ホロコースト(Holocaust)とは何か?



語源はギリシャ語
     
Holos(ホロス)=すべて
      
kaustos(カウストス)=焼却


       
古代ユダヤ教の「炎に焼かれる生け贄」完全に燃やし尽くす、という意味。




 
アウシュヴィッツ・ビルケナウ火葬場に作られたガス室、そのガス室で殺さされたたくさんのユダヤ人が、ただちに死体焼却炉で完全に焼き尽くされた、という事実を象徴する言葉、それを連想させるものとして選ばれた言葉。


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 しかし、一挙に、大量の人間と都市をすべて(ホロス)焼き尽くす(カウストス)というのは、まさに、原子爆弾ではないか?

 原爆の投下こそは、ホロコーストではないか?

 

 広島・長崎への原爆投下は、一瞬で、町のすべてと何十万もの人間を焼き尽くしたのではないか?

 そして、現在の社会は、広島・長崎に原爆を投下したアメリカを始め、ロシア、中国、フランス、イギリス、さらには、イスラエル、インド、パキスタンが、原爆所有国となり、さらに、イランなど原爆所有国が、増えそうな状況になってはいないか?

 

 本日のテーマであるナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)と、アメリカによる原爆投下とは密接な関係にある。

 いずれも、世界戦争に関係する。

 世界戦争の結果として、世界戦争の渦中で。



   原爆は、冷戦期(米ソ2大陣営の冷たい戦争)において、地球を何回も破壊できるほどに、爆発力と個数とが増加。

 

日本は、原爆を投下された被害国として、原爆の悲惨を知る者として、原爆廃止に積極的に活動してきたし、率先して活動すべき課題をもっている。

 

 と同時に、実は、日本は、原爆開発を促す上でも、決定的に重要な役割を演じたという意味でも、重大な責任を負っている。
 そのことを踏まえないと、
原爆廃止への日本の責務も明確になってこないのではないか?

 

  世界は、戦争などの準備に人力や資金をつぎこむのではなく、

地球的課題(環境問題など地球・人類の生存)のためにこそ、人力や資金をつぎ込むべきでは?

  核軍縮・核爆弾の廃絶→地球的課題への「ひと・もの・かね」の投入世界の人々の相互信頼の増強

      軍事費の削減→地球的課題のために、手厚い予算配分

 




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 まず、原爆開発の経過(いつ、誰によって、どのように、なぜ、どのような考えで:ナチス・ドイツは?)に関して、若干コメント。

 

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さて、今日の模擬講義の本題のナチス・ドイツのホロコーストにかえって、


 しかし、ユダヤ人はアウシュビッツのガス室で殺されただけか?
また、焼却炉で焼かれただけか?


  
そうではない。
   
それは古い見方・古い視野。




  
1941年6月22日、対ソ奇襲攻撃開始後、正規軍(国防軍)が進撃する後にしたがい、ソ連各地で、治安警察・保安部の特別出動部隊(アインザッツグルッペEinsatzgruppe)が、不穏分子(パルチザン・コミュニストなど)掃討作戦のなかで、その口実で、ユダヤ人を射殺



 
 1941年8月中旬以降、殺害の大量化、老若男女、婦女子の射殺の諸困難射殺に代わる大量殺害方法の模索


  
1941年秋から、ガス室の実験。

 移動型ガス室(ガス自動車「特殊自動車(Sonderwagen)」)と

 固定型ガス室(一酸化炭素CO使用のタイプ→さらに、青酸ガス=殺虫剤としての製品名「ツィクロンB」利用の方法へ・・・アウシュヴィッツの第二収容所ビルケナウの有名なガス室は、この最後のタイプ)。




 

 


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最近のある本
(『ホロコースト全証言原書房、2004年)で、つぎのようにいっている。

「人類の長い歴史のなかで、われわれをこれほど震撼させた犯罪はほかにない。また、あらゆる解明の試みをこれほどかたくなに拒んできたものもほかにない。そのいっさいは
なにゆえ起こったのか。この問の答えはいまだ見出されていない。

 しかしながら、
何が起こったのか、それはどうやって実行されたのかを明らかにしようと試みるなら、おのずその理由についても答えを出すてがかりになるだろう」と(2ページ)。


この本は、研究書ではない。多くの研究書を踏まえて、テレビ・ドキュメンタリー作品を作成する過程で集めた史料等を整理したものである。

研究書であれば、一つ一つのドキュメントの出所などが明記され検証を可能としているが、本書ではそうした史料の出所などに関する正確な学問的注記はない。

 しかし、内容は、かなり最近のドイツのホロコースト研究を着実にふまえたものである。

 本書のオリジナルの本は、2000年に出版されており、したがって、ヒトラー絶滅命令の発布時期をめぐる論争、特に新しい1996年のゲルラッハの説なども加味した叙述となっている。

 1994年の拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆1941−1942』同文舘、1993年から数年間にわたって発表論文をまとめた拙著『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001年、そして、1997年から何年かにわたって書き溜めた個別論文をまとめた拙著『ホロコーストの力学』青木書店、2003年とかなり重なり合う主張となっている。

クノップの本は、論争を展開する本ではないので、ヒトラーの命令時期に関する諸説を真正面から検討しているわけではないが、1941年9月を過渡期とし、臨時的措置、一時回避的措置の時期とし、41年12月を決定的転換点とする私の説と、大体においては一致しているようである。


英語Holocaustから, ドイツ語Holokaustへ







 ホロコーストのドイツ語の表記法の採用は、ホロコーストをドイツの出来事としてきちんと見据え、向かい合おうとする姿勢からのものなのである。










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ホロコーストの定義・説明


たとえば、
マイクロソフト・エンカルタ百科事

ホロコースト

I

 

プロローグ

ホロコースト Holocaust ギリシャ語で「全部」を意味するholo-と、「焼かれた」を意味するcaustosとの合成語。

もとは、いけにえ丸焼きにしてそなえた宗教儀式をさした。


現代の用語法では、人の災害にももちいられる。

 頭文字を大文字にすると、ナチス・ドイツ(ナチズム)がヨーロッパのユダヤ人を絶滅しようとしておこなった殺戮(さつりく)行動をさす。

II

 

ドイツ・ユダヤ人への迫害

1933年1月、ドイツにナチ政権が誕生すると、すぐさま、ユダヤ人迫害の組織立った行動がはじまった。
35年のいわゆるニュルンベルク法で、「ユダヤ人」の定義がおこなわれたが、そこでは祖父母の宗教が決定要因となっている。祖父母のうち3人以上がユダヤ教徒であれば、当人がユダヤ人共同体に所属しているかどうかには関係なく、自動的にユダヤ人とみなされた。祖父母のうち2人がユダヤ教徒である半ユダヤ人は、当人がユダヤ教徒であるかあるいはユダヤ人と結婚している場合にのみ、ユダヤ人とみなされた。

それに該当しない半ユダヤ人、および祖父母のうち1人がユダヤ教徒である者は、「混血」とよばれた。ユダヤ人と混血は、あわせて「非アーリヤ人」とされた。このような分類の主たる目的は、だれが差別法の対象となるかを明確にすることだった。

1

 

経済の「アーリヤ化」

1933〜39年に、ナチ党、行政官庁、銀行、企業は、経済活動からユダヤ人を排除する行動をいっせいに展開した。非アーリヤ人の公務員は解雇され、ユダヤ人の弁護士・医者は、アーリヤ人から仕事をひきうけることができなくなった。ユダヤ人の会社は、解散させられて財産を処分されるか、あるいは、ユダヤ人の所有または経営ではない会社に、不当に低い価格で買収された。

契約のかたちをとってユダヤ人企業がドイツ人経営者にひきわたされることは、「アーリヤ化」とよばれた。ユダヤ人の貯蓄はもちろん、いかなる取引による収益も、特別課税の対象となった。解散したりアーリヤ化された会社のユダヤ人従業員は、職をうしなった。

2

 

「水晶の夜」

ナチ体制が公言していた目標は、ユダヤ人の移住だった。
1938年11月、パリでドイツ人外交官がユダヤ人青年に暗殺されるという事件がひきがねとなって、ドイツ全土のユダヤ教会に火がつけられ、ユダヤ人の店の窓ガラスがたたきわられ、数千人のユダヤ人が逮捕された。「水晶の夜」あるいは「くだかれたガラスの夜」とよばれるこの夜の襲撃は、ドイツ、オーストリア在住のユダヤ人にとってできるだけはやく脱出するようにという危険信号だった。数十万人が国外に亡命したが、老人や貧しい人々を中心にほぼ同数の人々が、国内にとどまって不安な運命に直面することとなった。

III

 

ポーランド占領

1939年9月、第2次世界大戦がはじまり、ドイツ軍がポーランドの西半分を占領すると、およそ200万人のユダヤ人が、ドイツの勢力圏にとりこまれた。ポーランド・ユダヤ人にくわえられた束縛は、ドイツ国内のユダヤ人に対するよりもはるかに苛酷だった。彼らは、壁と鉄条網にかこまれた「ゲットー」とよばれるせまい一角に、強制的にとじこめられた。

ゲットーは、さながら監禁された都市国家だった。各ゲットーにはユダヤ人評議会がもうけられ、住居・衛生・生産を管理した。食糧と石炭、また原材料がゲットー内にはこびこまれ、製造品がゲットーからはこびだされた。食糧供給は、ドイツ当局の許可のもとにおかれ、おもに穀物と、カブ、ニンジン、ビートのような野菜からなっていた。

ワルシャワ・ゲットーでは、住民1人あたり公式には1日わずか1200カロリーがわりあてられたが、実際には、1人200カロリーにみたない、飢餓線上のものだった。ひそかにゲットーにもちこまれた食料は、やみの高値で売られたが、仕事はなく、貧窮がひろがった。せまい住居に多数がおしこまれ、1部屋に6〜7人がすみ、伝染病のチフスが蔓延(まんえん)した。

IV

 

ドイツ軍のソ連侵入

ポーランド各地でユダヤ人がゲットーにとじこめられていたころ、さらに東方にむけて無謀なくわだてが画策された。1941年6月、ドイツ軍はソ連領内に侵入した。警察と親衛隊保安部が合体してつくられた国家保安本部は、新たに占領下においたソ連領内のユダヤ人をその場で殺害する目的をもって、3000名の特務部隊を編成した。行動部隊とよばれるこの移動部隊は、たえまない銃殺に従事した。虐殺行為はたいてい町はずれの溝や谷間でおこなわれたが、ときには兵士や住民の目にふれることもあった。殺戮(さつりく)のうわさが世界各地にとどくのに、時間はかからなかった。

V

 

ユダヤ人問題の「最終的解決」

占領したソ連領内で機動作戦が開始された1カ月あと、副総統ゲーリングは、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒに、ドイツ支配下の全ヨーロッパで「ユダヤ人問題の最終的解決」を組織せよという指令をあたえた。1941年9月までに、ドイツのユダヤ人は黄色い星印を身につけるよう強制され、つづく数カ月間、数万人が、ポーランドのゲットーやソ連からうばいとった諸都市に移送された。この移送がまだ進行中だったとき、はやくも次の計画が準備された。絶滅収容所である(強制収容所)。

大量殺人用のガス室をそなえた収容所が、占領されたポーランドのあちこちに建設された。やがてここで犠牲者となる多くの人たちは、近隣のゲットーから、これらの殺人センターへうつされてきた。ワルシャワ・ゲットーだけでも、30万人以上が収容所へ移送された。最初に移送されるのは、いつも、労働に適さない女性・子供・老人だった。はたらくことのできるユダヤ人は、商店や工場にやとわれたが、彼らも最後には殺された。

最大規模の移送は、1942年の夏と秋にかけておこなわれた。移送の行き先はユダヤ人社会には知らされなかったが、大量殺人に関する情報は、やがて残存ユダヤ人たちにも、そしてアメリカやイギリスの政府にも知られるところとなった。43年4月、ワルシャワ・ゲットーにのこった6万5000のユダヤ人たちは、最後の駆り集めのためゲットーにやってきたドイツ軍・警察に抵抗した。戦車と火砲を相手にした戦いは3週間つづき、5万をこえるユダヤ人が殺され、生きのこったものはトレブリンカ収容所のガス室へおくられた。

1

 

収容所への強制移送

ヨーロッパのいたるところで、移送をめぐって、政治上・行政上のさまざまな問題が生じた。ドイツ国内でさえ、「混血」の処遇をめぐって議論がわきおこり、けっきょく彼らは移送対象にふくめないことになった。ドイツの同盟国、たとえばスロバキアやクロアチアなどの衛星国で、移送をめぐって外交上の協議がおこなわれた。フランスのビシー政府は、すでに反ユダヤ法を施行していたが、ドイツが移送を要求する前に、手まわしよくユダヤ人を収監しはじめていた。

イタリアのファシスト政府は、1943年9月にドイツ軍がイタリアに進駐するまでは、ナチス・ドイツに協力することをこばんでいたし、ハンガリー政府も同様に、44年3月にドイツ軍が国内に侵入してくるまでは、国内のユダヤ人ひきわたしをためらっていた。ルーマニア政府は、占領下のソ連領内でおきた数次のユダヤ人大量虐殺に責任をおっていたけれども、国内のユダヤ人をドイツにひきわたすことはことわった。ドイツ軍占領下のデンマークでは、各層のデンマーク人が協力して、8000人のユダヤ人を小さな船で中立国スウェーデンに脱出させた。

リトアニア駐在の日本人外交官杉原千畝(ちうね)は、ポーランドからにげてきた6000〜8000人のユダヤ人に、日本通過のビザを発行し、命をすくった。それは、1940年の夏、ソ連が日本領事館を閉鎖するまでのかぎられた時間内の、本国外務省の命令にさからう勇気ある行動だった。

2

 

絶滅収容所

移送はたいてい鉄道によっておこなわれた。到着地はポーランド国内に点在し、クルムホーフ(ポーランド名ヘウムノ)、ベウジェツ、ソビボル(ソビブル)、トレブリンカ、ルブリン(マイダネク)、そしてアウシュビッツ(オシフィエンチム)などだった。

 ウッジ市のゲットーの北西にあるヘウムノには、排気ガスを利用して収容者を殺害するガス車が配備され、犠牲者は15万人に達した。

 ベウゼッツでは、一酸化炭素を利用したガス室が設置され、60万人のユダヤ人が殺されたが、ほとんどが、ユダヤ人の多いガリチア地方から移送された人々だった。

 
ソビブルのガス室は25万人を、

 トレブリンカ
のガス室は70〜80万人を殺害した。

 
マイダネクでは、約5万人がガス殺あるいは銃殺された。


 
アウシュビッツでのユダヤ人死者総数は、100万人をこえた。

 クラクフに近いアウシュビッツは、最大規模の絶滅収容所だった他の収容所とことなり、ここでは速効性のシアン化水素(チクロンB)がガス殺にもちいられた。アウシュビッツの犠牲者は、ヨーロッパ全土、すなわちノルウェー、フランス、ベネルクス三国、イタリア、ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド、ユーゴスラビア、ギリシャなどから移送されてきた。



ユダヤ人・非ユダヤ人の大量の収容者が、近隣の工場ではたらかされた。医学上の人体実験、とくに不妊手術をほどこされた人も多かった。きまった手順でガス室で殺されていったのはユダヤ人と、ロム(ジプシー)だけだったが、そのほかにも数十万人の収容者が、飢えや病気で死に、あるいは銃殺された。

殺戮の痕跡(こんせき)を消しさるために、
死体を灰にする大規模な焼却炉も建設された。1944年、連合軍の偵察機が、爆撃対象の産業拠点を探索中に、収容所の航空写真を撮影している。隣接する工場は爆撃されたが、ガス室は爆撃をまぬがれた。

VI

 

ホロコーストがもたらしたもの

 戦争がおわったとき、何百万人ものユダヤ人、スラブ人、宗教者、共産主義者、障害者、ロム、同性愛者、その他ナチの攻撃対象とされた人々が、ホロコーストの犠牲となって死んでいた。
 ユダヤ人の犠牲者は500万人をこえ、うち300万人が殺人センターその他の収容所で、140万人が銃殺作戦によって、60万人以上がゲットーで死んだ
(犠牲者数は、従来600万人近くとされている)。

  生きのこったユダヤ人たちがパレスティナの地に安住の場所をえられるようにという連合国の努力によってドイツ敗戦3年後に達成されたイスラエル建国は、このホロコーストの余波だった。

現在、ホロコーストの記録を目的として、世界各地に記録館・資料館が設立されており、その中心となっているのは、イスラエルのヤド・ウァシェム記念館である。

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