2012-08-27-09-07 ベルリン文書館調査

(マックス・プランク協会文書館およ
びドイツ連邦文書館Bundesarchiv, 略BA)  (前回2009年訪問時の記録



ボルツマン通りは、日本に由来する樹木・エンジュ(ただし中国原産)が街路樹として植えられている。


ボルツマン通り・・・・ エンジュの並木・街路樹  成長したエンジュと寄付によって植えられた若木

  



      エンジュ、その欧文名の表示



「中国北部原産。時代は定かではありませんが,日本へはかなり古い時代に薬木として渡来しました。公害にも比較的強いため,街路樹や庭木として各地で植栽されている落葉高木です。」(日本薬学会HPの説明より)



                               市大のイチョウ並木の端にも、一本、このエンジュの老木が植わっていたのに、数日前になって気付いた。
                       




今回、ミュンヘンのマックス・プランク研究所から最近になって移管されたハイゼンベルク文書ーその目録ーから、選び出した調査ファイル

残念ながら、戦時中の文書は、「欠如」とのコメントが目録に。

                                目録



移管された文書の中に、戦時期のものはごくわずかなことが確認できた。

「欠如」の意味は、不明。
この文書を管理していた人物が保管しているのか、ハイゼンベルクないしその家族が文書館に移管する際に取り除いたのか。

第三帝国期のハイゼンベルクの行動が論争の対象になっているだけに、その部分が取り除かれているのは、意味がありそう。
しかも、取り除く必要があったということは、ハイゼンベルクと第三帝国当局との密接な協力関係を意味するものである可能性がある。


文書のコピー機(日本製)が置いてある部屋(前回の設置場所とは違い、閲覧室Lesesaalのすぐそばで、通路反対側の部屋)

  前方の庭には、文書保管倉庫、手前にりんごの木。







ドイツ連邦文書館(ベルリン、リヒターフェルト)では、
     
      連邦文書館のある敷地・建物の歴史(守衛室の外壁につけられた歴史記念説明版)
        ビスマルク帝政期(第二帝政期(軍の施設)・ワイマール期(中等教育施設)・ナチス期(親衛隊の施設)・戦後期(アメリカ占領軍の施設)
        そして、ドイツ統一後は、連邦文書館







シュペーア軍需省文書(R3)を調査

借り出したマイクロフィルムを調査しながら、プリントアウト(マイクロフィルムのリーダー・プリンターはキャノン製)。
オリジナルドキュメントでコピー依頼が可能なものについては、注文。

とくに、1942年の軍需省の会議(Führerbesprechung)の記録が、私にとっては重要。


この省の印刷物は、文書館の図書館で見て、コピーしてもいいというので、コピー(コピー機はミノルタ・コニカ製)。






宿泊は、今回も、ベルリン大学ゲストハウス



連邦文書館には、フリードリヒシュトラーセ駅から、S1でSundgauerstr.駅まで。
そこから、バスでBundesarchivの停留所まで。
(Lichterfeld Westから歩いていくと15分ほど)


MPG文書館には、地下鉄でThielplatz駅まで。
BundesarchivからMPGへは、184路線バスで終点の地下鉄駅Krumm-Lanke駅まで。そこから、Thielplatz駅まで。


現在、Thielplatz駅が工事中で、出口は、MPG文書館に行くときには今まで使ったことのない出口、すなわち市中心部寄りの出口だけが利用可能だった。




フリードリヒシュトラーセ駅のユダヤ人移送記念の像(今回も撮影した)

   西に向かって(キンダー・トランスポートでイギリスへ)助かったユダヤ人の子供たち

             
             圧倒的多数の東に向かった―絶滅収容所に送られた―ユダヤ人の子供たち






   Reichstag(ライヒスターク・国会、1990年のドイツ統一後、修復されてBundestagブンデスタークに)




ライヒスターク近くの
 ブランデンブルク門の過去(ベルリンの壁建設直後・何年か後)と現在


   1961・・・いまだ建物が非常に少ない、空き地多し










 2012年現在のブランデンブルク門(西側から撮影)、     
              手前には壁の崩壊(撤去)後に埋められた記念の二列の石の帯(左右に走っている)

          
                  ティアガルテンの樹木のなかからブランデンブルク門を見る



            東側・・・・・パリ広場・ウンターデンリンデン側












***************************

週末(土曜と日曜)の空き時間を利用して、1945年2月13・14日のドレスデン空襲(広島・長崎・ドレスデンと並び称される壊滅的都市爆撃)の痕跡を視察。


   ドレスデン中央駅



     ドレスデン中央駅ホームから、駅前・旧市街方面





            ドレスデン中央駅
    







            カナレット(ベルナルド・ベロット)の描いた構図・絵


1989年平和革命・ベルリンの壁崩壊・東西ドイツ統一後に再建されたFrauenkirche聖母教会
  壁の一部は、古い石を利用。

   手前左の黒い立像は、マルティン・ルター像








1943年のフラウエンキルヒェ(聖母教会)など町の中心部



しかし、爆撃直後は?


     1945年2月13・14日空襲による全壊状態のフラウエンキルヒェ(聖母教会)

             手前に、マルティン・ルター像が転げ落ちている。

              後方にドーム型建物の天蓋部分…現在は彫像芸術大学の建物







   現在のツヴィンガー宮殿の庭園、






しかし、爆撃直後は?










         Blick vom Rathaus nach Sueden市庁舎屋上から南方を見る















ツヴィンガー宮殿の一翼にある美術館アルテ・マイスター

 ラファエロ、フェルメール、ルーベンスなどの絵

   Raffaelo Santi
     Die sixtinische Madonna, 1512/13
   ラファエロ、システィーナのマドンナ