民需技術、軍事研究と技術開発

20090315-0322MPG-Archiv調査



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ギリシャ哲学者Heraklit・・・「戦争はすべての物事の父親」》Krieg als der Vater aller Dinge《[1]


   原爆開発はまさに第二次世界大戦が推進力となった。
   (ドイツ原爆開発の実態は? 文献?
  

    文献調査(目録)

 

しかしまた、それだけに、平和構築の努力、戦争を抑止しようとの努力も、人類の文化[2]・芸術・法律・政治等のあらゆる諸生活分野をつらぬくものであろう。

 



私の問題関心:「戦争と平和―国際文化の創造的構築の現代的地平―」

 

20世紀は、一面で進歩の世紀、しかし他方で、史上最悪の世界戦争の世紀・・・(世界)戦争の責任(者)は?責任の所在と軽重は?)・(世界)戦争の根本的諸原因は?


 21世紀の世界は、戦争の根本的諸原因を取り除いているか?

中東の戦争状態を見るにつけ、問題はそう簡単ではない。

 

東アジアでは、現在、北朝鮮のミサイル発射実験が物議をかもし出している。しかし、これまでアメリカ、ロシア、中国、その他は、ミサイル発射実験をしてこなかったか?

宇宙開発の技術を高度化させることで、ミサイル発射技術の開発を実質的に続行しているのではないか?

「太陽政策」はどうなったか? 「拉致問題」を北朝鮮圧迫手段に利用するだけで、平和的正常化を一方的に遅らせることになってはいないか? 

それは北朝鮮の民主主義的改造を困難にし不可能にするものではないか?

諸大国の包囲網こそが、かれらの軍事優先、「先軍政治」なる路線を正当化させているのではないか?

それは、日本のミサイル防衛システム(アメリカ主導のミサイル攻撃システム)の構築(専守防衛からの離脱)を容易にするための宣伝材料となっているのでは?

 

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ナチス・ドイツは、政権誕生(1933年1月)後、わずか6年にしてポーランド攻撃を開始したが、それは軍事技術的には、どのようにして可能であったのか?

国防軍の再建、秘密再軍備、それを可能にした全体状況・諸主体の戦略に関しては、古典的研究J.ウィーラー=ベネット『国防軍とヒトラー1918-1945』T・U、山口定訳、みすず書房、1961年(新装版2002年)、参照。(ウィーラー=ベネット1902-1975も、1946年ニュルンベルク裁判の検察部イギリス代表に属し、膨大なドキュメントを直接検証する作業を行っていた)

Petzina1977,Statistik


 第一次大戦期の軍事技術がどのようにナチス・ドイツ期に継承されたのか?

 

   1921年5月、独ソ通商協定から、1922年4月17日、ラッパロ条約へ(「ブレスト=リトヴスク条約によって確立され、その後両方の当事者によって廃棄されていたこの二国間の外交上、通商上の諸関係は正式に回復され、ヨーロッパの他の国々から永い間疑われ且つ恐れられていた独露協商がここに完成・・・」ウィーラー=ベネット、p.123)

 

   1924-32年の国防軍予算(4億9千万マルクから8億2700万マルクへ:、他の省の予算の中の軍事費、内務省の各ラントの警察に武器提供する費目、運輸省、軍事航空の発展のための支出。平和的な非軍事的支出であるかのようなカモフラージュ、再軍備計画の一環であることを隠蔽・・・1924-32年の時機にこれらカモフラージュされた費目に支出された金額の総計は約32億1900万マルク:ベネット、p.173-174)

   1928年1月、グレーナーが国防大臣に(秘密再軍備暴露の「フェーブス」事件で失脚したゲスラーの後任、ベネットp.176-180)

   1928年 海軍・ローマン事件(ヴェルサイユ条約違反事件)


 ワイマール期の技術開発と軍事研究(軍事技術開発)とはどのように結びついていたのか?

ワイマール期・ナチ政権掌握までに形成されていたドイツ工業の生産力水準・諸生産設備を再編することによってしか、短期間の軍需経済構築は不可能だった。


 とすれば、ヒトラーが『続・わが闘争』で主張するように、「大切なのは民族強化・民族の強大化という戦略、軍を指導し、軍事体系を構築する根本思想」であって、「兵器保持・開発の禁止などはなんとでもなる」のか?

 民需品生産技術・設備と軍需品生産技術・設備の相互移転の可能性・容易さは?


 平時における技術革新の蓄積とその軍事技術への転用・移転?

クルップ・フォン・ボーレン:ヴェルサイユ体制下の「沈黙の活動」と平和的民需生産技術の軍需転用

ワイマール期の人員養成など。ヴェルサイユ体制下の海軍力構築

(Cf.現在のドイツ連邦共和国の武器輸出の理念・実績は? 2004年政府報告書)


 軍事技術はどこまで、軍事に独自なものか?

ほとんどすべての科学技術が軍事転用可能では?

 

ドイツ第三帝国の場合は、どこから本格的攻撃的軍需経済(防衛的な軍需経済を突破した時点)か?

 

最初は「秘密再軍備」(クルップシャハトトーマス)。

しかし、進めるのは「秘密に」であっても、ヒトラー(政府・国家)は、最初から本格的軍備構築を戦略的課題としていた。上記、『続・わが闘争』の主張どおり。

1934年―1937年、シャハト「新計画」による貿易管理(輸出促進・輸入制限)と再軍備政策

1935年5月3日 軍需金融に関するライヒスバンク総裁シャハトの覚書(1168-PS)

1935年5月21日、ヒトラー国会演説(軍備増強・ヴェルサイユ条約違反の正当化) (非公表の「帝国防衛法」2261-PS制定とシャハトの戦争経済全権への任命=「すべての経済力を再軍備のために»Aufgabe des Generalbevollmächtigten für die Kriegswirtschaft ist es, alle wirtschaftlichen Kräfte in den Dienst der Kriegführung zu stellen.«)

1934年以降、秘密裏の武器輸出→1935年11月の武器輸出法改正→1936年、武器輸出ドライブ(外貨獲得、原料獲得の手段、南東ヨーロッパ諸国との協力関係構築)

 

1936年夏のヒトラー覚書と9月党大会での四カ年計画発表・計画執行全権としてゲーリング

 

1937年11月5日会議(ホスバッハ・議事録)・・・ヒトラーの見地[3]、これに対する軍事専門家(フォン・ブロンベルク、フォン・フリッチ)のザッハリッヒな見地からの異論、フォン・ノイラート外相の疑念・抵抗・協力拒否・辞任申し出→危機[4]

1938年1月「フリッチ危機」・フリッチュ以後(→フォン・ブラウヒッチ、ベック→ハルダーシャハトヴィッツレーベン) 

1938年2月4日以降、カイテル、OKW参謀部長(OKW=国防軍最高司令官ヒトラーの参謀)(参謀本部)

1938年4月22日、「チェコ攻撃計画の会議」

1938年中ごろ以降、シャハトたちはヒトラーのこれ以上の軍備拡大=財政支出に反対の態度を固める(1939年1月2日、決裂、決定的)。

1938年11月29日、シャハト演説(611−EC

1939年5月23日、「ポーランド攻撃計画の会議

1939年8月22日、「いまこそポーランド攻撃のとき」と軍指導部にヒトラー演説、軍部における甘い期待

(攻撃の口実、「宣伝上のきっかけは、自分が作る、それが真実かどうかは勝者となれば問われない、戦いをはじめるときは勝つことが第一」云々)

1939年9月1日、ポーランド攻撃の日・ヒトラー国会演説6年間に900億ライヒスマルクの軍事支出」と。(cf.軍需支出のGNP比率などの統計、900億RMは「誇張」とAbelshauser1998


 両大戦間のドイツの再軍備(トーマス演説・1939年5月・・・大戦末期に近づくと冷徹な敵の潜勢力の評価はヒトラーをいらだたせ、敵を過大評価するものと激怒させる)、急激な軍備増強とその緩和提言(シャハト)
 

 ゲオルク・トーマスの『防衛・軍需経済史』  

 

   1939年9月以降、ベック、ゲルデラー 

  1940年12月18日、対ソ攻撃・総統指令第21号「バルバロッサ」

  1941年4月4日、ヒトラー・松岡会談・・・対米戦勃発の場合の協力、潜水艦戦争に関する経験と最新技術・発見の提供を要請。ヒトラーは、対ソ攻撃の背後を日本が攻撃することをねらう。

  1941年4月20日、日ソ中立条約を受けてのヒトラーの態度(対ソ攻撃計画は伏せたまま)

  1941年5月2日、「バルバロッサ作戦」:ドイツ国防軍をロシアの食料でまかなう・・・現地の「何千万人が餓死することになろう」

  1941年7月10日 リッベントロープから東京のドイツ大使宛電報(「あらゆる手段を講じて日本を対ソ戦に参加させよ」)

  1941年11月28日 リッベントロープ、日本の対米英攻撃を鼓舞 

  1941年12月7―20日、陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチ、辞任・・・ヒトラーが直接陸軍最高司令官に。

 

 

 



[1] Krieg ist aller Dinge Vater, aller Dinge König. Die einen macht er zu Göttern, die anderen zu Menschen, die einen zu Sklaven, die anderen zu Freien.

[Heraklit aus Ephesus: Fragmente.. Philosophie von Platon bis Nietzsche, S. 138 (vgl. Diels-Vorsokr. Bd. 1, S. 88)]

 

[2] ぶん‐か【文化】‥クワ

#文徳で民を教化すること。

#世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。

(culture) 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。#自然。

 

[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 

[3] ヒトラーの下には、日本が中国大陸で推し進める侵略政策(日中戦争)の情報、南京事件(南京大虐殺)の情報がはいっていた。ラーベの「ヒトラーへの上申書」など。

ジョン・ラーベ著エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳『南京の真実The Diary of John Rabe』講談社、1997年。

 

[4] 日本の場合、ヒトラーに当たるのが軍部。

日本における軍部(統帥部と関東軍などの現場)の独断専行と躊躇しながら引きずられていく天皇・政府諸機関