328日 『カメリア通信』第57が発行された。一楽教授が吉岡元教授の著書を紹介している。

また、本学元助教授の吉田氏も、「全国国公私立大学の事件情報」(325日付)で、書評を公開していることを知った。

これらも刺激となって、吉岡氏の著書自体が、大学自治に関心のある多くの人々に読まれ、検討の素材となることを期待したい。

それは、過去のことのためではなく、現在の大学の改革のためにである。本書は、そのための再考の機会、反省材料を与えるものとなろう。

自治の再建は、現在の教職員、学生院生と向き合っている人々が担っていくしかない。

4月から新しく発足する三つの研究科、その研究科教授会は、自治再建への道において重要な機能を果たすことになろう。また、そのように機能させなければならないだろう。

 

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322日 ベルリンのマックス・プランク協会(この組織にたくさんの研究所が属している)のアルヒーフ
への出張で、15日に出発して今日22日の昼過ぎ帰宅した。
ベルリンでは文書館の仕事に集中するためもあって、インターネットには一切アクセスしなかった。
帰国してメール類を確認すると、この間に、吉岡先生のご本に関する情報が入っていた
 
紀伊国屋書店BookWebで、「横浜市立大学」で検索すると、「さらば・・・」がトップででてきます」とのこと。

 

 

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3月6日 吉岡先生のご本(下田出版株式会社)を入手した。2001年ころからのことが、次々に思い出される迫力ある内容となっている。

 

「改革」で大ナタを振るった人物の「この野郎」発言をはじめ、この本で初めて知ったことも多い。忘れていたことも多い。

「廃校」の脅かし、「赤字」と「累積債務」の意図的誤用など、「改革」を強行的に進めようとする品性を欠く(不適切な)文言が横行したことも、本書を通読していると、改めて鮮明に思い返される。

財政危機を大義名分にいかにひどい言辞・ロジックが横行したことか。新自由主義の荒波が大学には既に78年前に押し寄せ、この間はそれとの苦闘で過ぎさった。

冷戦体制崩壊後の新自由主義の跋扈とその問題性が今や世界的な大恐慌となって露呈しているとき、本学の「改革」を主導した新自由主義の嵐とそれによる破壊についても、本書によって再考・熟慮の貴重な機会が与えられた。

 

「“廃校”という選択肢をいつもちらつかせながら、言うことを聞かなければ廃校にするぞと恫喝している」(同書51ページ)のは過ぎ去ったことではないのではないか。

PEの一律基準[1]を分野・進路等を問わず全学生(といっても現在では二つの学部の間で一線が引かれているが)に押し付けたままで、「クリアできなければ何年でも留年せよ、留年できなければ去れ」と受け取るほかない現在のPE制度[2](カリキュラム上の「弱者切り捨て」)において、恫喝の精神は継続していると考えられるのではないか。

 

「進級」制度の合理的説明は、私の理解できる限りでは存在しないのである[3]。本来、それを審議すべき教授会、制度の変更や修正を行うべき提案とその議論もないのである[4]

 

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なぜ、2年から3年に進級制度を設けたのか?

2年から3年に進級するとはどういう意味か?

進級において、なぜPEを基準とするのか?

PEと国際化とはどのように関係するのか?

PEは専門教育(専門教養)のカリキュラム体系とどのように関係するのか?その関連性の説明はどこにあるか?全学生を拘束する以上、全学生に対して明快な説明が必要だが、それはどこにあるか?

国際化とは英語会話力のある基準の突破ということか?実践的な英語読解力は?専門のための英語力は?

進級によって、何が変わるのか?

その変化は、PEと内在的論理的に関係しているか?

2年までのカリキュラム体系と3年以降のカリキュラム体系のどこが、PEを進級基準とすることで、どのように違うのか?

3年以上のカリキュラムのために、なぜPEが必要なのか?

PEによる進級制度が必要として、それが、1年次から2年次であってはなぜいけないのか?あるいは、卒業までにPE基準をクリアすることでなぜいけないのか?

換言すれば、なぜ全学生に対してTOEFL500点(TOEIC600点)でなければならないのか?(一部特定の人々の考えを国際総合科学部の学生全員に問答無用で押しつけているだけではないのか?)

すでに医学部(しかも二つの学科は別々)は、初年度からPE基準の画一性の問題を認識し、PEのクリア基準を独自に設定している。

したがって、私の得ている情報が正しければ、PEの画一的な基準による留年は、医学部(その二学科)においては発生しない。こうした学部間・学科間で基準の設定において差がある以上(コースや専門に応じて違った独自の政策が可能である以上)、「中期目標」を大義名分にして、PEの現行基準に固執することは許されない(合理性、必然性がない)。「目標」とはあくまでも目標であり、しかも、全学的議論を積み重ねたものでないことは、吉岡氏の著書が明らかにしている諸問題から浮かび上がってくるだろう。

にもかかわらず、なぜ、検討しないのか?(学生諸君の悲痛な声は漏れてくるが、少なくともわれわれに聞こえてくるのは、「中期目標」の見直し(それにあと2年かける)によってしか変更はないだろうと。とすれば、その間に、いったいどれほどの学生がキックアウトされることになるのか?

 

4年間かかってPE基準をクリアした学生(2年次に据え置かれた学生)が3年次・4年次の必修(文科系では演習)をとるために、すなわち、3年次演習ひとコマだけのために、一年間、4年次演習のためだけにさらに1年間、したがって、ひとコマのために50万円(2年間で100万円)以上の学費とその他の生活費(住宅と食費で1年間100万円か、2年で200万円か)を支出しなければいけないのは、合理的ないし妥当か?学生本位、教育本位のやり方か?

 

入学案内でPEの進級制度は示しているから問題ない。悪いのはそうしたところに十分に気をつけなかった受験生だ、という説もひそかに語られる。

しかし、進級実態、大変な事態になることは、入学前の案内で充分に合理的に説明しているか?

どの程度の割合でそのような重い負担を負うことになるか、きちんと説明しているか?

PE重視です」とだけ強調し、外国人教員の質量だけを強調する案内になっていないか。

あたかもPEが問題なくとれるように市民や受験生に説明してはいないか?ハードルの厳しさをきちんと説明しているか?^

もしも、この間の実績をきちんと説明していないとすれば、すなわち1年前期でどれだけ、1年後期でどれだけ、といったクリアの実態を示し、さらに進級が厳しいことを適切に説明していなければ、甘い言葉で釣る誇大広告のようになりはしないか?

また、実際のPE基準クリアの圧倒的多数がTOEFLではなくて、TOEICであることをきちんと説明しているか?この間、あくまでも「TOEFL500」に固執した説明の仕方になっていないか?

2年次に留年している学生数は、今ではわれわれには暗闇だが、はたして4年間の総学生数は、定員との関係で問題はないか?

定員の1.2倍というのが私学などでの定員管理の基準のはずだが、その問題はクリアできているのか?

市当局がそれを問題にしないから、少々学生数が定員基準より増えても問題ない、という姿勢はないか?

 

-------目標は目標として努力を続けるにしても、成績評価は各学生の専門分野・必要性・進路などに対応可能な段階的評価=成績評価の一般的在り方を導入するしかないのでは?あるいはそれよりも合理的で柔軟な方法があるとすれば、それを適用すべきでは?-------- 

(たとえばコース別に、一定の代替科目を設定するなどのことも考えられよう。すでにそうした案は、当初から示されていた、たとえばドイツ語検定、フランス語検定とか、いろいろと多様な国際化の科目群がありうるだろう。また、自然科学系の場合は、自然科学系論文の書き方などの実践的講義も代替科目となりうるかもしれない。あるいは、一定の点数をカバーする補助的科目という位置づけも発想する人がいる。これもありうるだろう。こうしたことをこの4年間にも着実に進めて置けば、留年の悲劇に見舞われなかった学生も多いのではないか。それが専門や進む方向にもぷらすになったのではないか。…いずれにしろ、そうした建設的改善の回路を作るべきだったし、今後その必要性があろう)

 

さて、本書に戻って。

任期制の強制に関する文章など、吉岡著で今読みなおしてみると(170-171ページ)、いまさらながら「露骨な利益誘導」、「露骨かつ無節操」な利益誘導型の、したがって学問外的な諸条件の提示がならんでいることに驚く。

 

今回の吉岡元教授の著書には、それぞれの役職・立場(事務局長、総務部長、学長、学部長、そしてまた何代もの教員組合委員長、あるいは抗議辞職した人々、さらには学外から理論的精神的な支援を惜しまれなかった人々など)での多くの個人名も登場しており、それら諸個人(役職・立場)の一人一人が「改革」の中で占めた位置・機能・功罪もおのずから浮かび上がるようになっている。

もちろん著者の人物群の取捨選択、それぞれの立場の人の発言の取捨選択は、著者・吉岡元教授のスタンス・視角によるものである。痛恨の思いを抱く立場の評価である。それに共感を持つ人もいれば、反感を持つ人もいるだろう。その中間にも沢山のひとびとがいるであろう。

 

他面では、関係者ではあっても本書に登場しない多くの弱い立場の人々−数でいえば圧倒的多数であろう−や「無名」、「沈黙」の多くの教員の行動、その意味、さらにはその行動の可能性と責任の在り方(大学自治再建への態度・行動の在り方)も改めて問い直されることになろう。

 

この間、教員組合とそれに結集する教員が必死になって粗暴な「改革」の数々を、可能な限り修正させ、あるいは何とか適正な範囲へ押し戻すために積み重ねてきたなみなみならない努力も―今後も続けられるであろうが―、思い起こされ、記憶に鮮明となる。

 

昨年だったかが本学開学の80周年記念の年だったという。60周年記念の大学史は大変な苦労のもとに編集刊行されたが、80周年記念の大学史はない。あと20年後で100年。果たしてその時に大学史は書かれるのであろうか?その時に、本書のスタンスは、どのように評価されるであろうか?

多くの社史が、成功物語で、途中の苦難の歴史や暗黒の部分には触れない。日本の歴史に関しても、暗黒の部分は触れないような歴史記述が横行する。現実の歴史の重要な部分は、暗黒の側面との闘いの過程であり、その克服の過程である。戦後日本の60年はまさにそうであった。暗黒時代の戦前・戦中の民主主義的克服過程であった。

本学の歴史も、改革の諸潮流をめぐるせめぎあいの歴史である。果たして、そのような現実のせめぎあい、そこでの諸問題が適切に描かれるであろうか。

 

誰が、どのようなスタンスで歴史を描くかがまさに問題となる。今回の吉岡氏の著書は、そのひとつのスタンスを代表する。吉岡氏の今回の労作は、表面的な成功のガタリの背後にいかに多くの苦難と問題があったか、その苦難と問題の克服過程であったのかを示す素材となろう。

 

ひとたび破壊された大学自治を回復しよう(自治自律の、全構成員が主体的に参加する生き生きとした大学らしい大学を再建しよう)としているのは、まさに日々の研究教育を担って学生院生に直面している個々の教員・教員集団であり、大学の自治(学問の自由)の重要性を認識する良心的な多くの誠実な職員である。

 

焼け野原からの再建は、エネルギッシュな人々の多くが去っただけに、また、根本的制度設計に各種の問題がある以上、極めて困難であり、時間がかかる。

 

しかし、戦争による壊滅的な状態から、ナチス・ドイツの過去を克服したドイツ(EUのひとつの中心として尊敬されるドイツ)、戦前の軍国主義・帝国主義の日本を克服してきた戦後60年の日本を考えると、学生・院生の教育、その前提としての研究に責任のあるわれわれ教員、職員が大学の本来の理念、真理探究という基本理念・中核理念の下で、憲法23条の原則にのっとり着実に一歩ずつでも、前進するほかないのであろう。人類が解明してきた真理群、日々増大深化する真理群こそは、深い意味で実践的変革的であるだろう。軽佻浮薄な意味での一面的プラクティカル性、画一性の強制という貧弱なプラクティカル性とは、真理群は相いれないであろう。そのことが多くの人々の努力によって、時間をかけて明らかになってくるであろう。

 

ナチスの時代、大学・学界の中でも、一方に大手を振って権力的な地位に就く狂信的なナチがおり、他方に迫害により追放され、抵抗により弾圧された人々がいるが、その中間にさまざまのレベルで服従し、あるいは協力し、またさまざまの可能な限りでの抵抗・非協力を貫いた人々がいる。哲学者のハイデガー、物理学者のハイゼンベルク、プランク、ゾンマーフェルト、歴史学者のリッター、コンツェ、シーダーなど、それぞれの位置とその態度の変化を追跡してみることも重要だ。

 

そうしたことを考え直させられる貴重な問題提起の本と受け止めた。大学自治再建への強烈な問題提起、と。

と同時に、大学改革は終わっていないのであり、ある意味では真の改革のために、「改革」の現状にどういう位置で、どういう機能においてかかわっていくかという問題は、現在のわれわれ教員全体に問いかけられている問題とも感じた。

 

その場合、目下進行中の教員評価制度、すなわち、教員組合が多様な意識と多様な利害関係の多くの組合員の要望を踏まえながら、この数年の交渉の積み重ねを踏まえてぎりぎりのところで当局と妥結した教員評価制度を、その運用においてどのように健全なもの・合理的なものにしていくか、これが問われている。一歩間違えば、教員内部に亀裂ができ、深刻化するであろうから。そしてそれは大学の自治の再建ではなく、行政的統制的壊滅化を意味するであろうから。

 

「自己評価」と客観的な評価基準(持ち駒数、その実態、学生・院生指導の数・質、論文等の客観的に検証可能な仕事の本数、作品の数と質、科研費等外部資金の応募状況・取得実績、さまざまな社会貢献のタイプと質量など)やピアレヴュー(広狭・多次元の学会での評価)の組み合わせによって、個々の教員と評価者(一次・二次・評価委員会等の諸段階)の恣意がどれだけ排除できるか、「やる気」が出るような客観性を作り出していけるかどうか、これがカギだろう。

 

 

 

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34日 来年度、4月から、3つの新しい研究科が創立される。都市社会文化研究科、ナノ生命研究科、それに国際経営研究科の三つである。2005年にかつての三つの研究科を統合して創設された国際総合科学研究科は、まだ博士後期課程と博士前期課程の院生を抱えており、当面存続するが、数年後には新しい三つの研究科への移行が完成することになる。大学改革の激動の中で、文系理系の大学院までもが一つにまとめられてしまったが、それが、新たな装い・理念のもとに三分割されることになった。その三分割過程は、一定の自治の回復過程ともなっていると考えられる。

新しい研究科のもとで、研究科教授会を機能させ、自治自律の要素をわずかずつでも増大していける可能性が増えたかに感じられる。そこには新しい希望を感じさせる要素がある。

三つの新研究科の創設を記念する催しが、316日に予定されている。残念ながら、315日(出発)から22日(帰国)まで、ベルリンのマックス・プランク研究所文書館への出張(ナチス・ドイツにおける原爆開発の到達段階の調査−ソ連が押収していた文書のコピーでの返還)と重なり、私は、参加できない。

 

 

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33日 下記日誌を読んだ学内の方から、吉岡先生のご本(下田出版株式会社)は、「自費出版でカンパの意味で¥2,000で頒布しています」との連絡があった。仲介する人にお尋ねしたら、これは学内者向けのようである。

 

一般には,新宿紀伊国屋書店においてもらうらしいので,そこで(ネットでも)購入できるようです」との連絡をいただいた.

(現時点:411時では、アマゾンには出ていなかった(見つからなかった)が・・・・)

 

 

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32日 本日誌に関心を寄せられ、時に意見など寄せられる人から、「佐藤真彦先生のホームページによると、元市大教授の吉岡直人氏が『さらば、公立大学法人 横浜市立大学――「改革」という名の大学破壊――』という著書を出版されるようです。しかし、出版社がわかりません。もしご存知でしたら、教えていただけませんか」とのメールをいただいた。早速、佐藤先生のHPに接続してみると、確かに、吉岡先生の御本の表紙が出ていた。吉岡先生が御本を出版されるという噂は2月初めころだったかに小耳にはさんでいたが、いよいよ出版されたのだと知った。 メールによる問い合わせに対しては、「出版社は知りません。自費出版かもしれません」とだけ返事しておいた。近いうちに、情報を得たいものである。

 

      「自治破壊」の内容に関してであるが、一番多くの学生にかかわるのがPE問題であろう(PEだけが全員への一律強制だから・・・全入学生に一律に適用する以上は、それにふさわしい合理性・柔軟性・カリキュラム上の妥当性が必要だ。逆にいえば、全員一律基準を強制する合理的説明が必要だが、それはない。なぜ2年から3年への段階に進級のハードルを設定したのか、カリキュラム体系のどのような位置づけかなどついても合理的説明がない。だから学生の中には、進級を1年次から2年時の段階に設定すべきという意見もある。当然である。ゼミが2年時からなので、ゼミという本学の非常に重要な位置づけのものに参加するには、進級できていなければならない、ということも可能だろう。しかし、多くの教員の場合、PEはゼミにとって必要ではない。むしろ、ドイツ語やフランス語、あるいは中国語、あるいは古文読解力その他が必要である・・・など)。

そのPEの位置づけがまだすっきりしない。今や、情報は完全に秘密にされたかの如くであり、いったい2年に留年している学生が何人いるのか、2年間の留年生が何人残っており、さらに3年目の留年生が何人になるのか。一年間の留年生が何人いるのか、その他、われわれには全くわからなくなっている。

 

PEセンターができ、一般教員の所属するコースとは独立にしてしまったことが、情報の秘密化を完璧にしているかに見える。

当然、そうした状況では、カリキュラム編成におけるPEの位置の再検討やありうべき改革に関して、一般教員がかかわる場はない。昨年秋にアンケートが実施されたが、その手書き部分に関する集約がやっとできたということである。その内容は、一部に教員の個人名がでているということで、今日の時点では、一般教員には知らされていない。

 

コース会議で質問しても、何も具体的なことがわからない。これは、「自治破壊」、学校教育法上の教授会機能の停止状態ではないか(コース会議だけにオブザーバーとして参加する権限しかない一般教員には、何がどうなっているのか、すくなくともPEセンターが一括管理しているPEに関しては全くわからなくなっている。)

PEの進級基準をクリアできない学生を何年間2年生にとどめ置くのか、いまのままでは8年間ということかと巷間ささやかれている。

 

      文科系でいえば、卒業単位124単位のうち、年次指定のあるゼミ演習の3年生の時の4単位と4年生の時の4単位、計8単位を除く専門および教養の単位を取得していても、PEただ一つのために、何年も2年にとどめ置くというわけである(そしてPEの進級基準に合格すれば、それから必ず2年間、年次指定のある3年ゼミ一つを一年間、4年ゼミ一つを1年間取得する必要があるということになる)が、そのカリキュラム体系上の合理性は私には理解できない。(学生アンケートの結果は、まさにそのことを示している。PEは、その内容からして当然のことながら、進級後の多様な分野の専門教育と結びついてはいない。必然的連関性、前提としての連関性がない)

 

PE重視」ということがPEの進級基準のクリアを強制することと限りなく等しくなっている。重視とは強制のことか?鞭で尻を叩き、高いハードルで強制しなければならない、というのがPE重視の意味か?PE重視ということは、PEが本当に楽しく充実していて、みんながやる気を起こす、というような環境を作ることではないのか?

 

PEの進級基準を一律ではなく、ほかの科目同様に秀、優、良、可、不可の段階的評価に、すなわち、それぞれの学生の実力、進路、好みその他に対応するごく普通のやり方にすることについては、学生はきちんと筋の通った回答をしている。すなわち、「質問41 一律の基準でなく専門分野により基準に違いがあっても良いと思いますか」とのきわめて合理的な質問に対して、「思う」が61.7%である。また、質問42 取得点数により秀・優・良・可の評価の違いがあっても良いと思いますか」については、57.66%が「そう思う」と賛成している。こうした進路別・専門別の段階的評価であれば、2年間も留年している学生の多くが救われると思われる。そして、持てる能力をほかの得意な分野で伸ばせると思う。PEに合格した人が、その後実力を伸ばせたかという質問には、「とても向上した」7.18%、「多少向上した」19.62%に対し、「あまり変わらない」23%、「多少低下した」23.21%、「かなり低下した」20.10%といった割合になっている。進級基準強制のハードルを越えた後の問題性は歴然としている。カリキュラム編成上の整合性のなさを端的に示していると思われるひとつの事例である。)

 

実践的英語力をほかの語学などとともに演習や講義の多面的な場で鍛えるという本来あるべき姿にはなっていない、それは問題だというのが、私の一貫した問題意識・批判意識である。

 

PE問題は決してPEだけの問題ではなく、学生の勉学時間の非常に大きく拘束しているので、カリキュラム体系全体にかかわっている、全教員にかかわっている重要問題だということであり、その全教員が問題を検討して審議する場が、きちんと確保されていない、という重大問題があるということである。それを可能にしているのが、教授会を年一回しか開かない運営の仕方であり、さらにそれを可能にするのが民意を問わない管理職の任命である、したがって自治破壊ということである、というのが私の見方である。

 

そうした見地から、昨年、カリキュラムに関する意見表明のアンケートがあった際に、具体的なひとつの改善策を提案した。それが適切かどうかは別として、問題を審議検討する機会が設けられていないというのが現段階である。巷間の噂では、2年間留年しているのが1割台になったので、なんとでもいえる(学生が悪いと)、放置している、とか。しかしそうだとすれば、それは学生のやる気を起こすシステムなのだろうか? 弱者切り捨ての発想(「派遣切り」の発想)ではないのか? 弱者を大切にし、PEの苦手な人にもある程度の自信のつくような素晴らしいカリキュラムを作りだす、それに「ひと、かね、もの」をつけるのが、PE重視ということではないのか?

(今回のアンケートの決定的問題点は、まさにそうした「切り捨てられている」学生が、表に出ないようになっている。色々の困難があっても4年生に進級でき、就職活動ができ、将来への展望がある人々に対するアンケートである。一番深刻な問題を見ないアンケートである。アンケートが明らかにしているたくさんの成果・情報の豊かさの裏面に、その根本的な問題が隠されている。情報の隠ぺいはそのことを可能にしている。)

   

      PEの進級基準を決めたのは、教育研究審議会(学長、副学長、学部長など大学サイドの管理職が構成している)のはずであり、そこがどのような態度をとるのか?

      現行学則では、代議員会が教授会に代わるものとなっているが、その代議員会に何らかの提案が出される気配もない―少なくとも私が現時点で持っている情報では。噂では、むしろ、居直りのような態度になっているともいわれる。「1割を切ったから、悪いのは学生」と。「ここは何も変えない、何もしないでおこう」と。

代議員会は、審議機関として認められていない。あるいは学部長が審議事項として代議員会にPEに関する提案を行ってはない。代議員会での審議要求は全て拒否されてきたというのが、私の理解するところであり、これは、学校教育法違反ではないか、というのが私の一貫した問題意識である。 

 

 

 

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226日 今日は、大学評価学会の理事の末席に連なるものとして、この場に、3月の大会プログラムを掲載しておこう。ますます充実してきていると感じる。多くの参加を期待したい。会員にも多くの関係者が加わってほしい。

 

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 大学評価学会第6回全国大会プログラム

大会テーマ;「認証評価の効果を問う―現実を直視しヤル気がでる評価を目指して―

 

2004年から始まった認証評価制度は5年目に入り、現時点でその効果を問うことが求められています。このことを通して、あらためて評価とは何のため・誰のために行うのかを明らかにしていきたい。また、評価の取り組み、そのシステムおよび「評価環境」の現実を直視し、とりわけそこでの問題点を明らかにするとともに、その解決策を探っていく中で「ヤル気がでる評価とは何か」を共に考えたいと思います。

 

日時;2009314日(土)13:00受付開始〜15日(日)17:00終了

場所;名古屋大学教育学部(東山キャンパス)(名古屋市千種区不老町、tel 052-789-2602)最寄り駅;名古屋大学駅(地下鉄名城線)

参加費;会員1500円、院生等1000円、会員外3000円(事前申し込み不要)

懇親会費;4000円、院生等2000

開催校責任者;植田健男理事(実行委員長)、

<大会連絡先>第6回全国大会実行委員会事務局(川口洋誉幹事)、464-8601名古屋市

千種区不老町、名古屋大学教育学部内 hiropon7973@hotmail.co.jp 

 

314日(土)

11:0012:30 第V期第4回理事会(大会議室)

13:00〜    受付開始(会員控え室;第二講義室)

13:3014:20 年次総会(大講義室)

14:3014:35 開催校挨拶;

14:3518:00 シンポジウム(大講義室)

テーマ;「認証評価の効果を問う―現実を直視しヤル気がでる評価を目指して―

シンポジスト

 1)「認証評価の現状と課題―(財)大学基準協会の経験から―」  

田中一昭氏(大学基準協会・専務理事)

2)「大学の改革・改善に資する認証評価を目指して

伊藤敏弘氏(日本高等教育評価機構・評価事業部長)

3)「高等教育政策を評価できる認証評価を目指して」       

日永龍彦氏(山梨大学・大学教育研究開発センター教授)

   コメンテーター;中村征樹氏(大阪大学) 

司会;重本直利氏(龍谷大学)

18:1520:00 懇親会(名古屋大学生協・フレンドリィ南部)

 

3月15日(日)

10:0012:30 分科会(午前の部)

◆第T分科会 座長;津田道明氏(日本福祉大学)(大講義室)

テーマ;大学評価のなかの職員、大学づくりのなかの職員

分科会の3つの柱として、まず第1に、大学評価に関するさまざまな動きのなかで、とくに注目すべき問題の一つに、「中期目標」と文科省による「法人評価」において、教員・職員に関する「人事制度改革」が取り上げられており、「大学管理システム」の強化、確立にむけた事務機構の再編や「人事評価」=職員の業務評価、人事考課など人事制度改革が強まっています。一方、法人化のもとで、従来から職員内部にあった文科省主導の人事・業務管理システムへの批判や反発を背景に、新たな人事制度をもとめる国立大学法人職員のさまざまな意見や活動も顕在化しています。これらの動きに注目しながら、大学づくりをささえる職員の現場はいまどのように展開しているか、を第1の柱とします。第2は、第1の問題を下敷きに、さまざまな大学づくりの運動―とくに学生・院生の諸活動や学生生活とのかかわりで、大学職員は、学生・院生からどのような認識を持たれているか、に触れます。いわゆる学内行政の一端を担っている側面だけでなく、大学自治の担い手としての職員層の現状や期待、あり方などの問題についても議論したいと思います。第3の柱は、私立大学の職員問題で、私大職員も第1の柱と同様に、私立大学法人の「競争的環境」のもとで、新たな事務機構改革や人事制度改革に直面していますが、そうした状況のなかで、とくに大学の学習・教育・研究の発展にむけた、すなわち学生・院生・教員の活動を意識し、職員も加わった大学構成員の共同の実践がどのように展開されているか、について事例的に検討したいと思います。第1の柱の「国立大学職員のさまざまな意見や活動」と重ねて検討したいと思います。

1)「掲げた目的が見えない国立大学法人の人事評価制度―事務職員アンケートの結果が語る人事への不満―」
         戸田貞一氏(名古屋大学医学部附属病院経営企画課専門職員)

2)「大学組織における学生の位置づけ―その現状と課題―」
            田中秀佳氏(名古屋大学大学院)

3)「大学の地域貢献にむけた職員の役割―愛知大学・三遠南信地域連携センターにおける活動実践を通して―」

岸本恵次郎氏(愛知大学監査室長)

第W分科会

自由論題報告(1)座長;蔵原清人氏第一講義室)

1)「1990年代以降のOECDにおける大学ガバナンス概念の検討

米津直希氏(名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程

2)「『学士課程教育』と大学評価

             細川孝氏(龍谷大学)

自由論題報告(2)座長;井上秀次郎氏第三講義室) 

 1)「高等学校における学校評価の実態と課題点」

岩崎保道氏(同志社大学院生)
 2)「これから開設して評価される医療職養成課程とは?」

坂崎貴彦氏(名古屋大学大学院医学系研究科博士課程)、他7名

3)「PDCAサイクルは大学評価に適合するか―管理と評価の相異、経営学からの考察―」

             重本直利氏(龍谷大学)

 

12:3013:30 <昼休み休憩、第V期第5回理事会(大会議室)

 

13:3016:00 分科会(午後の部)

◆第U分科会 座長;橋本勝氏(岡山大学)(大講義室)

テーマ;「社会からみた大学力評価

社会は大学をどのように捉えているだろうかと考えたとき、当然のことながら一様ではない。受験生・高校サイドに映る大学と産業界が期待する大学とはかなり異なるし、それらを繋ぐ媒体としてのメディアの大学の捉え方も様々である。大学評価制度の導入による大学の変化に期待する人々もいれば、むしろ変わりつつある大学に危機感を抱く人もいる。一方、本質的に日本の大学は全く変わっていないという見方もある。そうした雑多な考え方の集合として、社会は現状の、そしてこれからの大学をどうみているのであろうか。本分科会では、大学外の様々な立場の方から率直に現代の「大学力」を評価してもらい、社会が大学力をどう見ているのかについて活発に議論してみたい。

1)「学生が人を殺した、そのとき大学は?―大学のリスクマネジメントと説明責任を考える―」

小林哲夫氏(『大学ランキング』編集統括)
2)「就職率偽装を大学はいつまで続けるのか」

石渡嶺司氏(『最高学府はバカだらけ』著者) 
3)「附属高校の親から見た大学力」

松本哲男氏(名古屋大学教育学部付属中学校・高等学校PTA会長)

4)「中小企業から見た大学に期待すること」

鋤柄修氏(中小企業家同友会全国協議会会長、エステム会長)

第V分科会 座長;望月太郎氏(大阪大学)(第三講義室)

テーマ;「法人評価について」

国立大学法人化からもうすぐ5年、文科省内に置かれた法人評価委員会による第1期中期目標・中期計画の達成状況についての暫定評価が行われている。追って法人化された公立大学についても、地方自治体行財政局等に置かれた法人評価委員会による業務実績に関する評価が漸次実施されている。私立大学においても、監査対象は従来以上の広がりを見せ、大学法人の業務全般が対象となってきており、財務格付けなども盛んに行われている。このような状況の中で、今一度、何のための法人評価か、大学のステークホルダーにとってそれはどのような意味をもつものか、法人評価をめぐる論点を整理し、将来を展望したい。

1)「国立大学法人評価の経過と実際

山田康彦氏(三重大学教育学部長)

2)「私立大学から見た法人評価」

          榊達雄氏(名古屋芸術大学学長・名古屋大学名誉教授)

3)「格付け会社からみた大学法人の評価−経営の安定に必要な要素は何か−」

下山直人氏(格付投資情報センター)

コメンテーター;和田肇氏(名古屋大学)

   16:1017:00 総括討論                                            

                                             

学会共同事務局>URL; http://www.unive.jp/

560-0043 豊中市待兼山町116大阪大学・大学教育実践センター・望月研究室

         taromoch@cep.osaka-u.ac.jp

(事務連絡先)612-8577京都市伏見区深草塚本町67龍谷大学・経営学部・重本研究室

    sigemoto@biz.ryukoku.ac.jp  

電話075645-8634(細川研究室)

 

   

 

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25日 明日は、本学の教育研究の発展、大学の自治の擁護と再建に粉骨砕身された松井道昭教授の最終講義がある。ここにそのご案内をリンクして、ご紹介しておこう。

 

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126日 本日付の教員組合ニュースが届いた。

 

-------横浜市立大学教員組合週報-------



組合ウィークリー
2009.1.26

もくじ

●2
9日(月)18:00よりシーガルゲストルームでの教員組合総会に出席を!





●2
9日(月)18:00よりシーガルゲストルームでの教員組合総会に出席を!



 昨年1126日の団体交渉後、12月中に5回当局と折衝を行ないましたが、年末の折衝を当局がキャンセルしてきました。その後、123日に 折衝が再開されました。28()にも折衝の予定です。この日の夕方には組合の代議員会が開かれますので、折衝の経緯を報告し、審議を行います。

 昨年初め以降の組合と当局との折衝・交渉の主要テーマは、教員評価結果の処遇への反映についてです。とくに重要な事項は、再任をしない場合の条件と不服審査制度です。前者について23日に当局が新たに示した文書の内容は、昨年12月の交渉で話し合ってきた内容を的確に反映していないものでした。 当局が意図的にそのようにしたのか、あるいは規程のし方等についての認識の齟齬か、今のところ不明です(当局が意図的に組合の要求をはねつけているのか、 そうではなく、交渉対象事項の有する問題の把握・問題をめぐる理論構造や技術的諸事項の把握について組合と食い違っているのか、あるいはその両方なのか、 理解に苦しむことがよくあります)。いずれにしても後退したと言わざるを得ません。後者の不服審査制度については、交渉はしてきましたが合意にはほど遠い状況です。

 最終決着は団体交渉(団交)によって行います。今後の折衝でどこまで進捗するか予断を許しません。29()の総会では、これらの重要議題を審議しますので、ぜひ出席ください。

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横浜市立大学教員組合
 〒236-0027
  横浜市金沢区瀬戸22-2
   Tel&Fax  045-787-2320
   E-mail   
kumiai@yokohama-cu.ac.jp
   HP-URL 
http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/
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121日 大学評価学会第6回大会のプログラムが送られてきた。すでに、学会のHPにも掲載されているので、そこにリンクを張っておこう。ますます大会が充実してきたと感じる。それは、評価をめぐって解決すべき問題がますますはっきりとしてきたということでもあろう。

 

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114日 昨日付けの教員組合ニュースは、固有職員のための貢献を通じての教員組合の存在感・存在意義を示すものとして、貴重である。

     しかし、解雇されなくとも、尊厳ある形で合意に基づききちんと仕事が与えられ、活躍できるか、それが重要であろう。さまざまの会社であるようだが、「窓際」において、人間的なしかるべき仕事を割り振らないとすれば、その非人間性のゆえに、そしてそれを放置するがゆえに、重大な問題となろう。人権や法令遵守などを云々することが、欺瞞となろう。適切な仕事を割り当てていたかどうか、その実績はどうか。これは実証できることであり、言を左右することはできない性質のものであろう。しっかりとしたデータを積み重ねる必要があろう。法人サイドの責任が問題となってこよう。

 

 

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横浜市立大学教員組合週報

 

 組合ウィークリー

2009.1.13

もくじ

●教員評価制度の評価結果の処遇への反映をめぐる交渉状況について

●法人固有職員の任期更新問題について

 

 

教員評価制度の評価結果の処遇への反映をめぐる交渉状況について

 

 昨年1112日の団体交渉で、教員組合の要求書に対する当局の回答がありました(既報)。当局が大学組織の特質や大学教員の職務について理解が不十分であると認識し、1126日にまた団体交渉を行い、教員組合の主張について再度説明しました(教員組合の主張については、2008117日付の『教員組合週報』をご覧下さい)

その後、12月中に5回、当局と折衝を行ないましたが、年末の折衝を当局がキャンセルしてきました。年が明けてからは折衝は進んでいません。

教員評価結果の処遇への反映の問題は、任期更新、昇任、給与に関わる重大問題です。2月上旬開催予定の教員組合総会で、これまでの教員組合の取り組みについて報告し、今後の方針について話し合いますので、ぜひご参加下さい。

 

●法人専門職員の任期更新問題について

 

昨年夏、3年任期の更新時期を迎える専門職の法人固有職員に対して、当局が「あなたの仕事はない」という理由で任期の更新をしない旨を示唆しました。この職員はその後職員組合の支援もあり、当局も正面から強硬姿勢を取ることはしなくなったものの、更新の有無もはっきりしない状態が続き、秋になって「3年ではなく、1年の更新ではどうか」という打診を受けました。ちなみに大学専門職の任期は3年と規定上明確に定められており、この専門職も市大に招聘の打診を受けた際、3年契約での更新が続くと説明を受けていたそうです。「更新する」と聞けば、従来と同じ条件を繰り返すと考えるのが普通です。唖然とする恐ろしい話です。

固有職員の中でもとくに専門職は教員との類似性が高いため、教員の任期更新への影響を懸念せざるを得ません。教員組合はこの問題について、事実関係を文書で回答することを求める質問書を2回にわたって提出、折衝でも問題として追及しました。

更新を希望しているにもかかわらず雇い止めにすれば、それは大学事務職員の業界はもちろん世間一般にも広まりますから、本学の教職員への応募者数はますます減り、質も低下してしまいます。雇用の問題に止まらず、本学の将来にとっても重大なマイナスです。

結局、この職員については、任期の切れる12月に入ってから当局側が契約を更新する姿勢を示し、任期の切れる最終日にようやく当局より3年による契約書の提示があり、更新を果たしました。「教員組合が取り上げてくれたことが大きな力になった」と話してくれました。横浜市から派遣される公務員は別ですが、本学の法人固有職員は3年任期です(ほかに、派遣会社からの派遣社員、嘱託などの事務職員も少なくありません)。まともな大学にするためにも、安心して働ける安定的な雇用条件の確保を教職員間の協力によって実現したいものです。 

 

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15日 謹賀新年

     

     グローバル化と新自由主義の結果、働くものの職場の不安定性がこの10年ほどで一挙に拡大した。非正規労働者が3分の一に上るとか。その問題性が明確化するなか、かつての新自由主義の主唱者・先導者の一人・中谷巌氏も、今日の朝日新聞記事によれば、「転向」を表明しているとか。アメリカのオバマ大統領の登場も、この線上にあるだろう。

     

グローバル化・新自由主義・「成果主義」の跋扈による雇用の不安定化の波にのって強行されたのが、大学における全員任期制なるものの導入であった。この間、教員組合の必死の努力で不安定化を阻止するための交渉が続けられている。

しかし、それにもかかわらず、当局の態度は変わらない。根本から問題を見直そうとはしていない。

現在、社会で問題になっているのは、不安定雇用が3分の1にまで増えた、そのひどさということであるが、本法人では「全員任期制」を基本方針とする態度を変えていないからである。その基本方針の元で、微修正に応じる、というのがこの間の態度であろう。そうでないなら、全員任期制の方針を廃止し、大学教員に関する任期制の法律に基づいた適正な制度(限定的な制度)に変更すべきである。

任期制による採用(あるいは昇進における差別・・・昇任審査の前に管理職を通して、任期制への同意不同意の状況が確認されるというやり方・・・これまでの実績では不同意者は昇任が先延ばしになった)が行われており、任期制教員が増えれば、大学との結びつきの弱体化が進むであろう。当局が好む統計によれば、本学最大の組織である医学部における任期制教員の圧倒的多さからして、本学の任期制=不安定雇用化は全国最先端、ということになろう。(なぜ、本学では医学部が、また全国的にも医学部が文科系などの学部よりも、「任期制」を受け入れやすいのかは身分保障・生活保障のあり方をみなければならない。)唯一首都大学だけが、同じような「最先端性」を誇示している、ということになろうか。

任期制への同意不同意などという基準は教育研究の実力・貢献とは関係がない。むしろ、不正常な関係・ゆがんだ状態さえ生み出す[5]。昇進においてはそのようなハードルは廃止して、教育研究の実績(ピアレヴュー=学界等の教育研究上の同僚・学問的同僚による外部評価による実績)に基づく制度に、根本から改めることが可及的速やかに求められるであろう[6]

大学経営において、教育研究に従事するものの仕事へのインセンティヴが決定的に重要だと思われるが、その点からみて、この「改革」の中間決算はどうなるのであろうか?

ともあれ、現在この場にいるものには、その持ち場で大学の再活性化のために、微々たるもの、牛のように遅々たるものであっても、可能な限りで尽力するほかないであろう。

基礎からChangeを実現していくためには、昨年行われた4年次生へのアンケート結果の集約と速やかな全面的公表が待たれる。

 

 

 

 

 



[1] 一律基準といっても、少なくとも医学部は、国際総合科学部と違う独自の判断をし、制度導入初期に大幅修正をしている。問題はだから、国際総合科学部、ということになる。

 

[2] 現在のPE制度、TOEFL500点進級基準=画一的基準の制定が、2004年秋に、「教育プログラム・プロジェクト」で定められたことも明らかにされている。同書、158-159ページ。その後、新大学発足直前に、TOEFL500の画一適用の非現実性が、事情を知る者から指摘され、TOEIC600点でもいいことにされる。(実際に今回のアンケート結果では、TOEICによる基準クリアの学生が、TOEFLによる基準クリアよりもはるかに多い。基準クリアの実態は、ある意味で、すでに段階的になっている。そうしたことの持つ意味も検討されれば、問題の根本的解決には、段階的評価という道しかないように思われる。

 

学問分野・コースの特性に関係のない一律の基準は、問題をはらみ、当初から、改善意見が出されていた。それは無視され続けた。

画一基準が非合理的で無理がある以上、進級問題は、その後大問題となる。未だにその根本問題は解決されていない。いやむしろ、3年目の留年がありうる事態となり、ある意味では事態は深刻化しているとも考えられる。

 

[3] 2007年当時、国際総合科学部長は、「TOEFL500点は専門知識を学ぶ上で出発点でしかなく、基準は緩められない」と朝日新聞に答えている。

 会話中心のTOEFLが、日本において、「専門知識を学ぶ出発点でしかない」ということが、果たして成り立つのか?戦後何十年も、日本の大学生は、学者が日本語に翻訳した欧米の書物で、専門知識を身に着け、世界有数の先進国になったのではないか?それだけ、日本における日本語文献が充実しているということではないか?

 

他方で、「500点は留学して授業についていくために必要な点数」という説明もしている。「留学」ではなく、日本の横浜市で行う講義である。留学しない人々にとって、なぜ500点が必要なのかの説明にはなっていない。非合理的であり、説明責任を果たすものではない。

 

 行政的官僚的に決めてしまった基準や制度を、現実に合わせて改革していくのが大学の本来の在り方、そこでこそ教授会の自主的自立的機能を発揮すべきだが、そうなっていないのである。

 

 

[4] この点では、同書、p.86の吉岡元教授と若干意見がことなる。「ハードルが高すぎて」というところだが、「ハードル」の画一的強制こそが問題だと私は見ている。「ハードル」の在り方・合理性・妥当性が問題だと。なぜPEだけを一律に全学生に対し同じハードルにしなければならないのか? その制度の非合理性こそが、問題の根源にあると。これは、その制度を強硬に推進し続けている人々の問題性でもある。また、それを許す人事制度・任命制度の問題性でもある。

 

[5] 比ゆ的に、しかし本質的には同じ問題をはらむものとして、ナチ政権初期のユダヤ人教授排除政策にかかわる次の事例を書きとめておこう(『オットー・ハーン自伝』より)。

 

 ユダヤ人を大学教授等の公職から排除しようとする法律に関連して、「初めの数週間はそれでも私は新しい法律に立ち向かって何とかしようと努力した。私はプランクのところへ行き、できるだけ多くの著名なドイツ人で非該当の教授たちを結集して、ユダヤ人あるいは部分的にアーリア人種以外の血の混じった同僚たちの解雇に対する共同の抗議文を作成し、そしてルスト文相やそれ以外の関係筋に送付すべきであると進言した。私はそのときまでにすでにこの種の行動に賛成の数人の友人や同僚たちを知っていたが、しかし枢密顧問官プランクは私に次のように答えたのだった。『もし今日30人の教授が立ち上がって政府の処置に反対を表明したとすれば、明日にはその地位を欲しい150人の人間がヒットラー忠誠を示す声明を出すでしょう』と。」(同、166ページ)

 

 「学問以外の基準で差別する」と、学問的には不適当だったり能力・業績の劣る人々がその地位を手に入れることになる。

 

 任期制への「同意」・「不同意」は、改革への「忠誠度」、法人への「協力度」のリトマス試験紙とみなされてきた(踏み絵)ことから、すなわち、学問外的なファクターが基準になっていることから、深刻な問題がはらまれていることになる。

 

 「改革」が万人合意のすばらしい内容であれば、それへの「忠誠度」がひとつの基準とな

りえるかもしれない。しかし、「改革」が幾多の深刻な問題をはらんでいるものであることも事実である。とすれば、その問題を認識し、しかるべき主張と行動をしている人にとっては、「改革」への忠誠度の基準となる「任期制」は、不当な抑圧的差別的押し付けでしかない。

 

 ヒトラー体制への反対、ヒトラー・ナチズムへの反対は、まさに政府・体制への反対として「忠誠度」、「協力度」からすれば、最低の評価となろう。だが、現実の歴史が示したことは何か?

 

 真理への忠実度、真理探究への忠誠度、真理探究のための協力度、その結果としての真理解明の達成度こそが、評価の基準とならなければならない(それには、ピアレヴューこそが求められよう)。

 

それが、とりわけ、学問・科学の最先端、教育研究の最先端を行くべき大学に課せられたことであろう。だからこそ、学問の自由、大学の自治には、憲法的保障があるのであろう。

 

 

 

 

日本国憲法23条(学問の自由)
憲法23条:

「学問の自由はこれを保障する」

 

 

芦部信喜『憲法』岩波書店より


「憲法23条は、『学問の自由は、これを保障する』と定める。……学問の自由の保
障は、個人の人権としての学問の自由のみならず、とくに大学における学問の自由を
保障することを趣旨としたものであり、それを担保するための『大学の自治』の保障
をも含んでいる。」(134頁)


「2 学問の自由の保障の意味
 (1)憲法23条は、まず第一に、国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容な
どの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは禁止することは許され
ないことを意味する。とくに学問研究は、ことの性質上外部からの権力・権威によっ
て干渉されるべき問題ではなく、自由な立場での研究が要請される。時の政府の政策
に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件の場合のように、学問研究への政
府の干渉は絶対に許されてはならない。『学問研究を使命とする人や施設による研究
は、真理探究のためのものであるとの推定が働く』と解すべきであろう。
 (2)第2に、憲法23条は、学問の自由の実質的裏付けとして、教育機関におい
て学問に従事する研究者に
職務上の独立を認め、その身分を保障することを意味す
る。すなわち、教育内容のみならず、教育行政もまた
政治的干渉から保護されなけれ
ばならない。」(136頁)


「3 大学の自治
 学問研究の自主性の要請は、とくに大学について、『大学の自治』を認めることに
なる。大学の自治の観念は、ヨーロッパ中世以来の伝統に由来し、大学における研究
教育の自由を十分に保障するために、大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定
に任せ、大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。そ
れは、学問の自由の中に当然のコロラリーとして含まれており、いわゆる『制度的保
障』の一つと言うこともできる。
 大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の
自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。
ほかに、近時、
予算管理の自治(財
政自治権)
をも自治の内容として重視する説が有力である。


 (1)人事の自治  学長・教授その他の研究者の人事は、大学の自主的判断に基
づいてなされなければならない
。政府ないし文部省による大学の人事への干渉は許さ
れない。1962年(昭和37年)に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は、
文部大臣による国立大学の学長の選任・監督権を強化するための法制化をはかるもの
であったが、確立された大学自治の慣行を否定するものとして、大学側の強い批判を
受け挫折した。」(137頁) 

 

 

[6] もちろん、現実は複雑であり一筋縄ではいかない。専門の狭い範囲の業績が、かならずしも、政治的社会的な面で優れている、自由や民主主義を尊重することを保障しない。

 

20世紀最大の哲学者」として、戦後ヨーロッパでも、ナチとハイデガーの密接な関係にもかかわらず、デリダに至る間の世界の哲学者に取り上げられたようなハイデガーの事例もあり、自然科学の分野でも、ノーベル賞を授与された物理学者が、非常に初期からのナチ党員だった、といった事例もある。

 

「ハイデルベルク大学の最上位にいた物理学者はレーナルトという非常に年のいった男であった。彼はナチの最も初期からの、そして最も狂信的な一人で、科学者の間では目立っていた。事実彼は、まだ誰一人としてヒットラーのことなど思ってもいなかった1918年からのナチ党員だった。彼はワイマール共和国に反対するアジ演説を行ない、一度など君主制をたたえる演説をして投獄されたことさえあった。彼の研究所はずっと以前からアメリカ人物理学者および第一次大戦における連合国側の人間に対しては立ち入り禁止の領域であった。かれはかつて物理学である立派な業績をあげ、それに対して1905年にノーベル賞を受賞した。しかし彼は、X線を発見したのはレントゲンではなく自分だと主張し、自分の業績がもっと評価されないことに対して欲求不満を感じていた。第一次大戦後の彼の政治活動の増大が、彼の物理学の質の低下と対応していた。彼はますます政治的な扇動者になり、ますます物理学者でなくなっていった。そしてついに彼は、ヒットラー自身を含めたナチから、長年にわたって求めてやまなかった評価を受けたのだった。」 S.A.ハウトスミット著山崎和夫訳『ナチと原爆』海鳴社、1977年、8384ページ。

 

 

個別具体的には、一つ一つ検証が必要であろう。

 

 

ハウトスミットによれば、この物理学の質の低下したレーナルトが、ハイデルベルク大学の教授職だったボーテ教授(のち、カイザー・ヴィルヘルム医学研究所物理研究部、ドイツ原子物理学実験の第一人者)の追放後、後釜に据えたのは、「ヴェッシュという口ばかり一流で物理学者としては二流の男」であった。「彼の仕事は平均以下で、彼と同じ分野を研究している他のドイツ人(まさにその意味での研究上の同僚=ピア・・・永岑注)はみんな彼を無視していた」と。