2009年6月20日科研費報告会で使用するためのHP
2009年3月15日-3月22日:
 
「軍縮と軍拡・武器移転の総合的歴史研究」・科研費基盤研究(A) (研究代表・明治大学・横井勝彦教授)による出張

ベルリンのマックス・プランク協会
(旧カイザー・ヴィルヘルム協会)の文書館

Archiv der Max-Planck-Gesellschaft


   ドイツ原爆開発に関連するドキュメントの調査
   (私のホロコースト研究の展開・進展の中で)

(平和の意味、軍縮の可能性、非軍事的な必要性=社会保障・グリーン―ニューディールその他への「ひと・もの・かね」の投入の可能性の拡大の諸条件を考えるためには、その反対の戦争の意味・原因、軍拡の条件・要因・環境などを多面的立体的に研究する必要がある。えぐりだした諸要因のすべてがその重要度に応じて多かれ少なかれ意味を持ってくる。)


  ソ連軍がベルリンを占領した際に押収した資料のうち、
2004年に返還されたカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所(Kaiser-Wilhelm-Institut für Physik)の史料を調査。
  

  ドイツ博物館(ミュンヘン・2月出張記録参照)所蔵の同じ研究所文書は、
アメリカ軍・アルゾス(Alsos)調査団が押収したもので、1990年代に返還されたもの。



---------歴史研究とは?---------

史料の公開には、時代的制約・時代的条件がある。

歴史(起きたこと)に関する認識にも、時代的制約・時代的条件がある。

逆にいえば、歴史の真実は、長い間秘密のベールに包まれている、ともいえる。

歴史の真実の認識には、長い時間がかかる可能性がある。




歴史研究は、最新の史料公開状況を踏まえ

また、最新の史料発掘を踏まえて

これまでの歴史認識・歴史像を修正

より正確なもの・より豊かなもの、

より深いもの・より立体的なもの、

よりダイナミックなものにしていく作業






そうした新しい時代
新しい人による
新しい調査・研究の作業を踏まえてみると、


すべての(書かれた)歴史は、その時代その時代の、
現代・現在の歴史、
その時代に生きた人・描いた人の歴史である。



歴史(書かれた歴史)は、現代・現在・今に生きる人々、その到達地点から見て、
書き直されていく



すべての(書かれた)歴史は、時代とともに新たな史料に基づき書き直される。


新しい人々が、新しい史料・水準・視野に立って、歴史を見直し、書き直す。




学生諸君も、新しい感覚・新しい発想で、新しい疑問を持ち、歴史を研究していく。

若い人々は、年配者とは生活条件・社会環境がまったく、ないし非常に異なっている

ある言意味では、若い人々と年配の人々は、
別の世界・違った世界を経験
している。



たとえば、われわれの心ついた時代は、米ソ冷戦体制の時代だった。

現在は?
世界的な冷戦体制の一方の極だったソ連・東欧が崩壊してから、
はやくも20年近く
が経過している。

ソ連東欧圏が崩壊した現実を当たり前のこととして、あるいは全く実感しないで、
若い人々は歴史を見る。

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2月3月の出張によって、
  米ソ二つの占領軍が押収していた文書を見ることができたことになる。


(簡単に出張して、一次史料をみることができるのも、
それを可能にする時代的社会的条件があるから)



  もちろんいずれの文書館にも,たくさんの関連史料があり、
短期の調査で

ごく一部をみる
ことができたにすぎない。

(ということは、私が見ることができなかった史料を解読すれば、
別の歴史像が出てくる可能性
があるということ)
.

歴史発見の可能性


新たな歴史像を構築する可能性…
みんなにチャレンジの可能性)







史料閲覧室
(窓の外、後方にベルリン自由大学のHenry Ford Bauがみえる)
 






私が今回閲覧した史料の一部(Abt.I, Repositur 34




文書館の建物外観(中央部分の半円形に張り出した部分が上の史料閲覧室

ベルリン自由大学HenryFord Bauを背中にして撮影。



アルヒーフの門
(所在地:Boltzmannstr.12-14


アルヒーフの玄関を示す標識(ARCHIV)、その前が玄関
     


このアルヒーフの建物は、もともとオットー・ハインリヒ・ヴァールブルクの館、との由来が玄関脇に。



文書館史料保管庫(Magazin)の塔
(アルヒーフおよびその閲覧室から少し遠く離れているように感じるが、Magazin des Archivsとの説明があった)





アルヒーフの最寄駅は、地下鉄路線U3のティールプラッツThielplatz駅
(地下鉄といってもこのあたりはベルリン中心部ではなく郊外なので、線路は地表に出ている)

駅舎も小さい。

この駅は、ベルリン自由大学(Freie Universität Berlin)の最寄駅の一つでもある
(ベルリン自由大学の創設も、米ソ対立・西対東の二つの社会体制の対決・冷戦の一現象・一帰結



(雑談:7日間カードWochenkarte-BerlinA+B=26.20Euro)

ベルリン交通事業者団体・環境切符
(自分で最初に乗る時に、スタンプを押す=entwerten. validate)






アルヒーフの一つ道路をへだてた反対側は、ベルリン自由大学の
Henry Ford Bauという建物(寄付したヘンリー・フォード財団を記念したものであろう)
(ベルリンが東ドイツの中の孤島のようになっていたとき、アメリカの援助で大学、その建物が建設された)

壁の文字
Freie Universittät Berlin
Henry Ford Bau




図書館
(画面に写ってはいないが、右手にHenry Ford Bauの講堂が位置する)


Henry Ford Bau(左手) と 法学部館(右手奥)






別の日、Henry Ford Bau(建物)の全景
Boltzmannstr.とGarystr.の交差点から

この建物は、ある意味で大学の中心、図書館も併設されている。

経済学部棟前の庭(抽象的彫刻)から、Henry Ford Bauを見たところ



法学部の建物の一つ




経済学部の建物の一つ


Wirtschaftswissenschaft(経済学、経済科学)



Thielplatz駅を出たすぐのところに
Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellschaftの一群の建物がある。
ベルリン自由大学の敷地に隣接している。
駅東側の信号(アンペルマン


Thielplatz駅(U=地下鉄マーク)とFritz-Haber-Institut(赤い建物群)

灰色の建物群がベルリン自由大学の建物
ピンク色が、ハルナックハウスHarnack Haus




フリッツ・ハーバーはユダヤ系ドイツ人
(ただし、キリスト教に改宗。最初の妻も、その妻が自殺したあと結婚した二番目の妻も、キリスト教に改宗させた。

彼は第一次大戦のとき、化学の力で、
一方では毒ガスを開発、「毒ガス開発の父」とも称される。
(宮田親平『毒ガス開発の父 ハーバー』朝日新聞出版、2007)

他方では、空中窒素の固定(アンモニア合成法=ハーバー・ーボッシュ法)で窒素肥料の人工的生産で人類・農業生産に貢献。
しかしこの化学合成窒素(N)も、イギリスにチリ硝石nitrium、NaNO3を断たれたドイツのTNT爆弾生産において決定的意味をもつ。

(「工業的な窒素固定法は1913年にドイツの化学者ハーバーとボッシュが考案した。
これは窒素ガス(N2)と水素ガス(H2) を200-1000気圧、500℃で鉄触媒を用いて反応させるアンモニア合成法」
『元素111の新知識』講談社Blue Backs、58ページ)


第一次大戦のとき、ユダヤ系ドイツ人は、キリスト教系ドイツ人とともに、同じ「国民」として、同じドイツ人として戦う。
ハーバーは、第一次大戦後の1919年に、1918年度ノーベル化学賞

ハーバーは1933年ナチス政権誕生の時、カイザー・ヴィルヘルム協会の物理化学・電気化学研究所長だった。
ヒトラー政府の公務員法(ユダヤ人排斥法)に抗議し、辞職。
イギリスに亡命(ケンブリッジ大学の招聘)。しかし、1934年1月29日、避寒中のスイス・バーゼルで心臓発作で死去(享年64歳)

                               OTTO HAHN BAU位置

オットー・ハーンはカイザー・ヴィルヘルム化学研究所長。


                       Otto Hahn記念館                             
Otto Hahn Bau der Freien Universität自由大学オットー・ハーン記念館


原子核分裂発見
(核時代の道を切り開いたことを記念する銘板)
中性子を当てて原子核分割=原子核破壊



この建物でIn diesem Hause
当時カイザー・ヴィルヘルム化学研究所のこの建物でdem damaligen Kaiser-Wilhelm Institut für Chemie、
1938年に発見した。entdeckten 1938
オットー・ハーン

フリッツ・シュトラスマン
ウランの核分裂URAN-SPALTUNG、と。


オットー・ハーンは、1945年11月に、1944年度のノーベル化学賞を授与された。
アメリカによる原爆投下後だが、ハーン自身は画期的な核分裂を発見しただけで、核爆弾開発には無関係、と)

この画期的発見をめぐるリーゼ・マイトナー(オーストリアの理論物理学者・ユダヤ人)の功績については、
次のHPを参照されたい。)

   

しかし、オットー・ハーンが核分裂を発見したとき(1938年)、
ドイツを支配していたのは、ヒトラー・ナチス


そのヒトラー・ナチスドイツが、核エネルギーを爆弾に利用したらどうなるか?
ドイツ物理学は世界の最先端をいくのでは?
1918年度ノーベル賞のマックス・プランク(「量子論の父」)は、カイザー・ヴィルヘルム協会総裁では?
若くして量子論に関する不確定性原理でノーベル賞をとった原子理学者のハイゼンベルクが、ドイツにいるではないか?

ヒトラーが原爆をもったらどうなるか?
ナチ体制下の原子核物理学者たちはどうしていたか?
ドイツの軍部は核分裂・核エネルギー開発にどのように行動していたか?
Heereswaffenamt陸軍兵器局はどうしていたか?
ヒトラーは、どんな考え?
ナンバー・ツーのゲーリングは?
軍需大臣シュペーアは?
産業界は?


事情を知る人々は、ヒトラーが原爆をもつ危険性に気づき、アメリカ大統領に原子爆弾開発を進言。


アメリカにおける原爆開発は、
ナチスドイツの侵略膨張とともに

西ヨーロッパ大陸支配から東欧南東欧支配へ、そしてソ連攻撃へ、
ヒトラー・ナチスの征服地の拡大
対米
・対世界への危険性の増大とともに、次第に本格化する。



日本の真珠湾攻撃
これによるヒトラーの対米宣戦布告が決定的転機となる。


本格的原爆開マンハッタン計画は、1942年始動

完成したのは(原爆実験に成功したのは)、1945年7月16日



その時、すでにヒトラーは自殺(4月30日)し、ナチス・ドイツは無条件降伏(5月8日)していた。
連合国軍の敵は日本(大日本帝国)だけになっていた。


広島(ウラン爆弾)・長崎(プルトニウム爆弾)は、巨大な原子核エネルギーの瞬間的放出。

他方、日本も依存率30パーセント台にまでなっている原子力発電も、
核分裂エネルギーを利用。




科学の革命的発見は、平和的な利用も可能であり、軍事的な利用も可能である。
ノーベルは、ダイナマイトを発明した。

それは、平和的な目的にも利用できるが、
軍事的にも利用された。

ノーベル賞は人類への普遍的貢献、平和への貢献などの業績に対して授与される理念。
人類の手に入れた科学の成果を人類のために。



使う側の問題。誰が、どのような目的で。




しかし、原子力発電所で日々ウラン燃料が使用され、その結果、
ウラン以上に核分裂しやすいプルトニウム、放射性物質が地球に蓄積していることは、
はたして、地球・人類にとっていいことなのか。

再生可能エネルギー(太陽発電その他)こそ、今後、飛躍的に開発・普及すべきものではないか?
グリーン・ニューディールは、
世界的・地球的・人類的な緊急課題!





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1942年6月 ハルナック・ハウスに軍需大臣シュペーアほか、重要人物が参集
ウラン問題(核エネルギー開発)に関する会議が、ハルナック・ハウスで開催された。




ハルナックハウス講堂Hoersaal(当時、カイザー・ヴィルヘルム協会KWGの建物)

Hoersaal正面玄関

Harnack-Haus Hoersaal





現在はFUの政治学関係研究所 (ナチ時代まではKWGの人類学研究所)Ihnenstr.


アウシュヴィッツの残酷な実験の医師メンゲレなどがここで学ぶ
メンゲレを教えた教授名
科学者は、自分たちの科学研究の内容と結果に責任あり、と。




-----------------------記念碑:ユダヤ人の西側への救出(キンダートランスポート)と絶滅収容所への移送:対比------------------------------


今回初めて確認






東に、「死に向かう列車」
西に、「生存に向かう列車」(イギリスへのキンダートランスポート)









-----------------新生ベルリン都心------------------

次々と新しい建物が建つポツダム広場PotzdamerPlatz駅の周辺

駅構内の彫像(頭で立つ人間

地下の駅構内から地上にでるところ






Potsdamer Platz

    














ポツダム広場片隅にひっそりと残されている
カール・リープクネヒト記念碑・土台
ポツダム広場には何度も行っているが、「何かな」と近づいてみて、今度初めて、このことに気がついた。


Grundstein eines Denkmals für Karl Liebknecht


第一次大戦下1916年5月1日 ここで
カール・リープクネヒトが
帝国主義戦争反対と平和のための戦いを呼び掛けた
、と。


二つの世界大戦の悲劇を経て
人類は、帝国主義・植民地主義を否定する水準に立った。

しかし、そのためには、19世紀末から、第一次大戦期を経て、第二次大戦に至るまでの全期間、そして、第二次大戦後も、
帝国主義・植民地主義に抗する人々が声をあげ、すこしずつ大きな潮流となって、人々の共感を獲得していく苦難の道があった。

カール・リープクネヒトは、ローザ・ルクセンブルクとともに、1919年初めに暗殺された。




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今回は、ベルリン・フンボルト大学のゲステハウスに宿泊(3度目)
旧東ドイツ時代の建物


近くのオラーニエンブルク通りには、シナゴーグ(金色の尖塔だけ見える)





部屋(219C)


キッチン付(219Aの部屋との共用)


シャワー室(これも219A室と219C室の共用)


居間(これも共用)





部屋から外を見れば、博物館(美術館)島Museumsinsel
ボーデ・ミュージアム、その向こうに壁面修理中のペルガモン・ミュージアム

東ベルリン地区にあった建物群は、つぎつぎと修理修復がなされている。
そのひとつの象徴的な事例がペルガモン・ミュージアムの修理・修復。

衣食足りて礼節を知る

文化財保護は、「衣食足りて」可能。


右手方向10分ほどでウンター・デン・リンデン通り、フンボルト大学