2015年11月1日〜9日
科研費「軍縮・軍備管理の破綻に関する総合的歴史研究」(研究代表・横井勝彦・明治大学教授)による出張


 今回の調査は、フリードリッヒスハーフェンにあるドルニエ社(現在は「Airbus社のDefence&Space部門に所属)の文書とドイツ博物館のアルヒーフの文書(ハインケル、ユンカース、ドルニエ等の企業文書)の調査。

 テーマ「ドイツ航空機産業の世界的転回―ヴェルサイユ体制下の民需・軍需の世界的連関―」(仮題)のための史料の追加調査・収集
  (前回調査前々回調査、更にその前の回の調査なども参照)


 二つのアルヒーフでは、かなりの数のコピーを取ることができた。
 また、その傍ら、メモを書き、さらに、若干の部分の原稿も書くことが出来た。

 

2015年11月1日ー9日 ホテル7泊、機中1泊、9日間
11月1日 成田12:15発 JAL407便で成田発フランクフルト経由フリードリッヒスハーフェン
2日 フリードリッヒスハーフェン・・・Airbus文書館でドルニエ社史料調査・コピー
3日 フリードリッヒスハーフェンで午前中から1時過ぎまで史料調査継続、
午後、フリードリッヒスハーフェン発-→バス鉄道でミュンヘンへ移動
4日 ミュンヘン、ドイツ博物館のアルヒーフで史料調査・コピー
5日 ミュンヘン、ドイツ博物館のアルヒーフで史料調査・コピー
6日 ミュンヘン、ドイツ博物館のアルヒーフで史料調査・コピー
7日 Georg Elser関連史跡調査(Georg Elser Platz, ビュルガーブロイケラー跡)
8日 ミュンヘン発フランクフルト経由、JAL408便で成田に。 機中泊
9日 成田着14:40




まったくの偶然に、成田空港で、工藤章氏(東京大学名誉教授・専門はドイツ経済史・日独交流史等)と会った。
彼によれば、われわれの共通の共同研究者である田嶋さん(われわれより先の便でベルリン・ワルシャワ調査に出張)とも、偶然に、成田で少し前に出会って話したとのことだった。

 よくよく思い出して見れば、機中で、元同僚(市大から一橋大学ビジネススクールに移った若い人)と会ったことがあり、その意味での偶然の出会いは、2回目となった。ただ、その時はほんのあいさつ程度であった。

 工藤氏の研究とその業績に関しては何十年も前からフォローして、書評なども書いてきたが、学会等でちょっと挨拶・立ち話で言葉を交わすくらいに過ぎなかった。長時間、直接じっくり話し合うことはなかった。
 今回初めて、機中の約10時間ほども、研究にかかわる種々のことを、四方山話とともに語り合うことができた。
 
 工藤氏は旺盛な研究活動をなおバリバリ続行中で、何冊もの編著や単著の構想・計画とそれらの原稿完成状況を聴く機会となり、いい刺激を受けた。

帰国機中は、フランクフルト発19時10分で、夜になったことと席がかなり離れていたこともあって、話すことは出来なかったが、成田で少しの時間、今回の調査旅行の「総括」などを話し合った。






フリードリッヒスハーフェンは、ツェッペリン伯爵の活躍で有名。
その記念碑(1985年設立)が、ホテル(駅前のゼーホテルSeehotel)からすぐそばの湖畔にあるのを見出し、撮影。


Seehotel


  ゼーホテルの受付にある
三つの時計  
左端・ニューヨーク時刻、中央・フリードリッヒスハーフェン(ドイツ)時刻、右端・東京の時刻

 
 
フリードリッヒスハーフェン(ドイツ)は、撮影時、朝の8時ちょっと前、
  その時、東京は、午後4時ちょっと前。
  
時差は、8時間
      
  ニューヨークは、午前3時ごろ(約5時間遅れ)            

         


ツェッペリン伯爵l・記念碑  左手背景にフリードリッヒスハーフェンの駅
                  右手背景に、宿泊したゼーホテル

 
人はただ望みを持ち、
   それを信じなければならない。
       そうすれば、成し遂げられる。

 フェルディナンド・グラーフ・フォン・ツェッペリン
      1838-1917 
                                          
                                           


 
1900年 飛行船LZ1号は、マンツエル湾(フリードリッヒスハーフェンの一つの湾で、当時、ツェッペリン工場があった)で初飛行。

1924年 LZ126号は、大西洋横断。

1929年 LZ127号は、世界を一周し、北極に飛行を敢行。

 その規則的航空サービスが、世界航空交通の門を開いた。

1932年 南アメリカへ。

1936年 北アメリカへ









   
ツェッペリン伯爵に敬意を表し、
   感謝の気持ちを込め、
 フリードリッヒスハーフェン市が設立。






 
さらに、湖畔の遊歩道を歩いて行くと、ツェッペリン伯爵の像






湖畔の風景

 


 











 われわれが調査対象とする
ドルニエは、ツェッペリンの会社で最初の職を得た。
 瞬く間に、能力を発揮して、重要な設計を次々行った。

 そして、飛行船ではなく、飛行機(飛行艇)の開発に進み、独立を果たした


 ワイマール期からナチス期にかけて、ドイツ航空機産業の代表的企業の一つとなり、世界的に著名となった。 



 第二次大戦後、再発足したドルニエ社は、その後、ベンツ社支配下に入り、
さらに今では、
エアバス社(ヨーロッパ統合の深化の一つの象徴とされる成長企業)を構成する巨大企業群の一つを構成している。

 フリードリッヒスハーフェン、ドルニエ社は、
Airbus Defence & Space となっている。


  道路のそばのエアバス社表示塔
 
  道路のそばのエアバス社表示塔   

 
  最寄のバス停: Aribus B31、Immenstaad


   入口…守衛室・受付
   この受付には、「写真撮影禁止」の掲示・・・私が直接利用したアルヒーフのあるLibrary & Spechial Informationの担当者から前もって、「撮影禁止」を伝えられていたが、受付のところにも、その注意掲示がある。

 二日目には、若い日本人二人が受付と話していた。「日本人グループ」と呼ばれていたので、日本の会社から派遣された人だったのであろう。
 初日に、受付の人は、私に、「どちらの会社?」と尋ねてきたので、普通は当然ながら、企業関係者しか訪れないのであろう。
 


 アルヒーフのある図書室の一角で、ドルニエ・コーナーがあり、刊行物がまとめて展示されていた。これについては、撮影していいかと尋ね、問題なしというので撮影。


  エアバス社とドルニエの関係を示す著作
 











閲覧資料ファイル・・・ドルニエ社文書綴り











ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーミュンヘンーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー













11月3日午後にバス・鉄道を乗り継いで、ミュンヘンに移動。



11月4日 ドイツ博物館へ






 
    この図書館の建物の中に、アルヒーフ(文書館)がある。



 





ーーー11月7日土曜日、エルザー(2か所)、ショル兄妹の関係記念碑・史跡等を見て回るーーー



         英雄廟を後ろに、遠くに凱旋門が見える



              英雄廟

  この左手の通りを、1923年11月8日、ヒトラー、ルーデンドルフなど、ナチ党がクーデターによる権力奪取を目指して、オデオンプラッツの官庁街へと突き進もうとした。
 そして、制圧され、ヒトラーは逮捕され、監獄に入れられた。
 約一年間のこの監獄での囚人期間に、『わが闘争』を口述筆記させた。



  遠くに凱旋門、左手に騎馬像が見える。
  騎馬像の周辺が、バイエルン王国(現在は洲)の

  官庁街オデオンプラッツ


 



 
    
バイエルン大蔵省との説明版




凱旋門・その手前のミュンヘン大学本部に向かって歩くと、途中に、シェリング通り(Schellingstraße)


 
^    シェリング通りの道路標識
            角を左に曲がった通り


シェリング通りを少し歩くと、トルコ通りとの交差点に。

 
 この交差点を左右に走るのが、
トルコ通りTürkenstraße



 
交差点を右に折れて、少し進んだところに、
ゲオルク・エルザー広場







    ナチズムに対する抵抗闘士
(1939年11月8日にビュルガーブロイケラーで暗殺を企てた)

   彼が準備期間中に住んでいた建物・場所





  凱旋門 左右は大学の建物、
左手の建物・・・私が1985-86年の在外研究で在籍した
         社会経済史研究所(講座:ツォルン教授)

    
              奥の方に英雄廟

ミュンヘン大学本部前広場、   大通りの奥の方に、英雄廟


  ゲシュヴィスター・ショル・広場
   ショル兄妹広場


     ミュンヘン大学本部



     大学建設年


  本部の門を入ったところ…玄関ホール






   ホールから本部前広場(ショル兄妹広場)の方向

ショル兄妹が1942年2月初め、
「ヒトラー打倒」を呼びかけるビラを撒いた二階
 すぐに逮捕され、2月12日にはギロチンで処刑された。

         下のホール







―ガシュタイクGasteig・・・ミュンヘンフィルハーモニーの本拠地・根拠地ー


そのガシュタイクGasteigのホールの壁に、エルザーの紹介。

第二次大戦勃発・ナチスドイツのポーランド侵攻から約二か月後の1939年11月8日に、当時、この敷地にあったビアホール・ビュルガーブロイケラーで、エルザーがヒトラーを暗殺しようと時限爆弾を仕掛けた、と。
たまたま当日は、ヒトラーがいつもより演説を短く切り上げ、ちょうどミュンヘン駅に着いた頃に、爆発。

 ヒトラーは、その幸運に「神の加護」を信じた、と。



  演壇、その後ろの柱に、エルザーが時限爆弾を仕掛けた。
  この写真は、一年前の
1938年11月8日のヒトラー演説風景。
  3月のオーストリア併合から、さらに、チェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合(10月)へと進み、
  国境で分断されていたドイツ民族の統合、
「大ドイツ」建設を誇る時期の演説。 


    爆破後のビアホール



ビアホールの跡地に、エルザーの行為を記した銘板





 楽器(ホルンの模型)
       手前に、エルザー記念板



 ミュンヘンフィル・定期公演のホール






毎日の、新聞報道、テレビのニュースや討論番組は、シリアからの移民など難民問題が多い。
しかし、市庁舎横広場では、そんな混乱した様子はなく、平穏な風景。


8月には,ミュンヘン中央駅は到着した難民であふれるような状態。

しかし、中央駅も今は平穏・閑散。(11月8日の午前10時半ころ)





  ミュンヘン中央駅(Hauptbahnhof)