出張記録:2009年3月15日-3月22日:
「軍縮と軍拡・武器移転の総合的歴史研究」・科研費基盤研究(A) (研究代表・明治大学・横井勝彦教授)による出張。
ベルリンのマックス・プランク協会
(旧カイザー・ヴィルヘルム協会)の文書館
Archiv der Max-Planck-Gesellschaft
ドイツ原爆開発に関連するドキュメントの調査
(私の第三帝国の諸問題、とくにホロコースト研究の展開・進展の中で到達した段階)
ソ連軍がベルリンを占領した際に押収した資料のうち、
2004年に返還されたカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所(Kaiser-Wilhelm-Institut für Physik)の史料を調査。
ドイツ博物館(ミュンヘン・2月出張記録参照)所蔵の同じ研究所文書は、
アメリカのアルゾス(Alsos)調査団が押収したもので、1990年代に返還されたもの。
史料の公開には、時代的制約・時代的条件。
2009年2月3月の出張によって、
米ソ二つの占領軍が押収していた文書を見る。
もちろんいずれの文書館にも,たくさんの関連史料があり、
短期の調査ではごく一部をみることができたにすぎない。
史料閲覧室(窓の外、後方にベルリン自由大学のHenry Ford Bauがみえる)
私が今回閲覧した史料の一部(Abt.I, Repositur 34)
文書館の建物外観(中央部分の半円形に張り出した部分が上の史料閲覧室)
ベルリン自由大学HenryFord Bauを背中にして撮影。
アルヒーフの門(所在地:Boltzmannstr.12-14)
アルヒーフの玄関を示す標識(ARCHIV)、その前が玄関
>
このアルヒーフの建物は、もともとオットー・ハインリヒ・ヴァールブルクの館、との由来が玄関脇に。
↓文書館史料保管庫(Magazin)の塔
(アルヒーフおよびその閲覧室から少し遠く離れているように感じるが、Magazin des Archivsとの説明があった)
アルヒーフの最寄駅は、地下鉄路線U3のティールプラッツThielplatz駅(2009年当時の駅名)
(現在は、ベルリン自由大学駅と名称が変更されている)
(地下鉄といってもこのあたりはベルリン中心部ではなく郊外なので、線路は地表に出ている)
駅舎も小さい。
この駅は、ベルリン自由大学(Freie Universität Berlin)の最寄駅の一つでもある
(ベルリン自由大学の創設も、米ソ対立・西対東の二つの社会体制の対決・冷戦の一現象・一帰結)
アルヒーフの一つ道路をへだてた反対側は、ベルリン自由大学の
Henry Ford Bauという建物(寄付したヘンリー・フォード財団を記念したものであろう)
(ベルリンが東ドイツの中の孤島のようになっていたとき、アメリカの援助で大学、その建物が建設された)
壁の文字
Freie Universität Berlin
Henry Ford Bau
図書館(画面に写ってはいないが、右手にHenry Ford Bauの講堂が位置する)
Henry Ford Bau(左手) と 法学部館(右手奥)
別の日、Henry Ford Bau(建物)の全景
Boltzmannstr.とGarystr.の交差点から
この建物は、ある意味で大学の中心、図書館も併設されている。
経済学部棟前の庭(抽象的彫刻)から、Henry Ford Bauを見たところ
法学部の建物の一つ
経済学部の建物の一つ
Wirtschaftswissenschaft(経済学、経済科学)
Thielplatz駅を出たすぐのところにFritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellschaftの一群の建物がある。
ベルリン自由大学の敷地に隣接している。
駅東側の信号(アンペルマン)
Thielplatz駅(U=地下鉄マーク)とFritz-Haber-Institut(赤い建物群)
灰色の建物群がベルリン自由大学の建物
ピンク色が、ハルナックハウスHarnack Haus
フリッツ・ハーバーはユダヤ系ドイツ人。
彼は第一次大戦のとき、化学の力で、
一方では毒ガスを開発、「毒ガス開発の父」とも称される。
(宮田親平『毒ガス開発の父 ハーバー』朝日新聞出版、2007)
他方では、空中窒素の固定(アンモニア合成法=ハーバー・ーボッシュ法)で窒素肥料の人工的生産で人類・農業生産に貢献。
しかしこの化学合成窒素(N)も、イギリスにチリ硝石nitrium、NaNO3を断たれたドイツのTNT爆弾生産において決定的意味をもつ。
(「工業的な窒素固定法は1913年にドイツの化学者ハーバーとボッシュが考案した。
これは窒素ガス(N2)と水素ガス(H2) を200-1000気圧、500℃で鉄触媒を用いて反応させるアンモニア合成法」
『元素111の新知識』講談社Blue Backs、58ページ)
第一次大戦のとき、ユダヤ系ドイツ人は、キリスト教系ドイツ人とともに、同じ「国民」として、同じドイツ人として戦う。
ハーバーは、第一次大戦後の1919年に、1918年度ノーベル化学賞。
ハーバーは1933年ナチス政権誕生の時、カイザー・ヴィルヘルム協会の物理化学・電気化学研究所長だった。
ヒトラー政府の公務員法(ユダヤ人排斥法)に抗議し、辞職。
イギリスに亡命(ケンブリッジ大学の招聘)。しかし、1934年1月29日、避寒中のスイス・バーゼルで心臓発作で死去(享年64歳)
OTTO HAHN BAU↑位置
オットー・ハーンはカイザー・ヴィルヘルム化学研究所長。
↓ Otto Hahn Bau(オットー・ハーン記念館)
Otto Hahn Bau der Freien Universität自由大学オットー・ハーン記念館
核分裂発見(核時代の道を切り開いた)を記念する銘板
この建物でIn diesem Hause
当時カイザー・ヴィルヘルム化学研究所のこの建物でdem damaligen Kaiser-Wilhelm Institut für Chemie、
1938年に発見した。entdeckten 1938
オットー・ハーン
と
フリッツ・シュトラスマンが
ウランの核分裂URAN-SPALTUNGを、と。
(オットー・ハーンは、1945年11月に、1944年度のノーベル化学賞を授与された。
アメリカによる原爆投下後だが、ハーン自身は画期的な核分裂を発見しただけで、核爆弾開発には無関係、と)
しかし、オットー・ハーンが核分裂を発見したとき、
ドイツを支配していたのは、ヒトラー・ナチス。
そのヒトラー・ナチスドイツが、核エネルギーを爆弾に利用したらどうなるか?
ドイツ物理学は世界の最先端をいくのでは?
1918年度ノーベル賞のマックス・プランク(「量子論の父」)。
そのプランクは、カイザー・ヴィルヘルム協会総裁では?
若くして量子論に関する不確定性原理でノーベル賞をとった原子理学者のハイゼンベルク。
哲学思想にも、物理学の現代的展開にも大きな影響を与えたハイゼンベルク。
そのハイゼンベルクが、ドイツにいるではないか?
アメリカに講演旅行で来たとき、亡命者たちは、彼にナチ体制下のドイツに帰らずアメリカに引き留めようとした。
しかし、ハイゼンベルクは、帰国したではないか?
ハイゼンベルクは、保守派ではないか?
彼のナチ体制との協力関係は?
ヒトラーが原爆をもったらどうなるか?
ナチ体制下の原子核物理学者たちはどうしていたか?
ドイツの軍部は核分裂・核エネルギー開発にどのように行動していたか?
Heereswaffenamt陸軍兵器局はどうしていたか?
ヒトラーは?
ナンバー・ツーのゲーリングは?
軍需大臣シュペーアは?
産業界は?
事情を知る人々は、ヒトラーが原爆をもつ危険性に気づき、
アメリカ大統領に原子爆弾開発を進言。
アメリカにおける原爆開発は、ナチスドイツの侵略膨張とともに、本格化。
ナチス・ドイツが西ヨーロッパ大陸支配から東欧南東欧支配へ、そしてソ連攻撃へと侵略拡大。
、
ヒトラー・ナチスの征服地の拡大、対米・対世界への危険性の増大とともに、次第に本格化する。
日本の真珠湾攻撃、これによるヒトラーの対米宣戦布告が決定的転機となる。
本格的原爆開発=マンハッタン計画は、1942年始動。
完成したのは(原爆実験に成功したのは)、1945年7月16日。
その時、すでにヒトラーは自殺(4月30日)し、ナチス・ドイツは無条件降伏(5月8日)していた。
いまや連合国軍の敵は日本(大日本帝国)だけになっていた。
広島(ウラン爆弾)・長崎(プルトニウム爆弾)は、巨大な原子核エネルギーの瞬間的放出。
------核エネルギーの平和的利用(原子力発電所)とプルトニウム爆弾の原料製造----------
他方、日本も依存率30パーセント台にまでなっている原子力発電も、核分裂エネルギーを利用。
科学の革命的発見は、平和的な利用も可能であり、軍事的な利用も可能である。
ノーベルは、ダイナマイトを発明した。
それは、平和的な目的にも利用できるが、軍事的にも利用された。
ノーベル賞は人類への普遍的貢献、平和への貢献などの業績に対して授与される理念。
使う側の問題。誰が、どのような目的で。
しかし、原子力発電所で日々ウラン燃料が使用され、その結果、
ウラン以上に核分裂しやすいプルトニウム、放射性物質が地球に蓄積していることは、
はたして、地球・人類にとっていいことなのか。
再生可能エネルギー(太陽発電その他)こそ、今後、飛躍的に開発・普及すべきものではないか?
グリーン・ニューディールは、世界的・地球的・人類的な緊急課題!
----------------------
1942年6月 ハルナック・ハウスに軍需大臣シュペーアほか、重要人物が参集
ウラン問題(核エネルギー開発)に関する会議が、ハルナック・ハウスで開催された。
ハルナックハウス講堂Hoersaal(当時、カイザー・ヴィルヘルム協会KWGの建物)
Hoersaal正面玄関
Harnack-Haus Hoersaal
現在はFUの政治学関係研究所↓ (ナチ時代まではKWGの人類学研究所)Ihnenstr.
アウシュヴィッツの残酷な実験の医師メンゲレなどがここで学ぶ
メンゲレを教えた教授名
科学者は、自分たちの科学研究の内容と結果に責任あり、と。
ベルリンのいろいろの駅にユダヤ人は集められ、列車で東の強制収容所・絶滅収容所に送られた。
フリートリヒシュトラーセ(Friedrichstr.)駅の「ユダヤ人移送」の記念群像
西に向かうのはイギリスへのキンダートランスポートで助かる子供たち。
沈痛な面持ちで連行される家族(東方に向かっている)
ユダヤ人救援のキンダートランスポートで西方に向かっている子供たち(明るい表情)
-----------------------------------
次々と新しい建物が建つポツダム広場PotzdamerPlatz駅の周辺
駅構内の彫像(頭で立つ人間)
地下の駅構内から地上にでるところ
Potsdamer Platz
ポツダム広場片隅にひっそりと残されているカール・リープクネヒト記念碑・土台
ポツダム広場には何度も行っているが、「何かな」と近づいてみて、今度初めて、このことに気がついた。
Grundstein eines Denkmals für Karl Liebknecht
第一次大戦下の1916年5月1日 ここで、
カール・リープクネヒトが帝国主義戦争反対と平和のための戦いを呼び掛けた、と。
二つの世界大戦の悲劇を経て、人類は、帝国主義・植民地主義を否定する水準に立った。
しかし、そのためには、19世紀末から、第一次大戦期を経て、第二次大戦に至るまでの全期間、そして、第二次大戦後も、
帝国主義・植民地主義に抗する人々が声をあげ、すこしずつ大きな潮流となって、人々の共感を獲得していく苦難の道があった。
カール・リープクネヒトは、ローザ・ルクセンブルクとともに、1919年初めに暗殺された。
--------------------
今回は、ベルリン・フンボルト大学のゲステハウスに宿泊(3度目)
部屋(219C)
キッチン付(219Aの部屋との共用)
シャワー室(これも219A室と219C室の共用)
居間(これも共用)
部屋から外を見れば、博物館(美術館)島Museumsinsel
ボーデ・ミュージアム、その向こうに壁面修理中のペルガモン・ミュージアム
東ベルリン地区にあった建物群は、つぎつぎと修理修復がなされている。
そのひとつの象徴的な事例がペルガモン・ミュージアムの修理・修復。
右手方向10分ほどでウンター・デン・リンデン通り、フンボルト大学