映画・・・2008年7月公開予定
『敵こそ、我が友―戦犯クラウス・バルビーの三つの人生』
(公式サイトリンク)
予告編
Klaus Barbie
ドイツ
1913年 バート・ゴーデスベルク(ノルトライン・ヴェストファーレン州)で出生
1933年 ヒトラー・ユーゲント(ヒトラー青年団)に入隊。
1935年 ナチス親衛隊(SS)入隊・・・・直属の上司=ヘルムート・クノッヘン(この人物は、後にフランスで親衛隊保安部SDの責任者となる)=治安情報収集・諜報活動
1939年春から9月まで、日ソの軍事衝突・・・ノモンハン事件・・・日本軍壊滅
8月 独ソ不可侵条約・・・独ソによるポーランド分割
1939年9月 ナチス・ドイツ、ポーランド侵略
1940年4月 結婚
1940年5月 ナチス・ドイツ、オランダ・ベルギー・フランスへ侵攻・電撃戦
1941年6月 ナチス・ドイツ、ソ連侵略開始(350万の大軍で奇襲攻撃)。
1941年7月 御前会議(「南北二正面作戦」、実際には南進政策を推進)・・・・インドシナでの英米仏との対決
1941年12月 ヒトラー、ナチス・ドイツ、対米宣戦布告―――文字通りの世界戦争
一方におけるヒトラーのユダヤ人絶滅命令、他方におけるルーズベルトの原爆開発命令
1942年〜1944年・・・リヨン
1942年11月、ナチス・ドイツが南フランスも占領・軍の進駐・治安警察・保安部も進駐。
1943年6月21日 全国抵抗評議会(CNR)の創設者ジャン・ムーラン(シャルル・ドゴール将軍の命を受け、フランスのレジスタンス運動を統一する仕事の中心人物)を逮捕・虐殺。
1944年夏の終わり、リヨンからドイツへ逃亡、妻、子供と合流
1945年5月8日、ドイツの無条件降伏・・・ドイツ全土の連合国による占領・・・ソ連(東部ドイツ)、英(北ドイツ)、米(南ドイツ)、仏(南西ドイツ)
戦勝国間の対立・亀裂表面化から冷戦へ(米ソ・ニ大陣営)
1947―1951年・・・・アメリカ陸軍情報部メンバー
1947年春
アメリカ陸軍情報部(CIC)にアウグスブルクで入隊
(元ドイツ軍情報機関Abwehrのメンバーであったクルト・メルクと出会い、彼の勧めで)・・反ソ運動専門の工作員としての活動と引き換えにアメリカの庇護
1948年 フランスで開廷中のルネ・アルディ裁判(ジャン・ムーラン裏切り・密告の罪)との関連で、フランス警察の事情聴取をドイツで受ける。その後も、フランスはバルビーの身柄引渡しを求める。CICは、バルビーを南米に亡命させようとし、クロアチア人戦犯ドラガノヴィッチ神父の助けを得て、
1951年、北イタリアのジェノヴァからボリビアに向け出発・・・「クラウス・アルトマン」(偽名、他人になりすます)
1951〜1983年・・・ボリビア
首都ラパスで、小さな製材所経営。キニーネの商売
一方でボリビアの有力者らと密接な関係を築く、他方で、在ボリビア元ドイツ人将校との交流を深める
1966年3月 1964年のクーデターにより、政権の座に付いたレネ・バリエントス将軍の援助を受け、「ボリビア海運社」設立・・・・極右軍人のために武器輸出入。
1971年8月21日のウーゴ・バンセール将軍の政権発足の準備を整えた。
-----バルビー追跡-----
ベアーテとセルジュ・クラルスフェルト・・・・バルビーの足跡を発見・・・ 「クラウス・アルトマン」(ユダヤ人の名前を偽名として)=実際はクラウス・バルビー
1983年〜1987年 フランスへの移送と裁判
1987年7月3日判決(当時の報道BBC)。終身刑(フランスでは死刑廃止のため)
1991年9月25日 刑務所内の病院でがんにより死去。ボリビアに埋葬。
Klaus Barbieに関するウェブから:
Britanica Online:
Spartacus Educational