テキスト 第5章 日本の開国
アメリカのペリー艦隊の来航・・・19世紀半ばの日本・・・開国・開港の時代
日本の近代社会への移行・・・日本史上の画期的
日本の開国・開港は、当時の世界史の中に位置づけると、どのように見えてくるか。
T 日本の開国・開港と19世紀半ばの世界情勢
ペリーの来航
1853年7月・・・ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊・・・浦賀沖に
航路は?
1852年11月、アメリカ東海岸の軍港ノーフォークを出港
大西洋を越えマディラ諸島から南下
アフリカ大陸を迂回、喜望峰を経てインド洋
→セイロン、シンガポール、香港、那覇、小笠原などを経て。約8カ月。
西洋諸国の東アジアへの進出
第1波・・・16世紀から17世紀・・・ポルトガル、スペイン、オランダ
重商主義戦争の時代(その一環にポルトガルに対するオランダ・イギリス)
第2波・・・19世紀・・・欧米における産業・社会の大きな発展を背後に。
中心的主体の変化・・・・・国民国家の確立(領土画定)・領土膨張
イギリス・・・18世紀後半からインドの植民地化
マレー半島南端にシンガポールを建設
さらに中国との通商拡大へ
アヘン戦争(1840〜42年)・・・1842年南京条約・・・上海など5港の開港を実現。
香港を割譲。
フランス・・・インドでイギリスに敗れたフランスは、
第二次アヘン戦争であるアロー戦争(1856〜60)年をイギリスとともに戦い、
さらにインドシナ半島に進出
ロシア・・・領土膨張
クリミア戦争(1854〜56年)・・・敗北。
シベリア開発・・・1860年にはウラジオストック建設。
アメリカのペリー艦隊派遣と同時期にロシアはプチャーチンを日本に派遣。
アメリカ・・1840年代後半には英領カナダからの編入やメキシコとの戦争でカリフォルニアを獲得。
・・・太平洋側に長大な海岸線を持つ国家に成長・領土膨張。
太平洋を越えたアジアへの関心を強化。
前章の地図を再び掲載。
開国を求めたアメリカ側の事情
浦賀沖→東京湾に進入したペリー・・・開国を求める大統領の親書を手渡すことに成功。
ひとまず、香港に引き上げた。
翌1854年、再び来日。
ペリーと幕府との交渉の結果、アメリカ船への燃料・食糧供給、遭難船や乗組員の保護、下田・箱館2港の開港と領事の駐在などを内容とした日米和親条約、締結。
日本は「鎖国」から「開国」へ。
ペリー艦隊派遣のいくつかの目的
@アメリカ捕鯨船のための利便を獲得すること、
A中国市場に向けた太平洋横断航路開設のための寄港地の確保。
インド洋経由で中国に至る貿易ルートは既にイギリスがその拠点をおさえて支配的な地位を確立
太平洋を横断する新たな航路の開設を志向。
日本を開国させて、その航路の燃料・食糧の補給基地を確保。
不平等条約の締結
和親条約に基づき1856年に来日したアメリカ総領事ハリス・・・通商条約の締結を要求。
自由貿易による通商の拡大。
それを実現するための通商条約の締結。
幕府側が通商条約締結に踏み切った理由
中国で勃発したアロー戦争の影響
ハリスはこの事件を利用してイギリスの脅威を説き、アメリカとの平和裡の条約締結迫った。
自由貿易帝国主義
1858年に日米修好通商条約、締結。
引き続き同内容の条約を
オランダ、
ロシア、
イギリス、
フランスとの間で、締結(安政の5か国条約)。
横浜など5港の開港と自由貿易の開始を規程。
ドイツは? 日独交流・・何年?
不平等条約・・・領事裁判権、協定関税(関税自主権喪失)、最恵国条款
日本側にのみ不利な片務的なもの。
それをふまえつつペリーやハリスなどとの外交交渉でわたり合ってもいた。
「鎖国」から「開港」へ
1859年、通商条約に基づき、にまず横浜、長崎、箱館の3港、開港、貿易開始。
「鎖国」制の下でも、長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」を通して、オランダ、中国、朝鮮、琉球、蝦夷地(アイヌ)という「異国」「異域」との交易はおこなわれていた。しかし、それは政治権力の管理下でおこなわれる制限された貿易。
幕末の「開港」により、自由貿易の原則に基づく本格的な貿易、開始。
「開港」後の日本の貿易額は急速に増大・・・最大の貿易相手国はイギリス
アメリカは南北戦争
日本の開港場では横浜港が圧倒的な比重を占め、主な輸出品は生糸・・・生糸は1920年代まで日本の輸出品の太宗の位置。
近代における日本経済の発展を支える役割。
生糸は古くから中国との貿易で盛んに輸入されてきた商品・・・「鎖国」制の下でも一定の輸入
そのなかで、生糸の国内生産が発展し、輸入代替化が進行。
「鎖国」制の下で日本社会・・必ずしも停滞状況にあったわけではなく、商品貨幣経済化、国内経済の展開。
U 世界は「円くなった」−日本の開国の世界史的意味@−
「扁平な世界」から「円形の世界」へ
世界の交通網の変化
太平洋横断航路開設の画期的意義
ヨーロッパから大西洋、アメリカ大陸、太平洋を経て極東に至る西廻りルートの新たな形成。
従来の東廻りルートをおさえていたイギリスの東アジアにおけるプレゼンスを相対化。
交通革命の時代
日本の開国・・・当時の世界の交通網を大きく変えていく可能性
交通革命の世界情勢
1850年代には汽船のスクリュー開発。
(浦賀に来港したペリー艦隊の蒸気船は外輪船)。
1860、70年代には機関の性能向上。航続距離の延長、大型化、高速化
海上交通の主力であった帆船を駆逐していく。
イギリスのP&O汽船会社・・・1859年に上海・長崎間航路、開設。
さらに1864年には上海・横浜間航路、開設。
アメリカの太平洋郵船・・・太平洋横断航路・・・1867年、開設。
1869年にはアメリカ横断大陸鉄道が開通。
同年末に・・・東廻りルート、画期的な出来事・・・スエズ運河の開通。
スエズ運河の開通・・・喜望峰経由ルートに比べ、ロンドン・ボンベイ(ムンバイ)間、約半分に。
ロンドン・シンガポール間でも約30%短縮。
汽船性能の向上とあいまって、航海日数もロンドン・上海間で約半分。
そして「世界」は小さくなった
技術革新・・・情報通信の変革へ
1851年のドーバー海峡での海底電線敷設・・・
大西洋横断海底電線が敷設、
アジア方面へもインド、ペナン、サイゴン、香港、上海、長崎、横浜へと電信網、形成。
1870年代には世界の主要な都市が電信網で直結。
V 東アジア国際秩序の変動−日本の開国の世界史的意味A−
近隣関係の再設定
日本の開国と東アジア国際社会のあり方の変化。
19世紀を迎えるまでの東アジアの伝統的国際秩序・・・中国の華夷思想と海禁政策が基本理念。
冊封・朝貢体制
中国→周辺諸国・地域
中国皇帝が周辺国首長に国王の称号を付与する冊封、
周辺諸国・地域→中国
周辺国首長の恭順の儀式、それにともなう交易である朝貢
冊封・朝貢体制の中に入らなくとも、互市という通商関係も。
「鎖国」時代の日本は朝鮮・・・国交、
日本と中国・・・国交はなく互市関係。
開国した日本は、明治政府の下でこうした近隣諸国との関係を再設定
西洋流の外交ルールによる近隣諸国との関係の再編成へ。
朝鮮
外交文書に使用される文字をめぐる紛糾(書契問題)・・・国交更新問題、行き詰まった。
中国
朝鮮との問題のためにも、朝鮮の宗主国清朝中国との間の関係の設定が必要。
1871年に日清修好条規、締結。
領事裁判権と協定関税をお互いに認め合う双務的な平等条約。
・・・日中両国にとって初めての平等な近代的条約。
近隣諸国としては中国と初めて対等な関係を結ぶことになった画期的なもの。
その後、朝鮮との間に、1876年、日朝修好条規、締結。・・・朝鮮の開国。
日本側のみに領事裁判権を付与し、朝鮮の関税自主権を制約するなどの不平等条約。
条約第1款で「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」。
条約を結んだ朝鮮は日本と同じく自主独立の国として対等な位置にあるとして、中国を排除した二国間関係を表明
・・・・清朝と朝鮮との宗属関係を否定していく論理。
境界領域の領土化
明治政府・・・「鎖国」制の下で「異国」「異域」としてきた蝦夷地と琉球の日本への編入を推進。
北方の境界画定
近世においてはアイヌを松前口を通して接する「異域」の人びととしてきた。
アイヌの住む蝦夷地の境界や領有は特に問題とされてこなかった。
北方の境界や領有が問題となってくるのはロシア船が来航するようになってからで。
ただ1855年の日露和親条約では樺太は日露の共有とされ、アイヌ、日本人、ロシア人の雑居状態。
日露両国人の紛争が増大。
北方地域の帰属確定の必要性。
1869年に明治政府は蝦夷地開発のための開拓使を設置し、北海道と改称。
1875年の千島樺太交換条約・・・樺太全島はロシア領、
千島諸島は日本領に。
平和的な北方の国境が確定。
境界内の領土化。
南方の境界画定
琉球の編入措置。
琉球は、近世では、薩摩口を通じた「異国」とされながらも、実際は薩摩藩による支配。
同時に薩摩藩は対中貿易の利益の収奪を目的として琉球に中国との冊封関係維持も命じていた。
1872年、明治政府は琉球国王尚泰を藩王として冊封する詔書を出して琉球藩を置く(薩摩藩に代わって日本政府が琉球と册封関係を持つ)、清朝中国との冊封関係維持も認める。
明治政府内では琉球の完全併合を唱える意見もあったが、この時は清朝との紛争を避けるべく両属関係の明確化という措置。
台湾での琉球漁民殺害・・・責任問題をめぐり、1874年の台湾出兵。
日本の方針・・・両属関係を清算させつつ琉球を国内に編入していく方向へ
1875年、琉球に清朝への朝貢停止を命じ、
1879年には現地での反対を押し切って琉球藩の廃止を断行、沖縄県を設置。
国境の明確化と領域内に組み込んだ地域の排他的支配という西洋流の国際秩序の構築。
東アジアの伝統的国際秩序への挑戦
伝統的国際秩序・・・しばしば明確な領土確定がなされずに周辺部の国境は曖昧なまま。
周辺地域における支配関係も明確でなく両属関係も稀ではなかった。
これに対し西洋流の国際秩序・・・各国間の条約・・・近代国際法(万国公法)に基づく国際秩序
国家の対等性と領土の排他性が原理。
東アジアにおける伝統的国際秩序の中心にいた清朝中国・・・は、アヘン戦争をきっかけに貿易拡大を求める西洋諸国と条約に基づく関係。
当面清朝は、両者を併存させ使い分ける、ダブル・スタンダードの姿勢。
日本・・・東アジアの伝統的な国際秩序への挑戦者として登場。
東アジアの帝国主義国家へ
東アジアにおいて万国公法を受容する「文明国」としての日本。
しかし、西洋諸国との関係では、不平等条約・・・条約改正の政策
1889年の憲法発布や翌年の議会開設など、法制度・政治制度の近代化を図る。
基盤となるべき産業振興にも力を入れた。
1894年、英国と新たに通商航海条約を締結。
日本はまず法権の回復(第一次条約改正)を実現。
その直後に朝鮮をめぐる日清間対抗の結末として日清戦争が勃発した。
日清戦争の結果:
清朝中国は朝鮮に対する宗主権を喪失。東アジアの伝統的国際秩序の崩壊。
この後は列強による「中国分割」の動きが強まっていく。
日清戦争により海外領土(台湾)を獲得。
そして日清戦後の義和団事件に際して列強一員として出兵。
アジアにおける帝国主義化の道。
さらに日露戦争(1904−05年)・・・ロシアの勢力を後退させた。
大陸進出の拠点を獲得する。
1910年に韓国を併合、
1911年には再び西洋諸国と新たな通商条約を締結し、関税自主権を回復。
20世紀前半の日本・・・西洋諸国と並ぶ帝国主義列強として国際社会に自らを位置付け
コラム 『八十日間世界一周』と世界漫遊家の登場
19世紀半ば・・・イギリスの旅行代理店トマス・クック社、国内団体旅行を組織、旅行ガイドブック刊行。
19世紀後半、交通革命進展、世界旅行
フランス・・・1860年に旅行専門誌『ル・ツール・ドゥ・モンド』(世界周遊)創刊
1872年にはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』連載。
当時のロンドン・横浜間の所要日数はスエズ運河経由の東廻りルートで54日、
西廻りルートで33日
「80日間での世界一周自体は決して空想ではなくなっていた」。
世界漫遊家(globe-trotter)の登場
図版: 旅行記、彩色写真アルバム
(横浜開港資料館編『世界漫遊家たちのニッポン』)