329日 市議・太田氏のHPに投稿されたという市大匿名教員の論説が、興味深い。佐藤正彦・本学元教授のHPで知った。

 

末節のことだが、TOEFLの発音表記は、「トイフル」が普通だろうか?

試みに『ジーニアス英和大辞典』を調べてみると、「トーフル」と表記していた。会話で発音しているのを聞くと、「トッフル」に聞こえる。カタカナ表記のわずらわしさから、私の場合は、TOEFLと書くことにしている。

 

-----http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/08-03/080327ota-ycuigakubu.htm-------

 

横浜市大の学位審査謝礼金徴収について 匿名市大教員 『横浜市議会議員 大田正孝氏ホームページ 掲示板』(2008.3.27)

 

http://8005.teacup.com/ota/bbs/1575 

横浜市議会議員 大田正孝氏ホームページ http://www.ota-masataka.com/index.htm 

 

 

横浜市大の学位審査謝礼金徴収について  投稿者:M機関情報処理班(匿名市大教員の  投稿日:2008年 3月27日(木)17時56分52秒

 

 

 

 最高学府の頂上部博士課程でこのような前時代的陋習が未だに残っていることに驚かざるをえない。横浜市大の評判はいよいよ地に堕ちたというべきか。思うに、市大の不祥事は医学部の専売特許である。こうしたことが起きるたびにわれわれは肩身の狭い思いをさせられるのだ。そうした者のひとりとして、今回はもはや怒りを飛び越しえ悲しみさえ感じる。もともと別大学のような扱いを受けてきたが、非難を受けるときだけは、世間から見ると横浜市大という同じ看板の下で平等となる。
ここでは、なぜこうした非常識が起きたか、そして、どうしてそれが今の時点で暴露されたか、さらに、これは何をもたらすかの3点に限って私見を述べてみたい。

横浜市大では数年来、「大学改革」が進行中であることは周知のとおりである。予め断っておくが、筆者はこの改革に賛成しているわけではない。その逆だ。この改革がまやかしで、事実上の市大潰しであると思っている。これについては後で述べることにしたい。
医学部だけは、6年前に大学改革論議が始まった早い段階で外部(おそらく横浜医師会)からの圧力が加わったらしく、この改革から外れた。瀬戸キャンパスの商学部、国際文化学部、理学部の3学部10学科が国際総合科学部として1学部1学科に統合されてしまったのとは対照的に、福浦キャンパスの医学部は独立性を維持し、医学科と看護学科の2学科体制になった。ここではふれないが、看護は医学部に併合されるのに強く抵抗していた。
しかも、医学部では講座制に基づく教授会が機能しつづけているのである。教授会が機能しているのはあたりまえのことのように思われるかもしれない。しかし、瀬戸では後述するように、これは機能していない。講座制に基づく医学部教授会というのはどのようなものか。ひと言でいえば、徒弟制度だといえようか。講座というのは生化学、細菌学、公衆衛生、法医学など基礎講座を指し、研究と教育を主務とする。医局というのは内科、外科、小児科など診療科を指し、研究・教育と同時に診療を主務とする。教授会は、各講座と各医局を代表する教授から構成され、それ以外の者(助教授、講師、助手など)はコミットできない。講座または医局を統轄する教授は当該の講座ないし医局のなかのあらゆる業務に関し絶対的な支配権を有する。テーマ設定(診療方針)、計画、準備、業務の割当など、万事が共同研究(診療)を前提にして教授の指揮下に行なわれる。個人的な研究(診療)というのはありえない話だ。そのほか教授会は人事権を一手掌握しており、各講座ないし医局のメンバーの採用・昇任・異動の権限をもつ。つまり、教授を頂点とするヒエラルキーが、医学部のすべての業務を支える基盤である。
以前、市大病院の外科手術で患者を取り違えて手術してしまうというとんでもない事件が発生したことがある。この事件の裏に学閥間の対立と同時に医局の家父長的体質が絡んでいた。民主主義がなく意志疎通がうまくいかなかったのだ。エライ教授を前にしては医局の構成員、医療技術者、看護士にいたるまで、診療・手術について何もいえない緊張萎縮した態度で臨まねばならない。
教授が定年などで医局(講座)を去って空きポストができると、「跡目相続」めぐる醜い争いとなるのが相場で、かつては学閥間(東大系、市大系、その他大系の3学閥)での争いだったが、市大閥が多数を占めた今では市大内の争いとなっている。教授が代わると、全員とまではいかないまでも、医局員の多数がごっそり入れ代わっていく。居残っていては甚だ居心地が悪いのだ。出入りの製薬会社までもが入れ代わる。こうした利権と嫉視反目の土壌があるゆえに、ライバル蹴落しのための暴露合戦にも力が籠もる。医学部内に最低限の民主主義が機能していれば、あるいは、外部の眼が行きとどいていれば、今度の学位審査の謝礼金問題は内部の力で解決された可能性は大であった。
今度の問題は、全国の医学部がかかえる構造的体質がはしなくも露呈した事件である。医学の研究・教育に金がかかるのは周知のとおりだ。そこから宿命的な金権体質が育まれる。医学部と製薬資本とのつながりは公知の事実である。今から15年以上も前のことだが、市大医学部の放射線科の教授が機器購入に際し賄賂を受け取った事件が起きた。当時、類似事件が他大学でも頻発しており、厚生省が本格的調査に乗り出した。しかし、この調査は中途で放棄されてしまった。薬剤資本と医学部の癒着は摘発したら切りがなく、全国の大学が染まっていることが判明したからだ。結局、こうした不祥事を極力起こさないような精神や形ばかりのシステムだけを提案して、それで幕引きとなってしまった。
いまの医学部が一つだけ今回の市大改革に同調した事柄がある。それは教員の全員任期制に同意したことである。この任期制は医学部内でも論議があったのは事実。それゆえに改革に反対するという動きも当初はたしかにあった。しかし、最終的に受け入れを認めたのは、教授会が機能しているかぎり、任期制の導入が直ちに教員の身分保全に影響を与えるものではないとの判断が働いたからだ。
教授を除く医局員の人事異動は、前述したように日常茶飯事だった。ほとんどの医局員はもともと市大一箇所に留まっているのではなく、数年単位で系列病院を転々と渡り歩くのが慣わしだ。資金を貯めて開業医として独立するのがゴールである。かくて、任期制の導入により「身の危険」を感じたのは医局教授と基礎講座の教授のほうである。しかし、教授会が外部力によって侵されないかぎり、だれか同僚教授に5年毎の任期更新の時機がめぐってきたとき、相互に地位を保全しあう暗黙の合意さえできていれば、教授の身分を失うことはない。現に、そうした暗黙の合意はあるようだ。

よく言われることだが、「医の常識は世の非常識」というアフォリズムがある。お金のない学生から謝礼金を取るという非常識に、金を取られる本人はもとより、部外者でも怒りを覚えない人のほうがどうかしている。事件告発は内部からの通報となっている。そうかもしれない。それはむしろ当然だろう。だが、大学当局はずいぶん前からこの非常識を察知していながら放置してきたこと、そして世論の怒りをバックに腰を上げたことである。筆者はここに何か政治的な意図を感じざるをえない。結論を先取りすれば、教授会潰しではないかということだ。
そもそも、ここ数年来の市大改革の主眼は以下の諸点にあった。
(1) 大学の目的・使命を地域サービスにおくこと
(2) 研究よりも教育および診療に重点をおくこと
(3) 大学の管理機能権限を設置者(横浜市なかんずく市長)に集中すること
(4) できるだけ独立採算制を敷き、経費節減を計ること
(5) 大学の“独善性”の温床たる教授会を解体すること
(6) 全教員を任期制の下におき、競争と危機意識でもって操縦すること
 これは中田市長のイニシアティブによって推進されてきた。これらのもくろみは瀬戸キャンパスでは着々と実を結びつつあるが、福浦キャンパスでは前述の理由により、ほとんど骨抜きになっていた。ここで眼をしばらく瀬戸キャンパスに移したい。
 瀬戸キャンパスの教授会は有名無実の存在である。大学自治の要としての教授会というのは予算編成、研究、教学、人事、入学者選考について独立的権限をもっている。しかし、瀬戸の教授会はそのほとんどを奪われ、教学権の一部(末端業務)だけが残されている。教学権の中核たるカリキュラム編成権は、市長が任命する教育研究審議会が握っている。いま問題となっているのは「トイフル進級条件」である。つまり、トイフルなる外部試験に合格しないと2年生から3年生に進めないのも、教授会がなんら与り知らぬところで決まった条件だ。この進級条件のせいで毎年、百名ずつが累積的に留年していくのだ。
市議会の質疑応答でしばしば市当局は「それは、独立性をもつ大学が決めたことであり、市としてはなんともはや…」と弁解する。これは詭弁であり、もっと正確に、「市長の選んだ大学当局者が決めたことである」と言うべきである。教授会はたしかに形だけは存在する。年1回だけ新学期の初めに1時間ほど開かれる教授会がそれだ。その場で1年間の大まかな方針が伝えられ、業務の実行運営の一切を代議員会に付託して閉会になる。学部長とコース長(ともに教育研究審議会が任免権をもつ)と、コース教員が選出する代議員を集めて月1回開かれる代議員会の会合では、当局の方針が説明されることはあってもほとんど決定はしない。わずかに決定権があることといえば、学生の単位認定の承認、不正試験の処罰、休退学申請の承認のみである。代議員会の下にコース会議(月例会、7コース)があるが、そこでは代議員会報告を受けるだけで何ら決定しない。権限がないからだ。
学部長、コース長は管理職扱いであるが、彼らはすべて教育研究審議会が指名するのである。カリキュラム編成も、教員の採用と昇任も、その業務評価もそうである。つまり、ふつうの大学教授会がもつ教学権や人事権は市大瀬戸キャンパスでは否定されているのだ。教育研究審議会とは別に経営審議会があるが、両機関とも、そのメンバーの任免権をもつのは市長である。よって、大学のすべては市長によって管理されていることになる。
そのうえに全教員に任期制がのしかかる。任期は博士号をもつか否かで5年と3年に分かれる。任期が来れば査定を受けて、留任か退任かが決まる。採用も昇任も任期に同意することを条件づけられている。その人がいかに優れた研究者、教育者であってもそうなのである。要するに、雇用条件がきわめて不安定な職場なのだ。昇任についていうと、コース長はまず教育研究審議会からの諮問に基づきコース内から昇任候補者を挙げる。当局が最終的に昇任させるか否かを決定する。
ここで奇妙な出来事が生じた。コース長は教授候補者を推薦したが、その人が任期に同意しないために昇任を見送られ、結局、その人は有名国立大学の教授として転出してしまった。こうした例は過去に多数いるが、今春は2人だけいた。一方、研究業績が少ないためコース長が推薦しなかった人が(当局の特別推薦によって)教授に昇進させられたばかりか、その1年後には副学長にすら昇るという奇怪なことが起きた。
およそどんな社会組織体であっても、3年ないし5年でクビになる処に進んで就職したがる、あるいは長居したがる人はいないだろう。この任期制を嫌って市大を脱出した人はいままで何人もいる。中でも痛ましいのは、研究者としての矜持を踏みにじられた思いに駆られ、行く先さえ定めず(就職先を確保せず)市大を辞めた人が何人もいることである。人はつねに瀬戸際に立たされることによって初めて奮い立つというのであれば、公務員にせよ会社員にせよ、すべてそうすればよいのではなかろうか。当局が範とするアメリカの大学ですら、任期更新一回で無任期採用になるようになっている。教授になってもなお任期制に従わねばならない大学とは、世界広しといえど、横浜市大と首都大学ぐらいなものだろう。これでは、育った順に巣立っていくのは避けられない。出て行く本人の幸せはともかく、研究教育を本務とする組織体としての大学は死を迎えることになる。このしわ寄せのいちばんの犠牲者は何も知らず入学してくる学生ではないだろうか。

話を戻すことにしよう。今回の謝礼金徴収の暴露によって医学部の威信は地に堕ちた。かくて、講座制に根を張る、腐った教授会の体質が明るみに出た。かつて一講座=複数教授制にしようという話も出たことがあったが、結局は沙汰止みになってしまった。世論は怒っており、われわれ大学関係者が憤怒の嵐の矢面に立たされている。これによって、ほんとうはいちばんの責めを受けるべき市当局は免罪され、かえって順風満帆、医学部教授会を徹底的に解体し、市大の統制にいっそう精を出すのではないだろうか。穿った見方をすると、ひょっとしてこれは最初から仕組まれた罠ではなかっただろうか。不正暴露は単なる「悪の粛清」にとどまらない別の力学作用をもたらす。表現は悪いが、「小悪を懲らしめ、巨悪を逃す」ことにならないか――市大の将来を真に憂えるわれわれが心配するのはこのことである。

 

 

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328日 今朝の新聞(朝日新聞)は、理事・清成忠男氏の2月末での辞任、松浦副理事長の辞任(3月末)も報じていた。理事長および副理事長二人が入れ替え、という結果になった。また、新理事の一人は、学長選挙に経営サイドから推薦された矢部氏(本学商学部卒)が就任と。

 

      研究棟の壁などには、理事長の辞任挨拶が掲示されている。そこでは、すべて「達成した成果」のみが、書かれている。一定の成果を挙げたこと、これを無視することはできない。一定の成果についてもきちんと評価する必要はある。

 

しかし、内部にいて、「改革」過程全体を経験してきたものからすれば、現場の教職員・学生院生の苦しみや困難に触れることなく、成果のみを誇っているこうした経営サイドの掲示に反発を感じる。これが、「官製歴史叙述」の典型であろう。

歴史のダイナミズムは無視され、当局に都合のいい部分だけが抜書きされる。官製の「書かれた歴史」に対する批判的検討の必要性は、ここからも明らかとなる。

 

TOEFLも成果のひとつに挙げられている。ストロナク学長も「8割がTOEFL500点基準をクリアした」と誇っていた。

どれだけの犠牲がその背後にあったかは問われていない。どれだけのゆがみが教育にあるのかは、何も触れることがない。しかし、改革・改善すべき問題群は、まさにそこにある。

 

「入学前にTOEFLを進級条件とする」と書いて知らせてあるので、たとえ、どれだけの学生が深刻な犠牲をこうむっていても、また科目履修で大きなゆがみが出ても、当局とそれに追随する人々にとっては、「関係ない」、「そんなことは知ったことではない」と。

 

しかし、ヘーゲルに言わせれば、「真理・真実は全体である(Das Wahre ist das Ganze[1])。現実の一部だけを成果として切り取り、そこだけ誇ることは、真実・真理という観点からは、誠実な態度ではない。それだけではなく、付けはあとに残る。現実を直視して改革しない限り、結局はひどいことになろう。「挙げた成果」のみを語って、去っていくものはいいかもしれないが・・・

 

商品において(大学においては教育サービスだが)、「条件表示」さえ一言書いて提示しておけば、あとは商品を買ったものが悪いので、「条件提示の仕方」、「条件」の内実には何も関係ないと言い切れるだろうか? そのような高慢な正当化が行われてはいないか? 

TOEFL500点進級条件というものが、学生の志望・専攻コースその他に関してどのようなハードルとなるかを検証しないで、「条件を明示してあるので問題ない」と白を切りとおせるのか?

新学長・新理事長、およびそれに任命される人々の態度を見ていく必要がある。

 

 

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327日(2) 組合から、昨日の団交に関するニュースが届いた。

 

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横浜市立大学教員組合週報

 

 組合ウィークリー

2008.3.27

 

もくじ

       昇給等について団体交渉を行いました

  教員評価(SDシート)アンケート調査のお願い(3月18日発信メールと同内容)

● 研究費の執行に関する疑問・批判・要求を組合へ(前回ニュース記事の再掲)

 

                                             

       昇給等について団体交渉を行いました

 3月26日(水)午後3時から4時30分まで、団体交渉を行いました。取り急ぎ団体交渉の際の組合の要求事項を以下に掲載します。団体交渉の経過・結果については、後日『教員組合週報』でお知らせします。

  

 

                                                                                                      2008年3月26

理事長 宝田良一 殿

学長  ブルース・ストロナク 殿

副理事長 松浦敬紀 殿

 

横浜市立大学教員組合

執行委員長 榊原 徹

       団 交 要 求 事 項 

 

T 前回の団交において不明確な回答であった以下の事項について明確な回答を求める。

.昇任人事等における任期制の強要に関する要求事項について
   ()任期制への変更が不利益変更にならない法的根拠

 ()平成191114日付学長文書、さらに学則(63条3項)を無視した手続きによっておこなわれた20074月の昇任人事の正当性
 (
).平成191114日付学長文書の撤回要求に関する回答
 (
4).任期制への同意を条件とする教員管理職人事の正当性の根拠

 

2教員評価制度に関する要求事項について
平成18年度教員評価試行における問題点と改善点、平成19年度評価の具体的内容

 

U 昇給に関する要求

 松浦副理事長は「教員が納得のいく評価制度になるまでは処遇に反映させることはない」と一昨年11月の団交において明言している。教員評価システムが労使合意のものとして成立していない現状においては、長年の労使関係の蓄積の上に、また市当局と市職員組合の長年の交渉の上に成り立ってきた給与実績を、当面の職務業績給の運用において反映することを求める。

 

1平成20年度昇給要求

20年度職務業績給について、SDシートの提出と無関係に全教員を対象に19年度の号数に対し3〜4号相当の昇給を要求する。

 

2平成19年度分の昇給要求

平成19年度分の昇給がなされていない。職務業績給3〜4号相当の昇給を要求する。

 

V テニュア制度・任期制など教員人事制度に関する要求

 

1いわゆるテニュア制度の導入

横浜市立大学にふさわしい研究教育者の人材のよりよい確保とそれに相応する処遇の実現に向け、いわゆるテニュア制度を平成21年度からの導入・実施を前提に検討する。

なお、テニュア教授制度の細部・処遇に関しては、速やかに検討・協議を行うこととする。また准教授等に関してのテニュア制度についても検討・協議を行っていくものとする。

 

2任期制と昇任に関する要求

法人化以前からの身分を継承している教員に対して、昇任審査にあたって任期制同意を前提条件とすることは、不利益変更措置であり、違法行為である。この点について教員組合は従来から繰り返し指摘している(例えば昨年1119日付意見書)。

昇任に際して任期制への同意を条件としないことを約束せよ。

 

3教員人事の公正・透明化のための改革

教員の採用・昇任については、選考・審査の密室性を排し、その公正性と透明性を高めるため、学部の教員が全員参加する会議で、選考・審査の経緯を報告し、同意を得るように改めること。

なお、特任教員等についても同様とする。

 

W 医学部学位謝礼金授受問題

 

世間を騒がせている医学部学位謝礼金授受問題に対して、当局がいかなる見解を有しているのか、また今後いかなる対応を行う予定か、説明を求める。

 

※横浜市立大学学則

63条 コースにコース長を置く。

2 コース長は、コースの管理運営に関する業務及び当該コースの業務に従事する教員を統括する。

3 コース長はコース会議の議を経て、以下の事項について決定する。

(1) コースに関するカリキュラムの編成について学部長への発議に関すること

(2) コースに係わる教員人事の学部長への発議に関すること

 

 教員評価(SDシート)アンケート調査のお願い(3月18日発信メールと同内容)

 3月18日に教員組合からメールでお願いした「教員評価(SDシート)に関するアンケート」について、再度お知らせします。

昨年夏に行いましたSDシートについてのアンケート調査には多くの組合員の皆様にご協力をいただき大変ありがとうございました。一次評価者との面接も終了して、評価初年度も最終段階を迎えております。ひととおりの手続きが完了した段階で、あらためてSDシートによる評価制度へのご意見を集約しています(添付ファイル「SDシートアンケートMAR2008」にご記入の上、教員組合 kumiai@yokohama-cu.ac.jp に返信願います)。この制度へ参加されなかった組合員のご意見もお待ちしています。
 アンケートの回答は先のメールでは、第1次集約の都合上25日(火)までにとお願いしましたが、これからでも、改善要求の資料とさせていただきますので、ぜひお送り下さい。 もし、メールでは不都合な方は、プリントしたものを組合事務室にご提出して頂いても結構です。また、お答えになった方のご氏名等を表面に出すようなことは一切行いませんのでよろしくお願い致します。                        

● 研究費の執行に関する疑問・批判・要求等を組合にお寄せ下さい(再掲)

 平成19年度各種研究費の支出書類の提出期限が迫っています。法人化によって、行政の予算執行手続きとは異なる、大学の特性に応じた柔軟なシステムになるべきにもかかわらず、逆に様々な点で使いにくくなっているという声があがっています。研究費と関連して、検収制度に対する疑問と不満にも大きなものがあります。

 研究費・学生教育費の執行の問題は重要問題ですので、組合員の声を集約し、教員組合から当局に対して要望書や公開質問状を提出して、返答を求めることを執行委員会で決めました。

つきましては、研究費や学生教育費の執行・検収などについて、疑問・批判や要望を、3月31日(月)までに、教員組合事務室宛(kumiai@yokohama-cu.ac.jp) にメール送信して下さい。このメールに返信して頂いても結構です(例えば、「3月中に検収したものはその年度の研究費から支払わなければならないとされている。実験器具が突然こわれたので新しいものを購入・検収した結果、研究費の上限をこえてしまった。そのような場合、私費で支払わなければならないというのはおかしい」など)。要望事項や質問事項などを列挙して文書を作り、関係当局に返答・改善を求めます。

 

 

 

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327日(1) 中田市長が記者会見で、理事長辞任と新しい理事長の任命を発表したことを知った(下記記事参照)。

「大学改革が一段落したのを機に辞任すると聞いている」と。

 

しかし、「一段落」とは何か?

  むしろ、「改革」の強行がもたらした問題群がはっきりした、それが「改革」以前からのふるい問題の露呈と一緒になって解決を求めている、という段階ではないか。

「聞いている」とは何ごとか?

 山積した問題群に関する責任は、任命者にはなく、情報を伝える部下役職者にあり、ということか。

 

われわれの現状認識とはまったく異なる。外部のものは、このような認識なのだ。市長にきちんとした事情を説明もしていないということのようである。いや、そうしたポーズをとらなければ収拾が付かない、ということでもあろう。

「元副市長」の「天下り」先として、大学法人理事長ポストを宛てた、ということのようである。現在の定款を官僚主義的行政主義的に適用するならば、予算と人事を握っている以上、大学などいかようにでもなるということであろう。学長選考においてしかり、今回の理事長任命においてしかり。

しかし、それでは、これまでにも繰り返し主張してきたように、憲法や学校教育法と矛盾する大学運営が続くことになろう。

 

「独立行政法人」という形式の下での、完膚なきまでに大学自治を形骸化した「直接支配」となるか?

完璧な理事長・学長独裁体制(市当局支配体制)?

 

独立・自立組織としての教員組合の重要性が一段と高まる。

 

---------ある教員の反応-------------

   元副市長の本多常高氏(65)が、理事長になってやってくるそうですね。
いよいよ、直轄支配、何が起こるのでしょうか。
この人物の経歴は、なかなかインターネットでは検索できませんでした。

 

 

--------http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080326/crm0803261814023-n1.htm--------

横浜市は26日、横浜市立大(同市金沢区)の宝田良一理事長が3月末に辞任し、後任に元副市長の本多常高・市土地開発公社理事長を任命すると発表した。任期は4月1日から1年間。中田宏市長が26日、記者会見し、明らかにした。

 横浜市大は、博士号取得に絡む謝礼金授受の問題に揺れており、辞任の理由について中田市長は「大学改革が一段落したのを機に辞任すると聞いている。謝礼授受の問題とは無関係だと思う」と述べた。後任の理事長にとっては「事実関係の解明と信頼回復が、当面の最大の課題になる」との認識を示した。

 

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326日(4) 一楽教授執筆の記事が掲載された『カメリア通信』が届いた。以下にコピーを掲載しておこう。コンプライアンス推進委員会が、まったくコンプライアンス推進の課題を遂行するに値しない組織であったこと自体、本学の根本的問題を現している。

 

事態の進展がいかに急速かは、下記の文書で一楽教授が「今回の問題の処理がきちんとできなければ、理事長を初めとして大学幹部は責任を明確にすべきである」としているところである。この評論作成時点では、理事長辞任までは想定していなかったのではなかろうか。

もちろん、理事長が辞任することにしたといっても、責任の所在に関してどこまで明確にするのか、問題は残る。辞任という形で責任を取った外観だけが残る、ということもありうる。

大学自治再建の課題は残る。関内からの派遣幹部がすべてを取り仕切るシステム(下記にいう独裁体制)では、大学の自立的独立的運営はありえない。

 

 

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横浜市立大学の未来を考える

『カメリア通信』第56  転送歓迎

  2008326(不定期刊メールマガジン)

Camellia News No.56, by the Committee for Concerned YCU Scholars

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学位審査謝礼等問題は何を物語るか

――市大の真の改革を望む――

国際総合科学部

一楽重雄

現在、マスコミをにぎわしている医学部長の学位謝礼金問題を見ていて、学内者として実にもどかしく悲しい想いがする。謝礼金問題自身もさることながら、その処理の不手際さは目に余るものがある。最近には、副学長の長女の学位審査についても疑問が出てきた。長女の学位審査の主査を自分がするというのは世の中ではまったく「非常識」だが、恐らく医学部では「常識」だったのだろう。なぜなら、自分が主査になると言ってなれるわけではないからである。私の知る限りでは、主査副査の決定は研究科委員会(大学院の教授会)においての審議事項だからである。

これらの問題の元を質せば市大の「似非改革」にある。このところ「改革」という名目さえあれば中味を議論することなく進められ、反対する人たちは「抵抗勢力」とレッテルが貼られてしまう。市大の「改革」は、矢吹先生が早い段階で喝破されたように現実には改革どころか「市大潰し」であった。実際、私の所属する数理科学科はまったく専攻を廃止され、文字通り「潰されて」しまった。それも「前年の志願者倍率はもっとも高かった学科が」である。合理性のない結論であったが、「改革」が、新聞報道を期待し「日本初」を狙うだけの市長の野望によってなされたものでしかなかったのである。

今回の問題を考える視点はいくつかある。

 

まず、第一に、このような時代遅れの問題が「改革」以後も持ち越されていたのはなぜか。世間の「常識」は市大医学部の「非常識」のままにされたのはなぜであったか。それは繰り返しになるが、そもそも大学の問題点をきちんと検討して、その解決策として市大が「改革」されたものではなく、単に市長のパフォーマンスで「改革」されたからである。ある程度政治的な力を持っていた医学部は、「改革」の計画段階で実質的に改革の対象からはずされていた。他の3学部はひとつに統合されてしまい、教授会がまったく機能しなくなった。医学部ではそれと違って、4年制になった看護学科をも併合するような形で大きくなり、医学部の教授会は力を残した。大学改革では「講座制廃止」のはずだったが、実際には何も変わってはいない。教授が絶対的権威になってしまう講座制の問題点が何ひとつ解決されていないということが、今回の事件では明白になった。横浜市は、「改革」の題目として医学部については他に「医学部附属病院」を「大学付属病院」にすることを挙げた。これは始めからどちらでもよいことであって、実際上大きな違いは出るはずもない。

戦後60年以上経過した今になっても市大医学部は「民主化」の必要性があるのである。

 

この問題が示す第2の点は、これまでにも何回か指摘してきたが「教授会の自治」をまったく排除してしまっては、大学の運営自身がうまく立ち行かないということである。今回の事件によって、それが学外の人々にも分かる形で顕在化したと思う。

大学当局のこの問題に対する不手際さは相当である。嫌疑をかけられている教授自身が、学長候補所信表明という場違いのところで、コンプライアンス委員会に対する不満、大学の自治の崩壊に対する告発を行い、それでやっと大学当局が動き始めた。しかも、動き始めてもコンプライアンス委員会の「人選を間違えた」とか決定的な不手際を続けている。新聞にも「歯切れの悪い説明に終始した」などと書かれ、文部科学省には連日呼び出されて、きちんとした再発防止策を出せなどと言われる始末である。これまでも日常業務については、小さなトラブルや予定の遅れは日常茶飯事であったが、学生に迷惑をかけないようにということで現場の教職員が一生懸命努力するから、それらが大きな問題にならなかっただけなのである。

一般の会社や役所のように日常的な業務自身が、上下関係の中で処理されるような責任体制のところと独立した教員が各人の責任で授業をするのが基本である大学の体制とでは、運営が同じようにできないのは自明である。このことが「大学改革」を進めた横浜市にはまったく分っていなかった。

これをよく示すのが、今回のコンプライアンス推進委員会の改組である。当初、7人の管理職プラス弁護士の委員会ではことが処理できず、急遽、それも問題が当事者自身の告発で明るみに出てから、4人の外部委員を主とする体制に変えたということによってよくわかる。大学の教員管理職と一般の職場の管理職では意味がまったく違う。つまり、教員管理職の場合には、通常の意味での部下が一人もいないのである。しかも、本来業務である研究教育は続けている。だから、このような委員会を管理職で構成しても、教員管理職は忙しくて何もできない。事務職員の管理職の場合には、長が委員であればその部下が実際の仕事をする。だから、会社や役所では、管理職ばかりの委員会も意味があるが、大学ではそうではないのである。

この違いも分からないで管理職に権限を集中させているのが現在の市大である。人事委員会も当初のコンプライアンス委員会も管理職ばかりで構成している。いわば、理事長・学長独裁体制とでも言うべきなのが市大の組織である。しかも、そのトップの理事長は非常勤ときているのだから、ちょっと大変な問題になると文部科学省に怒られてばかりという無様を見せることになる。さらに教員管理職は学長の任命である。その学長が公立大学初の外国人学長で「雇われ学長」であるから、市大にどんな人がいるかもよく分かっていない。しかも、任期制に同意しない人は管理職にしないなどとしているから、人材が払底する。もともと管理職に向いていない人が、かなりの大学幹部になっていたりする。

 

 今必要なことは、教授会自治の一定の回復とその欠点を補う制度の創設である。学部ごとの教授会自治だけでは、今回のような問題は解決が難しいのは確かであろう。したがって、各学部の独立した教授会の上に何らかの組織を作るとか学長権限を以前より強化して学長室を作るというようなことは考えられる。その一方、今回のような問題では教授会自身が主体性を持って解決を図るのでなければ、調査さえ満足にできないだろう。

外部委員を中心とした4人の委員会、それも他大学の学長、市役所の局長、そして弁護士が委員の委員会で果たして十分な調査ができるとも思えなかったが、ちょうど、今日結果が新聞に掲載された。案の状、「一部に現金の授受があった」ことだけを認めただけの結論である。通り一遍な結論であることは想像以上であった。外部委員を含む別な委員会を立ち上げてそこで十分な調査をするようにも求めているとのことだが、これではコンプライアンス委員会の役割はいったい何なのか疑問である。

この調子では、これから設置される委員会でも、実態が究明され、問題の解決に向けて医学部の改革へ進むという道筋にはなりそうにない。「ともかく、形をつけて市会から追求されたりしないようにすること、それさえできればそれでいい」という横浜市のご都合主義でことが進むのではないだろうか。

 

独立行政法人になって、教員だけでなく事務職員も法人固有職員の採用を始めた。横浜市からの出向者ばかりではなく、大学のことを自分のことと考えて働く人は必要であるから、それは当然であろう。ところが固有職員の採用は、教務や入試関係ばかりであり、大学の予算や計画に関わる部門は依然として横浜市の出向者が占めている。しかも、先日の学長選考を見れば分かるように、実は市が大学をリモートコントロールしている。

大学の自治を持ち出すまでもなく大学の運営をスムーズにするためだけにも、大学は独立行政法人らしく独立し、責任体制をきちんとすることが必要である。今回の問題の処理がきちんとできなければ、理事長を初めとして大学幹部は責任を明確にすべきである。そして、本当に大学の経営ができるひとが固有職員として大学を切り盛りしてくれなくては困る。間違っても、役人の天下り先にしてはいけない。これについては、市会がしっかりと監視する必要がある。

 

現在の市大は「大学ではない」として市大を去った人、あるいはこれから去る人もいる。まったくそのとおりだと思う。

市大の「改革」を根本から見直すべき時期だと思う。本当の「改革」とは何か、この機会に元に戻って考える必要がある。それをしなければ、「市大が市民にとって存在価値があるもの」になるという改革の目的は決して実現されないだろう。

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編集発行人: 矢吹晋(元教員配信ご希望の方は、

次のアドレスにお申し込みください。: yabuki@ca2.so-net.ne.jp

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326日(3) 事態の展開は驚くほど早い。(1)で書いたように、これは当然の結果とも思われるが、予想・噂とちがって、まずは、理事長辞任とか。私が得ている情報では、学長選考委員長を務めた清成忠男理事(法政大学元総長)は、「抗議辞職」の形で、2月末に、理事を辞められたとか。(すくなくとも、抗議の意思を明確にするために、「辞表を提出した」ことは事実のようであるが・・・それを受けての「理事長辞任」ということも考えられるが・・・本学においても理事として「改革」の諸問題をつぶさにみてきており、大学のことをよく知り、大学改革の実績で全国的に著名な清成氏が学長選考委員会の運営に関連して抗議辞職するとあっては、市当局・大学幹部もなんとも説明の仕様がなくなった、とも考えられる)

 

大学を知らない人、大学自治の何たるかをわきまえない人が、新理事長として外部から任命されるとどうなるか?

 

今回の一連の問題で、市当局から派遣された事務局長などの処遇についてはどうなるのか? 無傷で栄転? それなら、「市当局」の意向だけに耳を澄ませばいい、ということがますます実証される。

 

「改革」過程で、圧倒的に実権を握り、定款・学則等の制度設計を担ったのは市当局・大学改革推進本部であり、その派遣の高級役職者だった。

法人化以前も以後も、市大運営において市当局が予算と人事の面から大きな力を持ってきたことは厳然たる事実であろう。

 

とすれば、大学「自治」のあり方(責任の所在)を左右してきた市当局(そこから派遣される高位の役職者)の責任こそは、もっと明確にされなければならないのではないか?

大学で何か問題が起きると、市当局は、「大学自治」なる名分を利用して、大学教員だけに責任を押し付けてきたのではないか?

その一例は、今回の医学部問題に関する市長の発言(読売新聞紙上で公表されたもの)であり、そこには市当局の責任への言及はない。

 

責任を大学だけに押し付けて、必要な「反省」にもとづく「処分」がない場合、あるいは「改革」制度設計の訂正がない場合、「市役所、市議会の直接支配、天下り先化が一挙に進む可能性」は、さらに顕著となろう。

 

いずれにせよ、大学人の多難な時代はまだまだ続きそうである。

 

 

 

 

------http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiiimar0803652/-------

横浜市大の宝田理事長辞任へ/任期途中、今月末で

 横浜市大の宝田良一理事長(60)が任期を一年残して今月中に辞任する意向を固めたことが、二十五日分かった。二十六日にも宝田氏の辞任と新理事長について正式発表される見通し。

 市大では、ブルース・ストロナク学長が任期を二年残して三十一日付で辞任することが決まっている。嶋田紘医学部長(64)が医学博士の学位を取得した大学院生らから謝礼金を受け取っていた問題で揺れる市大だが、学長、理事長がそろって任期途中で大学を去る異例の事態となった。

 関係者の話を総合すると、宝田理事長はストロナク学長と二人三脚で市大の改革に取り組み、一定の成果を上げたことを強調。ストロナク学長の辞任表明を受け「学長と理事長は一体」とし、新学長選考を見届けた後の今月上旬、市側に理事長から退く意向を示したという。新学長に就任する市代表監査委員の布施勉氏と新理事長に今後の改革を委ねる考えとみられる。

 宝田
理事長は二〇〇五年四月、公立大学法人化された市大の初代理事長に就任。横浜・元町の老舗洋食器店経営者としての豊富な実務手腕、市教育委員の経験などを期待し、中田宏市長が任命した。「市民が誇れる実践的な国際教養大学を目指す」などとし、市大の改革を進めてきた。

 

 

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326日(2日本国憲法の草案作成に当たってひとつの大きな役割を演じた「憲法研究会」と鈴木安蔵に関する映画『日本の青空』の金沢公会堂で開催される一般市民向けの上映会・鑑賞会は、417。 その成功のためには、一般の人々(学生市民)の参加=鑑賞券購入が必要で、私も実行委員会から5枚の入場券を預かった。

どなたか、このHP読者で鑑賞ご希望の方は、私までご連絡いただけませんか?

 

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326日(1)最後のニュースに関連して、実名が出たヤフー・ニュースを教えていただいた。

       そのニュースを教えてくれた人のメールを引用しておこう。

 

下記の予測が当たれば、この間の「改革」で破壊された大学自治が、さらにこれでもかこれでもかと破壊されつくされる可能性がある。人事と予算を市当局が一手に握れば、その権力者にこびるものだけが大学を牛耳ることになる。予算をちらつかせた「脅かし」文句は、公然(新聞報道)・非公然に見聞される。

 

「良識派」副理事長が、なぜ今回の責任を取らなければならないのか?

「辞任に追い込まれた」とすれば、その責任の取り方は、いかなる権限と関係するのか?

明確な説明が求められるであろう。

「弱いところ」に詰め腹を切らせる、ということでないのであればいいが。

つまり、市当局から派遣されたものが身を守り、「改革」過程で市当局外部から選ばれてきた人々(副理事長としての学長、および「経営最高責任者」という名前の「良識派」副理事長)だけが「詰め腹を切らせられる」ことになるのでなければいいが。

 

 

またヤフー・ニュースの下記情報が正しいとすれば、2月の学長選挙に際して170名余の推薦人―当局(学長選考委員会・事務局)に提出した文書に推薦人として名前を連ねた人々は文書証拠があるのだから、今後、聞き取りなどがありうる―を集めたという超実力者の「パワー・ハラスメント」問題も浮上してくる可能性がある。

この人物を候補に担ぎ、推薦人名簿への署名(これは秘密自由の投票とは決定的本質的に異なる)を求めて東奔西走した人への批判も厳しくなるかもしれない。

 

さらにまた、下記情報が正しいとすれば、副学長を任命した責任者の責任ももちろん問題となる。理事長責任?

しかし、理事長を任命したのは市長。市長責任?

さて、市長はどのような態度をとるであろうか?

この間の「改革」の結果、法人理事長を任命する権限を手に入れたことは事実であり、任命責任があることは事実であるから。

市長を選挙したのは市民。市民責任?

 

学位審査をめぐる「不透明性」が、下記意見のように医学部全体に関するものか、特定の部局に関するものか、これもきちんと明らかにしなければ、実際に関係しなかった部局・大学全体の名誉が毀損されることになるであろう。医学部でも関係のない部局・人々は、自らにかかわりのない不名誉な事件で自分たちの名誉まで失墜と怒り心頭、ではないか?

調査は進められているようであるが・・・。

 

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皆さん、副学長、長女の学位審査問題見つけましたよ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080326-00000001-yom-soci
 です。
あのO氏ならやりそう。


これで学部長の処分、副学長の処分があるのが常識だと思いますが、横浜市大医学部
では、これは「慣例」なのでしょうか。是非誰かドラマにしてください。


 ご存知の方も多いでしょうが、「良識的な」副理事長が辞任に追い込まれることに
なりました。ゆり戻し、市役所、市議会の直接支配、天下り先化が一挙に進む可能性
がありますね。

---------「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)-------------

副学長、長女の学位審査 横浜市大 博士号取得、筆頭委員

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008032502098261.html

 博士号学位審査をめぐる医学部長の謝礼授受問題で揺れる横浜市立大学(横浜市金沢区)で、同学部教授の同大副学長(62)が、同大大学院医学研究科に在籍していた長女の博士号学位論文審査で自ら筆頭委員を務めていたことが二十五日、分かった。大学側は、親子間の学位審査を不適切と認めており、学位審査をめぐる不透明な一面がまた一つ浮き彫りになった。・・・・

 

 

 

 

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325日(2) 帰宅寸前、下記のようなニュースがメールで知らされた。防衛事務次官の事件ではないが、恐ろしいことにならなければいいが・・・

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本日の東京新聞夕刊スクープ記事を載せています。氏名は出していないのですが、「横浜市大 副学長、長女の学位審査」というリードで「長女の学位審査にあたった3人の委員のうち筆頭委員である主査を父親の副学長が務めていた」、という内容の記事です。・・・明日の朝刊には各紙に一斉に掲載されると思います。

 

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3月25日(1) 13日(出発は早朝)から21日まで(帰宅は夜8時近く)、シュツットガルトにあるドイツ連邦文書館史料調査のための出張、その後、22日から24日まで(帰宅は夜9時近く)京都でのゼミ合宿(世界遺産の国際比較)で出張。本日、久しぶりに大学に来ることができた。

 

この間、3月17日早朝あたりから、HPにアクセスできないとの連絡が入っていたようで、21日の帰宅時点で確認できたe-mailに何人かからの問い合わせをいただいていた。しかし、研究室に来て事情を調べる時間がなかった。今朝も、アクセス不能状態なので、商学部サーバーを管理している教員の方に問い合わせていたところ、午後4時近く、ダウン状態を解消してくださった。

多くの方から、当局による妨害・「言論弾圧」ではないかとの懸念も寄せられていた(当局、新旧学長サイドがぴりぴりしなければならない問題―学位認定における問題を筆頭に―がこの間に多発していたことも、その懸念を増幅したのであろう)。今回のHPアクセス不能状態の問題に限っては、当局による妨害ではなかったこと、何らかの物理的条件―これには時節柄キャパシティを超えたアクセス数があった可能性がある、医学部関連の問題に関しても門外漢の私にまで問い合わせてきたある新聞社記者がいたので―が働いてダウン状態となっていたに過ぎないことを、この場でお知らせしておきたい。

 

このHPで書いていることは、大学人の一人として、言うべきことをきちんと言っておかなければ、しかも、公然と他人が見える形で意見を表明しておかなければ、という気持ちから出たことである。それだけに、内容的には当局(市・大学管理当局)批判、当局の政策を執行している人々に対する批判の言説を含まざるを得ないものである。

当局の政策を容認し、それによって地位やその他を得て、現状に何の問題も感じていない人々がいるとすれば、その人々には当局批判の言論の自由など必要ない。

言論の自由が必要なのは、批判する自由、という意味での自由である。

 

言論の自由が保障されていることが、自由と民主主義にとって絶対的に重要である。

とりわけ大学は、その真実真理の探究を本質的な使命としており、現在の到達点を乗り越えること、したがって現状を批判的に検討し、現存の認識水準や利害を批判することを宿命とする。だからこそ、大学においてはとりわけ批判(企業でいえば「改善」提案、改善が必要な問題群の指摘なども批判の一形態)の自由という本質的意味での言論の自由が必要不可欠であり、大切なものとなる。

 

さしあたり、その点が、こと私のHPに限定して言えば、まだ保障されている。わが大学の自治破壊状態においても、閉鎖圧力・妨害圧力はなかったといえよう(私の知らないところで何らかの企てがありうるが)。その意味での最低限の言論の自由が保障されていることを示している。この点は、現時点の大学自治の本学の土俵際ぎりぎりでの保持、という意味で確認しておく必要があろう。

(ただし、本HPにおける当局およびそれに関連する勢力への批判などは、本質的批判ではなく、当局側としてはなんら恐れるに足りないものである、ということも意味している可能性がある。その意味では、当局に対する根底的な批判をお持ちの方からは、中途半端、との感想を抱かれているのかもしれない。) 

 

先ほど、耳にした情報では、3つのコース(国際文化創造、政策経営、ヨコハマ起業戦略)では、コース長が未定(当局表現では「調整中」)とのことである。

国際総合科学部のコースは、一般教員全員(特殊な例外として数理科学関係があるが)が所属する組織として、大学教員組織の一番の基礎組織である。その長は、当然にも、民主的な選挙により秘密自由投票で選出されなければならない。すくなくとも、かつての本学ではそうであったし、全国の圧倒的多数の大学・学部・学科・コースではそうである。

大学の自治の保障、そのボトムアップの制度的保障としての秘密自由投票による管理職の選挙、その秘密自由の意思表明を尊重する、選挙により過半数の支持を得て選ばれた人を管理職に任命するというのが、普通のやり方である。

それを制度的に保障さえすれば、選挙が行われ、一般教員の意思(多数決によらざるを得ないが、代表としての正当性を確保するためには過半数の支持は必要であろう)に依拠するコースの管理職が選ばれることになる。基礎からの、すなわちコース教授会の再建が求められている。

「上から」任命され、「上から」の意思に依拠し、「上から」の命令等に従順な精神状態に陶冶されて学部長・学長などの管理職が、こうした基本的なスタンスを取りえないとすれば、それは、本学の大学の自治壊滅状態の示す象徴的現象というべきことであろう。

 

大学の自治を考える場合にも、民意の確認があるのかないのか、これが民主主義においては決定的に重要なことは、誰でも知っていることではなかろうか?

それを無視した行政的な制度を「改革」の過程で作り出したとしても、その制度設計のままでは、民主主義的統治としては機能しないことがはっきりすれば、訂正するのが、常識的やり方である。

 

基礎コースから選挙で選ばれたコース長と、学部長や学長のように今度もすでに「上から」任命されたものとの間に、激しい対立が生じうるとしても、それは、対立せざるを得ない問題が山積しているからに過ぎない。

 

対立の解消を自由の民主主義の原則に従って、また、その原則に基づく大学の発展の達成という見地で、推し進めることが求められている。そのなかで、学部長や研究科長、学長等の選挙制による選出とその任命というシステムが再構築されることが求められている。

 

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312日(5) 年度末会計処理のため、ロビーに下りていったら(17時ころ)、サイボウズに出された掲示(理事長名)が張り紙で出ていた。

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312日(4) 記者会見に関する新情報。

事実とすれば、何重もの意味でかわいそうなのは大学院生、あるいは学位取得前後の若手研究者。

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いつのまにか記者会見を開いたようです。
動画と記事が下記サイトにありました。
ナレ−ションのため、記者会見の内容は聞き取れません。

TBS News i http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3801737.html

横浜市大医学部長、学位取得で謝礼か
横浜市立大学の医学部の教授が、医学博士の学位を取得した大学院生から、謝礼
として現金を受け取っていた疑いがあり、横浜市が調査しています。
 横浜市の会見によりますと、去年11月、横浜市立大学・医学部の学部長(6
4)が、医学博士の学位の取得をめぐって、大学院生から謝礼として現金を受け
取っているという匿名の通報がありました。
 この学部長は消化器病態外科の教授で、大学院生らに学位論文の指導をしてい
ます。学位の認定は論文審査と面接で行われるということですが、学部長が審査
にかかわることもあったということです。
 横浜市立大学は、学部長が複数の大学院生から謝礼として現金を受け取ってい
た可能性があるとみて、調査委員会を設置し、この学部長や複数の大学院生から
聞き取りを行っています。
1211:40

 

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312日(3) ある新聞社(通信社)の記者から、大学当局の「記者会見があったが、漠然としていて何がなんだかわからない」と問い合わせがあった。

私もわけがわからず、下記に示した程度の情報しかもっていないと伝えた。彼によれば、読売と朝日の「二社に対してたれ込みがあった模様」とのこと。つまりは、二社の特だね。「だれが漏らしたのか」と。

知るはずがない。

「積年の対立関係」なるものが背景にあるという噂は、まことしやかに流れているが・・・。

そんなに単純だろうか?

当局のアンケート(前文および本文)は、学長戦がらみをうかがわせるが。

あるいは、「謝礼」を払えない人・払いたくない人の怒り、それを見かねた義憤、あるいは払った人に対する「ねたみ」や義憤なども、あったかもしれない。

そうした点からすれば、意外に、「積年の対立関係」とは別の出所だったかもしれず、「匿名の」情報源は、かなり「意味深長」かもしれない・・・。

 

しかし、「火の気」がなければ、煙は立たない。読売記事によれば、謝礼授受があった事実は認定されているのだから。

だが、調査中とのことなので、はっきりした調査結果の発表を待つのがいいだろう。

 

大学人としては、正々堂々たる学位認定のあり方の実現こそ大切なことであり、そのために努力を傾注すべきだろう。

そのためにこそ、大学における自由と民主主義のさらなる実現が求められる。

 

能力・業績のピアレヴューの確立。(論文審査と面接=口頭試問の厳正さ・ピアレヴュー)

それに基づく評価(学位認定、昇進、処遇)。

能力・業績以外のもろもろの世俗的な理由を基準に処遇・差別しないこと。

 

たとえば、「経営的観点」(その内容不明)や任期制同意などを「ハードル」にしないこと。これをやっているのが、現在の法人当局や学長などであることは、教員組合のいくつもの文書が示している。(たとえば、団交に関する組合ニュース

昇進を「えさ」に何かを押し付けられ、それへの「同意がハードル」にされれば、どれほど教員の圧迫になるか、いかに精神的重圧がひどいか。

これを考えたことがないとすれば、大学人ではなかろう。すくなくとも大学院生や若手研究者にとっての学位取得と同じ程度の意味合い・重み・重圧・抑圧感は、多くの若手教員の「昇進」問題にある。

 

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312日(2) 下記のような情報があった(11時半過ぎ)。確かに、サイボウズの「最新情報」をみても、理事長声明は存在せず、下記の指摘に従い「通知一覧」をクリックすると重要情報が収納されている。いったいいかなる姿勢か?アリバイだけは作っておこう、といった考えか?時系列的にいえば、庶務・学務課長の医学部教員への知らせは、理事長声明を踏まえて、ということになりそうである。つまり、時系列的にはまず理事長が全学に声明を発した、ということになっているようである。コンプライアンスの意味を狭い法令に対する順守だけでないものとしたのは、当局なので、それは当然かもしれない。

 

しかし、とすれば、コンプライアンス委員会は、本当に機能しているのか、という疑念も生じる。

委員会の委員は誰が任命したのか?「上から」任命されるようでは、「上から」の諮問にしか答えないような組織運営になっているのではないか?

教育現場が提起する諸問題、われわれが常々感じているような問題(たとえばTOEFL関連の処理における法的諸問題)については、学校教育法との整合性、制度と執行のあり方の法的問題性など、きちんと検討しているのだろうか?

議事録を見れば直ちにわかるはずだが・・・

 

また、「全員任期制」というシステムは、しかも、大学教員任期制の法律ではなく、労働基準法第14条改正を適用するというやり方は、法律に合致しているのか、きちんと考えているのか、労働法関係の研究者・識者から得ている情報ではまったく不適切な適用なのだが・・・

 

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935分に、サイボウズ上に、理事長の声明が公開されました。
サイボウズに入ります。そこはトップペ−ジとされているところです。
そこには、最新情報と書かれているにもかかわらず、最新情報ではありません。
本当の、最新情報は、下の通知一覧をクリックしないと見ることができません。
今回の理事長声明もそうですし、教員評価委員会議事録もそうでした。
そこに、何か、作為を感じます

 

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312日(1) 読売新聞に、本学医学部に関するニュースが発表された。学長候補者の所信表明演説の際、S候補が最後の5分間に述べていたこと(かなり抽象的だったのではっきりしないものだったが何か大変なことが起きていると感じさせる、迫力があった)の内容が、社会的に明らかになったものといえよう。私同様、読売新聞読者でない人も多いだろうから、リンクを張って紹介しておこう。

ここで問題になっているひとつの論点は、法令順守(法令に対するコンプライアンス)である。

それでは、現在の国際総合科学部におけるTOEFL問題は、この基準に照らしたとき、学校教育法遵守(順守)という点で問題はないか?

入学・進級・卒業等、単位取得=単位授与のあり方(これは必然的に学位授与のあり方、その質保証・能力証明・ピアレヴューの問題・社会的信頼性・大学の名誉とも関連する・・・医学部関連の下記ニュースはここに関係している)、講義カリキュラム体系のあり方などは、すくなくとも、公立大学法人以前の市立大学の学則(それに基づく各教授会規則)では、学校教育法に基づいて教授会の重要審議事項として明記される事項であった。進級条件は必然的に卒業条件と連動する。そして、それらは入学者定員(在学生総定員数)にも関連する。すべては、教育の質(その前提としての研究の質)に関連し、教育(前提としての研究)を行う教授陣の陣容(カリキュラム体系と人事)に関連する。

しかし、この3年間、進級問題は、教授会(それを代行するものとされる代議員会)で、私の知る限り、審議の対象として議題設定されたことはない。最初から議論噴出だったが、「審議しない」、「中期計画に定められたこと」などとして押し切られてきた。

PEに関して、その「進級基準」に関して、中期目標や中期計画を「変更できない」、「変更の余地がない」などの根拠にすることが「偽り」であることは、医学部では進級条件ではなく卒業要件となっていること、しかも、学科によりその要件も別立てとなっていることひとつとっても、明らかである。教授会の自主独立の運営があれば、変更は可能であり、それこそ学校教育法が想定している教授会の機能(責任と権限)であろう。

この画一的制度の基本を制定した教員側責任者(それと並んで行政側・市当局側の責任者がいたことは厳然たる事実−大学自治に対する市当局・行政の責任・権限・守備範囲が法令順守の観点から問われることになる・・・この点、下記の医学部問題でも同じであり、教員・教室の行動を支えてきた・左右してきた法人サイド、その最高責任者を任命した市当局サイドの責任も検討の対象となろう)が選考委員会6名の選考−その選考委員を選んだのは経営審議会および教育研究審議会のはずだが、誰か?により新学長に選ばれた人であり、それを執行してきたのが現学長とその指揮下にある(任命された)副学長や学部長であること、これまた−少なくとも学内では周知の−厳然たる事実である。

ともあれ、明日から一週間ほど海外出張(シュツットガルトの連邦文書館支所でドキュメント調査のため−「空気を読まず、史料を読む」ためには、まず史料をさがさなければ。「宝」が見つかるとすばらしいのだが、こればかりはあせってもしょうがない、運もある。・・・)なので、下記の新聞報道事件が、不在中にどのように展開するのか、それが大学運営にどのように影響を及ぼすのかは、帰国してから情報を得ることになろう。

 

           2008312日読売新聞記事「博士号取得の謝礼授受」Pdf

 

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       http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080312-OYT1T00006.htm

「横浜市大で博士号取得巡る謝礼授受、医学部長側に340万」
 
 横浜市立大学医学部(横浜市金沢区)の学部長(63)の研究室が、医学博士
の学位を取得した大学院生らから「謝礼」として現金を受け取っていたことが1
1日、わかった。
 関係者によると、2003年以降に少なくとも十数人から計340万円を受け
取ったことが確認された。現金授受は長年の慣例として続けられ、総額は千数百
万円に上るとみられる。横浜市大も現金授受を把握しており、内部調査に着手し
た。
 複数の関係者によると、大学院生ら十数人は03年から07年にかけ、医学博
士の学位認定を受けた後、1人当たり10万〜30万円を学部長に渡していた。
大学院生らは、「30万円の謝礼を払うのが慣例と聞いたため」「謝礼を出さな
いと人事面で冷遇されると思った」と説明しているという。
 学部長は消化器病態外科(第2外科)の教授として、大学院生らに学位論文の
作成を指導。学位認定は、別の診療科の教授クラスが主査、複数の准教授クラス
が副査を務め、論文審査と面接で行われている。学部長も、副査として審査にか
かわるケースが多かった。
 関係者によると、学部長は大学側の調査に現金を受け取ったことを認めたうえ
で、「現金は預かったもので、研究室での新年会や研究会などに使った。私的に
使っていない。昨年末から残金は返し始めている」と話しているという。学部長
は現金を研究室名義の口座で管理する一方、手元にも数百万円を置いていた。
 学部長は1992年、教授に就任。学位取得の謝礼授受は、そのころから行わ
れていたとみられる。
 横浜市大は昨年11月、学位取得を巡る現金授受があったことを把握。学内に
常設されている「コンプライアンス(法令順守)推進委員会」に、弁護士らの外
部有識者を加え、調査を続けている。また、昨年12月には「謝礼名目の金銭授
受は社会的に許されない」と理事長名で通知している。
 本紙の取材に、学部長は大学事務局を通じて「今の段階ではお話しできない」
としている。一方、横浜市大事務局は「今の時点で話すことはない。時期がくれ
ば、大学としてきちんとした態度を取る」と話している。

 

       ただいま(950分)にはいった情報では、事務当局から医学部関係者に、下記の連絡があったという。問題の発生は医学部だが、この問題は大学全体の問題でもある。しかし、われわれ国際総合科学部に所属する人間には下記の情報は、少なくとも現時点では届いていない。

 

「各位
                            庶務・学務課長

             新聞報道について

    本日、裏面にある新聞報道がありました。大学としての記者会見も予定して
    おりますので、冷静な対応をお願いいたします。」 

 

 

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311日 全国国公私立大学(本日付)の情報から、下記のニュースを確認した。すでに以前にもこの方針は新聞報道など見た記憶があるが、新年度予算との関連ではっきりしたということなのであろう。

本学では?

国立大学は、留年生(したがって総学生数)が定員(4年間の総定員数)よりかなり多くなっても、気にしない、という風潮が蔓延している(少なくともこれまで長らく)と聞く。それは、しかし、教育規律・教育環境・教育条件の維持と規制といった点からは、問題である。

とりわけ、国費を助成金として投入している私学に対しては厳しい定員チェック(4年間総定員数チェック)を行い、厳格な許容枠以上の場合、厳しい処分を行っているわけで、同じような論理が今後は国立大学にも適用されるということだろう。

 

しかし、その論理は、公立大学の場合も同じであろう。

現実を無視したカリキュラム体系(TOEFL500点進級基準の強制)によって、留年生をただひとつの科目だけのためにどんどん増やしている(しかも、8割以上の出席強制=PEだけで毎週3こまの出席強制によって、2年間も3年間も、2年間留年の場合は4年間もPEを強制する、それがいったい何人になるのか?・・・この強制のひどさを想像するだけでも気が狂いそうな感じ・・・「これが大学教育でしょうか」との保護者のため息に同情する・・・学校教育法における教授会の重要審議事項と思うが、制度の可否を教授会で審議していないことは厳然たる事実)のは、日本全国、いや世界でもオンリーワンの大学ということになろう。

そのオンリーワンが、合理的に説明され説得力を持つならば問題ない。オンリーワンこそは、科学的発見、最先端の発明発見の場合の原理でもあるから。しかし、オンリーワンの原則が、適用を間違うと、とんでもない唯我独尊になる。

定員問題からみても、いまや危機の末期段階に近づいている、というのが私の現状認識である。私の判断が間違っているのが望ましいのだが。

 

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国立大も没収方針 定員超過分の授業料

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008031002094236.html

 文部科学省は、国立大が入学定員を大幅に上回って学生を入学させた場合、一定基準を超えた人数分の授業料を実質的に国が没収する制度を2008年度から導入することを決めた。・・・・

 

 

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310日(2) 医学部では、下に前文・本文とリンクをはって紹介するようなアンケートが行われるそうである。今回の学長選考が根本的にひどいものだったということをはっきり示しているようなアンケートだと感じる。送っていただいた方が、「読めば読むほど、意味深長なアンケートですね」というような項目[2]もある。

本当の声が、自由に出されるとすれば(しかし記述の仕方で書いた人が特定できるようでは、若手は自由なことはいえないだろう、教授層はそれだけ責任があろう)、そして、全アンケート回答(その本質的に重要な部分)が、広く、学部内外に公開されれば、かなりのことが見えてくるのではないか?

趣旨自体、それなりにすばらしいと感じる。本当の問題の所在が浮き彫りにされることを期待したいが・・・。

 

前文および本文

 

はたして、八景キャンパス、国際総合科学部では、こうした検討委員会は立ち上げられるのか?

そのことひとつとっても、医学部の方が、このアンケートを見る限り、かなり進んでいる健全、という感じ。

しかし、それは表面的で、かなり深刻な問題もあるのかもしれないが。

 

 

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310日(1) 土曜日の早稲田大学ビジネススクールでの「朝河史学と朝河平和学」特別セミナーは、盛会であった。

朝河が母校早稲田大学に職を求めて(恩師坪内逍遥を通じて)も果たさなかったことの意味、国際的に評価される朝河の業績がなぜ可能であったか(個人と環境)など、議論は多岐にわたった。朝河と三浦・石橋など「小日本主義」人脈との関連も、湛山全集編集者の出席・発言もあって、いくつかの面から活発な討論の素材となった[3]

湛山全集を基にして博士論文が2つ出ているそうであるが、37日(すなわち研究会の前日)、早稲田で「朝河貫一論」で学位を取得したばかりの女性研究者の発言もあり、会は盛り上がった。「邪馬台=やまと」国論争も、東南アジア研究者からの発言で、アジア的広がり=共通性を持つ問題として、たいへん面白かった。50台半ばの参加者のひとり(二本松)は、所有している会社を息子に(?)譲って、これからの人生を朝河研究にささげる由。定年後の矢吹先生の仕事振り・バイタリティーがこの決断の跳躍板になった感じ。これまたすばらしい。

 

報告・コメント・質疑応答から、知的探求の面白さ(それは権威・定説などに対する痛烈な批判[4]、今まで見えてこなかった新事実群・論理群の発見、既存のものの創造的破壊=新しいものの批判的創造、学問科学におけるイノヴェーション[5]・・・政治的にいえば「良識派」などと自称せず「悪党」に徹せよ)を感じるとともに、知的探求が自由に創造的に可能であるための環境条件(思想の自由、それを守るための憲法的保障、朝河が仕事をした当時のアメリカと日本との決定的違い、「非国民」レッテル、など)に関しても、あらためて考えさせられた。

会場受付で、朝河研究会60回分の報告要旨集を頂戴したが、その開始時期が、199091年、すなわち、ソ連東欧の崩壊・冷戦体制解体・今日的グローバル化の出発点の時期と重なっているのは偶然であろうか?[6] 

 

たくさんの興味深い、刺激的な発言があったが、歴史研究者として一番印象的なのは、研究においては、「空気を読まず、史料を読む」ことの決定的重要性(これがまた極めて難しい)を強調した本野氏(早稲田大学)の発言であった。常々、痛烈きわまる書評などでこの方の名前は記憶に鮮明だったが、本質的に重要なこと(ある意味で至難のこと・・・時代や環境、恩師・学派などに、ポストや予算の獲得とも関連して[7]、いい意味でも悪い意味でも左右される、あるいは、曲学阿世、右顧左眄するのが多数の研究なので)をずばりというところは、さすがだと感じた。

どこまで、この原則を行為において徹底できるか、それがその人間の大きさ・それぞれの専門分野における科学的成果の質・レヴェルと関係してくるであろう。

 

通常の犯罪事件と同じで、憲法や大学自治を行為において破壊しながら(その主体的推進者となりながら)、「私は憲法を尊重し大学自治を尊重しています」と言葉の上で表明することは可能なのが現実なので。恐ろしいことではある。

 

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38日 昨日の業績評価に関する私の日誌を見て、意見を寄せられた方がいた。3年前の改組は、文部科学省にたいする設置申請ではなく届出で行ったため、業績審査はしていない。来年度の認証評価が、業績審査をともなうものになろうかと予測される、ということである。

 

業績審査(研究と教育)に関しては、3年前の改組が3つの学部・教授会をつぶしてしまう中での短期間の荒々しい強圧的なやり方であったため、すなわち、各教員の意見や希望を全体のなかに統合するためにじっくり検討したものでないため、たとえば、業績(実績)のない科目の担当、科目不適合、といった問題がないかどうかに関しても、十分な検討が行われているかどうか、まさにそれが試され、検証されることになる。

 

TOEFL500点という画一基準(それが引き起こした深刻な問題群)に象徴される強権的武断的改革の問題は、したがって、全体の科目・その設定の仕方を洗いなおす必要性の問題としても提起される可能性があろう。この3年間に科目にふさわしい教育研究がなされてきたかどうか、これが問われることになる。PEに関しても、その意義・意味が問い直されることになる。

この3年間のやり方をさまざまの利害関心から推進し、「変更の必要なし」と正当化し、多くの学生に煮え湯を飲ませつづけてきたとすれば、それを推進してきた人々に、そうした改革や検討をやることができるのか、これも問われるであろう。

すくなくとも、現学長の突然の辞職は、客観的には、こうした改革や検討を自分はやる気はない、やることができない、といったことを端的に表明したことを意味するのではないのか?

 

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37日(2) 明日、早稲田大学でセミナーが開催されることになった。矢吹先生の労作完成記念である。「よこはま21世紀フォーラム」で一緒に仕事をした人を中心に、各方面からの参加を呼びかけている。朝河貫一は、早稲田大学の前身「東京専門学校」の最初期の卒業生であり、早稲田大学の世界に誇る偉人の一人なので、セミナー開催にふさわしい場所であろう。

 

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早大セミナー「朝河史学と朝河平和学」

朝河貫一三部作出版記念・矢吹晋『朝河貫一とその時代』出版記念−

 

日時  200838()14時〜17

場所  西早稲田ビル(早稲田大学19号館7 710

 

開会挨拶 吉川智教(早大アジア太平洋研究科教授) 14.0014.10

 

報告  「朝河史学と朝河平和学」矢吹晋(横浜市立大学名誉教授)14.1015.10

 

コメント1.「朝河とマルク・ブロック」松井道昭(横浜市立大学教授)15101530

 

コメント2.「Avondoの紹介と朝河理解」新原道信(中央大学文学部教授)15301550

 

休憩10

 

質疑・討論16001700

 

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37日(1) 4月からの新学長の監査委員就任以前の仕事について、すなわち、本学「顧問」の期間やその間の報酬に関する調査を進めている人がいるようで、途中経過の情報が入った。

 

市の監査を担当していたのが新学長だから、資金の使い方が適切であるかどうか、厳密に検証することは、新学長も「まさにやるべきことだ」とするところであろう。新学長自身が、明確に説明するか、市民オンブズマンのような人による調査請求・訴えがなされたあとにデータが明らかになるのか、今後のことはよくわからない。監査の重要ポストを引き受けていた人だから、問題はないと思われるが・・・

 

しかし、そもそもわれわれのまったく知らなかったような「顧問」料に関して、疑念・批判的意見(月額50万円とか、年俸に直せば600万円とか噂されるその額の真実性・妥当性、仕事との関係での正当性、仕事の質量とのバランス、法人が支払っていた以上、大学のおかれた厳しい財政状況・専任教員削減不補充・非常勤講師カットなどででの大幅な人件費削減・教員給与据え置き状況といった現状などとのバランス・アンバランス、など)が徘徊していることが、根底にあるだろう[8]。「天網恢恢、疎にしてもらさず」というが、社会の眼は厳しいように感じる。

 

「顧問」としての仕事の質量に関連して、新学長に関する学問的仕事の評価に関しても、議論となっているようである。そのページの情報が寄せられた。現時点では、あえてここには触れないでおこう。学問的仕事に関しては、学界のしかるべき評価があるであろう。教育を受けたものからする評価も、いろいろとありうるだろう。それらの社会的評価を、どのように評価するかも大問題となる。学長の仕事・実績をどのように評価するかは、まさに、今われわれ一般教員にとって問題となっている教員評価(そのあり方)の最適のケーススタディとなるかもしれない。

 

われわれ大学教員は、教育と研究、さらには社会貢献などに関して、ピアレヴューによる業績証明が求められており、学界や社会から、個人の仕事(必然的に公的社会的意味を持つ仕事)に対する厳しい眼が注がれている。大学院の担当になる資格があるのかどうか、しかも、博士課程担当になる資格があるのかどうか、演習担当になる資格があるのかどうか、その資格を維持する仕事をしているか、過去5年間は?、などといったことについても厳しい目が注がれる。理系では、大学院担当にふさわしい研究教育のしかるべき仕事を数年間(?)していない場合、大学院担当をはずすという規律の厳しさについても耳にしている。文科系は?

単に採用時や昇任時に業績が評価されるのではない。大学院再編などのときに、きちんと業績評価がなされたかなども、当然に問題となる。3年前の再編においてどうだったか、今度予定されている再編ではどうなるか、問題となる。

 

大学教員の仕事が、個人の趣味の問題ではなく、公的な性格のものである以上、業績(研究・教育・社会貢献)が問題とされ、学界や社会の評価(批判)が各方面から出されるのは、必然である。学長ともなれば、その厳しい評価(もちろん温かいもの、高いものもある・・・本来はそれが当然)や批判の目も、より多く・より鋭くなる(なっていく)ことは必然である。

 

しかし、われわれ大学人からすれば、あるいは、学生の立場からすれば、やはり学長にとっての当面の緊急の問題は、TOEFL問題、大学の自治の構築・再建、そこでの教授会自治の適切な位置づけ、各種レベルの管理職の配置の仕方(選抜・任命の仕方・正当性など)を、どのようにしようとしているのか、ということであろう。

 

解決を来年に引き延ばせば、それだけ、犠牲者の数は多くなる。

「実験」をするほうはいいかもしれないが、「実験される」学生の身になれば、奨学金を切られ、生活苦で勉強できない、といったことが積み重なれば、人生が狂ってしまう。

軽々に、先延ばしばかりしていて言い訳ではない。

この間の学生の苦しみの責任は誰が取るのか?

 

制度に欠陥があることはもう明確である。

 

何らかの「事故」がおきるたびに、一時的な特別措置ばかりとって、学生間にはびこるモラルハザードをひどい状態にするよりは、根本的改革を断行すべきだ、と私は考える。昨年12月、いやその前にも、折に触れて問題提起したことである。

 

 

 

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36日 コース会議があった。一番気になる(多くの学生にかかわる深刻な問題、カリキュラム体系全体にかかわる問題という意味で)TOEFLに関しては、昨日の代議員会(注:「学部運営会議」が正確とのこと、代議員会ではこの3年間幾度も問題点を指摘した教員たちも「あきらめて(?)」、「無力感で(?)」、「どうぞご勝手に、その代わり責任を取れ(?)」と、発言しなくなっているという)でも議論となったようだが、「審議しない」というのが学部長の態度だったようである[9]

学部長が「審議しよう」という態度なら、当然に、問題を提起し、たとえ継続審議となろうとも、たくさんの論点や対案が出されたであろう。そうならなかった厳然たる事実だけは、明確に残っている。ただ、「特別の検討会のようなものをもつ」といった含みのあることも述べたようである。学部長、その背後の学長(新旧?)の意図の正確なことは、土壇場になってさえ、何もわからない。

 

代議員会には、2月下旬段階の「中間報告」としての数値が示されたようである。それとても、総数であり、コース別の数値など、本来きちんと問題の所在を明確にするために必要となるデータは示されなかったようである。隠蔽体質が染み付いているようである。あるいは、問題を直視しようとしない態度が厳然として存在している、すくなくとも代議員会にさえきちんとしたデータを提供しようとしない体質となっている、ということを意味する。

 

その総数データによれば、画一的硬直的進級基準の適用で、2年留年の可能性の高い数字がほぼ三桁に近いようであり、現在2年生で留年(3年生なれない)の危険にさらされている数もそれをさらに30名程度は上回っているようである。二つを足せば、どうなるか?

私学なら私学助成が打ち切られたり削減されたりする事態(ないしは新入生定員の削減)であろうし(少し定員オーバーが発覚しただけで新しい学部だったか大学院だったかの新設が認められなかった私学の事例も記憶に新しい、学部新設・大学院増設など新企画の改革など吹き飛んでしまう)、国立大学でも定員維持の見地から厳しい措置(予算削減など)が予想される。

ところが、本学では? 

経営サイドは何をしているのか?

理事長を任命している市長・関内当局は何をしているのか?

留年生が増えようが、教育の質が低下しようが、この際は、「独立」行政法人だから、「大学の決めた計画や目標でしょう」ということで突き放して、「知らぬ顔」で押し通そうということか? 学長任命では?(その前提となる学長選考委員会のメンバー選定では?)

 

 

留年生が増え続けることは、教育の質の低下を意味する。こんな重大事態は、かつてならば教授会の重要審議事項であったはずである。学校教育法にいう重要審議事項に当たることは、日本全国どこの教授会メンバーでも納得するであろう。

こうした現実に直面するとき、本来、教授会できちんとカリキュラムのあり方全体を吟味して、軌道修正すべきものである。そうした学校教育法に基づく検討の機会が奪われている、というのが現実である。学部長は、「審議しない」と押し切っているようである。事実、この35日の段階でも審議の議題として設定していない。

この不正常な状態をいつまで続けるのか?

 

国際文化創造コースでは、コース長や運営委員も決まらない状態が続いている。学部長やコース長は「上からの任命」というのが現学長の方針だったし、多分、新学長もその路線であろう。基礎の組織を教授会として尊重し、その構成員による選挙結果を尊重するといった方針を示すこともない(そうしたことは耳にしていない)のだから。

ほかのコースで、コース長が決まっているとすれば、それは「上から」(新学長?・・・制度的にはそれしかありえないが、特定のコース長だけに打診?とすれば、コースごとの差別はどのような理由で?・・・)の打診が行われ、打診を「受け入れた」人々がいるということだろう。

国際文化創造コースでは、そのような「上から」の打診も、われわれの知る限りは、ないようである。

 

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31日(2) 「字句修正」がなされた『カメリア通信』第54号が送られてきた。どの箇所で字句修正されたのか、確認していないが、編集者が添削を施した最新版を掲載するのが、妥当であろう。以下にコピーを掲載することにしよう。

 

執筆者がいうような問題があるとして、それでは、学生の見地に立つとき、まさに今現在解決しなければならないと思われるTOEFL進級基準の見直し、すなわち、この3年間に累積した問題のうち、特に緊急に解決しなければならない問題を、誰がイニシアティヴを発揮して、論点を整理し筋道をつけて解決するのか。これが今一番問われていることであろう。

彼らの真の喫緊の責任は、そのことにあろう。

 

現学長と新学長は、そして経営陣はいかなる具体策を講じるのであろうか?

現学長は、「給与が倍になるので移る」などというアメリカ的トラヴァーユの正当化だけで、本学を去ってしまうのだろうか?

教員組合などが提起した問題に関して、何も引継ぎを行わないのであろうか?

新学長は、所信表明演説どおりに、何も変更しないのであろうか?

 

 

昨日の日誌でも触れたが、休学を申請した学生が窓口で申請書類を突き返され、困惑しきって私のところに来た[10]

本来、休学が妥当かどうかを、その諸原因・諸理由をきちんと検討して総合的に判断するのは、かつてならば教授会であった。それに代わるものとしては代議員会があるはずである。

そうした機関による審議があったのかどうか。学部長は教授会(代議員会)に問題を提起したのか?悲劇が起きてしまってからでは、遅いのである[11]

まさに、具体的な一つ一つの問題に、学校教育法に基づく教授会の機能(権限と責任)が発揮されているかどうか、この根本が問われている。

 

現学長および新学長が、さらには、問題が国際総合科学部において深刻化している以上、当該学部長が(医学部は独自の別基準で−しかも学科ごとに、したがって学科ごとの独自性もある−処理していることからして問題は国際総合科学部の運営、共通教養の政策・運営にあることは確実なので、その責任者としての副学長も)、学校教育法に基づいた行動をとるのかどうか、学生諸君とともに見守りたい。

場合によっては、学校教育法違反の大学運営の責任を問うべく、更なる行動が必要となるかもしれない。

不作為の責任は、多面的に提起されている。

 

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Subject: 『カメリア通信』第54

 

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横浜市立大学の未来を考える

『カメリア通信』第54

  2008229(不定期刊メールマガジン)

Camellia News No.54, by the Committee for Concerned YCU Scholars

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学長選考の意味するもの――悪い制度から悪い結果――

                                国際総合科学部 一楽重雄

 

2月25日に横浜市立大学の新学長の選考結果が発表された。24日に候補者の面接審査があった翌日という超スピードであったが、驚くにはあたらない。すなわち、選考が始まる前から決まっていたというのである。この噂には、今のところ証拠はない。しかし、大学内部のものにとってはいかにも腑に落ちる話なのである。所信表明を聞いたものにとっては、とてもあり得ないと思った布施候補に決まったからである。この所信表明も実に中途半端である。教職員しか入場できない。そして、教職員に投票権が与えられているわけでもない。普通に考えて、いったいどういう意味があるのだろうか。なぜ一般公開しないのか、そのわけが今回の結果でよくわかった。教職員に限っておけば、マスコミは直接取材が出来ないからである。

 教員組合も指摘しているように、市大の学長選考の制度は、まったく非民主的であり「悪い制度」である。一般論で言えば、悪い制度にもかかわらず、関係する人々の努力によって、悪くない結果をもたらすこともある。今回の結果は、まったく逆であって、制度の欠点がそのまま結果として出てきたと言えよう。学長選考という大学にとってとても重要なことについては、「公正らしさ」が求められる。しかし、市大の制度には、最初からそれが欠けている。実際に「公正」であるかどうかは、委員個人の胸に聞くしかないが「公正らしさ」は検証可能である。今回の学長選考委員会の構成を見ると、まったく「公正らしさ」は担保されていない。

選考委員会のメンバーが、市に直接関係している、あるいは、過去に関係していた人が2名、大学幹部が2名、その他に外部委員が2名という人選である。外部委員なら、常に公正であるということも元々あり得ない話であって、むしろ、お金の出所に忠誠を尽くすのは一般的にありうることである。よほどの人でないとその地位をかけてまでも信念に沿った行動をするということはなかなかできない。

こんな構成では、横浜市が圧力をかけることは容易である。しかし、市の幹部に良識があれば、憲法の保障する学問の自由の意味を分かっていれば、選考委員に圧力をかけるなんてことはありえない。また、見識を持った選考委員であれば、権力の圧力に屈することもない。そのような場合は、悪い制度であっても必ずしも悪い結果は生じない。

どうやら、今回は違うようだ。直接証拠はまだ入手していないが、状況から見れば大学の自治への干渉という大きな問題が発生したことは確かなことだと思う。

大学の公式ホームページには以下のような選考理由が掲げられている。

 

学長選考会議では、「大学運営に関して、どのような問題があると考えているのか」「問題解決のために、どのようなことが必要と考えているのか」「どのような大学にしていきたいのかという抱負について」の3点を評価基準とし、所信表明・面接等をもとに慎重かつ公平な審議を行いました。最終的には投票の結果、布施 氏が過半数の票を獲得し選考されました。

 

上の評価基準に照らして、どうして布施氏に決定したのか、摩訶不思議としか言いようがない。このような少数で選考するのであるから、もともと、多数決で決めさえすればよいというものではない。投票結果ではなく選考理由が明快で納得のいくものでなければならないはずである。

選考基準を公表しても、いわば試験問題を公表しただけであって、各人の答えがそれにふさわしかったかどうか、そこが示されなければまったくもって「選考理由」にはなっていない。

 

なぜ私が、布施候補がもっともふさわしくない候補であると考えたのか、その根拠を述べよう。

第1に、布施候補ほど大学内で人望のない人はめったにいない。前回の学長選考の際に、支持者が推薦人15人を集められなかったという話は、大学内部ではよく知られた話である。また、そのことには理由がある。すなわち、市大の「改革」前夜に、多くの教授会の決議がなされ、教員の多くが横浜市という権力の横暴と戦っていたその時期に「大学改革を推進する会」を発足させたと神奈川新聞に報じられたのである。もちろん、思想信条の自由から言って、そのことだけで不見識だというつもりはない。しかし、その発表内容が真実を伴わないとすれば、それは非難に値しよう。当時の「小島、馬来、布施」の3教授が会を作ったという新聞報道はあったが、その会がまったく実態を持たないものだった。会合を開いたこともなければ、会員の勧誘もなかったし、会主催の行事も聞いたことがない。念のため、前回の学長選考の折に、私は布施候補にこの会の活動内容を教えてくれるよう質問状を出したが、回答はまったくなかった。

教職員の信頼を集めることができない人が学長として十分な責務を果たせるとは思えない。

第2に、その後の大学改革では、教員と対立して強権的にことを進めた。現在のPractical English問題の一番の責任者は布施氏なのである。教員サイドの強い反対を押し切って、3年への進級条件としてTOEFL 500点を課すことを制度化したのである。この問題がいよいよ大詰めを迎える今、布施氏の登板は事態を一層の混迷に陥らせるだけであろう。

今回、布施氏を学長にしたのが本当のところ誰なのかは分からないが、その人は市大の現実をまったく見誤っているとしか思えない。外部にいてまったく市大の状況が分かっていないと思われる矢部候補と布施候補を除いて、他の4候補はみんな現状に問題を感じ、このまま改革路線を続けさえすればよいと言った人はいなかった。また、

ストロナク現学長も「プロジェクトRは外部だった、今度は内部で学部のあり方を考えなければならない」と我々教員に呼びかけていたのである。誰の目にも、今回の改革が大きな問題をかかえていることが明らかになっているのである。そんな時期に改革当初の責任者が大学に戻って何ができるというのであろうか。今後、布施氏は教員を押さえつけ、改革路線を突っ走るばかりであろうが、そこには非暴力不服従やサボタージュといった抗議行動が発生するだろう。あるいは、短期的には改革が進むようにも見えることもあるかも知れないが、本質的には矛盾を増大させるばかりであり、そう遠くない将来に自壊の道をたどるに違いない。 

 

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3月1日(1) 3月14日に予定されている映画『日本の青空』試写会、および4月17日に予定されている金沢公会堂での上映会に関するニュースを再掲しておこう。

 

日本国憲法の草案作成に当たってひとつの大きな役割を演じた「憲法研究会」と鈴木安蔵に関する映画『日本の青空』・・・市大学内試写会314

金沢公会堂で開催される一般市民向けの上映会・鑑賞会は、417

 

 

 



[1]

     真なるもの(das Wahre)は全体(das Ganze)である。

 

    Das Wahre ist das Ganze. Das Ganze aber ist nur das durch seine Entwicklung sich vollendende Wesen. Es ist von dem Absoluten zu sagen, daß es wesentlich Resultat, daß es erst am Ende das ist, was es in Wahrheit ist; und hierin eben besteht seine Natur, Wirkliches, Subjekt oder Sichselbstwerden zu sein. So widersprechend es scheinen mag, daß das Absolute wesentlich als Resultat zu begreifen sei, so stellt doch eine geringe Überlegung diesen Schein von Widerspruch zurecht. Der Anfang, das Prinzip oder das Absolute, wie es zuerst und unmittelbar ausgesprochen wird, ist nur das Allgemeine. Sowenig, wenn ich sage: alle Tiere, dies Wort für eine Zoologie gelten kann, ebenso fällt es auf, daß die Worte des Göttlichen, Absoluten, Ewigen usw. das nicht aussprechen, was darin enthalten ist; - und nur solche Worte drücken in der Tat die Anschauung als das Unmittelbare aus. Was mehr ist als ein solches Wort, der Übergang auch nur zu einem Satze, enthält ein Anderswerden, das zurückgenommen werden muß, ist eine Vermittlung. Diese aber ist das, was perhorresziert wird, als ob dadurch, daß mehr aus ihr gemacht wird denn nur dies, daß sie nichts Absolutes und im Absoluten gar nicht sei, die absolute Erkenntnis aufgegeben wäre.

[Hegel: Phänomenologie des Geistes. Philosophie von Platon bis Nietzsche, S. 38808 (vgl. Hegel-W Bd. 3, S. 24 ff.)]

 

『精神現象学』の序論(Vorrede)一節。

 

[2]

  とくに5の(6)以降など。

[3]

朝河著(矢吹編訳)所収のオットー・ヒンツェの書評(封建制研究の大家の書評)を訳された方(立正大学Y教授)も、参加されていた。立正大学は、石橋湛山と深い関係があり、そのY教授にこの観点からも何か発言をお願いすべきだったかもしれない。

 

コメントの封建制問題、マルクブロック書評の論点に関しては、「難しすぎて」今回は、ほとんど言及されることがなかった。

 

友人(ドイツ・ヨーロッパ社会経済史)のある研究者によれば、封建社会研究は、少なくともヨーロッパ経済史研究において、戦後改革から60年代までは、日本の民主的改革・寄生地主問題・農地改革、日本社会の後れた側面の克服との関連で大変な研究蓄積と論争のあるところだが、それ以後、「空白の40年」とでもいうべき研究状況にある。この友人は、定年退官(一橋大)後の研究の重点を封建制社会に置くという。

 

朝河の国際的水準の研究が見直されることで、再び封建制研究が国際的世界史的視野で活発になれば、と期待したい。

 

[4]

セミナーでは紹介されなかったが、『国家学会雑誌』(東大法学部)における日本法制史の新田一郎氏の書評に対する反批判は、ものすごい。

 

翻訳における問題は、新田書評が指摘するように存在するとしても、朝河を日本の学界に復権させようとする根本的意図の点から、矢吹教授が反発することはよく理解である。

 

ただ、新田一郎書評も、よく読むと、矢吹先生による朝河復権の根本的目標は、きちんと評価していると思われる。

 

 指摘された翻訳上の問題があるとすれば、それは適宜修正していけばいいことである。

 

[5]

 「イノヴェーション」にも、さまざまの分野がある。学問科学におけるそれ、学問科学でも数学や物理学におけるそれと工学の諸分野、生物学の諸分野、医学の諸分野など、それぞれにイノヴェーションを可能にする基礎条件・前提条件が違うであろう。

 産業におけるイノヴェーションもまた、その産業ごとの基礎条件の違いにより、革新を可能にする条件がちがってくるのではないか?

 

ある一箇所・一点における革新・イノヴェーションが、産業連関・生産連関等を通じて、空間的にも集積すするようなものもあろうが、比較的分散した形でイノヴェーションが波及して行く分野もあるのではないか?

 

こうした点は、本学から早稲田に言った吉川さんに尋ねてみる必要がある。

 

学問科学に関していえば、大量法則的には、大きな大学、巨大企業の巨大研究所などが、その集積効果により多くの成果を挙げているであろう。

 

ただ、田中耕一さん、あるいは青色ダイオードの中村氏の事例などを見ても、かならずしも、巨大な大学・巨大な研究所などが、画期的な革新(発明発見)を行うと限らず、むしろ、集積は、孤立分散的な画期的で巨大な発明発見のあとについてくる、というものかもしれない。

 

 

 

 

[6]

90年代以降、朝河は、小渕首相(1998年当時)や福田現首相など−そういえば確かお二人とも早稲田人脈である−、保守政治家層にも高く評価される学者となっているが、日露戦争期、第一次大戦期から第二次大戦期にはある意味で異端の学者であった。

会場では、朝河の大隈首相への進言(批判)が、取り上げられていた。

 

朝河がもしも戦時中、帰国していたら、治安警察から監視される「要注意人物」にはなったであろう。ゾルゲ事件摘発の最初の手がかりは、アメリカ帰りの人物への監視・摘発からだったはず。

 

現代の異端は、本物であれば、何十年か後に、再評価されることになろう。

 

[7] 「任期制」雇用は、まさに、使い方次第で、研究者の隷属状態を決定的なものにする。

[8]

 適切な顧問としての仕事、それに対応する正当な報酬であれば、もちろん問題ない。

 

 その対応関係の評価こそが、問題になり、噂の種、疑念・批判・不服の種となっているに過ぎない。

 

 

[9]

 「TOEFLに関す事故」の処理をめぐる問題を議論したという。「特例措置」の妥当性をめぐる問題が論争となったようである。

 

もちろん、その背景に、画一的基準による進級条件の設定に根本的問題があることは、当初からあきらかだが、厳然たる事実の積み重ねでいまやだれにでも明白である。そのことを主張するコース長たちの意見は、結局は、握りつぶされるという形になったようである。

議事録は取っているのか?対立的意見の記録、対立的意見の根拠は明確に記録として残されているか?

 

画一基準の強制(仮進級制度を初年度製に対してだけ採用し、2年度の学生に図り進級を認めないことを公示したのも学長名・学長責任で)を正当化する政策を推進してきた現学長(新学長は制度設計そのものの責任者)・副学長・学部長は、根本問題とそれに関する自分たちの責任を、どこまで認めているのか?

 

この点がはっきりしないと、改善の道も開けてこないであろう。

 

 

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 昨年12月にも、困惑しきった学生の訴えがあった。当時の日誌を見れば、確認できる。

 

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 私は、この場で「批判ばかり」を繰り返しているのではなく、昨年2-3月時点でも、最近でも、国際総合科学部の多様な専門コースを考慮し、学生諸君の多様な進路を考慮して、「PE重視」の意味内容を吟味し、妥当な新たな政策とすべきだと提言(学生諸君などの希望・進路の多様性などを踏まえた発展的なたたき台の一例)している。この間も、副学長、学部長には意見具申のメールを送付した。返事はないが。

 

それが検討に値しないもの、あるいは不適切な部分を含んでいるとしても、学長・副学長・学部長は、代替案なり適切なものを考えるべきではないか?(教授会機能停止後に各種問題で創設されたワーキング・グループ方式によるなどして、「3年間の総括と新方式提案」、といったものを出すべきでは?)

 

いったいどのような検討をしているのか?

2割の学生が、正当な理由なく、画一的基準で進級できない状況を、合理化できると考えているのか?

きちんとした検討(進級できない学生の具体的問題を調査し、クリアできるかどうかの個別指導などを行っているのかどうか)なしに、済ましているとすれば、それが学生重視という大学の掲げる基本的スタンスと整合するのか?

 

学生の休学願いさえも、問答無用で、合理的説明抜きに却下していいのか?

すくなくとも、多くの困惑している学生のために、説明会を開催するなり、しかるべき対応を、責任者として、とるべきではないか?