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写真説明
ミュンヘン、市中心部、凱旋門近く。
レオポルト通りの巨大な人間像
ベルリン、ペルガモン博物館の所蔵
ペルガモン王国:
「ペルガモン王国 ペルガモンおうこく Pergamom 小アジア北西部の古代王国。王国の首都ペルガモンは、現在のトルコのベルガマにあった。アレクサンドロス大王の将軍だったリュシマコスが、大王の死後、ミュシア地方を領土として支配するにあたり、国家の財宝をまもる必要から、城塞(じょうさい)のあったペルガモンを拠点にえらんだことにはじまる。
リュシマコスの死後、財宝と居城は臣下のフィレタイオスにうけつがれ、前282年にセレウコス朝の宗主のもとに彼が支配者となった。次のエウメネス1世(在位、前263〜前241)から王国の繁栄がはじまり、後継者アッタロス1世(在位、前241〜前197)のとき、ローマと同盟してガリア人やセレウコス朝のアンティオコス3世をやぶり、小アジア北西部の支配者となった。
アッタロス1世の子エウメネス2世(在位、前197〜前159)は、ローマとの同盟関係を維持して領土を拡大し、小アジアの大半を支配下においた。ゼウスの大祭壇がつくられ、父王がきずいたペルガモン図書館が発展したのも彼の治世中のことである。図書館の学者たちは文法学研究の一派を形成し、アレクサンドリア図書館の学者たちに対抗した。
次のアッタロス2世(在位、前159〜前138)の時代もペルガモンは繁栄したが、つづくアッタロス3世(在位、前138〜前133)は、最後の王となった。彼には後継者がなく、王国をローマに遺贈した。その後のペルガモンは、ローマ帝国の属州の主要都市として存続した。現在のベルガマ市周辺には、ローマ時代の劇場や競技場など、貴重な遺跡が数多くのこされている。」Microsoft(R)
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ローマ前進基地・要塞都市として建設された町アウグスブルク、1985年に2000年祭を祝う町:(初代ローマ皇帝アウグストゥス像・在位・前27−後14、「アウグストゥスの平和」)
ゴスラーGossler、皇帝居城KaiserPfalz
ゴスラー、KaiserPfalz全景
ヴィッテンベルクのメランヒトンの家
アイゼナハのヴァルトブルク城内、ルターの肖像。教皇派の追っ手を逃れて、ルターが聖書をドイツ語に翻訳した部屋。
ニュルンベルクのマイスタージンガー・ハンス・ザックス
ハンス・ザックス
「Hans Sachs 1494〜1576 中世ドイツの詩人・劇作家・作曲家。ニュルンベルクに生まれる。1509年に、ある靴職人の徒弟となり、のちに商人階級の歌謡詩人であるマイスタージンガーのギルドにくわわった。遍歴靴職人としてドイツの南部やライン川地方をわたりあるきながら、多くの町のマイスタージンガーとも接触を深めた。かねてからその歌曲で定評をえていた彼は、12年にはきびしい試験にパスして、ニュルンベルクのマイスタージンガー組合のマイスター(親方)に推挙され、新しい歌を作詞作曲する資格をえた。17年には靴職人のマイスターにもなっている。宗教改革の支持者でもあったザックスは、代表作となった有名な詩「ウィッテンベルクの小夜啼鳥(さよなきどり)」(1523)で、ルターへの賛美をあらわしている。
ザックスは多作な詩人で、歌、謝肉祭劇などの戯曲、物語詩あわせて6000以上をつくり、軽妙なユーモアと日常生活の生き生きとした描写で人気があった。また、マイスタージンガーがうたう歌のメロディも、重要なものをいくつか作曲した。ワーグナーのオペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(1867)は、このハンス・ザックスが主人公になっている。」Microsoft(R)
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プロイセン、フリードリヒ大王のサンスーシー宮殿(サンスーシはフランス語で「憂いなし」という意味)
ミュンヘンの凱旋門(ナポレオン戦争勝利の記念):レオポルト通り
オーム(ミュンヘン工科大学構内のオーム像:90年8月撮影)
オーム
「Georg Simon Ohm 1787〜1854 ドイツの物理学者。電流に関する研究で有名。エルランゲンに生まれ、エルランゲン大学でまなんだ。1833〜49年ニュルンベルク工業大学の教授、52年から終生ミュンヘン大学で物理学の教授をつとめた。26〜27年に発表した論文の中には、彼がみちびきだした電流と抵抗および電圧との関係式の有名なオームの法則があり、電流に関する基本的な法則となっている(→ 電気回路)。41年に、その業績をみとめてロンドン王立協会はオームにコプリー・メダルをおくった。電気抵抗の単位は、彼の名にちなんでオーム(記号Ω)と名づけられた。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.
ドイツ最初の鉄道は、ニュルンベルク-フュルト間(1835年)
(ニュルンベルク中央駅、1990年8月撮影)
ドイツ(プロイセン)のいたるところ、鉄血宰相・ビスマルクの銅像がある。リューベックのもの。
↓カルトハウゼの丘(ドイツ連邦文書館本部がある場所)
Deutsches Eck ドイツ統一記念ヴィルヘルム1世騎馬像台座
ライン川(手前)とモーゼル川(右手)の合Ko流Blenz点(=Koblenz,Coblenzコブレンツ)
(エーレンブライトシュタイン城からの眺め)
ライン川・モーゼル川合流点騎馬像台座
ユーゲントシュティル(19世紀末)の建物、ミュンヘン,凱旋門近く。
トーマス・マンの生家(リューベック)
1923年ヒトラーが一揆に決起した場所:ミュンヘン,英雄廟(Feldherrnhalle)前、オデオンプラッツ。
1929年6月のナチ党集会の宣伝ポスター:
「人種問題
ユダヤ人問題
ユダヤ人に責任あり。
弁士:ユリウス・シュトライヒャー、演題「全ユダヤ人はドイツ民族の不倶戴天の敵」
ゲッベルス博士、演題「ヴェルサイユの10年、戦争責任の嘘を葬れ」
1939年8月の独ソ不可侵条約秘密協定に基づくポーランド分割の地図
(ベルリン、ユダヤ博物館展示)
バルバロッサ計画によるソ連占領の構想。A・ダリンの著書より。
アインザッツグルッペ(治安警察・保安部特別出動部隊)の進撃路。A,B,C,Dの4つの部隊があった。アインザッツグルッペAは、レニングラード攻略を目指す北方軍集団の後方で治安平定活動を担当し、最初の半年間だけで、バルト3国、白ロシアで、リトアニアで20万人に上るユダヤ人を「処刑」した。
ベルリン、ヴァンゼー会議記念館展示資料。ウーチ(ウッチ、リッツマンシュタット)のゲットーのユダヤ人の「移住」のために集合を命じる布告(1942年1月14日)。
1942年6月5日の治安警察・保安部の国家機密文書。
ボックス型荷台に排気ガスを注入する移動型ガス室の「技術改良」を指示する文書。
アウシュヴィッツ第一(基幹収容所Stammlager)入口
“ARBEIT MACHT FREI”(労働すれば自由になる、労働が自由をつくる)
ビルケナウ収容所(アウシュヴィッツ第二収容所)
44年7月20日ヒトラー暗殺・クーデター計画→失敗
オストプロイセン・ヴォルフスシャンツェの総統大本営、1944年7月20日ヒトラー暗殺・クーデター計画の決行直前。会議場に爆弾を仕掛けるシュタウフェンベルクが、ここでは直立不動の姿勢でヒトラーに敬礼。
ケルブレ教授が客員教授として要職についている。21フォーラムの第一セッションの報告者もこの研究所の教授。