20090823-0906
ベルリン・マックス・プランク協会文書館
Archiv der Max-Planck-Gesellschaft, MPG-Archiv)
「カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所」文書の調査
(二回目。一回目は3月) 

(今回も、科研費出張)「軍縮と軍拡・武器移転の総合的歴史研究」・科研費基盤研究(A) (研究代表・明治大学・横井勝彦教授)による出張


9月27日の社会経済史学会・秋季大会(東洋大学)のパネルの報告のための史料調査と原稿執筆。

いくつかの興味深い史料を見つけることができたので、これらは学会で報告できるとほっと一息。

あと2週間、司会者・他の報告者に送る報告原稿の最終仕上げ・執筆に集中。



 7日、帰国翌日の朝、ある人と挨拶・立ち話しをした。
 夏休みも毎日大学ですかと問われたので、「そうですが、この2週間は、ベルリンにドイツ原爆開発の史料調査で出張していました」と答えたら、「えっ、ドイツが原爆開発していたのですか」と問い返された。


 2月のミュンヘン・ドイツ博物館文書館調査、および前回と今回のArchiv der MPG出張で確認したこと。

 実際に1945年5月8日の無条件降伏の時点までにナチスドイツでは、原爆開発を理論的射程に入れて原子力エネルギー利用・原子炉建設の基礎研究が着実にカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学、ハンブルク大学などの研究所の分業・協力関係のもとで、国防軍・陸軍兵器局との連携のなかで、進んでいた。核エネルギー開発の科学的な実験研究が科学的精神のもと事実・実験に即して行われていた。その成果報告書がたくさん蓄積されていた。
 しかし、その無条件降伏時点での到達段階は、現実の武器としての原爆開発にははるかに遠く、原子力開発の初歩段階にとどまった。

 1941年12月11日、ヒトラーは、対米宣戦布告の大々的な国会演説を行って、アメリカにドイツに対する反撃の正当な理由を提供したわけだが、
 ハイゼンベルクたち物理学者は、史料をみるかぎり、こうしたヒトラーの対米戦正当化の演説に共鳴しているとは思えない。アメリカに対する原爆開発を急ごうなどという発想もどこにも見られない。
 ヒトラーに熱狂した物理学者たちであれば、そうした華々しい提言をしてもよさそうだが、それも見つからない。逆に、古参党員のノーベル賞受賞者レーナルトなどヒトラーとの関係の良い物理学者は、量子力学・相対性理論に反感をもち、核開発には疎遠であった。

 アメリカとの直接戦争対決という新たな段階で、ドイツ物理学協会(会長ラムザウアー)は、アメリカの強さ、ドイツに対するアメリカの優位の確立(ドイツに追いつき追い越した現状)に警鐘を鳴らし、ドイツのまっとうな物理学研究を促進する必要を訴える請願書を文部大臣に提出(1942年1月20日、まさにヴァンぜー会議の開催日とおなじ日付)し、ドイツの物理学・研究体制の抜本的見直しを提言している。


 こうしたドイツ物理学協会の1942年はじめの態度を見ると、
 それまでの戦争では相手国の力量について、そんなに高くは評価していない、むしろ低く見ていた(それはまた当時の世界各国における最先端の物理学研究の実態の反映でもあったが)、相対的優位を実感していた、ということである。

 アメリカとの対決で初めて、アメリカという敵を見据えて(それはまた第一次大戦の苦い体験の想起であり、第一次大戦後のアメリカの世界的地位の向上を知った上でのこと)、自分たちより上を行くアメリカが意識の上に上り、政府に進言をする、ということになった。
 しかも、それは、原爆開発を、というものではなく、「白いユダヤ人」とされたハイゼンベルクの復権、ミュンヘン大学のゾンマーフェルト後継ポストをめぐる提言であった。まさに、ここに、当時のドイツの物理学会、物理学関係産業の到達水準があった、というべきなのであろう。




 これに対し、アメリカの原爆開発は、ヒトラー・ナチスの電撃戦とヨーロッパ支配の拡大の段階ごとに刺激をうけ、ヒトラーによる対米宣戦布告を一大跳躍点としている。

 アメリカに亡命したユダヤ人物理学者(その多くはドイツで学び、ドイツ物理学を世界水準に押し上げていた人々)などの危機意識・恐怖体験・迫害経験の意識、「ナチス・ドイツが原爆開発をやっている」、「ヒトラーが原爆をもったらどうなるか」という危機意識・脅威の意識を出発点とし、その危機意識・脅威感の増大とともに行われた。

 この国際的な歴史的因果関係=軍拡・武器移転(逆の関係:敵国・敵勢力へ武器移転阻止・武器開発秘密化を含む)における現実の戦いの弁証法は、普通の人には、かならずしもあまりよく知られていないようである。


研究史、一次史料に基づく研究は?
 ドイツにおける核エネルギー開発(原子炉開発・原爆開発)の専門的な歴史研究・実証研究も、わが国では行われていない。
(ただし、アメリカの研究を中心にかなりたくさんのドイツ爆開発をめぐる研究書の翻訳がある。したがって、日本人が独自に史料調査をして、行った研究はまだない、というべきであろう。この間調査した限りで、管見のかぎりだが、すくなくとも、MPG-Archivの文書綴りに付された利用者/署名欄には、日本人では私の名前しかなかった。利用者数も、せいぜい私を入れて、まだ数名だった。特に2004年にロシア原子力資料館から返還された文書史料ないしコピーで購入した文書史料に、最近の新しい研究が依拠しているとすれば、その検証は、少なくともわが国ではまだだれもやっていないのではないか?)。

 その意味でも、アメリカの原爆開発を促進した「ナチスの原爆開発」なるものの実態を史的に検証しておくことは必要であろう(問題意識・課題意識)


 



 ナチス・ドイツにおける原子力開発が初歩段階にとどまらざるを得なかった原因の決定的に重要な一つは、もちろん、第一次大戦のとき(化学者フリッツ・ハーバー、経済人エミール・ラーテナウなどのユダヤ人がキリスト教徒と同じドイツ人としてナショナリズムの共通項で敵国英仏などと戦った)とちがって、ナチ体制下ではユダヤ人がドイツ国民として国家的に統合されていなかったこと、むしろヒトラー・ナチスの反ユダヤ主義政策で有力な科学者が政権誕生直後からすべて排除され、亡命せざるをえなかったことにある。頂点に立つヒトラーが、反アインシュタイン・反相対性理論・反ユダヤ主義のレーナルトなどナチ党物理学者を信用していたことも重要な要因となろう。

 だが、そうしたことだけではあまりにも単純であり、一面的。
 科学の発展の歴史、科学的発見の工業化の関係、そうした事実関係を政治と戦争のダイナミズムの中で見ていないからである。
 ハーンとマイトナーの協力関係が1938年まで続き得たこと一つととっても、そこにはドイツとオーストリアの国家間関係が横たわっている。

 (補注: 原子力エネルギーの人類による利用にとって決定的な核分裂の発見(1938年末)には、1938年3月までオーストリア国籍だったため、外国人(1938年3月のオーストリア編入=併合までは)としてドイツにとどまりえた女性ユダヤ人物理学者リーゼ・マイトナーのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所長オットー・ハーンとの共同研究が決定的な意味を持った。マイトナーが1933年にすでに他のユダヤ人科学者と同じように亡命せざるを得なかったとすれば、オットー・ハーンの核分裂発見もなかったかもしれない。

 3月のMPG-Archiv出張時に写した写真にも、核分裂発見に関するリーゼ・マイトナーの功績・貢献を顕彰する銅版が写っているが、その時にはその文面を読まず、その意味に気付かなかった。今回ははっきりそれを確認した。二回目に訪れて見て、下の四角い銘板に気づいたわけ。

 3月の時は、アルヒーフ開館前の早朝、早くつきすぎて、空きの時間があり、周辺を散歩していて、この建物・銘板を「発見」。
 「何が書いてあるか」と近づき、ここで「核分裂発見」との説明に驚嘆し、それだけで満足して、文書館に向かった。
 下の別の銘板にまで気が回らなかった。

 今回は、出発前に、リーゼ・マイトナーの役割を詳しく述べた伝記を読んだことあって、もう一度、この現場・建物を見てみようという気持ちになっていたので、注意深くなっていたこともあろう。)


        2009年3月撮影の核分裂発見記念版 

 上の大きな銅板に、オットー・ハーンとシュトラスマンの核分裂発見が銘文で顕彰されている。
 
 下にある四角い銅板には、リーゼ・マイトナーが「1913年から1938年までこの研究所で仕事をし」、
 「核分裂の共同発見者MITENTDECKERN DER ATOMSPALTUNG)」と明記されている。

今回撮影(木が生い茂って、この下半分の銘は、写せないし、読めないが、
デルブリュックを顕彰したものである)



 オットー・ハーンにノーベル化学賞(1944年のものが1945年に)が与えられた当時から、リーゼ・マイトナーも
 共同受賞すべきだとする議論があったようであり、マイトナーもその意味で
 不当さを感じていたようである。下記の銘板が掲げられたのが、いつのことなのか、
 どのような経緯があったのか、興味がわく。
 (1932年にマイトナーの助手となったデルブリュックの顕彰が1969年の彼の
 ノーベル生理学・医学賞受賞を契機としたものとすれば、この銘板の掲示は
 マイトナーにとっては、ハーンにくらべ、かなり遅れたということになる。)
 
 実際に、核分裂が発見されたのは、マイトナーが去った(去らざるを得なくなった)後、1938年12月であり、
 彼女がオランダ経由でスウェーデン(ストックホルム)に落ち着いた後のことであった。

  科学的な分裂物質の発見がハーンとシュトラスマンによるとしても、その実験結果の物理学的意味付けに関しては、
 ハーンがマイトナーに意見を求めて、彼女からの解釈が届いて明確になったものである。
 
  ただ、マイトナーは亡命の身であり、ハーンとシュトラスマンの連名での核分裂発見の学術雑誌論文に
 彼女の名前を載せることはできなかった。

 しかし、いずれにせよ、ハーンとマイトナーの長年にわたる共同研究の積み重ねが、
 1938年末に、核分裂発見(核分裂の人工的創出・核エネルギーの人工的解放)という
 結果をもたらしたということは確実である。
   ナチ支配の時代、その直後の時代でなければ、マイトナーも十分に共同受賞者となりえたことは想定される。

  (R.L..サイム著鈴木淑美訳『リーゼ・マイトナー-嵐の時代を生き抜いた女性科学者-』シュプリンガー・フェアラーク東京、2004年)

  なお、現在では、マイトナーの核分裂の共同発見の功績は、元素名として顕彰されている。(ノーベル賞の受賞より高い評価、ともいえる)

  109番元素=マイトネリウムMeitnerium・・・「109番元素のマイトネリウムの名は、ウィーン生まれの女性物理学者リーゼ・マイトナーに捧げられてた。ハーンとともに放射能や中性子核分裂に関する研究を続け、ウランやトリウムの中性子による核分裂反応を理論物理学的に解析することに成功した。マイトネリウムは、ドイツのダルムシュタットの重イオン研究所で、209Bi に 58Feiイオンを衝突させてつくられた。化学的性質はまだ研究されていないが、イリジウムに似ていると考えられている。」(桜井弘『元素111の新知識』講談社、2000年、424ページ)







 アメリカに亡命した物理学者たちは、ハーン、ハイゼンベルクなどドイツの科学者の核開発における科学的な自主的努力・実際的開発の力量をある意味では見誤ってはいなかったといえる。マンハッタン計画の科学技術的中心オッペンハイマーもドイツで学んだ。彼ら物理学者・科学者といった研究者以外の諸軍拡要因がナチス・ドイツにあれば、「脅威」は現実的だった、あるいは現実に転化したということになる。
 アメリカに亡命した科学者たちの危惧は、単なる妄想ではなかった。彼らがワイマール期までのドイツ科学・ドイツ工業力などに関して知っている事実、認識に基づくものであった。
 (カイ・バード/マーティン・シャーウィン著河邊俊彦訳『オッペン・ハイマー(上、下)』PHP、2007年)

 だがまさに、それ以外の軍拡を実現する重要な諸要因・諸条件は、ナチス・ドイツにおいて、どうだったか?
 
 そして、それらは、ヨーロッパ・ユダヤ人を排気ガス(CO)・害虫駆除剤の毒ガス(青酸ガス・製品名ツィクロンB)で殺害するナチス・ドイツの総体的権力状況とどのように関連していたか?

 アメリカは大統領の特別承認のもと、極秘で(同盟国等外国への武器移転の精神とは全く逆に、副大統領トルーマンにすら秘密にして)、危機意識を持って莫大な人的物的資源を、最終的には25億ドル・12万人・ノーベル賞・ノーベル賞級の多くの学者などを投入して開発に邁進した。
 しかし、原爆完成の見込みが立ったころには、ナチス・ドイツの崩壊は目の前だった(だが、それまでにナチス崩壊に貢献したのは、どこの国だったのか?)。
 アメリカの原爆投下先は日本に変更された。原爆実験に成功したのは、それでもドイツ無条件降伏の2か月ほど後、7月16日にやっとであった。

 ナチス・ドイツには何が欠けていたのか?
 その間、ナチス・ドイツでは何がどこまで行われ、何が行われなかったのか、その諸条件は?
 ドイツに原爆開発を進めさせなかった諸条件・ベクトル群は何か?・・・軍拡、原爆開発における独ソ戦・世界大戦・総力戦の総体的弁証法

 翻って、今日の世界に求められている軍縮、核廃絶の総体的弁証法は何か?(問題意識・課題意識)

 その場合、核爆弾体系を維持する費用群の総体をそれぞれの国民所得のなかでどのように負担できるか、新たな地球環境維持=人類生存のための巨額の費用=負担との競合関係などが、問題となるであろう。

 そこではまた、人類生存、地球の持続可能性の危機・脅威の真実度、危機・脅威の科学的認識度、その社会的世界的認知度などが、総合的に関係してくるであろう。真実が人々をとらえない限り、現実社会を動かすことにならない。

 冷戦解体後20年、なぜ、冷戦期の核爆弾体系を維持し続けるのか?
 どこにこの地球規模での膨大な核爆弾体系を保持すべき脅威があるのか?
 むしろ、地球環境汚染、世界的な格差の拡大と中東などの地域紛争の泥沼化・テロの危険といったことに対処するには、莫大な人的物的資源が必要であり、可能な諸資源をそちらに振り向けるべきではないか? などなど。

 オバマ大統領の登場、その核廃絶演説(プラハ)、その後の行動は、全世界の力を合わせて、支援し、前進させるべきものであろう。







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週末にはワイマールに足を延ばした。
ワイマール憲法制定90周年を記念して、市の建物などでその行事・記念展示などが開催されていた。

ナチス・第三帝国の戦争政策・ホロコーストの実証研究に神経を集中していて、ワイマール市が当時の世界でもっとも民主主義的な共和国憲法の制定90周年を市を挙げて祝っていることを知らなかった。ワイマール市と市民が90周年を記念する行事を行うことは、考えてみれば当然のことではあるが、それは現地に行くまで予期していなかった。


           市立博物館(Stadtmuseum) 


               市立博物館に掲げられた横断幕


     記念展示横断幕: ワイマール1919-共和国のチャンス



ワイマール憲法が採択された国民劇場Nationaltheater


国民劇場前のゲーテとシラーの二人が並ぶ銅像が、どの旅行ガイドブックにも出ている。

たとえば、少し古いが、『地球の歩き方-ドイツ-』’06-’07、334ページには、



  でも今回、彼らの背後に、何か怪しげな人物が一人くわわっている。

  
  何かの亡霊?背後霊? オカルト信者ならすぐそう思うであろう。

  旅行者も奇妙に思っているらしく、近づいていって、ぽんぽんと叩いてみる。「ぼこぼこ」と音がする。
  背後の奇妙な像は、銅像ではなく、プラスチック製のもの。

  フランツ・リストの像(これは、フランツ・リスト音楽大学前の騎乗のフランツ・リスト像と瓜二つ。
  なので、そこからコピーしたものであろうと推測している。事実関係を調査したわけではないが・・・)





                  フランツ・リスト大学
                  Franz Liszt
                  Hochschule







さて、まさに、ワイマール共和国は、その理念からすれば、また、その誕生を支えた人々の希望からすれば、「いくつものチャンス」の到来であった。

しかし、当時の世界では、帝国主義の弱肉強食の原理が、なお跋扈していた。日本も、朝鮮半島を植民地化し、帝国主義の道を突き進んでいた。

 世界恐慌とともに、帝国主義統治(先進列強の植民地支配・勢力圏の厳然たる事実)の現実が、「持たざる国」の植民地・勢力圏の再分割要求、それを求める戦争勢力を強大化させることになった。

 まさにその筆頭がヒトラー、ナチス。
 しかし、日本はヒトラー台頭以前から、台湾・朝鮮半島の植民地支配を継続。ヒトラー政権誕生よりも前に、中国東北部・満州への支配拡大を画策、満州国建設。日本帝国主義が、ヒトラーの膨張政策にひとつの正当化根拠を与える。

「持たざる国」、「プロレタリア国家」ドイツ・イタリア・日本!

「持てる国」、「ブルジョア国家」イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ベルギー・・・

「持たざる国」による帝国主義・植民地主義の平等の要求。
大国の平等(大国による弱小国支配・植民地化の正当化)




 ワイマール憲法の下での自由な社会の雰囲気。
 権威主義・帝政は11月革命によって打ち砕かれた。
 その状況下での新しい芸術文化運動の展開を象徴するバウハウスも、その憲法とおなじ1919年に生まれた。
 ということで、バウハウス誕生90周年記念も、祝われていた。

 バウハウス運動も、ナチスによって弾圧された。
 バウハウスを担った人々はアメリカに亡命して、世界的な建築運動を構築していった。


 ワイマールのバウハウスも、当然とはいえ、90周年の大規模な記念行事の一端を担っていた。
 この点も現地に行くまで調査不足で、予期しなかったことである。

 バウハウス記念館にいってはじめてしったことだが、現在は、「1919年から数年間の発足時の資料・作品はすべてベルリンに行っている」と。
 ベルリンのバウハウス博物館(記念館)にも行ってみたが、そこも「空っぽ」。

 マルティン・グローピウス博物館で、90周年を記念して大規模なヴァルター・グローピウス記念展が開催され、そこにすべて貸し出している、と。
10月までの展示が終わると、アメリカにすべてその展示は移動すると。

改めて、1919年の意味を考えることになった。



下記の展示物からすると、
来年、アメリカから展示物がワイマールに帰ってくれば、新しい建物に収められるようである。

                (新美術館前)


               (バウハウス博物館前) 




また、1919年の革命・ワイマール体制の成立とその文化状況を記念する精神的態度は、
1989年の平和的革命(ベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの平和的民主主義的統一、東ドイツの民主的解体)も、記念し、祝う精神であった。

それは、フランツ・リスト音楽大学の前の広場の記念版(広場に埋め込まれた石版)にも示されていた。



 デモへの参加を呼びかけ、輪を広げた中心的スローガン:

”われわれが人民だ”
この場所で、1989年10月24日、ワイマールで火曜日デモが始まった。
”今こそ、民主主義だ。さもなければ決して”


 こうしてみると、今年は、「1989年革命」の20周年記念にもあたるわけだ。

ワイマールからベルリンへの帰路、ライプツィヒに途中下車。
まさに、1989年革命の「発火点」、ニコライ教会の壁にも、その革命を記念する張り紙が掲げられていた。


       1989年10月9日-平和革命の核心となる日付


                ニコライ教会



         2009-平和革命20周年
         平和の祈り・講演・パネルディスカッション
                     www.kirche-leipzig..de:  「2009 平和革命20周年」


            想起
                感謝
                    問い

         



                      棕櫚を柱頭に。

  ニコライ教会
  みんなにオープン


             ニコライ教会内部:棕櫚をあしらった珍しい柱




 しかし、「ソ連帝国」支配下に置かれていた東ドイツのすべてが否定され、消し去られるべきものではない。
 東ドイツ地域の町の今日の姿が示すように、伝統ある建物・文化施設が東ドイツのもとでも保存されいたのであり、他方、「トラバント」といった当時の東側の社会では羨望の的だった車も、ノスタルジーの対象となっている。

中央駅からニコライ教会への途中、


        





ニコライ教会の中にもバッハの胸像が置かれていた。世界的な天才音楽家は、いたるところで顕彰される。

しかし、バッハの本拠の教会は、トーマス教会であった。



                 バッハ像


                トーマス教会内部

手前にあるのがバッハの墓だというのは、あとで旅行ガイドブックを見て知った。
知っていたら、確認のために、もっと大きく写しておいたものをと、残念。


     トーマス教会の独特の天井、パイプオルガン






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ベルリンのフリードリヒ駅(南側)の歴史記念の銅像群(これは3月の出張時に見ており、写真も写していた)。

この銅像の設置は昨年。すなわち、1938年11月のユダヤ人迫害「水晶の夜」70周年を記念してであった(解説版による)。

   本題からはずれるが一言:8月15日に始まり、23日に終わった2009年世界陸上の宣伝がいたるところに(地下鉄駅にも)。


この銅像群にも、新しい解説がこの夏に掲示された(右手、ドイツ鉄道のSバーンのフリードリヒ駅の窓に)。
私がこの写真を写したのは2009年8月31日。


        


    

(しかもその説明版設置は、ちょうど私が滞在中だったようで、この写真を写す二日前。その記念行事に参列した成城大学の木畑和子教授からご教示いただいた。木畑教授は我が国における唯一のキンダー・トランスポート”の専門研究者
                    




  西へ、救済され、希望を持って進むユダヤ人の子供。明るい表情。


下記、3枚の写真は、フリードリヒ駅にガラス窓に印字された記念の文章・説明
上記銅像の横の壁面(ガラス窓の部分)に。

 西に向かう子供たち            東に向かう子供たち

キンダー・トランスポート(イギリスなどで、西側へ、ユダヤ人の子供救出作戦により助かった子供1万人余)
その子供たちにとっては、親・兄弟と離れる悲しさはあっても、命の助かる輸送、であった。

1938年末、最初の救出列車が、フリードリヒ駅から出発した。

         「生命への列車」、「命への列車」

                       ↓
 
    ロンドンに到着したかわいい子供たち(だけ)の写真が印象的。
  しかし、
    説明によれば、その子供たちは、「自分たちだけが助かった」と、
  成長してずっと重荷と感じてきたという。

それに反して、そのような助けの手が届かなかった圧倒的多数のユダヤ人の子供にとっては、東への、「絶滅収容所への」輸送。

                「死への列車」

      収容所の飢餓状況で痩せ細った子供たちの写真。


  Ueberlebende Kinder des Holocaust
                 Cildren who survived the Holocaust
     「収容所で生き残ったやせ細った子供たち(1945)」

東へ向かううなだれ打ちひしがれたユダヤ人の子供たち。
その旅行かばんの中には、片足がない小さな壊れた人形ひとつだけ。

                                     
             




--木曜日の夜18時-22時の4時間は、無料で美術館博物館、開放-
これをガイドブックで見つけ、夕食後、博物館島Museumsinselでまだ入ったことのない
ボーデ博物館Bode Museum、および旧ナショナル・ギャラリーへ。


Bode Museum
       







博物館、美術館に入っていつも感じることだが、あまりにも展示されている傑作が多く、とても、じっくりとは見ていられない、ということ。
また、それぞれの時代の世界の傑作ばかりが集まっていると、よほどの抜きんでた作品、超有名な作品でないと通り過ぎてしまう、ということ。

その意味で今回印象に残ったのは、ギリシャ古典時代の「踊る女神」


コインの収集でも有名、ということで写真を撮ったら、そこの警備員の女性は、「フラッシュは駄目」と。

 フラッシュをたいても何も注意されないところもあり、何が基準がよくわからない。


       ペルガモン博物館

ペルガモン博物館は、すでに2度行ったことがあるが、
ペルガモン神殿の迫力をもう一度、味わいたいとはいろうとした。

しかし、現在、特別展「ギリシャの神々」をやっているので、
木曜日、市民開放時間帯にもかかわらず、有料と。

それなら、時間もあまりないし、3回目となるので、わざわざみる必要ないとパス。



Alte Nationalgalerie旧ナショナル・ギャラリーもせっかくだからと、疲れていたのでちょっとだけ、覗く、感じ。



  ここも内部は写真撮影禁止。
  展示品が主として絵画だからであろう。



博物館島Museumsinselには、以上のほか、建設中の新博物館、それに旧博物館がある。

旧博物館





----------9月27日総選挙に向けた選挙ポスターから----------------
緑の党・・・反原発
      黒(CDU/CSU)と黄(FDP)とはごめんだ。
      危機を救うのは、緑だけだ。



       地球全体が危機なのだ。





Linke(左翼党)
 富に課税!
 付加価値税(消費税)の引き上げではなく、億万長者課税を!
 証券取引税と巨大資本に対する税金引き上げを!
 勤労者と零細企業の税金を引き下げよ!