更新:2005/10/19
アウシュヴィッツにおけるガス室は?
ホロコースト、すなわち、第三帝国が第二次世界大戦中、独ソ戦から世界大戦の過程で行った大量のユダヤ人の殺害に関しては非常にたくさんの歴史研究が欧米で積み重ねられている。その総括的な成果は、たとえば最近邦訳されたW・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房、2003年)からも明らかである。
そこでは、これでもかこれでもかと全ヨーロッパのユダヤ人の迫害から絶滅へのプロセスに関する実に多様な情報が、最近までの欧米の最先端の研究を踏まえて、まとめられている。
そうした欧米とドイツの研究者の実証をふまえ、国会決議のもとにドイツ政府はベルリン(市中心部、国会議事堂やブランデン門近くの一等地の広場、世界中から観光客が一番集まる場所)に広大なホロコースト記念の石柱群を建立し、歴史を直視し、悲劇を風化させない断固とした態度、苦い経験を踏まえた平和努力をドイツと世界の人々に示している(20050527付記:昨日の新聞記事「天声人語」)。
しかし、歴史の問題、そして歴史認識は、ここからはじまる。
多くの学生諸君は、「なぜ、ユダヤ人が?」とたずねる。
「どのようにして、どこで?」と。
こうした疑問(素朴な無知)の流れに棹さすように、
欧米のいわゆる「アウシュヴィッツ」否定論者は、アウシュヴィッツにガス室がなかったなどとの主張を続けている。
その一つ一つの議論は、すでに欧米で詳しく検討され、新手が出るごとに、それらも実証的に反論されている。
歴史の真実をめぐる実証・論争には、多くの人の名誉や利害、平和と生存が関係しているだけに、厳しいものがある。
(1995年1月−2月)
わが国にも、若者向け雑誌『マルコポーロ』(文藝春秋社)に、欧米ではひそかに流されている否定論が公然と登場した。内外の批判を浴び、同誌は、きちんとした検証作業を掲載することなく、廃刊となった。
この 『マルコポーロ』事件をきっかけにして、前年に『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941−1942』(同文舘、1994年)を公刊していたこともあって、いくつかのセミナーで否定論の潮流の動向とホロコースト研究の到達点を紹介した。
そこでは、長い歴史を持つ欧米の否定論・「修正主義」の議論に対峙しつつ、実証的科学的に反駁してきた欧米の良心的な研究書類を利用した。また、自らも重要なドキュメントのいくつかに当たって検証し、ホロコーストの展開とガス室の存在を論じた。(業績リスト:1995年−97年の一連の仕事を参照されたい)
そのために、現場体験もしておかなくてはならない()と、アウシュヴィッツ・ビルケナウを訪れた。できるだけ一次史料(根本史料)を直接自分の目で読むことと通じる作業である。
一次史料を発掘し、これまでの史料や歴史叙述と照らし合わせて検証する作業は、
それに対して、種々のエピゴーネンは?
大部のなんさつもの歴史書で世界的に著名な(少なくともわが国では翻訳がある)アーヴィングのような大物の否定論者に対して、それらを紹介するのを「否定論」の亜流・受け売り(「エピゴーネン」)と称するとすれば、そうした人々はいまでもさまざまの「否定論」をひそかに繰り広げている。
最近、偶然、私の『独ソ戦とホロコースト』と『ホロコーストの力学』のガス室に関する部分を丹念に拾い出して、いろいろと批判しているHPを見つけた。歴史修正主義(歴史的修正主義)を掲げているHP・研究会である。
このHP・研究会の指摘をみてみると、いわゆる「正史」派の歴史叙述に実に細部にわたって検討が加えられている。私(の2冊の著書)もいわゆる「正史」派に位置づけられている。
私は、ある意味では(否定論者とはまったく違うスタンスだが)、これまでの歴史叙述におけるホロコーストの位置づけ(歴史理解)を根底から批判しようとしている。
その意味では、私も過去の見方を、現時点に立って、またソ連が崩壊した後の世界状況を踏まえて、修正しようとする研究者である。だから、ある意味では、修正主義派に属するのである。
いや、新しい本格的な研究は、それが本当に本格的であれば、従来の説に何らかのものをつけ加え、歴史像を修正し、豊かにするという側面を持っているのではなかろうか?
ここで詳しくは述べられないが(拙著を参照していただきたいが)、ホロコーストに関していえば、意図派や機能派の対立を乗り越え、対象理解と歴史像を総合的に発展させる方法という意味で、拙著は弁証法という方法概念を用いている。
上掲、拙著『ホロコーストの力学』(2003年)の副題に、「独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法」というタイトルをつけたのは、その方法的スタンスを表明するものである。(リカレント講座で配布した資料、参照)
(国防軍とソ連占領地における占領政策の急進化を解明したArnold著2005年刊行の本の方法的スタンスも同じもの)
したがって、私がいわゆる「正史」派に属するのかどうかは問題である。有難迷惑なレッテルともいえる。私は、保守的な硬直した「正史」派とは違うからである(少なくとも主観的には)。
ガス室の存在に関わる細部の叙述だけを判断基準にしていると、世界と日本の歴史研究の筋道・流れ(批判と反批判の科学的研究史)がわからなくなる。
「修正主義」を標榜する「否定論」の潮流とは、そうした歴史学の研究動向・研究蓄積など気にしないで、なんとかアウシュヴィッツに関わることを「否定したい」という態度だけが一貫しているということなのだろう。
もちろん指摘のなかには、徹底的に「否定」する精神から、ふつうには見過ごしてしまう叙述の「ゆらぎ」「ぶれ」(それがなぜでてくるかという問題に関しては、世界的なスタンダードワークとしてのCzechの仕事の紹介と若干の検討を参照されたい)などにまで敏感となり、叙述の正確さに向けて研究者を叱咤する面もある。正確さを追究することは、まさに我々研究者にかされた使命である。
アーヴィングのヒトラー「絶滅命令」をめぐる問題提起は、ブローシャトがつとに指摘したように、歴史研究者のという側面、したがってを与えたという側面も、その意味で皮肉な、ポジティヴな側面もあった。
しかしともあれ、 私の二冊の著書をこれほどまでに(「ガス室」をめぐる細部の特定の問題・論争点だけに限定してだが)、入念に読んでくれた読者は他にいないのではなかろうか、とその執念には驚く。
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なおブローシャト(故人)について少し横道に入っておけば、かれはいうまでもなく戦後ドイツを代表する良心的な実証的歴史家で、ミュンヘン現代史研究所長を長く勤めたことは有名である。ドイツ現代史研究者で彼の名前を知らないのは偽者といっていいかもしれないくらいである。
1976年の夏、西川正雄教授(私が住んでいたAuf der Papenburgの夫婦子持ち用学生寮のすぐそばの客員教授用のゲステハウスに住んでおられた)に連れられてボーフムからミュンヘンに出かけた。そこで、佐藤健生氏(現在、拓殖大学教授)、木畑和子氏(現在、成城大学教授)、それに当時ミュンヘンで在外研究をしておられた明治大学の三宅立教授などと一緒に、最初にミュンヘン現代史研究所で彼に会った、そのときいらい、欧米の論争などを通じて、彼の著作を見直すごとに尊敬の念をいだく。20050408ShitoDynamism.htm へのリンク
ボーフム大学のノルベルト・フライ教授(ハンス・モムゼン教授の後任)など、多くの優れた現代史研究者を育てている。
ところが最近、彼もがあるのではないか、と問題になっているようである。コンツェ、シーダーなどに続いて「ブルータスよ、おまえもか」と思っている人もいるであろう。
しかし、もしそうであるとすれば、彼の場合には()、そのこそ、良心的な研究ができたとも解釈できる。
ただ、彼やモムゼンの機能主義の議論には、個人の責任を軽くする傾向があるとすれば、彼の過去と関係があったのではないかとも見ることができよう。
しかし、仮にある人が党員であったとして、戦争終結時には700万人から800万人に上っていたナチ党員の一人一人に対して、同じウエイトで個人責任があるわけではない。ヒトラーやヒムラーなど最高幹部そして古参党員たちと、戦争終結時に20歳前後(物心付いた時から政権を握っていたのはナチ党だけという人々、幼少期から「洗脳」された人々)とでは、個人責任の軽重に差があるのは当然であろう。
最高幹部と最末端の人々では責任の所在も違うであろう。
責任の軽い人が、むしろ、非常に過去を深く反省している、ともいえる。
一人一人に即して、経歴・行動に照らしながら、個人責任の軽重を具体的に判定しなければならだろう。
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ともあれ、日本の「修正主義者」「否定論者は、私がいくつかの研究書を利用しているため、叙述に若干のずれが生じているのさえ見逃してはいない。何か隙がないか、欠陥を捜そう、というエネルギーはたいへんなものである。そこから、どのような歴史像が描かれることになるのだろうか?
しかし、少なくとも私には今後の仕事のスタンスに関して、重要な刺激と緊張感を与えてくれることは間違いない。
それにしても、
否定論者、いわゆる修正主義者は、なぜそんなにガス室の細かなことにいつまでもこだわるのか? そのエネルギーはどこから出てくるのか?,いったい何を職業としているのか、と疑問が湧く。
確かに、細部のことにこだわり、執着し、徹底的に追究するのは、有名なマックス・ウェーバーのがつとに指摘するように、学問・科学のひとつの重要な根本精神ではあるのだが。
上記の「修正主義」を掲げる人々は、私の研究がアウシュヴィッツそのものよりは、それにいたる経過をめぐる論争に力を注いでいることも、読み取っている。
その上でだが、アウシュヴィッツに関する言及が拙著のなかで少なすぎる、と批判的コメントを加えている。『独ソ戦とホロコースト』と『ホロコーストの力学』の2冊で900ページもあるのに、アウシュヴィッツについて触れた箇所・ページはこんなにもすくない、と。ページ数まで数えてくれている。
まさにそのウエイトにこそ、わたしのホロコースト把握の一番の力点がある。
世界史的な巨大な諸国民・諸軍事勢力・諸政治勢力ののなかで、すなわち、戦争のホロコーストをとらえる、ということである。
後世の評論家のスタンスではなく、現場の人々の行動の論理と力学に内在して見ようということである。
そうした私のスタンスからすれば、アウシュヴィッツは第二次世界大戦の総合的問題群のなかでとらえなければならず、その全体的連関の中では小さな問題に過ぎないのである。全体的関連のなかではごく小さな意味しか持たないことが、600万人の犠牲だということ、まさにここに世界大戦の被害の巨大さ、深刻さ・悲劇の大きさがある。それが、前掲拙著2冊のなのである。
ともあれ、研究者として、一つ一つの文章が、これほどになめるように微に入り細に入り批判的検討(否定論の立場から)の対象になることは、身の引き締まる思いがする。
たしかに、「すべては疑いうる」。科学はまさにそこから出発する。
徹底的な否定論者の問題提起を受け止め、科学的批判に値する部分については必要に応じて、また折に触れて反論することは必要なことだろう。
科学的研究を目指す以上、信者に繰り返し同じことを説くのとはわけが違う。
しかし、
他方では、ヨーロッパのことわざに、「一人の愚か者は、10人の天才でも答えられないような愚問をつぎつぎと果てしなく出す」というのがあるそうである。
かつてドイツ語を関口次男の本で勉強した時、彼の描いた4コマ漫画に、髪の毛が3本しかなくなった人(ご本人のことをイメージしていたのか?)が、その3本をどのように梳かすかで、あちらにやりこちらにやり苦労している場面が印象的に描かれていた。どのようにしても、結果はまったく同じ、と瑣末主義を嘲笑するような漫画だった。
それで類推的に言えば、ある人の頭の髪の毛が、5万500本なのか5万1000本なのかとか、老人になってはげてきた人の髪の毛が、203本なのか205本なのか、といった設問に、ほとんど意味がない、ということになる(その人その人の個人的問題としては意味があるとしても、学問的社会的には)。
歴史の問題でも、注意しないと、瑣末な問題だけにこだわることになってしまう。
事実、今年のドイツ経済史の受講生の感想のひとつに、「ヒトラーの絶滅命令の時期などはマイナーな問題なのに、先生はなぜそんなに熱中できるのか」と不思議がるものがあった。
「マイナーな問題」、これにはまいったし、驚いた。
説明不足をp反省しなければならない。
これは、私の説明のしかたの問題と学生さんの受け取り方の双方に問題があったのであろう。その学生さんは遅刻も多く出席回数もふつうより少なく、あまり熱心な聴講生ではなかったのが、せめてもの救いか?
ともあれ、
たしかに、現在の「平和」な生活を享受している若者たちの多くにとっては、第三帝国のことはおろか、日本の戦前までの軍国主義・帝国主義の歴史すら、「マイナーな問題」となっているのかもしれない。私が、「何かわけのわからない重要とは思われない細かな問題に熱中している」と、奇妙にしか感じられないのかもしれない。
「靖国問題」を「マイナーな問題」とみるか?
日本人、日本国の歴史認識の問題(同時に、どのような将来を作り出そうとするのかの未来志向のあり方の問題)とみるか?
戦争責任、戦後責任、そして未来への責任は、過去の正確な把握にしかないのではないか。
まさにそれがホロコーストでも問題になってきたし、今後も問題になる。その点で、私のスタンスは、ホロコーストの狭い現象に視野を限定することを批判し、20世紀の戦争と革命の総体のなかに位置づけて見るべきだとするスタンスなのである
欧米の歴史家が、20年来、ヒトラーのユダヤ人絶滅命令の有無、その意味合い、時期に関して、論争をつづけてきたのだが(そのことを私が配布した論文でも述べているのだが)、若い学生の一人には、実に「マイナーな問題」に見えるのである。
しかし、この問題は、ヒトラー・ナチスの思想構造、それを規定する第一次世界大戦とその帰結としての「社会主義」革命の問題、それらを踏まえた第三帝国の権力構造、意思・政策の決定構造に関わる巨大な問題として、論争されてきたのであり、日付の違いをめぐる論争はそうした大きな問題連関のなかに位置づけられているのである。
ともあれ、新たな史料(群)の発掘、それを通じる新たな論理の提起、検証が、歴史研究には求められる。それを通じてこそ、歴史認識を磐石にし、豊かにすることができる。歴史家の叙述のあれこれに疑問を持つだけでは、生産的発展的ではない。
しかし、歴史研究者は、否定論者を説き伏せるくらいの意気込みで、実証の密度と論理を鍛えて歴史を描く努力をつづける必要があろう。
ホロコーストについても同様である。
わが国で上記のような「否定論」に反論するための歴史科学的な研究を志し、書物として公刊しているのは、栗原優であり、その『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』ミネルヴァ書房が広く参照されている。私の一連の研究も、そうした実証を目指している。
アウシュヴィッツに関する記述は栗原著に詳しい。
いわゆる「アウシュヴィッツ否定論」に対して、アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所とその歴史的実態・意味などを歴史科学的に実証しようと試みる点で、私と栗原氏は同じスタンスである。
我々の間の違いは、どのような諸要因の組み合わせによっていつどのように「移住」政策がが絶滅政策へ展開したかという点にある(時期と論理)。栗原氏は41年8月をポーランド・西ヨーロッパなどのユダヤ人も含めた絶滅政策への転換と見るが、私は41年12月と見る。その理解の背後に、史料の読み方、史料渉猟の違い、ホロコーストの論理と力学のとらえ方の違いがある。
私の研究は、ホロコーストがどのような諸要因で始まったかの諸根拠を確認する点に重点がある。
実証の重点・力点は1941年12月−1月までにおいている。その段階では、まだアウシュビッツは絶滅収容所としては確立していない。アウシュヴィッツにおけるガス殺の本格的開始は42年春以降である。
否定論の最も有名な代表者がイギリスのアーヴィングという作家(歴史もの、ヒトラーやゲーリングの伝記の著作で有名)である。
このアーヴィングをアメリカのリプシュタットという女性が、わが国にも翻訳された書物のなかで、「否定論者」と呼び批判した。
これに対して、アーヴィングはイギリス(ロンドン)で、リプシュタット女史は自分の名誉を毀損した、生活が脅かされ大きな被害を受けたと訴え出た。
そこで、リプシュタット女史の主張が正しいことを証明するために著名な歴史研究者が鑑定書などを書いた。
その裁判は、結局、アーヴィングの敗訴となり、アーヴィングは莫大な裁判費用を支払わなければならなくなった。
(念のために付言しておけば、日本でも否定論者・修正主義論者に関する裁判が行われ、彼ら否定論者たちが敗訴した。)
アーヴィング裁判に提出された証拠資料の数々を整理してまとめた本が、いくつか公刊されたが、アウシュヴィッツのガス室の立証でリプシュタットに協力した建築家ヴァン・ペルトがまとめたのが、次の書物である。
Robert Jan van Pelt, The Case for Auschwitz: Evidence from the Irving Trial, Indiana University Press, Bloomington and Indianapolis 2002.
そこから、下記の地図を引用しておこう。あわせて、基幹収容所入口の有名な「ARBEIT MACHT FREI」の門の写真も示しておこう。
アウシュヴィッツの市内にある基幹収容所(アウシュヴィッツ第一収容所)
41年9月はじめ、ブロック11の地下室でツィクロンBの実験(ソ連人捕虜に対して)
その後、火葬場の死体置き場をガス室に転用(現在は、記念施設として内部を見せ、出入りできるようになっている)
(D. Czech, Auschwitz Chronicle, New York 1990, p.20.)
市内から3キロほど離れたビルケナウにつくられた収容所
こちらが有名な絶滅収容所・労働収容所(アウシュビッツ第二収容所)
前掲、van Pelt著より。
↑ ↑
(ビルケナウ収容所・正門・1995年8月)
アウシュヴィッツ第一(基幹)収容所と第二(ビルケナウ)収容所の位置関係
前掲、van Pelt 著より。
(D.Czech, Auschwitz Chronicle, New York 1990, p.21)
しかし、アウシュヴィッツが、絶滅収容所になったのはいつか?
それは、1942年春以降である。独ソ戦の敗退によって、世界戦争化と総力戦化によって、アウシュヴィッツ・ビルケナウの位置づけが違ってきたのである。
アウシュヴィッツ記念博物館で長年研究を積んだダヌータ・ツェヒの年表的に詳しい研究(世界的スタンダードワーク)を参照。
ポーランド・ユダヤ人の絶滅は、42年春以降、主として、ベウゼッツ、ソビボール、トレブリンカというポーランド(総督府)の東側の地域の絶滅収容所においておこなわれた。大々的なポーランド・ユダヤ人の絶滅(ラインハルト作戦)はまさにアウシュヴィッツ以外のこれら三つの絶滅収容所で行われたのである。(ベウゼッツ)
労働収容所の機能の欠如、巨大な工業プラントとの連結の欠如といったことから、「絶滅」目的の収容所としては、まさにこれら三つが純粋のタイプともいえる。
そして、これら絶滅目的だけの純粋タイプの強制収容所(文字通りの絶滅収容所)は、1943年10月に証拠隠滅のため、跡形もなく解体されたのである。(三つの絶滅収容所解体の報告書:ラインハルト作戦終了報告書)
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アウシュヴィッツの有名な火葬場(本格的なガス室を具えるクレマトリウム)は、43年以降に完成する。
アウシュヴィッツ・ビルケナウで一時回避的にツィクロンBによってユダヤ人の大量ガス殺が行われたのは、最初は、ビルケナウの敷地内にあった農家を臨時的に改造したものであった。
1942年1月、ゲーリングはソ連戦時捕虜をアウシュヴィッツからドイツ国内に移送し、軍需生産に利用しようとするに至ったが、そのときヒムラーは、彼の「アウシュヴィッツ・プロジェクト」の構想のために、ユダヤ人問題の最終解決を体系的(システマティック)に活用しようと考え始めた。(Robert Jan van Pelt, The Case for Auschwitz. Evidence from the Irving Trial, Indiana University Press, Bloomington and Indianapolis 2002, p..72.)
(ビルケナウ収容所内:「清潔はお前たちの義務だ」:95年8月撮影)
アウシュヴィッツ・ビルケナウの拡張と変化プロセス
労働収容所からそれプラス絶滅収容所への性格変化のプロセス(D. Czech,、前掲書、年表より)
1939年、ポーランド侵攻によって国防軍が、アウシュヴィッツのポーランド兵舎を接収。
1939年12月 SS(親衛隊)がこれを国防軍から譲り受けて、強制収容所を作る構想。
1940年1月−4月、。親衛隊の代表、治安警察保安部の代表がアウシュヴィッツを訪問。獲得のため、国防軍と交渉。ヘスの現地調査。ポーランドの囚人用として。将来的には1万人の囚人を受け入れる計画。
1940年4月27日 ヘスの調査に基づき、ヒムラーが強制収容所建設(兵舎を利用して)を命令。ヘスが将来のアウシュヴィッツ収容所司令官に指名される。
1940年5月4日 ヘスが公式にアウシュヴィッツ司令官に任命された。
未完