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1031(3) 一楽教授のHPにはまだ掲載されていないようだが、次の『カメリア通信』をいただいたので、掲載しておこう。

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横浜市立大学の未来を考える

『カメリア通信』第43

  20061027(不定期刊メールマガジン)

Camellia News No. 43, by the Committee for Concerned YCU Scholars

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松岡慈子先生不当人事不服審査第5回公開口頭審理を傍聴して

国際総合科学部

                                                     一楽重雄

 

去る9月21日に表記の口頭審理が行われ,請求者側証人として「脳卒中から助かる会」代表の上野 正先生が,処分者側証人として岡田隆雄(当時の職員課長)が証言を行った.これまでの口頭審理で,ことの次第は相当明らかになってきているなかで,今回の証言は駄目押しの感があった.上野証人によって患者がいかに松岡先生を高く評価しているか,また,岡田証人によって今回の異動がいかに好い加減になされたかが明白になったのであった.

 

上野証人への質問は,まず,松岡医師とのかかわりと評価であった.これに対して,証人はたんたんと,2001年8月に脳卒中で脳血管医療センターに入院し,その際松岡先生が主治医であったこと,おかげで順調に回復し現在まったく支障なく暮らしていること,松岡先生は優れた先生で名医と承知していること等を証言した.その後,会のメンバーの中で家族が松岡先生に助けて頂いた人々やその家族の方々の思いを直接聴いた話として紹介された.そこでは,松岡先生の治療のおかげで回復したことや,先生の患者と家族のことを考えた医療に対して全幅の信頼と強い感謝の念が語られた.

 

次に「松岡先生が看護師を大声で叱るなどということが問題とされているが,どう思うか」との問いに対して,上野証人は「松岡先生の注意の内容が出てこないのはおかしい.患者としては,まったくやりきれない思いで,心外である」と述べられた.当時センター病院は他の病院と比較してどうだったかとの問いに対しては,自分の経験に照らして「当時のセンター病院は,親切で行き届いていた」と証言した.この点に関して松岡医師は「このフロアはかなりよくなっている,ほかのフロアも改善しなければ」と話していたと証言した.

 

松岡先生がチーム医療を乱したというような認識について,上野証人はサッカーチームを喩えに出し,まったくおかしなことと述べた.声が大きかったり,うるさい選手がいたと言って,サッカーのチームプレーが出来ないなどということがあるだろうか.仕事であるのだから,声が大きいとかいうようなことで,チームプレーが出来ないということ自体がおかしいと話された.「仲がよい」ということと「チーム医療」ということを混同している.

 

次に会の趣旨や行動についての質問がなされたが,それについては特別のことはなく,たんたんと証言された.そして,会の活動をした理由について尋ねられたときに「それは,世の中には正義というものもあると思ったのです」と証言されたことは印象的であった.

 

署名について以前の口頭審理で処分者側代理人が「内容に賛成していなくても署名した人もいただろう」ということを発言したことについてどう思うかとの答えに,そんなことはないし,会の人はみんな怒っているということに付け加えて『蟹は甲羅に似せて穴を掘る』と思った,と述べられた.これは,まさに正鵠を得ているのではないだろうか.

 

考えてみると,今回の処分者側の代理人も因果な役回りである.彼らが,まったく良いところを見せられないのも,彼らの力量の問題ばかりではなく,案件自体の性格による面もある.それにしても,おそまつな発言が多い.今回も反対尋問で処分者代理人は「サッカーと医療は違う,サッカーはひとつの目的に向かってみんなが力を合わせるものだが,医療は違う」と言ったのであった.私はまったく驚愕であった,「えっ,医療は患者の命を助けるためというひとつの目標にみんなが一致して働くものではないの?」と.さすがに,言ってしまってから「サッカーではみんな同じ役割だが,医療は看護師,医師とか,いろいろな役割の人がいて,サッカーと医療は違う」と言い直したのであったが,それでも,なんともおさまりの悪い説明である.確かに,岡田証人の証言を聞いてみると,当時の病院関係者が「患者を治すため」という共通の目標のもとに行動していたとは思えない.その意味では代理人の発言も実態を映したものかも知れない.

 

上野証人の証言に戻ろう.異動の処分に関して,福島センター長は医師の意見を聞いたといっていたが,これについてどう思うかとの質問に対しては,「そうは思えない,松岡先生の異動に反対する署名に医師のうち12名が参加している」と証言された.そして「松岡先生はただちにセンターに戻ってほしい,命を救われる人がいると思う」と続けられた.

 

反対尋問では「脳外科の医師は松岡先生に「馬鹿だ」「○○だ」「能力がない」と言われたのだが」と質問され,上野証人は「反論すればよい」ときっぱりと言ったのであった.なお,実際には「馬鹿だ」の後は差別語であるので,ここでは伏せておこう.審理の場でも発言を取り消したのだった.弁護士ともあろう人の発言とは思えないが,これも案件の困難さゆえの失策と解釈しておこう.

 

岡田証人は松岡医師を転勤させた経緯について証言した.その中でこの異動をするにあたって,一方の側の話しか聞いていないことが明らかになった.松岡医師からは一度も事情聴取をせず,センターの職員から一方的に松岡医師を非難することを聞き,転勤の処分をしたというのであった.最後に請求者側代理人から「あなたは,松岡医師の言動が,地方公務員法の処分に値するとは思いませんでしたか」との質問に対して,「処分に値するかも知れないと思ったが,正式な処分をするとなると,(手続きなどが)大変なので処分は考えなかった」と証言したのであった.それまでの証言は,立て板に水と言っては少々言い過ぎかも知れないが,一見すらすらと順調に証言したのであったが,最後に墓穴を掘った感がある.「処分は“大変”なので,異動ですませた」というのである.まさに,異動という形ならば,本人からの弁明も聞かずに一方的にできるからやったのだということを自ら明らかにしたのであった.

 

その他は,これまでに明らかになっていることが多く,特にみるべき証言はなかった.分かったことは,きちんと実態を把握することなく一方的な言い分によって異動を発令したということであった.

 

なぜ,処分者側は岡田課長(当時)という中間管理職を証言者としたのか.その意図は,今回の異動が,実務者が実務的に行った人事異動であるということを印象づけようという狙いだったのだろう.しかし,実際の証言を聞いてみると,岡田証人が決定したわけではないことは証言内容から知れる.異動の処分を相談した会合には,必ず,岡田課長の上司である部長や局長がいたのである.

 

毎回人事委員長が言うように,この審理は「人事行政の公平を実現するため」であって,適切な行政が行われることを保証するものではない.言うまでもないが,この問題は松岡先生ひとりの問題ではない.むしろ,横浜市民全体の問題である.不適切な行政によって,脳血管医療センターという最先端の設備,そして,発足当時は最先端の技量を持った医師がそろっていて「死んだ人も生きて返る」とまで言われた脳血管センターが,現在のような決定的な医師不足に陥いり,その機能を十分に果たせなくなったのは市民にとって莫大な損失である.

 

この観点からは,この審理の結果を待つまでもなく,いますぐ松岡先生をセンター戻すべきである.センターで医療を行いたいという優秀な医師,それもセンターの内容をよく承知している医師,患者から絶大の信頼を得ている医師,そのようなかけがえのない医師をセンターに即刻戻すことが,いま,行政がなすべきことなのである.

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編集発行人: 矢吹晋(元教員)   連絡先: yabuki@ca2.so-net.ne.jp

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1031(2) 本学では、この間の「改革」で、学内外の強い反対の声にもかかわらず、数理科学科が廃止されてしまった。数理科学は、理科系だけではなく文科系でも重要な基礎学問としてますます重要になっているかに思われるが、時代に逆行する政策決定が行われてしまった。それは、しかし、本学の「改革」推進者、横浜市の改革室における認識欠如を意味するだけではなく、日本全体の傾向としての「忘れられた科学−数学」の状況をも反映するものだったことが、ますますあきらかになりつつある(「全国国公私立大学の事件情報」本日付のニュース:下記参照)。本学における数理科学科の再建は、非常に重要なプロジェクトとなろう。本学数理科学系の教員の奮闘に期待したい。

20061031

米国からも心配されている日本の数学研究

http://scienceportal.jp/news/daily/index.html#0610251

 

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1031(1) 教育基本の審議入りで、教育基本法改悪反対運動が全国の大学でも急速に盛り上がっている(東京女子大、千葉大、横浜国大・・・)。今日は、本学・中西新太郎教授が1113日の月曜日(午後5時から午後7)に横浜国大で行う講演の案内を頂戴した。その案内にリンクを張っておこう。教育基本法の反対において重要なのは、もしこの「改正」案が通れば、今まででさえ教育における国家統制(「学習指導要領」)が強く、自由で民主主義的な現場が圧殺されているのに、さらに国家主義的な愛国心教育などが押し付けられれば、日本の活力が失われてしまうということにあろう。

現在の高校世界史の履修問題(必修世界史等の不履修問題)にみられるのは、一方における受験競争の弊害、他方における文部科学省の意向にだけ忠実な教育行政のあり方であろう。これを政府与党は、「教育委員会の機能強化」としょうする上からの統制強化の方向で解決しようとしてる。

もしも、現在の平和主義的教育基本法が「愛国心」教育主導の「改悪案」に変えられれば、たとえば、上の意向に従順な学校を選び出し優遇するなど、さまざまの利益誘導が大手を振ることになり、さらに国家統制は強まるであろう。

現在の教育基本法が、国家統制を制限し、抑制する機能を果たしている(現実にはそれでも財政・金融・許認可そのたのさまざまの上からの統制手段で自由で民主主義的な教育はずたずたに切り苛まれている)とすれば、その逆のことがまかり通ることになる。

 

「改正」案の根本的問題をしっかりかみ締めるため、歴史学研究会の「廃案」を求める声明を以下にコピーしておく。

 

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THE HISTORICAL SCIENCE SOCIETY OF JAPAN


教育基本法の「改正」案の廃案を求める声明


 日本国憲法と教育基本法は、戦後の民主主義の基本理念を示すものとして、成立後60年近くを経過した現在でも、その輝きを失っていない。戦前の「教育勅語」に基づいた皇民教育によって「臣民」が育成され、これを基盤として戦争が遂行されたことは、教育のもつ重要性と危険性を広く認識させた。そして教育基本法は、民主主義と平和を基軸とした教育の理念を語るとともに、教育内容に国家が介入することは適切ではないという、戦争の反省をふまえて制定されたものであった。

 
 ところが、このような教育基本法の理念を改め、具体的な教育内容に踏み込んで、教育の統制を進めようという企てがなされてきており、教育基本法は現在大きな危機にさらされている。4月28日、政府は「教育基本法改正案」を閣議決定して国会に提出したが、この「改正案」は、現行基本法の部分的修正・加筆ではなく、全面的改訂に近いものであった。通常国会は6月18日に閉会し、この議事は継続審議となり、10月25日に審議が再開された。この「改正案」は、以下にみるように大きな問題を抱えており、歴史教育についてもその自由を大きく束縛しかねない危険性をもっている。このような「改正」は到底容認できるものではない。


 現行の教育基本法では、教育の方針について「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」(第2条)と述べているが、「改正案」ではこれをすべて削除し、「教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする」としたうえで、具体的な内容(徳目)を五項目にわたって列記している。そしてその最後の第五項に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という一文が配される。これは「我が国や郷土を愛する」という、人々の心の内面にまで一定の方向づけを強要するものであり、他国を尊重するという後段部分が配されているからといって看過できるものではない。また愛国心とともに郷土愛を併置したことによって、愛国心の強制のニュアンスを弱めているようにもみえるが、これも重大な問題をはらむ。かつての「教育勅語」の時代においても郷土愛の涵養が叫ばれたが、これは郷土愛によって国家を相対化するというものではなく、「愛郷心は愛国心の基盤をなす」という発想によって遂行されたものであった。こうした過去の実態を考えるならば、国と郷土を愛することを徳目の一つとして掲げることは大きな問題を含むといわざるをえない。


 また、これらの「国や郷土を愛する」ことをふくむさまざまな「徳目」は、それぞれについての「態度を養う」という形で教育方針が示され、その達成度が計られることになる。つまり、このような教育目標は、家庭教育・義務教育・学校教育の場において、さらには大学・私立学校などでも設定され、親や教員は目的達成のために努力しなければならないという構図になっている。特に教員に関する部分では、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」(第6条)と現行法にあるものを、「全体の奉仕者」という文言を削除して「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」と改められている。これとあわせて「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」という条文(第10条)も「国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきものである」の部分が「この法律及び他の法律の定めることにより行われるべきものである」へと変えられている。教員は政府の奉仕者ではなく「全体の奉仕者」であって、教育は「国民全体に対して責任を負って」行われるべきであるという現行法の理念は「改正案」では全く消失し、教育は「この法律及び他の法律の定めるところ」によって行われ、教員もこの法律に定められた徳目を教えることを「自己の崇高な使命」として自覚せよ、という形になっているのである。つまり「改正案」においては先にあげた五項目の「徳目」の達成こそが教員の使命であり、法律上の目的達成のために尽力せざるをえなくなる。「改正案」を通して見ると、政府が教育を道具としてとらえていることは明らかであり、そこから外れる真理や真実を語ることを抑圧していく恐れがある。


さらに、「改正案」の末尾には、「政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない」(第17条)という形で、教育の内容を政府が統制し、そのための施策を講じることが明示されているのである。

 
 そもそも教育は個々の「われわれ」の自由な工夫と努力によってなされるもので、その内容は法律によってしばられるべきではない。また自分で思考し判断する、「ものを考える」力をつけることが教育の目標であり、国家が個人に対して特定の「態度」を養わせようとするというのは教育目標としてはふさわしくない。思考を鍛えるという課題を歴史教育も負っており、ことに「国を愛する」ことを強要した教育が何をもたらしたのか、歴史研究や歴史教育に携わるものとして深く省みないわけにはゆかない。愛国心の涵養を求め、国家や政府による教育内容の統制を正当化する「教育基本法改正案」の廃案を強く望むものである。

 

2006年10月27日
歴史学研究会委員会

   

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1030日 「全国国公私立大学の事件情報」に、TOEFL問題に関する市大新聞ブログの記事が紹介されている。

英語力強化の一つの手段として、TOEFLを活用すること、平行してTOEICを活用すること、こうしたことに問題はないし、異論もない。まさにプラクティッシュな(しかしプラクティッシュでしかない)英語力の養成の一つの手段であり、達成度確認にある程度相応しい一つの手法であろう。しかし、どこまで、どのようにやるのか、そのやり方が大学らしいものであるか、大学の見識が問われる[1]。本学の「オンリーワン」のやり方が、はたして妥当か。外部の試験だけで、進級(卒業)を決める大学は他にあるのか?内部の専任教員を中心とする学問群・カリキュラム体系に基づく単位認定(基準設定)と組み合わせながら、外部試験も活用するというのが普通ではないか?本末転倒していないか?

TOEFLTOEICだけの得点アップを目指すなら、そのための専門学校があるではないか? TOEFLTOEICの得点アップに人的資源や物的財政的資源が重点的に振り向けられれば、いったいどうなるのか。そうした専門学校とどこが違うことになるのか?そして、大学の他の本来のカリキュラム体系が振り回され圧迫を受けるとすれば、いったいどうなるのか?

上記ブログ記事では、「授業運営の失敗」が特に問題にされているように見える。その原因は何だろうか。運営だけではなく、科目設定(の仕方、基準のあり方[2]など)に問題はないのか。たとえばTOEFLが対象とするのはアメリカの大学での講義を受ける前提としてであり、その試験内容、設問は、大学における学問諸分野の教養的力量を試すものとなっている。それはアメリカの大学で教育を受けるためには必要かもしれない。他方で、TOEICの場合、基本的なビジネス向けの試験問題もけっこう多い。私がこの間、市販の模試を調べてみた限りでは、株や金融、さまざまの商売上の宣伝に関する問題も多い。はたして、日本の大学で、たとえば理科系にすすむものにとって、これらは必要なものかどうか、どこまで検討しているのであろうか?他方、文科系に進む学生にとっては、分子生物学に関連するような設問など自然科学系のものも結構あるTOEFLに不適合の人が相当数いても不思議ではない。そうした分野の英語力(単語力)があればもちろんいいが、どこまでそのような他分野に関する英語の知識が求められるのか?500点以上(TOEICでは600点以上が基準だという)を基準として決定した人々はそうしたことを説明する責任があろう。一方における基準の水準・適用の画一主義と他方における大学の本来の講義の体系・やり方、あるいは入試制度などとの整合性も問題となろう。入学時点での英語力の関門を進級条件(2年間の学生の向上力・実績)と整合させる必要があろう。進級させないという制度とカリキュラム体系全体とのバランスをどう考えるかも重大だろう。

ブログの記事が指摘する「出席率」問題はそうした前提的な根本問題のひとつの現象にすぎないであろう。その後の出席基準の変更問題もそうであろう。

問題はいよいよ煮詰まってきたということであろう。記事の雰囲気からしても、留年問題(在学期間延長問題)はかなり多くの学生の主要関心事になりつつあるようである。どうするかに関しては、当初の決定のあり方、その後の一連の決定、諸措置の流れ全体が、検証される必要があろう。

ずるずる放置しておいていい問題ではない。留年という事態は、学生の一生のあり方に関係するものである。留年は、英語以外の大学の講義のあり方にも大きな影響を与えるものであり、学生諸君の勉強の計画、留学計画、休学のあり方、生活問題など広範な問題を孕んでいる。それが、もし大量ということになれば、大学のカリキュラム体系全体・講義運営全体への影響は計り知れない。

筋の通った合理的解決と説明がもとめられるだろう。

だが、どこで? だれが審議し決定するのか? 教授会は4月にセレモニー的なものが開かれてきり、そもそも開催されていない。

毎月一回の代議員会では、私の知る限り、代議員側からのの問題提起はあっても、審議されることはないという。

審議決定権をもつと思われる教育研究評議会、財政的人的措置を講じる経営審議会等の責任ある対応が求められるであろう。

どのような検討が行われているのか、われわれ一般教員には知るよしもない。見えてくる現象は、500点基準をなんとしてでも堅持する方向のようだが・・・・

 

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1025日 一昨日、メールで教員評価への参加を呼び掛ける事務局からの連絡が届いた。今朝は、ボックスに印刷物が入っていた。

事務局主導、ということか。あるいは事務局にそうしたメール発送、ついで文書配布を指示した上位者がいたのかどうか。

巷で不思議がられていることは、「提出期限を11月上旬まで延ばす」ということが、突如としてこのメールで告げられたことである。その判断は誰がしたのか。また、そもそも、「期限はいったいいつまでだったの?」と。また、いつまでという期限を切った提出要請が仮にあったとすれば、誰がいつの時点で、どのような文書で、誰に対して行ったのか、といったことが不思議がられている。一般教員は狐に包まれたような状態である。

説明会への参加が自由であり、教員評価システムが十分な検討を踏まえたものではないことから、たんなる「試行」であって、参加は自由である、というこれまでの当局のスタンスからすれば、そうした不安定なシステムに乗ってみようという人がどれくらいいるのか。なかには、不安定でひどい内容だということを確認するために、あるいは評価者を評価するために、評価者がどのようなことを言うのか確認するために〔その発言次第では学問の自由を阻害する問題も発生しよう〕、ひとまず参加してみようという人もいるかもしれない。

そもそも現状・現段階では不安定なシステムに安易に乗るべきではないという教員組合のスタンスは、すでに公開されているとおりである(教員評価制度問題に関する見解。この「試行」システムに乗る諸個人は、しかるべき覚悟が必要ということだろう。いや、場合によっては、任命権者の覚え〔いかなる意味・基準で?〕めでたく、何の不安感を持たない人びとかもしれない。

第一次評価者、第二次評価者、・・・という段階的権力・権限を「上から」「外から」与えられている人びとが、はたしてその職務にふさわしいのかという点も、多くの人が問題としているところである。まさにピア・レヴューが求められるゆえんである。ところが、肝心のピア・レヴューのシステムはなにも整っていないという。これは恐るべきことである。あるいは、研究についてだけピア・レヴューが整っていないという言い方もされている。これまた安易な言い方であり、問題だろう。それぞれの対象に関する素人、門外漢が評価できることになる。教育のプロ、研究のプロは必要なくなる。大学である必要はなくなる。大学でなくなる。

評価するものが評価される。評価する人が、教育研究においてどのような計画・目標を立てているか、言葉だけでなくその実績を示しているか、その説明責任を果たしているか、どのような手段・方法をもって説明責任を果たしているかなどが、評価者を任命する各段階の権限・権力者、法人内部に限ってみても上は理事長にいたるまで、検証されなければならない。評価者の評価は文書で、反証可能なように明確に示されなければならない。そして、それに対する不服申し立て、異議申し立てシステムは、「試行」とはいえ、必要不可欠である。そうでなければ、不利益措置等を恐れての、評価されるものの奴隷化がはじまる。それはまたそれで、システムの根本的欠陥を意味する。

民間会社の成果主義において問題となるのは、まさに評価者の力量であり、利害関係である。権力・権限だけ与えられて、しかるべき評価の力量がないとすればどうなるか。そのあり方で、組織全体が沈滞し、不満が鬱積し、空気がにごってしまう。結局、全体として、マイナス効果を生み出すということになる。数年でいなくなる人が権力・権限を持てば、その結果はどうなるか。

教授会という自治組織において、その権限と責任が明確に規定してあれば、そしてそこでの審議を踏まえ決定したものであるならば、しかるべき内面的拘束力がある。行政主義的に「上から」「外から」命じられたこととは違うからである。そもそもそうした審議機関としての教授会が、一般教員にとっては存在しない状態なのだから、決められたことは「上から」「外から」という外在的・外発的なものでしかありえない。ここにも、現在の学則の問題点〔しかしさらに当面その運用における自治の実質化を志向しない問題点〕が露呈しているといえよう。

いずれにしろ、当局作成の文書には「自主的」といった言葉が出ているが、現実には、評価の対象となる一般教員の内発的内面的な「自主」とは違うであろう。すくなくとも、教員組合のスタンス(教員評価制度問題に関する見解からすればである。

 

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1020日(2) 教員評価制度に関する説明会の内容が報じられた組合ウィークリーを頂戴した。

本学のように、学長、副学長、そして経営人(理事長、副理事長)が「上から」「外から」すべて任命されているような大学において、すなわち根本的な点で大学自治が根底から問題となる状況で(大学構成員、教員集団による自主的自治的な学長等の選挙システムがまったく欠如した現状・制度において)、きわめてあいまいな教員評価制度の上からの法人サイドからの強引な試行は、大学を破壊することにつながるだろう。そのことが今回の報告からも伺える。

トッフル強行問題(画一性、不利益変更等の問題)、任期制強制=不利益措置問題とも密接に関わるやり方である。そこに見られるのは、上位下達の通達主義、行政主義、破産した官僚的中央指令主義としてのソ連型計画主義=中期目標主義、ソ連型官僚統制主義である(組合ウィークリーが示すような、現在の大学において唯一ともいえる自治的・自立的な教員組合が提出した質問にはまともに答えない態度:教員評価制度問題に関する見解)。

説明会において、「中期目標」の制定過程と内容の正当性は一切問題になっていない。その象徴は、説明文書の表現の仕方にも現れている。本学は、公立大学=地方公共団体という公的団体の設立した大学である。公と市長とはイコールではない。公立とは市長立ではない。市長は設置者ではないにもかかわらず、市長=設置者とする説明のあり方。市長は、地方公共団体の公僕(執行権を一定期間託されただけであって、長期的永続的組織体としての公立大学に対してなしうることは限定的)でしかないのだが、その点を無視するような表現の仕方。そこに、普通の中間管理職の目線、行政第一主義が露呈している。公立大学は、直接的に地方公共団体としての横浜市・横浜市民に対して責任を負い、その見地から、大学の自治を再建していかなければならないだろう。

いずれにしろ、今回の教員評価システムにおいても、制度・大学意思の民主的形成プロセスは欠如している。教授会、評議会といった大学の自治的組織を解体したことの問題性が、そこに露出している。それとも少なくとも、大学代議員会では審議事項になったのであろうか?

 

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横浜市立大学教員組合週報

   組合ウィークリー

2006.10.20

 

もくじ

     公立大学法人横浜市立大学の教員評価制度」に関する教員説明会 ― 組合員からの報告・意見 ―

    10月定例執行委員会報告

(添付資料)

 

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「公立大学法人横浜市立大学の教員評価制度」に関する教員説明会 − 組合員からの報告・意見 ―

 

「公立大学法人横浜市立大学の教員評価制度」に関する教員説明会が、大学当局により9月中旬から10月中旬にかけて各キャンパス、病院、センターでおこなわれ、組合員の方々から報告・意見が寄せられました。

以下に、その一部を掲載いたします。

 

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(その1)

教員評価制度に関する当局の説明会が各キャンパスで実施されてきましたが、その出席状況は瀬戸キャンパス、福浦キャンパス(医学部)ともに2回合計で100名足らずの低調ぶりだったようです。瀬戸キャンパスの第1回説明会にそくして当局の説明を要約すると次のようなものでした。

<ストロナク学長>

今回の教員評価制度案は完成版ではない。試行を重ねながら進化させてゆく。本学においては研究と教育、学生のニーズ充足のバランスが大切である。各教員が自己の強みと弱点を、第三者の目を通して客観的に知り、研究教育能力向上に役立てることが教員評価制度の目的である。ピア・レビューPeer reviewの実施の見通しは立っていないが、試行実施段階に到達したと判断した。中期計画に記載された時期よりもすでに遅延しているので、すぐに試行を実施したい。

<松山人事課長>

関係人事制度について、現在の検討状況を情報提供という形でお伝えする。

l         試行の後、評価制度を本格的に実施する。評価結果を年俸、任期更新など処遇に反映させるが、そのタイミングについては試行結果などを見ながら今後検討する。

l         年俸制について、従来任期中は基本給一定と説明してきたが、この点について再検討中である。すなわち、基本給部分は任期途中においても経験年数で変動するよう検討している。

l         教員一人ひとりのレベルアップが大学全体の業績に結びつくように、優れた業績を上げた教員については積極的な評価を与え、モチベーション向上に役立てる。

l         助手の任期は32期としていたが、52期ないし33期とするように見直し作業中である。

l         学校教育法の改正に対応する作業を進めている。

<神内人事係長>

配布物に記載した内容で試行を今秋実施したい。できるだけ多くの参加者を期待する。評価結果は個々の参加者に通知するが、公開はしない。評価結果に関する不服申し立てについては今後の検討課題である。

<質疑応答における学長、馬来副学長の発言要旨>

試行への全員参加が原則だが、今回については自由参加とし、できるだけ多数の参加を期待することにする。ピア・レビューは今回できないし、来年についても未定である。現時点で評価制度のシミュレーションが十分できているとはいえない。個々の教員の研究に関する評価は別として、教育、診療、地域貢献については大学当局が定める組織目標に基づいて評価できる。評価制度が円滑に機能しているかどうかについては法人評価委員会で検討されることになる。

<感想とコメント>

当局は今回説明した評価制度案は未だファイナル・バージョンではないことを繰り返し強調した。今秋に試行を行い、その結果を踏まえて修正版をつくり、新年度に本格実施する方針を強く示唆した。

教員組合が9月上旬に提出した今回の評価制度案に関する質問事項に何らまともに答えないまま、試行を強行し本格実施に結び付けようとする当局の姿勢は拙速かつ理不尽と評さざるを得ない。

当局は評価結果を賃金や任期更新などの処遇に反映する予定であることを明言した。それにもかかわらず、評価基準など制度の根幹に関わる内容を明示しないのは制度導入における労使間の信義原則に反している。

評価の具体的な基準、評価者研修の内容など制度の前提条件が不明確なままでは、被評価者の教員は評価シートにどのように記入するべきか疑心暗鬼にならざるを得ない。

当局の説明を聞く限り「記入対象となる項目は列挙してあるが、全項目について記入しなくても良い。教員の自主的判断で自由にシートに書き込んでくれれば良い」というように聞こえた。そして記入された内容をどのような基準で評価するかについては何の説明もなかった。被評価者の教員だけでなく、コース長等の第一次評価者もさぞお困りのことと想像される。要するに制度の根幹部分は未だに白紙状態に近いと断ぜざるを得ない。

公正性・公平性・透明性といった制度の正統性に関する原理的な説明は欠如していた。このような形で試行から本格実施へ突き進むとすれば、被評価者である教員の理解や納得が得られるはずがない。したがって制度の円滑な運用などはとても不可能である。

人事課長から年俸や任期に関するいくつかの点で「飴」の要素が検討されていることが「情報提供」された点は注目される。しかしこれは、評価制度の導入によって「鞭」を振るわれる教員の激痛を多少緩和する程度の意味しかもたないであろう。さらに本質的に言えば、上記の「飴」そもそも教員評価制度の関連事項扱いで「情報提供」するような筋合いのものではないはずである。年俸制の設計がないまま給与を固定している現状は理不尽というしかない。

説明会に参加して明確に理解できたことは、中期目標に掲げた「教員評価制度」を計画通りに「実施した」ことにしたい当局の姿勢だけである。このような当座しのぎのやり方は大学の将来に大きな禍根を残すことになる。このままでは本学教員が安心して研究・教育に取り組むことが非常に困難になることは確実である。

その後、大学ホームページに最近掲載された学長をはじめとする各段階評価者たちの「目標」をみた。同僚に言われてはじめて知った次第で、まだ読んでいない人も多いだろうと思われる。コース長など第1次評価者の中には未記入の人もあり、足並みの乱れを感じさせた。また、各評価者が掲げる「目標」は多くが抽象的で、それをふまえて「目標シート」に何をどのように書くべきか、戸惑いを禁じえなかった。学部長、コース長は教育現場にも関わる人たちでもあるのだから、まず自分たちの「目標シート」を作成して例示するべきであろう。同時に評価者としての評価基準も提示すべきである。各教員に「自由に」記入させて提出させ、その後考えると言うのでは公正で透明な制度とは言えず、被評価者たちの納得を得ることはできないであろう。そもそも平成18年度の「目標」を10月に示し、評価基準も不明確なままで各教員に「年度計画」の立案を命じ、12月に自己評価シートを提出させ、その後で段階的に相対評価を導入して評価結果を出し、各教員に通知するが、不服申し立てへの対応システムは未定などというスケジュール自体が常軌を逸している。教員の心配や懸念を放置したままでは、本格的な制度試行の前提条件が整ったとはいえないことを当局は肝に銘じるべきである。

 

* * *

 

(その2)

10月2日(月)の教員評価説明会に出ました。教員の参加は少なく、閑散としていました。説明のあと何人かの教員が質問したり発言しました。ある教員が平成19年度の評価結果を20年度の処遇に反映させることがあるかと質問しました。馬来副学長がそのようなことはないとくり返し言明していました。(処遇に反映させる場合、どのように行うかは重大問題なので、民間企業でもかなり時間が必要で、あたりまえのことですが)。人事担当の言うことはあてになりませんが、馬来副学長の発言なので、あてにしたいところです。

 

* * *

 

組合員の方々から寄せられたこれらの意見が示すように、当局が提示してきた教員評価制度は評価の対象となる内容導入方法に、決して無視できない、大きな問題を含むものです。組合執行部では引き続き、この評価制度の導入に慎重に対処していきたいと考えています。

 

 

 

 

 

● 10月定例執行委員会報告

10月19日(木)に10月定例執行委員会が開かれました。以下はその議事概要です。

 

1.組合加入申請

東田 啓作氏(国際総合科学部) 承認

なお、加入申請書には今後は所属学部に加えて所属コースも記入する欄を設けることとした。

 

2.最近の折衝状況および今後の対応方針について

最近の折衝状況について書記長より報告があった。

今後、課題となっている問題(賃金、教員評価制度と新人事処遇制度、昇任人事問題)を中心に折衝を行い、その後団体交渉に臨んでゆくことを確認した。

 

3.その他

@ 一組合員から、ISO講座のこれまでの経緯について説明があり、これに関して組合として今後どのように取り組んでいくかについて話し合った。

A     立命館アジア太平洋大学の常勤講師「雇い止め」事件の迅速で公正な地位保全仮処分命令を求める団体署名に関する要請(次ページ添付資料参照)に、団体として組合がこれに応ずることを確認した。

B     学内の公式ホームページに人事問題に関する資料が掲載されている問題につき、当局に善処を申し入れることを確認した。

 

 

 

 

 

 

 

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教員組合に皆様の声をお寄せください

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発行 横浜市立大学教員組合執行委員会

 〒236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号

 Tel 045-787-2320   Fax 045-787-2320

 E-mail : kumiai@yokohama-cu.ac.jp

組合HP:http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm

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(添付資料)

 

大分地方裁判所 民事第二部 

神野泰一裁判官 殿

 

立命館アジア太平洋大学の常勤講師「雇い止め」事件の

迅速で公正な地位保全仮処分命令を求める要請書

 

 立命館アジア太平洋大学(以下APUという)は、一応の任用期間が切れた常勤講師に対して、2006年3月31日をもって雇い止めを強行しました。

 この雇い止め事件は、開学前に常勤講師に対して「4年契約の後も契約を継続できる」と明確に約束したにも拘らず、昨年突然に、「2006年3月末に一応の任用期間が終わる常勤講師から次々と雇い止めする」と、APUが通知してきたことから起こった事件です。

 APUは2000年4月に開学しましたが、開学前の1999年10月24日に、就任予定の日本語教員を京都に集めての説明会で、常勤講師たちから寄せられた質問に応じるために事前に用意された『質問リスト』を配布しました。その質問リストの19項に「4年後の更新について知りたい」という項目があり、それに対して「一応任期はあるが、本人が望めば60歳の定年まで更新ができる。ただし昇格も昇給もない」と待遇条件も含めて明確に説明し、継続雇用を約束しました。

 この説明会に出席した常勤講師は、雇用契約の更新が約束されたことを確認して、他大学への応募を取りやめ、又は、他大学の職を辞してAPUに着任しました。

 このことは、この説明会に参加した常勤講師14名全員を含めた16名の教員が、「4年後も契約を継続できるが、条件・待遇は変わらない」「どうぞ定年までいて下さい」と説明を聞いたと、連名で署名していることからも、また数名の常勤講師が説明会の『質問リスト』に、説明内容をメモ書きで残していることからも明らかです。

 貴裁判所へ提出している常勤講師7名の「陳述書」でも、「継続雇用を確認して、退路を断って着任した。当時、その約束がなければ着任していなかった」と経緯を陳述しており、APUが開学前に『継続雇用』の約束をしたことは、まぎれもない事実です。

また、APUは今後4年間で学生数の1.5倍化を目指し、新たに上級講師・嘱託講師・任期5年の教員の募集もしており、依然として日本語教員の必要性が高いのです。この点からも、既に4年間の教育・研究経験を有する常勤講師の「雇い止め」が、理不尽で不当なものであることは明らかです。

 教育・研究の場を奪われることは大学教員としても生活者としても死活問題であり、約束に反して雇い止めにされた常勤講師の計り知れない苦痛に、私たちは深く心を痛めています。

 私たちは、貴裁判所が早急に公正な判断を行い、地位保全の仮処分命令を下されますよう要請いたします。

 

                     2006年  月   日

 

   住  所

   団                                                          

   代表者名                             ㊞

 

提出者代表: 大分地域労働組合 執行委員長 池本和之

 

 

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1020日(1) 日本の中には、アメリカ政府・日本政府の一方的一面的な北朝鮮批判に対して冷静に批判的に見ている人々がいることを改めて、下記のような情報から知った。

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重複ごめんなさい。

北朝鮮の核実験について、日本や世界各国の市民団体の声明をご紹介し
てきましたが、私の気持ちに一番近いものを見つけたので、転送しま
す。札幌の松元保昭さんからのものです。(あとでメルマガでも流しま
す)

特に、一番最後の「日本に、憲法・教育基本法の精神にもとづいたまと
もな政府を!!!」に共感します。選挙のときは、みんなこのことを忘
れないで、投票しましょうね。

きくちゆみ
ーーーーーーーー
あまりにも不 公正な世界が、大手を振って歩いています。公正
と正義は、おのずと普遍性を求めます。老獪な右翼政権、偏狭なナショ
ナリズムに騙されないように、いくつかの市民運動に下記のメッセージ
を送りまし た。(転送可)

パレスチナ連帯・札幌  松元保昭


アメリカ・イス ラエルに経済制裁を!

北朝鮮は、他国を侵略し軍事占領したでしょうか? 
北朝鮮は、40年も前から核配備し て周辺国を恫喝しているで
しょうか? 
北朝鮮は、アパッチヘリやトマホークやクラスター 爆弾やバン
カーバスターを持っているでしょうか? 
北朝鮮は、毒ガス化学兵器を女性 や子どもに使用したでしょう
か? 
北朝鮮は、病院や救急車を爆撃し、子どもを狙い撃ち したで
しょうか? 
北朝鮮は、占領下の電気や水を止め病人を殺し税金を奪うようなことを
したでしょうか? 
北朝鮮は、八メートルの壁をつくり他民族を隔離し閉じ込めるような人
種差別をしたでしょうか? 
北朝鮮は、他国が脅威だと言って、先制攻撃し数十万の 人々を
虐殺し家屋を破壊したでしょうか?

それらのすべて、それ以上のことをやってきたのは、アメリカとイスラ
エルです。国連決議 を34回も破っているイスラエルが、どう
して容認されているのでしょう? 核兵器を実戦配備し40年もの軍事
占領を続け、いまも周辺国を軍事侵略で脅かし ているイスラエ
ルが、どうして経済制裁を受けないのでしょう?

エルサレム、ベツレヘム、ヘブロンという世界共通の聖地を奪い続けて
いるイスラエルを、 世界はどうして見て見ぬ振りをしているの
でしょう? 妊婦を、障害者を、女性を、子どもを、爆破し、轢き殺
し、狙い撃ちするイスラエルを、どうして世界は 黙って見てい
るのでしょう?

そういうことを知らんぷりしている人権って、何でしょう? 民主主
義って、何でしょう?  平和って何でしょう?

日本国は、朝鮮半島を半世紀ものあいだ植民地支配の従属化においてき
ませんでしたか?  さらに半世紀ものあいだ謝罪も、補償も、
援助もなしに在日米軍の核配備を笠に着て「敵国」扱いしてきたのでは
ないですか? 過去の植民地支配も現在の核兵 器脅迫体制も自
覚することの出来ない現在の、北朝鮮だけを槍玉に挙げる日本国の危険
なナショナリズム高揚は、未来の日本を永続的な「反テロ戦争」の新た
拠点にして東アジアのイスラエルに仕立てる日米極右政権の
策謀だと思いませんか? いまこそ、憲法前文の精神に立ち返るときで
す。

人権や民主主義は、けっして一国内だけでつくられるものではありませ
ん。アメリカ、イス ラエル、北朝鮮、そして日本をみれば明ら
かです。まして平和というものは、一国はおろか一超大国の思惑などで
つくられるものでは、けっしてありません。公 正と正義のない
ナショナリズムは、結局、自民族を愚かにし他民族を不幸にするしかな
いのです。戦前の日本、今のイスラエル・アメリカ、そしてこれからの
本のように。

イスラエルに経済制裁を! 
アメリカのカウボーイ帝国主義に全世界からの経済制裁を!!
日本に、憲法・教育基本法の精神にもとづいたまともな政府を!!!

              パレスチナ連帯・札幌 代表・松元保昭

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1018日 「全国国公私立大学の事件情報」(昨日付)に全国大学高専教職員組合と私大教連との教育基本法「政府案」の廃案をもとめる共同声明が出ている。リンクを張っておこう。

いま流行の数値目標は、大学をも席巻している。同じ「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)によれば、滋賀県立大学は、発表論文数を2005年実績から2012年度までに、1.5倍にする数値目標を打ち出したようだ。その目標の実現のために、どのような制度的予算的改善とインセンティヴを導入するのだろうか?

実態を無視した数値目標を大々的に掲げるのは簡単だが(マスコミはそれに飛びつくだろうが)、それを実現するための諸前提条件を整備しない場合(それどころか@研究費を大幅に削減するなどした場合、A持ち駒などの負担増の場合、Bそれ自体としては遂行すべきだが必要投入時間を考慮すれば一定の枠が必要な社会貢献の負担増の場合、など研究諸条件を劣悪化する場合)には、たんなる精神主義、たんなる締め付け、嫌がらせに堕落するだろう。

そして数値目標が実現できないときの責任は下部にだけ押し付けられることになれば(日々の多くの事件はそれを示している)、組織の精神的荒廃はひどいだろう。生き生きした研究教育環境ではなくなるだろう。そこに、任期制をかぶせれば、「平均以下の業績」などと称して、任期満了・解雇が横行することになろう。全体として研究教育の実績が上がっているかどうか、それこそが改革の真価の評価基準のはずだが・・・・

きちんとした専門家集団(教授会)による民主的審議を踏まえないで「上から」「外から」押し付けられた「目標」であって、その目標の立て方・目標内容そのものの妥当性(大学の自治原則との整合性、法的妥当性)が問われることがなければ、組織解体に突き進むことになろう。

こうした見地からするとき、トッフル問題はどうなることか。また、昇任昇格における任期制強要問題はどうなることか。

 

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1017日 「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)によれば、全国大学高専教職員組合が文部科学大臣あてに、助手の助教への任命に当って全員任期制を強制しようとしていることに反対し、その法的諸問題を指摘していることを知った。ここで問題となるのは、まさに助手から助教へ、あるいは新助手へという身分移行にともなう限定的な任期制の強制(不利益措置)である。

全員任期制の方針、そしてそれが難しいと分かると労働基準法の改正条項の適用、といった法理抜きのごり押しとはまったく次元が異なる限定的な職階(移行)における問題である。それとても、不利益変更と違法性、そして、大学の研究教育におけるメンタルヘルス問題があることが指摘されているのである。

 

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1016日 大学評価学会でも,政府与党の教育基本法「改正」案が、その内容、審議手続等の全体において重大な問題を孕んでおり、廃案にすべきだとの見地での声明を出すことになったので、その声明に加わった。その1015日付声明文にリンクを張っておこう。

北朝鮮への経済制裁等をみるとき、その措置が国際的信頼をバックにできるためには、アメリカによるキューバ制裁措置の中止が必要だろう。本日『朝日新聞』朝刊のキューバ大使の論壇への投稿がそれを物語る。何年にもわたる国連での決議(昨年は、加盟国192のうち日本を含む181カ国が賛成している決議)をアメリカは無視し続けているのである。

 

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1010(2) 公共哲学メーリングリストからのメールで、自民党の加藤紘一氏が、マスコミと政府与党、および世界の、制裁だけを声高に叫ぶ「北朝鮮バッシング」に対して、醒めた意見を述べている(と思われる)ことを知った。核実験が日本や韓国など周辺諸国に対して「脅威」となる要素はあるが、核所有の世界の諸国は、これまでしっかりと核廃絶への道、そこに至る過程でのしっかりした核管理の道を歩んできただろうか?

インド、パキスタンの核実験、イスラエルの核所有などは、手放しでいいのか。その少し前には、フランスが太平洋で核実験を強行しなかったか? 最近、アメリカは、未臨界核実験を行わなかったか? 

核所有大国は、核軍縮の人類史的責任を負っているのであり、その責任に見合った努力をしているか?

最近の事件が示す「いじめ」の構造は、身近ないろいろの意味で弱い立場の少女に対する周辺からのものだが、世界政治において、今回の「北朝鮮バッシング」においても、露出しているのではないか。北朝鮮が「将軍様」個人崇拝の軍事独裁国家(強そうに見せかけようとしているがその実態は武力・権力・言論思想の抑圧に基づく弱体この上ない国家)になってしまっている現実を、どのような手法と経路で、変えていくのか。

日本は、原子力空母の配備を受け入れるなど、アメリカの核に「守られる」と言う現実(まさに、日本列島の不沈空母化‐アメリカの世界戦略の一手段化の側面)をみるとき、一方的に北朝鮮のやり方を非難して、袋小路に追い込んでいいのか、と考える。加藤紘一議員の主張の正確な内容を確認したい。

 

この核所有問題を考えるとき、自らは広大な植民地・勢力圏を所有している列強(諸帝国)が、後発国の植民地要求をはねのけ、結局は、先進帝国主義と後発帝国主義の世界戦争(二つの世界戦争の基本要因)となったことを思い起こす。新しい核所有(新しい植民地所有)を否定・非難するには、所有している側が対外的に核の圧力を行使せず、全世界で植民地・帝国・核所有を廃絶しなければならないだろう。それへ向けての、世界を納得させる行動こそが、求められる。

 

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1010(1) 久しぶりに、佐藤真彦元教授のHPにリンクを張っておこう。教育基本法「改正」に反対する立花隆の興味深い戦闘宣言(『週刊現代』記事)が森田実によって紹介され、コメントされている。

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「岸信介のDNAを継ぐ男」と「南原繁の思想を受け継ぐ者」の本格対決が始まる

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106日 3日に記した「日本教育学会歴代会長の見解と要望」(教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望に賛同する若者たちを中心とする全国的署名活動が展開されていることを知った。下記のところである。教育学者・教育研究者ではない人びと、教育にたずさわっては居ない人々であっても、すべての人が教育を受ける立場(過去・現在・将来に子供、親などとして)ではあるわけで、日本の教育の基本システムを根本から変えてしまうような危険な国家主義的法律に対する反対の声を上げるのは当然であろうし、その輪が広がることが望まれる。

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以下、転送・転載大歓迎。

教育学研究者しか署名できない<日本教育学会歴代会長「教育基本法改正継続
審議に向けての見解と要望」賛同署名>に対して、元気の良い若者が同じ主旨
で誰でも賛同できるネット署名を始めています。第1次集約日は10月15日(日)
午後9時です。

・わかりやすい解説
http://www.stop-ner.jp/061015shomei.pdf


・署名サイト
http://www.fleic.dyndns.org/cgi-bin/gakkaisando.cgi


第1次集約時点での目標は1万とのこと。どんどん広めましょう。

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103日 教育学会の教育基本法「案」廃案を求める声明(「全国国公私立大学の事件情報」本日付、参照)に共鳴し、狭い意味での教育学者ではないが、その趣旨に賛同し、趣旨に賛同の署名を送った。以下にも掲載しておこう。

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 日本教育学会歴代会長、「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」に対する署名のお願い

教育基本法「改正」情報センター
 ●日本教育学会歴代会長「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」に対する教育学研究者賛同署名のお願い(200610月1日)
 ●教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望

賛同署名入力フォーム
署名のFAX用紙

日本教育学会歴代会長「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」に対する
教育学研究者賛同署名のお願い

 臨時国会が始まりました。ご承知のように、政府提出の教育基本法改正案が民主党の日本国教育基本法案とともにこの臨時国会で継続審議に付されようとしています。新たに発足した内閣は、教育基本法改正をこの臨時国会における最優先課題にしています。日本の教育は、戦後最大の危機に直面しているといっても過言ではありません。

 この重大な状況にあって、去る826日付をもって、別添のような日本教育学会歴代会長4氏(発起人)ならびに歴代事務局長7氏(賛同人)の連名による「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」が発表されました。同「見解と要望」は、「現在提出されている2法案はいずれも廃案とし、引き続き教育問題を広く人々の論議にゆだねつつ、現行法の精神をより豊かに発展させることをねがうものである」と述べています。こうしたねがいをはじめとして、同「見解と要望」の大要は、広く私たち教育学研究者の共有するものといえましょう。

 そこで私どもは、広く全国の教育学研究者にこの「見解と要望」への賛同署名を呼びかけ、教育基本法改正に対する教育学研究者有志の意思を明らかにしたいと考えます。そして、寄せられました賛同署名を政府・国会に提出するとともに報道機関等を通じて広く社会に公表することによって、当面する危機を打開するためのいとぐちにしたいと考えます。

 つきましては、下記の要領により、折り返し賛同署名をお寄せくださるとともに、お知り合いの教育学研究者にも賛同署名への協力を呼びかけてくださるようお願いいたします。              

200610月1日

……

教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望
2006826

 政府は今年4月28日、国会に教育基本法改正案を提出し、他方、民主党も日本国教育基本法案を提出し、衆議院特別委員会で審議が行われたが、審議未了により秋の国会で継続審議が行われることになった。

この審議に鑑みつつ、私どもは、改正問題に関する本見解を纏め、ここに意見書として委員各位に送呈する。来るべき特別委員会における論議においてもぜひご考慮願いたいと考える。 それとともに私どもは、広く父母・市民・教師・学生等々に対しても、教育学専門家がどのように考えているかについて理解を得ることができればと願っている。

政府案は現行法の全面改正案であり、民主党案は、現行法を廃止し新法として提案された。いずれの案も、なぜいま改正の必要があるのか、しかも全面改正が不可欠なのか、その立法事実は不明確であり、提案理由は説得力を欠いている。新法あるいはそれに等しい全面改正ならば、廃止理由も含めて、立法事実にはより丁寧な理由説明が必要である。今後継続審議に充分に時間をかけ丁寧な審議がなされるならば、現行法に仮に限界や問題があるとしても運用によって解決される事柄は何か、改正によって事態はさらに悪化するのではないかといった問題点も明らかになるであろう。しかし既往の審議を見る限り、このような配慮をうかがうことはできない。世論の一部にある「教育基本法を変えなければできない教育改革があるのか」といった素朴かつ正当な疑問に対して、明確な説明がなされているとは見られない。

……以下,略……

 

 

 

 



[1] 私のヨーロッパ社会演習では、ヨーロッパの英字新聞のニュースを読ませ、自分の頭と目で問題を発見し、探索し、追跡することを通じて、英語力も増強するように工夫している。その毎日のニュースの新鮮さと多様さは、TOEFLTOEICの問題とちがって、ヨーロッパ社会に生起している現実問題を反映しており、その現実問題との格闘こそが、ヨーロッパ社会の認識を深め正確にすることにつながると考えている。

 試験問題のために特別に作られた文章との「畳の上の水練」とは違って、学生諸君の生きた問題関心の刺激、本物の英語力増強には、英字新聞との格闘のほうがいいのではないか。

 すくなくとも、これも一つのあり方であろう。

 さらに、本格的な英語の本にチャレンジしていくのも、学生らしいやり方ではないか。そうして形成された実力の一端を、時に測るための手法としてTOEFLTOEICの受験もあっていいだろう。

 

[2] 小・中・高、そして大学にいたるまで、すべての段階で、またそれぞれの学校・大学で、一つ一つの科目には生徒・学生によってある程度の好き嫌い、得意・不得意があることを前提に、1,2,3,4.5の5段階評価や秀・優・良・可・不可の段階が設定されているのではないか。また、必修や選択科目の区別があるのではないか。

 それは人間の能力の多様さを反映したものであり、人間の能力が画一的ではないことを意味していないか。

 そうした現実の人間の多様な関心・能力の多様なあり方と画一基準は整合するか?英語が苦手でも、ドイツ語やフランス語でチャレンジするものがいてもいいのではないか?

この問題の背後には、人間をどう捉えるかに関する根本問題が、横たわっているように思われる。