ガス自動車投入・作戦地域と基地


「ガス自動車」開発
・・・ロシア前線…普段の移動、その後方の広大な地域における機動作戦のため


ガス自動車の使用地域・基地


p.250





(Yale University Press, New Haven and London, 1993)


『ナチスの毒ガスによる大量殺害


(Fischer Taschenbuchの出版Frankfurt am Main 1985)


ガス自動車開発の経過


 
大量射殺は、それを行う特別出動部隊(アインザッツグルッペ)の隊員たちに相当な心理的負担
   →代替方法の模索→ガス殺への移行




1941年秋から
ロシア及びベルリンで排気ガス利用の実験・開発

  
その技術開発に携わったのは、刑事警察の犯罪技術研究所(KTI)

刑事警察の長官は、アルツール・ネーベ

彼は同時に、治安警察保安部の対ソ戦前線への特別出動部隊(アインザッツグルッペ)Bの隊長

ネーベの指揮のもと
ミンスク(白ロシアの首都)での実験・・・・精神病院(Irrenanstalt)の患者に対して。

 自家用車(Pkw)
の排気ガスでは効果が出なかった。
 そこで、貨物自動車(Lkw)の排気ガスも利用して、実験。




ガス自動車開発に携わったラウフの戦後証言(サンチャゴ・デ・チリのドイツ大使館において)

「ロシアでのユダヤ人殺害にガス自動車が投入されたことを、私は知っていました。・・・・当時の私の意識の前面にあったのは、射殺に従事した隊員たちにとって射殺が大変な負担
だったということです。そして、この負担は、ガス自動車の投入によって、なくなったということです。



プラーデル証言
 ラウフが、プラーデルに開発を担当させる。工場長ヴァイントリットに、
密閉ボックスカーへの排気ガス注入の可能性を打診し、可能との回答。

プラーデルは、国防軍自動車担当部局から、5台のザウラー型貨物自動車を確保。




プラーデルとヴァイントリットが、ベルリンのガウプシャフト社に、この貨物自動車用の密閉可能な荷台を発注。
1941年秋、ベルリン郊外のザクセンハウゼン収容所で、ソ連人捕虜を実験台に「試験的ガス使用Probevergasungen」を行う。


Dr.Theodor Friedrichの証言・・・かなり多くの裸の囚人のグループが貨物自動車に乗り込まされた。乗り合いバスに乗り込むようにして。彼ら囚人は、何がおきるかについて何も感づいてはいないようだった。自動車に乗り込んだのは、およそ30人くらいだった

 私が耳にしたところでは、彼らはロシア人で、そうしなければ射殺されたであろう、と。
・・・・




ガス自動車の投入実績・問題点の発生
  →「技術改善」


1942年の証拠文書
詳しい解説は、つぎのHPページを参照されたい


3台で半年間に、「97000加工」と。