真珠湾攻撃・対米宣戦布告⇒世界大戦と
ポーランド・西欧ユダヤ人「東方への疎開」=絶滅政策への移行
(イギリス、チャーチル、ソ連はドイツの対米宣戦布告で、戦勝を確信, Cf.丸山)
反ユダヤ主義の過激化の力学(類比:丸山「ファシズムにおける権力委譲論」)
ドイツとその支配下の民衆、敵対する反ファシズム勢力の民衆、その相互関係・ダイナミズム・闘争的諸関係の総体(Cf. 大衆の意識)
ラインハルト作戦(「ヴァンゼー会議」1941年1月20日〜)
⇒ワルシャワ・ゲットー蜂起
(1943年4月から約一か月の戦い)
1941年11月から12月「冬の危機」
戦時経済の総力戦化(人的物的資源の窮迫・占領地からの奪取・「奴隷労働」)
・反ドイツ抵抗運動とヴァンゼー会議
日本の真珠湾攻撃に呼応して、
41年12月11日 ヒトラー国会演説(対米宣戦布告)。
東部戦線で、ドイツの戦死者16万2314人、
負傷者57万1767人、行方不明3万3334人、と。
41年12月12日 ヒトラー、ナチ党幹部会議で
「戦争の責任者ユダヤ人に命で償わせる」と(ゲッベルス日記記載、12月13日)。
41年12月14日 ヒトラー・ローゼンベルク会談(スポーツ宮殿での演説に関する打ち合わせ)・・「ユダヤ人根絶を使わない」、
「わるいのはユダヤ人、罰がぶち当たるのだ」と正当化の表現にすると。
41年12月16日 ポーランド総督フランク(統治困難・内部対立→生贄を外部に求める・その点で統合・協力)・・・総督府閣議で、総督府のユダヤ人の粛清Liquidierungを表明。その方法は、近いうちにベルリンで予定の会議で、と(閣議議事録、その会議とは、ヴァンゼー会議:42年1月20日)。
41年12月18日 ヒムラーのヒトラーとの
会談メモ「ユダヤ人、パルチザンとして根絶」
42年1月1日の連合国26か国宣言を受けて、
42年1月8日、『もはやこれ以上延期できない」と、
ハイドリヒがヴァンゼー会議の召集状を発送。
42年1月20日 ヴァンゼー会議:
議事録(ドイツ語オリジナル)
参考:映像資料「ヴァンゼー会議」(ドイツARD製作、監督パウル・モンメルツ,1980年代)これを踏まえて、
最近、「ヒトラーのための虐殺会議」のタイトルで、映画化された(DVDあり)。
記念館(私の訪問記録)、
記念館公式HP、
ヴァンゼー会議記念館の展示資料集…
翻訳:山根徹也・清水雅大訳『資料を見て考えるホロコ―ストの歴史
――ヴァンゼー会議とナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策』春風社、2015)
42年1月25日の卓上談話(ヒムラー同席)
・・・ヨーロッパの人々の「理解」・・・・ヨーロッパ・ユダヤ人の根絶
ヴァンゼー会議「ヨーロッパ・ユダユ人問題最終解決」の方針確認を踏まえて、
ラインハルト作戦
ヒムラー・・・1942年7月に、
年末までに、総督府ユダヤ人の「完全一掃」、絶滅を命令。
実際に年末までに、約200万人の総督府ユダ人が絶滅収容所へ・・・大々的絶滅作戦の敢行。
しかし、
ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人の完全な「疎開」=絶滅は、未達成。
約5万人ほどがゲットーに。
最後の作戦として、
1943年4月、「疎開」開始
これに対するユダヤ人の抵抗・ゲットー蜂起
約一か月ほどで、鎮圧
ゲットー蜂起鎮圧の指揮を執ったのが、親衛隊(武装親衛隊)将軍ユルゲン・シュトロープ
戦後、逮捕され、連合国監獄から、ポーランドの監獄に。
その監獄で、同房となった(スターリン主義の犠牲者)ポーランド人武装抵抗運動家モチャルスキとの対話。
カジミェシュ・モチャルスキ著『死刑執行人との対話』恒文社、1983.