なぜ東南アジアで、
タイだけ独立を維持できたのか? に関して補足


その独立の意味内容は?




イギリス、フランスの緩衝国

1896年、英仏、タイの中立を保障



内的事情・・・一貫した王朝の継続・・・スコータイ王朝→アユタヤ(アユッタヤー)王朝の繁栄の歴史
                       チュラロンコーン(ラーマ5世)による近代化の努力

 アユッタヤー王朝時代、
朱印船貿易の時代、山田長政日本人町で活躍。
 (日タイ関係‐600年、と。)
 
     山田長政の活躍・・・アユッタヤー王朝の人材政策(能力あるものをとり立てる)



外的事情・・・19世紀欧米諸国のアジア進出の状況の中で、イギリス、フランスから周辺部領土を削り取られつつも、イギリス、フランス両国の緩衝地帯となり、植民地化をまぬかれた。


 


タイ王国のバランス外交能力

  タイに関心を示す列強の勢力を極力拮抗させて、あるひとつの国がタイ国内で権益を持ちすぎないように調整したバランス外交の成果。
 その過程では、領土の割譲というパイを行使して、身を小さくしてでも国を守ろうとした。

 第二次世界大戦ではタイは日本の「同盟国」となったものの、括弧付きの「同盟」であったことから戦後に日本と同じような敗戦国としての扱いを受けなくて済んだ。その後も、西側陣営の一員としてアメリカや日本からの国際協力も利用しながら順調な経済発展を遂げて、東南アジアの「優等生」に。

 (詳しくは、柿崎一郎『物語 タイの歴史』中公新書、1913(中央公論新社、2007年を参照されたい。) 









1932年、人民党による無血革命が成功し、立憲君主国に(タイ立憲革命)



1939年国名を、シャムからタイに。  第二次大戦中、日本とタイは「同盟国」。


45年シャムに戻したが、

49年には再びタイに改めた。


第二次大戦後は、武断派と文治派との抗争が繰り返された。

1959年のクーデタで武断派が政権を握った。

しかし、軍事政権の弾圧政策に学生・民衆の不満が高まり、
1973年10月にはタノム内閣を総辞職に追い込み、民主化への道を開いた。

しかし、1976年軍部のクーデタで、右派内閣に交代した。

以後も軍部の政治介入と政治の民主化をめぐる動きが繰り返されている。





ーーーーーーーーーー緩衝国ーーーーーーーー

利害が対立する国家のあいだにあって、その衝突を和らげる役目をする国。