かつ長期的見地で行われる必要があろう。視野狭窄的な短期的数値的評価基準は、大学を殺し、教育・研究・社会地域への貢献を貧弱にしていくであろう。
また、教員の評価は、学問・科学の論理と基準にしたがって、行われなければならないだろう。
経営サイド、「上から」(?)任命された管理職による一方的評価は、大学にはなじまないであろう。
管理職であることと学問・科学の到達点・見地・力量とは別だから(必ずしも照応しないから)である。また、人事権・予算権を掌握する権力者による評価、ということになるからである。
管理職は、評価のあり方(評価の内容)に立ち入ってはならず、評価のシステムの立ち上げだけ、その管理運営の枠組みの設定だけに徹するべきなのである。評価委員会は、経営からは独立に、形成すべきだろう。
その点からは、まず、全管理職に関して、その学問的業績、教育や研究の業績、社会や地域への業績などを総合的に検証してみる必要があろう。どのような照応関係になっているかを、すくなくとも全教員・全学生院生・全職員・社会が見ることができるように(判断と評価はさておいても)しなければならないだろう。
それは、経営サイド職員管理職に関してもそうであろう。
どんな仕事、どんな業績を上げてきた人なの、と。
「上から」決まったことをオームのように繰り返すだけの人なの、「上」のほうだけを見ている人なの、それとも、しっかりした大学および教員に関する見識、理解をもった人なの?、と。
大学を支える事務組織の力量は、大学の教育・研究・大学運営・社会貢献のあり方に深く関わるであろう。
端的にいって、事務組織の力量がなければ、事務的仕事が教員の負担となる。そうなればなるほど、教育・研究・大学運営・社会貢献などに裂くべき教員の時間・力量は切り裂かれ、圧縮されるからである。
率先垂範、これが大学活性化のためにも、求められる管理職の資格要件であろう。
大学における長は?
経営における長は?
事務組織における長は?
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3月1日(1) 朝9時からは大学業務。
コース会議(16:10-17:40)、
19:00から 臨時拡大執行委員会(現執行委員会+独立行政法人化対策委員)
[1] この就業規則の改正こそは、本格的な態度であるべきだろう。「上から」、「外から」の「改革」であるため、現在の市長の時代には、関内当局者の態度から、変更不可能かもしれないが(独立行政法人が独立的であればそうではないはずだが)、それはそれで、歴史的に現在の市長の問題性を長く記憶にとどめる素材となろう。
[2] 合理的合法的な制度ならば、その合理性・合法性をもって、社会的説明責任を果たしながら、教員の納得を得るようにしていくべきものである。
任期制に関していえば、まさにそれが教員の生活や精神の安定に、制度設計の内容次第で決定的に重大な影響を及ぼすわけだから、それだけに慎重に。
十分な合理性・合法性が証明されさえすれば、それに受け入れない、納得しないのは、異常となる。そうした提案に従わないのは、頑迷固陋となり、教員が社会的に指弾されることになる。
逆の場合には、強引な押し付けとなる。そうした強引な押し付けに関しては、弱い立場の個々の教員の立場を守るのが組合の立場となる。
[3] 教員は、各種委員会など大学運営に大きく関わっている。その負担は委員の種類、担当期間によってはかなり大きいものがある。それは大学経営にも密接にかかわる。ところが、この教員の大学運営における貢献、その力量の向上に関しては、上記の「活性化」の項目には欠如している。不思議である。
大学運営は法人・管理職サイドだけが関わること、といった発想が背景になければいいのだが。
「商品は経営に口出しするな」とは、かつての怒涛の改革時期にある事務系管理職が発した言葉であるが、その悪夢が脳裏によみがえる。
大学の教育研究等諸活動は、経営の力によって大きく左右される。経営に口出しし、問題点を指摘し、いろいろと希望を述べるのは、教育研究の使命を果たす上で必然である。
それを適切に処理するのが経営の手腕であり、経営力である。
経営への諸要望を出す、「口を出す」ことこそ、経済に関わる全教職員の建設的意見をくみ上げる(意見相対の中方建設的なものをよりだす)ために必要なことであろう。
[4] peer1
1 《社会的・法的に》地位の等しい人, 同等[対等]者; 同僚; 《古》 仲間 (companion).
・without a peer 無比の, 無類の.
#vt …に匹敵する; 《口》 貴族に列する.
#vi 匹敵する〈with〉.
[OF<L par equal]
[株式会社研究社 リーダーズ英和辞典第2版]
[5] ある人が学問・科学の土俵で、当該学問・当該科学の論理に従って適切な評価・批判・コメントを行えるとすれば、その人はもはやその実質において、門外漢・素人ではない。
[6]助教授への昇格・昇任審査をして、その資格を得る人はランクは准教授で、号数が上がる。
今回の昇格・昇任審査で基準を満たさない人は、これまでの号数水準で、身分は准教授と位置づけるが、ただしそれは一定猶予期間だという。「猶予期間」の後、助教への降格も想定される、と。
[7] 今評判の、渡辺淳一『鈍感力』の内容を検討しなければならないが、外部から流れてくる表層的情報にあまりにも過敏に反応し振り回されることに対する抵抗力を称揚し見直しているとすれば、一読に値するかもしれない。
[8] 大学では、民間企業のように22歳で大学を卒業しそのまま就職というのが圧倒的多数の場合と違う。民間企業でも、最近では中途採用も増えているようだが。
大学教員の場合、大学院進学においてもいろいろと違いがあり、大学院終了時点もいろいろとちがいがあり、さらに、大学の職につく上でもいろいろと違いがある。
民間企業・民間研究所・国公立研究所などに就職したりしている場合も多い。
そうした人を40歳とか45歳、50歳、55歳などで採用する場合、どのような格付け位置づけとするかは大学の教育研究社会貢献等をどのように位置づけ評価するかと関係してくる。
これは、大学経営のうえでも重要な問題であり、また、対外的姿勢を示す一つのはっきりした姿勢の問題でもある。
どのような教育研究者をどのように位置づけて採用するか、それは大学の全体の姿勢を示す。大学の自治・自立、大学の教育や研究に対する姿勢を最もはっきり示すといってもいいかもしれない。
採用人事のあり方は、一般的にも、大学においても、決定的に重要なもの代である。