大学教員と大学事務局の相互協力の必要性

‐論点と論点を明確に対峙させ、理性的発展的に議論し、問題を解決していくのが、小川学長の基本方針の実現の道‐

 

2002525日付の予算問題に関する「わたしの見解」について、この間にいただいた反応を踏まえて、若干補足しておきたい。

 

上記意見書の脚注(Cf.http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/Nisshi20020525.htm#_ftn3)で、

大学の予算問題において、「市民」なるものを看板に目だった(ニュースとして話題になる、新聞が取り上げる、新聞に売りこむ)目だった仕事をすれば、その予算を握る関係者は「関内への道」において世俗的な意味で出世する、と書いた。

 これに対して、「それを非難できるか、それと学者がよい論文を書いて偉くなりたいのとどう違うか」という意見が寄せられた。

わたしの文脈が示すように、このようなとらえかたはわたしの基本的論旨に対する誤解である。学者が「よい論文」を書いて「えらくなりたい」という研究者としてのまっとうな希望をもち、幾多の困難を乗り越えて実現していくことは市民の多くが認めることだろう。むしろ、大学を支える市民は、このことこそ希望し、その実現の程度において誇りを持つだろう。

しかし、 問題は、「よい論文」かどうかである。

 学者・研究者は、その書いた論文について、「よい論文」かどうかは、公開の批判検証の対象となる。学界から批判の対象となれば、それ自体、当該論文のある種の水準を示す。誰からも顧みられない、批判的検証の対象にならない低い水準の論文が無数にあることをわれわれは知っている。

事務局の仕事は、なんら批判的検討を加えなくていいのか? 

学則の基本精神や大学の全体としてのあり方から、大学教員がその問題点を批判しては行けないのか? 「わたしの見解」は、十分な推敲にかけているかもしれないが[1]、少なくともそのような基本精神でやっている[2]

 事務への批判からでてくることは、われわれの「よい論文」にあたる「いい仕事」をしてください、との希望であり期待である。

 学者の世界は批判と反批判がルールである。

 大学内においても、問題点の指摘(=批判)は、大学人の当然の責務だろう。そして、その指摘があたっているのかどうか、あたっているとすればどのように改善したらいいのか、その発展的解決こそが、データや資料をもとに議論されなければならないだろう。

 そのような議論を通じてこそ、はじめて、「この人間は本当に大学の発展を考えているのかどうか」が検証される。そして、本当に大学の発展を考えているときに、相互に尊敬の心が浮かぶだろう。相互信頼が生まれるだろう。

 昨年4月以来の事務局の手法は、けっしてそのように相互信頼と相互尊敬を培うようなやり方になっていない。

 だからこそ、この重大な問題局面において、あらためて学則の規定、すなわち「予算見積もり」に関する審議権を大学の最高機関である評議会は行使すべきであると主張しているのである。

学長は大学の研究教育サイド(学部研究所)と事務局サイド(事務局長・総務部長以下、評議会に列席する事務局関係者)の双方の議論を対峙させ、データと資料をつき合わせて、審議するように評議会を議長として指導し運営すべきであろうと考える。

評議会が、事前の部局長会議の決定事項をただ「報告するだけ」、審議らしい審議はしない、黙々と短時間で評議会が終われば大成功などという現在のシステムこそ、改めるべきだろう、といっているのである。

そのような大学サイドと事務局サイドの議論の対決においてこそ、相手がどの程度本当に真剣に問題を考えているかがわかる、その真剣さと主張内容の合理性・高い見地・高い水準が理解される程度において、相互の信頼と相互のリスペクトは生まれるだろう。

 

小川学長の基本精神は、大学内の構成員の相互「リスペクト」である。まさに、その相互の尊敬が本物となるためには、信頼にたるデータや資料、論理の提起がお互いに必要であろう。そして、健全な発展的な相互批判が必要だろう。

 

 

 



[1] したがって、わたしの見解への批判的コメントは歓迎する。それに対しては、じっくり考え、このページで示すように、一定の見解を示したい。

[2] わたしの主観的意図が、客観的に見て正しいもの、正当なもの、合理的なものであるかどうか、これはまさに批判的に検証すべきものである。その意味では、主観的意図(=善意)の問題性をえぐりだしたダンテの洞察(「地獄への道は善意で敷き詰められている」)は、折に触れて戒めの素材となる。