アウシュヴィッツ裁判(1963年12月-1965年8月)
・・・ヘスの副官ムルカ、収容所の医者、親衛隊歯科医師、薬剤師など22人が被告となり裁判中に一人が死亡、一人が病気で除外され、20人が裁判を受け、17人が無期懲役(6人)から3年半の有期刑となった。
各人は自分の責任については種々の弁護論を展開したが、被告の誰一人として、ガス室の存在を問題にしたものはいなかった。
法廷でのクレーマーおよび彼の運転手ヘルプリンガーの証言(ブンカーでのガス殺について)
被告ベックの証言
基幹収容所(第一火葬場=旧火葬場)でのガス殺の目撃証言(親衛隊員へス)
「そこでガス殺されたことは、アウシュヴィッツでは公然の秘密」
ゾンダーコマンド(特務班)員だったミュラーの法廷証言・・・ビルケナウの火葬場(第二、第三と第四・第五の構造と違いについて)
第二、第三は地下に脱衣室とガス室(「シャワー室(Zum Bad)」の表示)。
1944年、生きたまま子供を火に投げ込む・・・「これはヘースの命令だ。もう十分なガスがないからだ。・・・」
S.94
「問:そのさい、ガス殺現場も目撃しましたか?
答:何回も。
問:ガス殺が行われているときに、火葬場にはいったことはありますか?
答:そうした作戦がおこなわれているとき、火葬場地区に何度もおりました。そこで、コマンド長の部屋、あるいは特別コマンド(ユダヤ人の死体処理班員・・・永岑)のための部屋があったな倉庫(納屋)に入れられました。そこには、エレベーターや換気扇設備、また電気安全装置などがありました。
問:毒ガス投入を観察することができましたか?
答:ええ、何度も。・・・親衛隊員がどのように迅速に(毒ガスの・・・永岑)缶を開くのかを目撃しました。それぞれのガス室には4つの投入口がありました。投入は非常に迅速に行われました。・・・・カポ(収容所看守)に、ガス室の中のすべてのものが死んだことはどのようにして分かるのか、と尋ねたことがあります。カポのいうには、親衛隊医師がガス室を開く許可をあたえる、と。
問:ひとつのガス室にどのくらいの犠牲者がいましたか?
答:二つの大きな第一・第二火葬場では、 1800から2000です。
問:一人の親衛隊員がガス室にいっせいにガスを投入するのですか?
答:いいえ。何人もで。
S.95
死体焼却など一番大変な作業をさせられた「特別コマンド」のユダヤ人の証言
ブキ:私は特別コマンドでした。われわれのコマンドは400人の囚人からなっていました。ハンガリー・ユダヤ人がやってきたとき、その数は900人に増やされました。・・・・
問:特別コマンド(ゾンダーコマンド)の任務は?
答:死体焼却命令を遂行すること。ビルケナウにはまだ火葬場がなかったので、死体は墓穴で焼却。死体をそこまでトロッコで運んだ。
問:1942年にはどこでガス殺が行われたのか?
答:私は1942年12月14日に特別コマンドに入った。われわれの最初の仕事は、それ以前の特別コマンドの死体を焼却することであった。・・・死体は墓穴で焼却した。火葬場Krematorienはまだ存在しなかった。ガス殺は、小さな、白壁塗りの家(農家改造の小屋、通称ブンカー・・・永岑)で行われた。
・・・
・・・
問:いつまで二つの小さな小屋(農家改造の小屋、通称ブンカー・・・永岑)で、ガス殺が行われたのか?
答:火葬場が建設されるまで。
問:ガス殺は毎日行われたのか?
s.96
答:ええ。ほぼ毎日。夜も昼も。
1944年5月、ハンガリーから一挙にあまりにも多くのユダヤ人が連れてこられ、殺害された時の様子
ユダヤ人ゾンダーコマンドの大幅増員(250人体制)
一時停止していたブンカーⅡも、再稼動(ブンカーVとして)においこまれる。
そこでのZyklon Bの投げ入れなどの目撃
親衛隊責任者モルは、ゾンダーコマンドたちに、「お前たちは食らうために、働かなければならん」と追い立てる。
あまりのひどさに絶望したゾンダーコマンドは火の中に飛び込む。
被告ホフマン証言
ガス室前の混乱で、作業囚人(ゾンダーコマンド)がガス室で一緒に殺されないように注意が必要なほどだった・・・」と。
被告カドゥクについての証言
ガス室に追い込まれる女性がブラジャーを付けたままだと、彼が剥ぎ取った。
そして、「ガス室に裸の女性を追い込むとき、乳房をつかめたら便利だ」などと隊員たちに語った、と。
被告カドゥクの弁明(責任逃れ)の証言
囚人をガス室に追い込んだのはわたしではない。医者が囚人たちをガス室に追いやったのだ」と。
被告ボーゲルBogerに関する証言(チェコ人Princz・・・アウシュヴィッツ基幹収容所の馬小屋で働いていた人物)
ボーゲルが「ただちにビルケナウの第IV火葬場へと命令」
ボーゲルは車で同行。
第IV 火葬場のそばに親衛隊員が何人か立っていた。ボーゲルは、「ガスマスクを渡したまえ」といい、ツィクロンBの缶が20個ほど入った箱を下ろさせた。彼は、「数個のブリキ缶(einige Blechbüchsen)を取り出した。それは缶詰のように見えた。ボーゲルとほかのものがその缶を開け、第IV火葬場の開いた窓から放り込んだ。・・・火葬場の中から陰にこもったどよめきが聞こえた。親衛隊員が窓を閉め、私は前進を命じられた。」
被告ボーゲルに関するゾンダーコマンド・生存者ミュラーの証言
・・・1943年・・・あるとき、スロヴァキアからのユダヤ人移送列車到着。
そこに、ボーゲルがいた。
「すでにガス室には人間がいた。しかしドアは完全にしっかりとは閉まっていなかった。ガスが投げ込まれた時、人びとはドアに押し寄せた。ドアが開き、人々が半ば朦朧としながら走りでた。人数は150にから200人ほどだった。火葬場の周りの有刺鉄線には電流が流れていた。ボーゲルとその他のもの(親衛隊員)が、-輸送した貨物自動車の運転手だったがと思うが-この人びとを射殺した。全員が射殺した。」
裁判長:ボーゲルはすべてのガス殺Vergasungの時に一緒でしたか。
ミュラー:彼はたくさんのガス殺の時にいました。しかし何時もではありませんでした。
被告ペリー・ブロード(Pery Broad)の証言
(Broadブラジル生まれ、母ドイツ人・父はイギリス人、Cf.S.537・・・ブラジル国籍で国防軍には入れなかったので武装親衛隊に志願、近視のためアウシュヴィッツの監視員として、それから収容所政治部のスタッフとして)
裁判長:あなたの活動とアウシュヴィッツ出起きたすべての出来事について、何を考えたか?
ブロード・・・「道徳的側面だけを思索することができる。」
裁判長:アウシュヴィッツで起きたことは目的にかなっていると思うか?
ブロード:その点では、基幹収容所と絶滅収容所Vernichtungslagerとを分けなければならない。基幹収容所のことはなにも悪いとは思わない。なぜなら、そこでは囚人を働かせたから。しかしその後、それが絶滅機構Vernichtungsmaschinerieと連結された。・・・
裁判長:停車場での「選別」は?
ブロード:停車場(ランペ)での選別は疑いもなく犯罪です。
裁判長:それではその後のガス殺Vergasungenは?
ブロード:もちろん(犯罪)です。
検察官から、ガス殺に選別された子供や夫人が待っている写真を示されて・・・「これらの人の場合、いわゆる労働不能な人びとといえますか?」
ブロード:通常の基準を当てはめれば、それによれば子供は労働できないとみなされていますので、そのとおりです。
検察官:子供たちの運命について知っていましたか?
ブロード:この子供たちがガス室Gaskammerに行くことは知っていました。
ブロードの報告書の叙述が問題になって。
「ガス殺Vergasungenに関する叙述は疑いもなく私のものです」と。
検察官:ガス室の外観と建築部のそれに関する絵は?
ブロード:それも合っています(自分の描いたたもの)。
検察官:ガス殺の絶頂点は1944年春、ハンガリーからのユダヤ人移送のときのことですか?そしてヘースがこの作戦を指導していましたか?
ブロード:はい。そのとおりです。
ゾンダーコマンド・生存者ミュラーの証言:
ビルケナウの大きな火葬場では、作戦が組織されていた。そこには何時も医者がいた。医者の命令でガス室が開けられた。そうすると押しつぶされたものたちが崩れ落ちてきた。
点灯されて、のぞき穴から医者がのぞき、作業班隊長に「ガス室を開けろ」との命令が下された。そこで、囚人たち(死体処理作業のゾンダーコマンド・特務班)が仕事に取り掛かる。
検察官:親衛隊医師はガス殺の過程で火葬場にいたのか?
ミュラー:医者は何時もいた。
検察官:彼はガスマスクをしていたか?
ミュラー:ひとつもっていた。何回かは、医者はガス室が開かれた後もガスマスクを付けて、中を覗き込んでいた。
医者が、ガス室にツィクロンBを投げ込むことを命じる。
被告ホフマン、被告カドゥクの証言
被告ヴェッツラーの証言:チフスなどの流行・・罹病した囚人をガス室へ。
親衛隊医師・ルーカス博士のガス室を知っての驚愕・悩み、しかし「命令は命令」「戦争5年目」と。
親衛隊医師ルーカスの証言:1944年春、ハンガリーユダヤ人がアウシュヴィッツ・ビルケナウに着いたとき、停車場ランペで、何回か「選別」を行った。「ガス室には行かなかった」と。
(Wien 1965, Nachdruck Frankfurt am Main 1995)(ページは1,2巻の通し番号)
裁判の証人たち
法廷(フランクフルト、「レーマー」と「Haus Gallus」)
被告たち
(残酷な犯人にみえますか? そうでないとすれば、なぜでしょう?)